Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
北斎 曲筆(きょくひつ) 大達磨
   文化元年(1804)4月13日、護国寺境内における葛飾北斎の曲筆、大達磨半身像に関する記事
 文化14年(1817)10月5日、名古屋における葛飾北斎の曲筆、大達磨半身像に関する記事
 ☆ 文化元年(1804)    ◯『一話一言 巻四十一』〔南畝〕⑭595(文化一年四月十三日明記)  (文化元年四月十三日、護国寺境内において、北斎は巨大な達磨の半身像を画いた。その様子を中村文蔵    という人が書き留めていた。南畝はそれを書写したのである。中村文蔵(子寅)は文晁の項参照)
 〝北斎画大達磨紀事  文化甲子三月、護国寺観音大士、啓龕縦人瞻拝、士女雲集、率無虚日、四月十三日、画人北斎、就其堂    側之地、画半身達磨、接紙為巨幅、下鋪烏麦稭、以襯紙底、紙大百二十筵、画者攘臂褰裳、縦横斡旋、    意之所向筆亦随之、蓋胸中已有成局、不持擬議而為也、画成、観者環立、嘖々賞歎、然唯見一班、未能    尽其情状、登座堂俯瞰、所見始全、口大如弓、眼中可坐一人、其所用、四斗酒榼一、銅盆二、皆以貯墨、    水桶一、以貯水、為筆者凡六、而藁箒居三、大者如罍、小者如瓶、棕箒二、地膚箒一、皆以代筆     右中村文蔵所記〟    (書き下し文)     〝文化甲子三月、護国寺の観音大士、龕(ガン=厨子)を啓(ヒラ)きて人の瞻拝を縦(ユル)す、士女雲集して、率(オホム)ね虚日無     し、四月十三日、画人北斎、其の堂の側に就きて、半身の達磨を画く、紙を接ぎて巨幅と為し、下に烏麦の稭(ワラ)を鋪     (シ)き、以て紙底に襯(ホドコ)す、紙大百二十筵、画者臂を攘(ハラ)ひ裳を褰(カラ)げて、縦横に斡旋し、意の向ふ所筆亦之     に随ふ、蓋し胸中已に成局(完成形?)有り、擬議を待たずして為すや、画成る、観る者還た立ち、嘖々と賞歎す、然る     に唯一斑を見て、未だ能く其の情状を尽くさず、堂に登り俯瞰して、見る所始めて全たし、口大にして弓の如し、眼中     可坐一人、其の用ゆる所、四斗酒榼(樽)一、銅盆二、皆以て墨を貯(タクハ)ふ、水桶一、以て水を貯ふ、筆と為すは凡そ     六、而して藁帚は居三、大なるは罍(ライ=酒樽)の如く、小なるは瓶(ヘイ)の如し、棕帚二、地膚帚一、皆以て筆に代ふ〟  ◯『増訂武江年表』2p30(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   (「文化元年」)   〝三月より護国寺観世音開帳あり。四月十三日画人北斎本堂の側に於いて、百二十畳敷の継紙へ半身の達    磨を画く〟    ☆ 文化十四年(1817)  ◯『尾張名所図会』附録 巻之一(岡田啓 野口道直編 小田切春江画 嘉永六年序)   (国立国会図書館デジタルコレクション)33/80コマ   〝画像の大達磨     文化十四年の春 江戸の画工北斎戴斗 名古屋に来り 逗留のうち府下の書林等 北斎の画帖及び小説    の冊子を印刻せばやと思ひ立(ち) 板行の下絵をかき給はれと頼みしかば 諾して是を画く 昼夜をわ    かずはげみしかば 数月にして数十帖成りぬ 其細密の妙手言語に及びがたし 或人これを見て 久し    く細画に筆を屈し縮めつれば定めて普通の画幅はかきにくからんと 戯れに難じけるを 北斎伝へきゝ    誠に然り 腕延ばしの為に大画をなして衆覧に入ればやと思ふなりといひしかば 好事の輩これをきゝ    いと興ある事也と 数人語らひ合せて其事を催しぬ かくて仙過の厚紙千八百八十枚を合羽造る者に命    じて 継立させければ 長十間横六間の一ひらとなりぬ 十月五日 西掛所の境内集会所の前の広場に    其席をまうけ 杉丸太もてませ垣を結ひ廻し 其中に料紙の半分を敷ひろげたり 北斎及び手伝いの門    人等 玉だすきかけて其わざをなす 米俵五箇の藁もて作れる大筆及び中筆小筆 其外栟櫚(シュロ)皮蕎    麦がら等もて造りたる筆にて達磨を画く 見物の貴賤群集して山の如し 