Top       太華山人著 『葛飾北斎伝』      その他(明治以降の浮世絵記事)
             〔底本『少年雅賞』所収・高橋省三編 明治二十六年(1893)五月刊〕              (国立国会図書館デジタルコレクション)(45/74コマ)   〈原文は漢字に読み仮名付きだが、本HPは一部を除き省略した。【 】は二行割書きの部分〉   〝葛飾北斎  太華山人     身を芸術に委(ゆだ)ぬるものは、必ず名聞利欲の俗情を絶たざるべからず、蓋(けだ)し百世不滅の名    誉(ほまれ)は工芸家の素(もと)より期せざるべからざるものなれば、目前の虚名を博せんとするは最も    陋(いやし)むべきの至りなり、天下国家を利せんとするは最も称すべきことなれども、徒(いたづら)に    利を貪(むさぼ)りて口腹の欲を逞(たくまし)うせんとするが如きは遂に其(その)業(げふ)の進むを見る    べからざるなり。     奈良彫の金工土屋東雨は近世希有(けう)の名人なるが、其言葉に第一細工に年を入れ、兎角(とかく)    心の汚れぬ様に心得(こゝろえ)べし、細工人一生貧なるものと思ふべしと云へり、洵(まこと)に達見と    いふべし。芸術を志すもの此(この)気概なくては其妙境に到る能(あた)はざるなり。     彼の葛飾北斎の名を後世に轟かし、誉(ほまれ)を五洲に轟かすに至りしもの、亦(また)実(じつ)に名    聞利欲の外(ほか)に超然して、全く神心を画道の外に置かざりしに因るなり。     蓋し近古の画家甚だ多しと雖(いへど)も、未だ北斎の如く究(きう)すること甚だしきものあらず、又    北斎の如く誉を後の世に揚げたるものあらざるべし。北斎の究せしことは、啻(ただ)に其始め名をなさ    ゞりし時のみならず、業(げふ)殆ど神に達して死する将絶(いまは)の際に至るまで、飽暖に一日を送る    能はざりき。     又其名誉は独り我国人に称せられしのみならず、欧州大陸の美術家に激称せられ賛嘆せられ敬服せら    れ欽慕せられ、名を彼(かの)人名字書中に留め、一枚の刷絵(すりえ)且(かつ)百金以上に迎へられ、彼    土の画家をして密(ひそか)に其風を摸して自(おのづか)ら欧州全般の画風を変ずるに至らしめぬ。     乃(すなは)ち北斎の如きは一世に屈して百世に伸ぶるもの、真に芸術家の師とすべき人といふべし。    いでや吾(われ)芸術に志す少年諸子が為めに北斎の伝を綴らん。         北斎幼名は時太郎、後に鐵次郎と改め、又八右衛門と名(なの)る。父は中島伊勢とて幕府御用達の鏡    師なり、母は吉良上野介義英の家臣小林平八郎とて武芸に擢(ぬきん)でたる人の孫女(まご)なりといふ。    平八郎は、元禄十五年赤穂の義士吉良家に乱入の夜、防ぎ戦ひて斃(たふ)れし人なり。     北斎、宝暦六年五月卯日を以て本所割下水の家に生る。【世に宝暦九卯年正月三日も生れとするは誤    りなり、これには正しき証あれど省く】幼き時、其父北斎を彫刻師となさんとて、或者の弟子としける    に、頗(すこぶ)る器用の生れにて、忽ち運刀の法を心得、十四五歳の頃は早(はや)小本を巧に彫り得る    に至れり。されば彫刻師となりても一角(ひとかど)の職人となるべかりしに、そを心に満たずとし、天    性画(ゑ)を描(か)くことを好みしかば、寧(むし)ろ画工(ゑかき)とならんとの志を起し、其十九歳の時、    断然業を廃して、当時浮世絵の名人勝川春章の門に入りて、始めて絵を学び名を春朗と号す。    〈恥辱と破門〉     専心一意に学びける程に、其技(ぎ)頻(しき)りに上達しけれども、春章が門には春英・春好などの名    人ありて、中々及ぶべくもあらず、折に触れては激しく嘲笑愚弄せらるゝことも屡(しば/\)なりしか    ば、常に無念に堪へざりけるが、殊に春好とは其交情(なか)わろかりき。     