☆ 文政十二年(1829)
◯『真佐喜のかつら』〔未刊随筆〕⑧311(青葱堂冬圃著・嘉永~安政頃成立)
〝唐藍は蘭名をヘロリンといふ、この絵の具摺物に用ひはじめしは、文政十二年よりなり、予ある時大岡
雲峯が宅に遊びし時、雲峯の言たる、摺ものには藍紙また藍蝋をのみ用るなれど、ヘロリンを用るは利
あるべしといふに【予が出生は江西四谷にて地本問屋を業とすれば也】聊か乞ひ得てすり物に用ひみる
に、藍紙の色などは光沢の能き事格別なる故、狂歌、俳諧の摺物は悉く是を用ひぬ、されど未だ錦絵に
は用ひざりしが、翌年堀江町弐丁目団扇問屋伊勢屋惣兵衛にて、画師渓斎英泉【英山門人】画きたる唐
土山水、うらは隅田川の図をヘロリン一色をもつて濃き薄きに摺立、うり出しけるに、その流行おひた
ゞしく、外の団扇屋それを見、同じく藍摺を多く売出しける、地本問屋にては、馬喰町永寿堂西村与八
方にて、前北斎のゑがきたる富士三十六景をヘロリン摺になし出板す、これまた大流行、団扇に倍す、
そのころほかのにしき絵にも、皆ヘロリンを用る事になりぬ、予点式の青肉を製し、よろしからず〟
◯『稗史水滸伝』五編 西村屋与八巻末新版目録(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」より)
〝冨嶽三十六景(ふじさんじふろくけい)前北斎為一翁画 藍摺一枚 一枚ニ一景ッゝ追々出板
此絵ハ冨士の形ちのその所によりて異なる事を示す、或ハ七里か浜にて(数文字不明)又ハ佃島より眺
る景など総て一やうならざるを著し山水を習ふ者に便す、此ごとく追々彫刻すれば、猶百にもあまるべ
し、三十六に限るにあらず〟
〈『稗史水滸伝』(山東京山訳・歌川国芳画)五編の出版は文政十二年であるが、この巻末にある新版目録は同年のも
のかどうかよく分からない。『四十八手関取鏡』と『活金剛伝』は文政十一年刊、『戯場一顕微鏡』は文政十二年序、
『猿蟹ものかたり』は天保元年刊、『声色早合点』は天保二年刊。おそらく天保二年のものと見てよいと思う。(下
掲天保二年刊『正本製』参照。同文である)「冨嶽」に「ふじ」のルビがふってある、当時は「ふじさんじゅうろっ
けい」と読んでいたようだ。「百にもあまるべし、三十六に限るにあらず」この時点ではまだ三十六景まで至ってい
ないようである。また版元の西村屋は、最初から三十六景以上になると予想していたようだ。江戸のみならず様々な
角度から見える冨士の諸相を、舶来してきたばかりの藍(ヘロリン)を使って画けば、人気を博するという確信めい
たものはあったのだろう。2016/08/26訂正〟
出版目録 西村屋与八板『稗史水滸伝』五編下(早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)
☆ 文政年間(1818~1829)
◯『増訂武江年表』2p79(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)
(文政年間記事)
〝藍摺の法帖流行(筠庭云ふ、藍摺の法帖とはヘル打の石摺をいふにや。ヘルレンスは藍色なり。その国
どもには藍なし。漢土にも舶来を用ゐなるべし)〟
☆ 天保二年(1831)
◯『正本製』(歌川国貞画・柳亭種彦作・文政辛卯刊)十二編下冊巻末、西村屋与八出版目録
〈文政辛卯は文政十四年(天保二年)〉
〝冨嶽三十六景(ふじさんじふろくけい)
前北斎為一翁画 藍摺一枚 一枚ニ一景ッヽ追々出板
此絵ハ冨士の形ちのその所によりて異なる事を示す、或ハ七里ヶ濱にて見るかたち、又は佃島より眺る
景など総て一やうならざるを著し、山水を習ふ者に便す、此ごとく追々彫刻すれバ猶百にもあまるべし、
三十六に限るにあらず〟