頭のかた半分描きてのち か    ねて左右六間隔てゝ建(て)置つる二本の杉柱に機転(からくり)し 紙の上の方の両端に苧縄を付け     轆轤もて引揚げ 大長暖簾(おおながのれん)を懸けたる如くす 扨(さて)残りたる料紙を地に延べ敷    て下の方を画き終りぬ 代赭石丹朱等綵(いろど)りたれば残れるくまなし 翌六日 猶(ほ)かけ置きて    諸人に一覧なさしむ 実に奇代の壮観也 むかし東福寺の晁殿司 涅槃の大像を画きしとは似るべくも    あらず 是は只一時の戯れにして万人の目を驚かせり かゝる一興も又泰平の御代の御恩沢なるべし     山水花鳥のたぐひならましかば 一しほ目ざましからむに かゝる仏めく絵は無風雅なりと 人の     いひけるをきゝ 北斎にかはりて      達磨かく絵かきはさらに風流を知りくさらぬと人やいふらん 門人月光亭墨仙〟    北斎席画の大達磨 小田切春江画(『尾張名所図会附録』巻之一)   ※( )のルビ【中略】は底本・岩波文庫本『葛飾北斎伝』のまま。注記は校注者・鈴木重三氏のもの  ◯『葛飾北斎伝』p110(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)   (文化十四年(1817)十月五日、北斎、名古屋にて半身の大達磨像を画く)   ◇事前に頒布された摺物、半身の達磨像(縮図)とその記事 p110   〝尾州名護屋本町通り門前町大地におゐて、来ル十月五日席画    たゝみ百二十畳敷 達磨大師の尊像を画く     目 六尺   ほふ 九尺   口 七尺   みゝ 壱丈二尺   面 三丈二尺      筆 米俵五ひやう   同 しゆろほうき   同 竹ほうき    当日雨天にては日おくり     文化十四丁丑年十月五日 大画席上          東都旅客 北斎戴斗筆〟    摺物の裏書き   〝文化十四年、丁丑十月五日、名古屋西掛所境内に於て、東都の画工北斎戴斗、半身の達磨の像を画く。    此日見物の人、群をなす。其縮図の摺物、永楽屋東四郎が店にて商ふ。則(スナワチ)これを求めて、後世    の談柄とす。北斎は其(ソノ)砌(ミギリ)半年程、鍛冶屋町牧助右衛門墨僊の家に寓居す。明治九年丙子    十月五日得之、翠竹居津田氏所蔵〟    〈永楽屋東四郎は『北斎漫画』の板元。牧墨僊は北斎門人〉    ◯『東洋絵画叢誌』第三集・明治十七年十二月刊(復刻「近代美術雑誌叢書」3・ゆまに書房・1991刊)   〝北斎半身達摩    葛飾北斎翁は名は戴斗。人物鳥獣類を写すに妙を得、此種の画を作るもの、当時翁を推して巨擘となす。    文化元年四月、江戸音羽護国寺観音の開帳ありし時、老幼遠近より群集せり。其十三日、翁は堂の庭に    麦擘稈を舗き、上に白紙の接ぎ合せたる大さ百二十席程のものを展べ、側らに四斗樽を置き、墨水を其    (の)中に充て、準備既に整ひ、襟を正ふし袂を褰げ、藁帚を以て筆に代へ之に墨を濡し、臂を伸べ身を    転じ、山に似、洞に似、大木又は巉巖に似たるものを画き、毫も遅疑する所なく、恰も帚もて落葉を掃    ふが如く、須臾にして成る。聚り見るもの其(の)何たるを弁ぜず。堂に上り俯し瞰れば、即(ち)半身の    大達摩なり。茲に於て人々皆驚く、其(の)口の大さ馬を通すべく、眼晴の中には一人を座せしめて余り    あり。故に其(の)全図の広大なるを知るべしと、当日親しく彼寺に詣でし人の筆記に見えたり〟  ◯『葛飾北斎伝』p118(飯島半十郞(虚心)著・蓬枢閣・明治二十六年(1893)刊)   (十月五日当日の様子を記録した猿猴庵・高力種信の『北斎大画即書細図』の抄出)   ◇月光亭墨僊の序   〝【上略】此頃、余が師東都の北斎戴斗、尾陽に来りて遊べる折から、書林例の板下てふ物を催し、くさ    ぐさの冊子をこふて、昼夜筆をおくいとまなし。其板てふ物は、寸紙の内に数百里の密景をあらはし、    微細なることいふばかりなし。