或時春朗、両国辺の絵草紙屋に招牌(かんばん)の絵を頼まれければ、昼夜図取に思案を凝(こら)し数    日の工夫を積みて、漸(やうや)くに描く上げ、そを携へて彼の絵草紙屋に至りけるに、絵草紙屋の店前    (みせさき)に、我が最も交情(なか)わろき春好憩(いこ)ひ居(ゐ)ければ、こはわろき折なりとて少しく    躊躇(ためらひ)けるを、此屋の主人は何とも心附かず、招牌は御描(かき)下されしか、それは何よりと    云ひつゝ、春朗が未だ差出(さしいだ)しもせぬ包みを解きにかゝる、傍らより春好苦笑(にがわらひ)し    て「春朗先生何か御認(したゝ)めなされしか、定めし例の通りの妙筆ならん、後学の為め拝見致さん」    と、未だ見ぬ中(うち)より早(はや)愚弄(なぶり)かけて、其画を一覧するや否や「春朗、貴様は本気で    此画(このゑ)を描(か)きしか、実(まこと)に招牌に掛けんとて此画を描きしか、如何に未熟とはいへ、    此画はそも何事ぞ、之をしも画といふべくんば、伊勢屋の壁に小供が描ける相合傘はいふも更なり、蚰    蜓(なめくぢ)ののたぐる痕(あと)、蚯蚓(みゝづ)の這ひし痕も亦一つの画といふべし、此(こゝ)に描け    るはこれでも人物の積りなるか、此(この)手は何ぞ、此足は如何(いかに)、此顔は抑(そも)何の顔ぞ、    世は広しといへども斯(かく)の如き畸形(かたは)の人あらんや、此彩色、此筆力、此趣向、言語道断と    いふの外なし、貴様は大胆にも恥知らずにも、これを招牌に掛けんと思ひしか、それのみならず勝川春    朗と落欵せしこそ不届至極なれ、この様なる画にならぬ画に勝川などゝ欵するは同門の我等をまで辱む    るはいふまでもなし。師匠の顔をも瀆(けが)すといふもの、貴様は左(さ)心付かざりしか」と曰ふまゝ    に、春朗と主人(あるじ)との目の前にてザラ/\と引破りて、大口を開いて心地よげにカラ/\と打笑    へば、春朗満面に朱(しゆ)を注ぎて、心中烈火の如く怒りをなし「我画いか程拙(へた)にもあれ、拙は    拙丈(へただけ)の苦心して描きしものを、人の面前に於て罵り辱しめ、剰(あまつさ)へ引破るとは何た    る無礼ぞ、兄弟子なりとて用捨はならじ、傍(かたはら)なる煙草盆追取(おつとり)春好が眉前(みけん)    微塵(みじん)になれと擲(なげう)たん」と、四体顚(ふる)ひて憤恨(くやし)がり、早(はや)手も膝を離    れしが、猶(なほ)も思ひ返して歯切(はぎしり)しつゝ怒を抑へ、其日は何事もなく我家に帰りけれども、    独り徐(おもむろ)に思ひ返せば、返す程無念堪へ難く、如何にして彼(かの)怨(うらみ)を報いんものを    と、其手術(てだて)のみ一心に考へ詰めしが、遂に釈然として悟りけるは、我の彼に報ゆる策(てだて)    は唯(ただ)天下第一の画工となるに在り、春好何ものぞ、我天下の大名人となりて彼を脚下(きやくか)    に下瞰(みおろ)し呉れなば、彼如何に無念ならん、我如何に愉快ならん、彼を辱むることこれより大な    るはなかるべく、彼の怨に報ゆることこれより好(よ)きはなかるべしと、其一念を肺肝に銘して、さて    天下第一の画工(ぐわこう)となるべき方法(てだて)を様々に思ひめぐらしけるに、春章は名人なれども    浮世絵に過ぎず、浮世絵は本画より出づ、本画を学び、併せて諸流の奥秘(おくひ)を究めずば、真の名    工たること能はず、されば我先づ狩野の一派より入らんとて、それより狩野融川の門に遊びけるに、其    事忽ち師の春章に知られて「我が弟子となりながら、狩野の門に入るとは我を蔑視(みくび)りし振舞、    かゝる奴原(やつばら)は一日も我門に置き難し」とて直ちに破門せられぬ。是より勝川と名乗(なのる)    こと能はざるをもて、自ら叢(さう)春朗と号せり。     北斎老後名を天下に知らるゝに及びて人に語りて曰ふ「我に恩人数多けれども春好の如き大恩人はな    し、春好吾と最も交情悪(わろ)かりしが、彼が為めに辱しめられずば、今日あるを得ざりしや明かなり」    と。かくて春朗専ら狩野風を学びけるが、又旁(かたはら)光琳宗達の風をも学びて、天明七年歳三十二    の時、俵屋宗理の跡を継ぎて二世宗理と称しけり。    〈兄弟子春好より辱めを受けたという逸話や、師匠の春章から破門されたという逸話は、この北斎伝の四ヶ月後に出版     された飯島虚心の『葛飾北斎伝』にも見えるから、北斎を語るには欠かせない逸話として位置づけられていたのであ     ろう。ところで、北斎の二世俵屋宗理襲名を天明七年とするのは飯島虚心の『葛飾北斎伝』も同様だが、何を根拠と     しているのだろうか。鈴木重三によれば改名は「寛政六年末か七年」の由(岩波文庫『葛飾北斎伝』p43脚注七)〉    〈赤貧〉     其頃小伝馬町に住しけるが、これまで只管(ひたすら)絵画の研究にのみ心身を委ねて、更に家計に関    せざりしより、父祖伝来の家産も尽(ことごと)く売り払ひて、次第に困究に迫りしかば、画を以て活路    を開かんと思ひけれども、其志(こころざし)高尚にして、時俗に媚びて徒に利を戈(はか)らんことを嫌    ひ、世の浮世絵師が婦女子の眼(まなこ)を喜ばせんとて役者の似顔を画くを心よからず思へば、そを真    似んことを望まず、自ら重んじて品格よき画題のみを択(えら)み、専ら狂歌の摺物を描きけるに、世俗    は之を好まず、頼む者もいと稀(まれ)なりしかば、遂には朝夕の煙をさへ立つる能はざるに至れり。     されども他に営むべき業(わざ)を知らざりしまゝ、浅ましくも七色(なゝいろ)蕃椒(とうがらし)売り    となりて、市中を呼びありきけるに、買ふ人少なくして活計(くらし)の助けとなるべくもあらざれば、    僅か二日にして止みにき。次に柱暦を売りありきしが、これも亦更に買ふ人なくて頻りに困(こう)じ果    (はて)つゝ、軈(やが)て浅草蔵前まで至りしに、生憎(あいにく)にも我が先に不興を蒙(かう)ふり破門    せられたる師匠春章夫婦に行き会ひたり。匿(かく)れんとするに匿るべき処もなかりければ、進退維(こ)    れ谷(きは)まりて、総身に冷汗を流し、首(かうべ)を縮め腰を屈(かゞ)めて、僅(わづか)に通り過せし    が、当時(そのとき)の面目なかりしことは、今に至りて思ひ出すも、猶(なほ)背に汗するばかりなりと    て、老年の後までも人に語られけり。    〈行商の途中、蔵前にて春章夫婦と出くわして面目を失いしことは、飯島虚心の『葛飾北斎伝』にも見える。そこで虚     心は「此のこと、北斎嘗て地本問屋山藤に語りしよし」と記している。してみると、太華山人も虚心もこれを信頼に     足る逸話とみていたに違いない〉    〈暁光〉     此(かく)の如く此上なき困究の淵に陥りければ、流石(さすが)の宗理も堪(こら)へ兼ねて、断然画筆    を擲(なげう)ちて、他の業を求めんと覚悟せしことも屡(しば/\)なりしが、折しも五月幟(のぼり)の    画を頼むものありしかば、これに朱鍾馗を描きて与へけるに、其出来殊に面白く、筆勢真に非凡なりと    て、其人非常に喜び、謝礼として金二両を与へたり。北斎其意外に多きに驚き且つ喜びて、我(わが)画    (ゑ)にかく多くの礼を与ふるものあるを見れば我画工たること能はざるにもあらざるべしとて、此に又    も志しを励まし、必死を誓ひていよ/\画道に従事せり。当時(たうじ)若(も)し此二両を与ふる者なか    りせば、此希世の一大画工は此に筆を折りて、空しく賤業社会に陥り、飢餓に死して名を残さゞりしや    も知るべからず、されば僅々たる此二両の金は北斎を大成せしめたる資本といふも不可(ふか)なし。     