ある人かゝる板下物は、細工の類にして、画をなせるとは、別の物なれ    ば、一葉の唐紙には、筆の立所もおぼつかなしといへるまゝ、さいはひ数日板下に筆を縮めぬれば、腕    延しに、大画てふ物をなして、一時の興にせばやといへるを、我輩そはめづらしき事なり。いざ紙つが    ばやとあつまりて、既にかゝる一興とはなれり。そを画友猿猴庵の主人、例の筆まめにして、其場所の    用意をなせるより、事終るまでは、こと/\く図に写して、一冊となし、携へ来りて、予に序せよと。    【下略】〟       ◇高力種信の本文   〝文化十四年丁丑の春より、東都の画工、北斎戴斗、我が名陽に来りて、何某のもとに逗留す。【中略】    同年十月五日、西掛所の東庭にて、大画の達摩を即書する由にて、其の趣を板行になし、諸所の書林の    店々に配りたれば、此(コノ)沙汰府下にかくれなく、既に其日は見物の群集夥(オビタダ)しかりし。    いと珍らしき事なる故、其儘なる図画にあらはして、千歳の不朽に伝ふ。    十月五日早朝より、かの大画を見物せんとて、貴賤老幼足を空(ソラ)になし、門前町の人通り、櫛の歯    を引くが如し。【中略】さて西掛所本堂の東北の方なる集会所の前の庭上に、席を設(モウ)け、杉丸太    をもて、ませ垣を結ひ、其中に料紙をひろげ、此紙の下には、籾売(モミガラ、注1)をしきたり。其の    紙の大(オオキ)さ畳につもりて、百二十畳敷なれぱ、竪巾(タテハバ)十間、横巾六間あり。これは合羽    (カツパ)をつくる者、元重町(モトシゲチヨウ)の理相(リソウ)寺にてつぎたる由なり。さて巣会所の軒に添    ひて、杉丸太をたて、足代(アシシロ)の如くにして両方の端の丸太の頭に、小車を仕かけ、料紙の上の方    に軸をつけたるに、細引の綱をつけて、大画出来すれば、引きあぐるためとす。其画く所の筆は、藁一    把ばかりなるを面書(メンガキ)とし、蕎麦売(ママ)(ソバガラ)一とからげにしたるを、毛書(ケガキ)とす。    月代(サカヤキ)、髭などにこれを用ゐ、(注2)衣紋をかくには、俵をくずしたる薦(コモ)、五ツばかり    もよせたる程の藁筆を用ゐ、墨は、摺鉢にてすり、大(オオイ)なる桶に入れ置きたり。又紙の三方には、    杉丸太をおきて、文鎮(注3)とし、紙の縁(ヘリ)には敷物をして見物の席を設(モウ)く。昼過ぎより    画きはじめたるが、北斎は、門弟一両輩と共に、いづれも襷(タスキ)をかけ、袴(ハカマ)の裾(スソ)を    高くとりあげ、さて紙をひろげたるに、西の方に墨を入れたる桶をおきて、青銅の薄盤に少しづゝ墨を    うつし、門人にこれを持(モタ)せおき、一筆かきて又墨をうつせり。先づ藁一把程たばねたる筆にて、    鼻をかき、其欠に右の眼、左の眼、夫(ソ)れより口、耳、あたまを画き、胸のあたりまて出来(シユツタイ)    せしかば、それより蕎麦売を一とからげにしたるを持ちて、毛書とし、月代(サカヤキ)、髭なんどをかき、    さて墨ぐまをとるには、薄墨を手桶に入れて、椶櫚箒(シユロボウキ)に此墨をつけて、くまどりをなし、門    人等これをけして、薄墨をちらし、ぼかすには、手桶に水を入れて、椶櫚箒を用ゐたり。又彩色をなす    に、赭石(タイシヤ)を薄くときて、手桶に入れ、これも椶櫚箒にてぬり、門人等あとより手桶のちらし、    彩色をなしたり。しかして、衣紋を画(エガク)には料紙を半分ほど、かの仕かけの小車にて、上へ引き    あげ、衣紋の所ばかり庭にのこしたり。これを画く筆は、俵を五ツばかりくづしたる藁をからげ合(アワ)    せて用ゐたり。これは重きゆへに、墨入の桶より持ち運ぶには、墨入の盤に筆をのせて、これを門人共    につりはこばせたり。此頃世上の噂に、俵を五俵からげ合せ、画くよし沙汰せしは、此藁筆のことなり。    夫れより衣の彩色をするに、赤き画具(エノグ)を手桶に入れ、柄杓(ヒシヤク)にくみて所々へちらし、椶    櫚箒に水をつけて、これをちちらし、又ぼかしなどせしなり。衣の彩色は、門人等これをなし,其あま    り水にぬれて紙のしめりたる所は、傍(カタワラ)の周旋人(シユウセンニン)等、雑巾をもて、これをおさへ、し    めりを取りたり。