かくて宗理は猶も熟々(つら/\)考ふる様(やう)、余がかくまで究困に迫り口を糊することすら叶は    ざるは、畢竟画術の未熟にして人に知られざるに因るなり、此上は神に祈誓を掛けて、益(ます/\)斯    (この)術を研究し名を天下後世に揚げんとて、それより柳島妙見に立願し、毎日遠きをも厭はず風雨を    も事とせず、参詣少しも怠たらず。朝はまだ明け放れぬ中より筆を執り、夜は更け渡りて人の寝静まる    後に至るまで志す所を学び、腕痿(な)へ眼(まなこ)疲れて後、漸く硯を収め、さて後蕎麦二椀を喫して    臥すを常としけり。    〈皐月の幟に朱の鍾馗を画いて金二両の謝金を贈られたという逸話、飯島虚心の『葛飾北斎伝』も同様に載せている〉    〈遍歴〉     寛政五六年の頃、日光再修の事ありて、師なる狩野融川幕命を蒙(かう)ふり、門人等を引き連れて赴    きしかば、北斎も亦従ひ行く、途(みち)に宇都宮の旅亭に宿りせる時、宿の主人(あるじ)画を融川に請    ふ。融川やがて童子の竿をもて高き梢の柿を落さんとする様(さま)を図しけるに、北斎側(かたはら)よ    り熟視して、窃(ひそか)に同門のものに語りける様(やう)は「此図童子が持てる竿の端、今少しにて柿    に届くところなれば、童子の踵を上げし様に画(ゑが)きなば、妙なるべきに、爾(しか)せざるは吾師な    がら画理(ぐわり)に精(くわ)しからざることかな」と曰ふに、融川これを聞きつけて嚇(くわつ)と怒り    「余(われ)初めよりこゝに気着かざるにあらず、全く童蒙の無智無心なる体を写さんが為めに、かくは    描きしなり。己れ画道に未熟にして深くも察せず、妄(みだ)りに師を誹謗するとは、奇怪千万悪(にく)    みても猶余りあり、かゝる輩(ともがら)は片時(へんじ)も我が門下に置き難し、唯今より破門せん」と    て逐ひ出されければ、即時に師資の縁を断ちて、空しく江戸に還りぬ。     其(その)後(のち)、堤等琳の画風を慕ひて之を学び、自(みづか)ら北斎辰政と改称せり、蓋し北辰妙    見を信ずるに因るなり。斯(かく)て又住吉内記広行に就きて住吉派を修め、傍(かたはら)洋画を司馬江    漢に学び、更に心を明画(みんぐわ)に潜(ひそ)めて研究せしが、寛政十一年北斎四十余歳の時に至り、    和漢の古風に法(のつと)り、諸名家の妙を萃(あつ)め、これに洋画の写生を参(まじ)へて、北斎一派の    新法を剏(はじ)めけり。     是より先き又是より後も、柳島妙見に参詣することは更に怠らざりしが、或年の夏の暮なり、帰路雷    雨らに会ひ、一散に駆け出(いだ)しけるに、忽ちにして電光一閃、雷鳴耳を擘(つんざ)くばかりに轟き    しかば、北斎驚きて覚えず堤の下にころげ落ちぬ、されどもこれは愈(いよ/\)雷名の揚(あが)るべき    兆(てう)ならんと心に勇みて、号を雷斗と改めたり。     北斎が熱心苦学此(かく)の如し、其伎(ぎ)争(いか)でか進まざるべき、其名争でか世に騁(は)せざる    べき、一世に卓越せる画風次第に人に知られて、名声隆々として起り、小説の挿画(さしえ)額・掛幅等    注文するもの漸く加はり、其門人たらんと欲して贄(し)を通ずるもの亦夥(おびたゞ)しかりしかば、一    々(いち/\)枌本(ふんほん)を描き授(さず)くるの遑(いとま)あらずとて、書肆に謀(はか)りて画手本    数十部を出版す、今世に行はるゝ北斎漫画の如きも其一つなり。     されども北斎の貧困は少しも相異なることなかりき。抑(そも/\)北斎が画事に妙なりし話は数多け    れど、要するに大画・小画・粗画・密画一(いつ)も能くせざる所なきにあり。    〈狩野融川との破門エピソードは明治18年刊『東洋絵画叢誌』第13集所収の「葛飾北斎伝」にあり。本HP「浮世絵師総     覧」の北斎の項、明治18年を参照のこと〉    〈曲筆と席画〉     文化元年の四月、音羽の護国寺に於て観世音の開帳ありし時、北斎堂前の広庭に百二十畳継(つぎ)の    大紙(だいし)を延(の)べ、四斗樽数個に墨汁を湛へ、藁箒の大なるを筆に代へて、落葉を掃くが如く之    を擁し、紙上を何方(かなた)此方(こなた)と飛びめぐりて、忽ち山水の如き図を造れり。されども四面    を囲みて傍観せしもの其何たるかを認め得ざりけるに、北斎、衆をさしまねぎて、堂上に登れと曰ひけ    れば、人々高欄に倚(よ)りて瞰下(みおろ)せば、是なん半身の達磨なりけり、其大(おほい)なること口    に馬を通すべく、目に数人を座せしめて余りあり、筆勢は雅健にして、姿勢は厳正に、観る人をして嘆    賞已(や)む能はざらしめしとぞ。後年名古屋に旅行せし時も、大須に於て三百余畳の大紙に同じく達磨    を描きて、関西(くわんせい)の人を驚かせしことありしが、其折は俵数俵を束(つか)ねて筆に代へ、門    人を指揮して鬚髯(ひげ)及び彩色(いろどり)をなさしめけるとぞ。     音羽に達磨を描きし後、本所合羽干場に於て紙筆かたの如く敷き設けて、奔馬の大画を作り、さて又    回向院に於て同じく大紙に布袋を描き、其席にて直ちに米粒に雀二羽を描きて観る人の魂を奪ひけり。    此他北斎は曲筆(きよくひつ)に巧(たくみ)にして、或(あるひ)は逆に描き、或は横に描き、或は種々の    器物を筆に代へて描く等(とう)、実に人の意想の外に出でたり。且つ最も見取り図に妙にして、其目分    量は決して毫釐も誤りしことなし、されば北斎筆を持て広き床の間に向ひ、敢(あへ)て考ふる風もなく    て、卒然一点を下すに、即ち是れ真正の中央にして、尺度を当つれども毫末の差あるを見ざりしとなり。     鍬形蕙斎は当時最も名高き画師なりしが、横山華山が描ける花洛一覧図とて京都を一目に見たる様に    描けるず、最も世に新意匠なり巧妙なりとて称せらるゝを見て、大に笑い、狭き京都を描く何ぞ驚くに    足らんや、我は江戸一覧図を描いて天下を驚かさんとて、これを作りけるに、果して世人に称賛せらる    ゝこと譬ふるにものなし。北斎局々と笑ひ、江戸広しと雖も一都府のみ、之を描く何事かあらんや、余    (われ)は房総一覧図を描かんとて、苦心惨憺の後、遂に之を作りて刊行しけるに、山海村里道路田圃、    方位布置最も正しくして、真に一望の中に聚(あつま)るが如(ごと)かりしかば。其才筆に感ぜざるもの    なかりき。     かゝる画道の誉、天下に響(ひゞき)わたりて隠れなかりしかば、時の将軍徳川家斉公、或日御鷹野の    帰るさ、北斎を御座近く召されて席画を命じ給ふ。北斎生きたる鶏を携へ来りて、其趾に朱を塗り、紙    上に放ちければ、鶏彼方(かなた)此方(こなた)と歩みて其跡を印しけるを、直(すぐ)に紅葉の散りかふ    様にとりなし、聊(いさゝ)か筆を加へて龍田川の景を描けり、此外鶏卵及び種々(くさ/\)の器物を筆    に代へて、様々の物を描くに、咄嗟の意匠奇を極め、妙を尽さずといふことなかりしかば、殊の外感称    を蒙ぶりけり。    〈文化元年護国寺での大達磨曲筆パフォーマンスは、明治17年刊『東洋絵画叢誌』第3集所収の「北斎半身達磨」に拠る。名     古屋の大達磨については拠るところがなかったようで、たんに伝聞を載せたに過ぎない。なお、文化14年4月の名古     屋における曲筆については、この北斎伝の四ヶ月後に出版された『葛飾北斎伝』の中で、著者飯島虚心は高力種信著     の『北斎大画即書細図』を引いて、当日の様子を紹介している。また、将軍の面前で行った席画の逸話は、天保三年     頃の随筆(『無可有郷(むかうきょう)』鈴木桃野記)にも出ているから、真偽は別として北斎の生前から流布してい     たようである。もっとも、太華山人が直接典拠としたのは、明治18年刊『東洋絵画叢誌』第13集所収の「葛飾北斎伝」     であろう。鍬形蕙斎の「江戸一覧図」と北斎の「房総一覧図」の逸話、これまた虚心も『葛飾北斎伝』に収録してい     る〉     北斎曲筆 大達磨(文化元年:護国寺・文化十四年 名古屋)    〈剛直〉     抑(そも/\)北斎は最も侠気(おとこぎ)に富める人にて、意を枉(ま)げ人に諛(こ)び、利の為め義を    欠くが如きこと更にあらざりき。其本所林町三丁目家主(いへぬし)甚兵衛店(たな)に住せし頃の事なり、    和蘭(ヲランダ)の加比丹(カビタン)【船長】、江戸に来りしもの、北斎が画名の高きを聞き、日本の風    俗画として、小児出産の始めより、年々成長する体(ありさま)、算筆稽古の体、年長(た)けて遊里に通    ふ体、年老いて病に罹り、又死去して葬礼する体等を男女に別けて二巻数十図に画かんことを請ひしか    ば、画料百五十金と約して承諾しけるに、其附属の医師も亦同図を託したり、北斎これをも承諾して、    これより非常の丹精を凝し、昼夜の苦心数月の後、漸くにして大成し、携へて彼の加比丹の旅宿に至り    けるに、其画一(いつ)として妙を極めざるものなかりければ、加比丹悦ぶこと大方ならず。直(たゞち)    に約束の百五十金を与へしかば、北斎も亦大に喜び、さて後彼の医師に面して同図を渡しけるに、医師    の曰ふ「吾(われ)は加比丹に従ひ居るものなれば、其俸給も亦従つて低く、加比丹と同じき価(あたひ)    を払ふに耐へ難し、あはれ七十五金にまけて授け給へ」とありけるに、北斎怫然として怒り「始めより    かく告げなば、その心して描くべきものを、今ひ至りて直切るとは何事ぞ、加比丹の托せしものと同じ    くせよとの言なれば、寸毫も違(たが)はざる様に描きしなり。価を低くとあらば、筆を省き彩色を略し、    もて其労(らう)を減ずべかりし、今更約を破らんとするものならば、我決して与へ難し」とて、持ち帰    れり。    此二通の風俗画を描き了る間は、一切他事を顧みず、借財に借財を重ね、唯大成して三百金の来るを以    て、悉く之を浄却せんと困苦の間を凌ぎけることなれば、其妻(さい)北斎が一通を空しく持ち帰りしを    見て、「彼の約に違ひしは憎むに余りありれど、さりとて今これを売らずば、如何にしても一家の煙り    を立て難し、七十五金は個(もと)より労を報ゆるに足らざれども、夷人ならでは其価に買はんといふも    のさへ覚束なし、曲げて譲り給へ」と勧めけるに、北斎悄然として「これを売らずば家道の立行かざる    事、又直に買はんといふ者なき事も、余(われ)の深く知る所なり、されども余(よ)が之を彼に与へざる    は、加比丹に義を失ふを欲せざればなり、労同じくして更に優劣なきものを、加比丹には百五十金に与    ふれば、加比丹之を聞きて、北斎吾を欺きて無法の金を貪り取れりと言はん、仮令(たとひ)爾(しか)言    はずとも、其心には吾を賤(いやし)まん、仮令彼れ此事を知らずして口に言はず、心に賤まずとも、余    が心には義に戻(ママ)(もと)れるを愧(は)づるなり」とて、聴き入れざりしが、此由何人か訳官に告ぐる    ものありて、訳官直に加比丹に北斎が心事を語りけるより、加比丹其義の固きに感じて、他の二冊をも    百五十金にて買ひ受けけり。其後和蘭より様々の画を注文せられて描き送ること多かりしが、三年程あ    りて国の秘密を顕はすの恐れありとて、幕府より海外に画を送ることを禁じられけり。    〈このオランダ人依頼の風俗画に関するこの逸話は、朝岡興禎編『古画備考』(嘉永年間成)に載っているものと同じ。    またさらに脚色明治42〉    〈侠気(おとこぎ)〉     又或時の事なり、浮世絵師歌川豊国、両国辺の某(なにがし)楼に於て書画会を催(もよ)ほしことあり、    偶(たま/\)風雨烈しくして参会するもの極めて稀なりしに、北斎は簑笠に草鞋(わらんじ)穿(は)きて    葛飾の百姓が参りましたと案内請ひて席に上(のぼ)り、終日筆を揮ひたりき。     又これも或時の事なり、三代目尾上菊五郎、当時俳優中の巨擘(おやぶん)として、評判天下に高く、    傲気人を凌ぎけるが、幽霊の画を欲して北斎を招きけるに、北斎俳優を卑(いやし)み、河原者の家に行    くべきけがらはしき足を持たずとて、行かざりしかば、菊五郎已(や)むことを得ず、駕籠に打乗りて北    斎の家を訪ふに、室内の不浄言はん方なし。菊五郎は性来頗る潔癖なりしかば、暫しも得堪へず、従者    に駕籠中の氈(せん)を取り出させて席に敷き、其上に座しけるより、北斎其無礼なるを恚(いか)り、遂    に語を交へずして帰りぬ。されども其後人の仲裁するものありて、菊五郎一世一代の興行として東海道    五十三次と題する劇を演ずる折、北斎を招きて一覧せんことを請へり。当時(そのとき)北斎嚢中一文も    なかりしかば、蚊帳を売りて漸くに二朱を得、それを懐にして劇場に至り、覧(み)了(をは)りて後、二    朱を紙に包みて菊五郎に与へ、我家に帰りけるが、家は本所石原に在りて、蚊最も多く、蚊帳なくては    半夜をも凌ぐべきにあらざれども、北斎は晏然として其中に起臥しけり。後友人見兼ねて蚊帳を贈りけ    るとぞ。その侠気(をとこぎ)ありしこと概ね此の如し。        〈転居癖〉     北斎家を移すの癖ありて、生涯転居九十三回に及べり、甚だしきは一日に三所転ぜしことありといふ。    手紙又は記録に載する住所を挙ぐれば、本所割下水、同じく横網、同じく林町三丁目、同じく荒井町、    同じく原庭、同じく達磨横町、小伝馬町、佐久間町四丁目、代地、浅草馬道、同じく聖天町、同じく藪    の明王院地内、本郷丸山、鐙阪下、小石川伝通院前、相州浦賀、尾州名古屋、信州高井郡等なり。其七    十五歳までには五十六回転居して一度も火災に逢はざりしかば、自ら鎮火の守札など書いて人に与へけ    るが、遂に免がる能はずして類焼に罹(かゝ)れり。其時火の家にうつるまで筆を執りて身を揺(うご)か    さざりしが、屋根に火の燃え付くに及び、娘と与(とも)に筆と画とを持ちしまゝ飛び出して、家財を出    さんともせず、少しく隔たりし処に至り、硯の無きがまゝに徳利を砕きて底を筆洗とし、砕片を絵具皿    とし、彼(か)の画(か)きかけし絵を描(か)き上げしとぞ。      〈貧困〉     北斎一生酒を嗜まず、煙草を喫せず、又更に色欲の念なかりき。且つ老年に及びて其名天下に振蕩し、    画を請ふもの絶えざりしかば、決して貧窮なるべき様(やう)なかしものゝ如し。而るに其然らずして、    終歳寒饑に追はれ、死に至るまで一日も暖飽なること能はざりしは、真に疑はしきことなれども、是れ    決して異(あやし)むべきことにあらず。北斎の画料は他の画師(ゑし)に比して当時稍(やゝ)高かりしが、    北斎は敏捷巧妙の筆を持ちながら、他人の嘱托に応じて画を作るに当りては、最も其着筆に思想を凝し、    再三下図を作り再三添削して、我心に可なりと思ふ後にあらずば、決して描くことなし、故に他の画師    の三し図を成す間に、北斎は僅に一図を作るに過ぎざりき、されば一枚の画料は他に倍すとも、一日一    月に割り充(あつ)るときは、豊国国貞等が二三分一にも足らざりしなり。加之(しかのみ)ならず其女婿    柳川重信が子放蕩無頼の男にて、常に北斎を金庫とし、北斎の得たる金銭を用ゐて酒色に擲(なげう)ち、    時には大金を払はせ容易ならざる迷惑を着すること屡(しば/\)にして、これが為めに北斎一時江戸を    出奔して相州浦賀に潜居せざるを得ざるに至れるなど、実に至らざる所なき無頼漢(ぶらいもの)なりし    かば、北斎多少の所得も更に効なかりき。    〈無頓着〉     且つ北斎はまた極めて金銭に心なく、ある時は其侭(まゝ)室内にちらし置きて敢(あへ)て収めんとも    せず、米屋薪屋の来るあれば、自から其中より持ち去らしめて疑はざりき。必竟(ひつきやう)北斎が脳    中には絵画の外(ほか)金銭の如きこと更になかりしかば、かくは一生を貧困の中に送りしなり。     さて北斎は又此貧困を少しも厭ふべきこととせず、此間に我が道を適(てき)とし、悠々筆を揮つて楽    み居けり。其家の表札には、百姓八右衛門と記し、壁に「おじぎ無用、みやげ無用」と書きて張り付け    たり。又絶て室内を掃除することなく、席上常に臥具を敷きて昼夜其中に在り、睡(ねむり)を催ほすと    きは衾(ふすま)を引かつぎて臥し、覚むれば筆を執りて絵をかけり。衣食の美をば素(もと)より好まず、    人より鮮魚を贈るあれば、割烹の煩ひありとて其まゝ近隣の貧民に取せけり。調度器財更に貯ふるもの    なく、仏壇だになかりしを、或人一箇の仏像を与へけるに、北斎喜びけれども安置すべき所なかりしか    ば、春慶塗りの重箱を横様に釘もて柱に打付け、其中に蔵めたりしとぞ。其清貧に安ぜしこと想ふべし。    〈逝去〉     北斎の妻は名をことゝいへり、北斎に先(さきだ)ちて文政十一年に没せり、一男三女あり、男は幼き    時に故ありて他の養子となれり。長女は柳川重信に嫁して離別の後早世し、二女は幼き時に夭(よう)し、    三女は名をお栄といひて、他に嫁して程なく離別せられ家に帰りて常に北斎の傍に居けれども、父の気    質を稟(う)けて頗ぶる奇癖あり、細事にたつさはるを好まず、剰(あまつ)さへ衣服を裁縫し食物を調理    することさへ痛く厭ひて、粗食弊衣を恥とせず、塵(ちり)埃(ほこり)深き室内を掃はんともせず、唯父    の業を助けて絵を描きつゝ日を送れり。絵は父の風を学びて頗る美人を描くに巧妙なりき。     嘉永二年、北斎浅草遍照院の境内に住しける時、病に罹りて其四月十三日没す、享年九十歳なりき。    辞世の句あり       人魂で行く気さんじや夏の原    〈執念〉     病革(あらた)まりて医師も最早こときれぬべしと告げしかば、門人故旧来りて看護しけるに、北斎大    息して「天吾をして十年の命を長からしめば」と曰ひけるが、暫くして「イヤ五年にてよし、五年の命    を保たしめば、真の画工(ゑかき)となるべきものを」と言ひ了(おは)りて、忽ち息絶えけるとぞ。     又其浦賀に潜居しける時の手紙に、      御地御家内様、益御揃遊ばされ御安康之趣、萬々奉雀躍候。随而老人いつも不替筆力日増に出精仕      候、一百歳の頃は先づは画工之数にも入可申存念に御座候、書外拝顔可申上候 以上                                前北斎事 画狂老人 乞食坊主卍九拝     又其末に「七十六の老人布子一ツにて寒中を過ごし申し候(そろ)、余は御賢察可被下(くださるべく)    候、乍然(しかしながら)未だハヨンヂリとも不仕(つかまつらず)候、益(ます/\)出精仕(つかま)つり    候て、愈(いよ/\)上手に相(あひ)成度(なりたく)、それのみ楽みまかりあり候」とあり。其老いて益    画道に熱心なりしこと、実に驚くに堪へたりといふべし。    〈改名〉     北斎又聊か文雅の才あり、著す所の小説数種あり、時太郎可候(かこう)、または是和斎(これわさい)、    魚仏等の号を署せり。     北斎一生の間に号を変ずること殆ど十余回に及べり、即ち春朗、宗理、辰斎、北斎、雷斗、戴斗の外    錦袋舎と号し画狂老人おt号し、北斎の号を人に譲りて後は前北斎為一(ためいち)と号し、又更に卍翁    と号せり〟     葛飾北斎(太華山人著・明治二十六年(1893)五月刊『少年雅賞』所収)     (国立国会図書館デジタルコレクション)     〈太華山人(高橋太華)は児童文学者。飯島虚心の『葛飾北斎伝』に先んずること四ヶ月前の出版〉