漸(ヨウヤク)夕方におよび出来しけるを、かねて供へし杉丸太の上に仕掛たる小車にて、    七間ばかり上に引あげたれど、まだ半分は庭をはなれず、其儘にて諸人に見せしむ。貴賎群集してこれ    を見る。さながら蟻(あり)などのたかりたるが如くなり。【下略】    翌六日の朝、杉丸太を仕直し、大画をかけて終日諸入に見せしむ。画中に、文化十四丁丑十月五日、東    都画狂人北斎戴斗席上としるせり〟    北斎画大達磨 猿猴庵(高力種信)(『北斎大画即書細図』)     (注1)原文は「鞘糠(サヤヌカ)」     (注2)原文はここに「墨ぐまをとるには椶櫚箒(シュロボウキ)を用ゐ」の文がある     (注3)原文は「重(オモシ)にをきて文鎮とす。実(マコト)に仰山なる事どもなり。         此の紙の縁には敷物をして見物場となせり」となっている  ◯『芸苑一夕話』下巻 市島春城著 早稲田大学出版部 大正十一年(1922)五月刊   (国立国会図書館デジタルコレクション)(119/236コマ)   ◇四七 葛飾北斎     渠(かれ)の大宣伝     葛飾北斎が、文化十四年十月、名古屋本願寺の別院に於て、百二十畳敷の半身の達磨を書いた話は、    彼れが一代の歴史を飾る一大事件とも云へる。     此の大画は、今尚別院に保存されて居るが、余りに大きい為に出し入れが厄介で、人の見る機会が幾    (ほと)んど無い。之は北斎の大作として有名である計りでなく、恐らく是程の大画は、何人の作にも無    からうと思はれる。全体、畳百二十枚と云ふ大きさは、縦幅十間、横幅六間に当るもので、誰にも大き    いと云ふ概念は起るが、はつきり、どれほど大きいと云ふことは、像の各部の寸尺を知らねば見当がつ    かぬ。北斎は、此の画を書くに就いて、引札を出して居るが、今それに拠ると、口が七尺、目が六尺、    耳が一丈二尺、頬が九尺、顔が三丈二尺とある。凡そこれで画の規模が思ひ遣らるゝであらう。     さて、此の大画を描きたる場所は、別院本堂の東北の方なる広庭であつて、一面に見上げるほど高い    足場のやうなものを作り、その両端に滑車を仕掛け、百二十畳敷の紙の上頭には軸を装置し、それに細    引の綱をつけ、画を滑車で上へ引き上げる設備をした。     さて又用筆は如何にと云ふに、勿論、毛筆など役に立つべきでない。毛書をする細筆と云うても、蕎    麦殻一束と云ふ訳なれば、面部を画く筆は、藁一束の大きさで、身体、衣紋を書く大筆に至つては、俵    をくづした薦(こも)を五つ程寄せた程の大きさで、なか/\一人の力では動かしかねる程のものであつ    た。墨汁は、勿論幾十の手桶に入れて場に運び込まれ、それを青銅の大水盤に取り分けて、硯に代へた    と云ふ仕末(しまつ)。僅かに一筆画けば、盤中の墨は忽ち尽きるのであるから、間断なく墨を桶より移    さねばならぬ。此等(これら)の補助として、場に在つた四五の門人の多忙なることは、目を廻はす程で    あつた。北斎は、襷がけで先づ鼻を書き、右眼より左眼、それより口、耳に及び、顔の輪郭に及び、胸    より以下は、俵筆(へうひつ)、或ひは棕櫚(しゆろ)帚を用ゐ、或ひは薄墨を以て暈取(くまど)り、或は    淡彩を施し、午後一時頃より揮毫を始めて、夕刻に至りて全く完成を告げたと云ふ。     当日、此の揮毫を見んとて集まりたる群集は、さしもに広き場の四方を填(うづ)めて、実に盛んなこ    とであつた。画成つて後、滑車の作用で、之を吊し上げ、凡そ七間ばかりの高さに及んだが、まだ半分    は地上に在ると云ふ始末であつた。実は、全部吊し上げる設備がなかつたため、見物人は、唯達磨の面    部を見るに過ぎなかつた。     北斎が斯(かゝ)る画を試みた動機は、常に繊細な画に筆を取つて疲れ果てたので、腕延ばしにと、或    る人の勧めに任せ、斯(かか)る挙に出でたのだと云ふ。此の出来事は、北斎が名古屋の門人墨僊の宅に    寓居して居つた時である。此の画を作る動機は何に在つたにせよ、実はこれが北斎の大広告であつた。    其の後此の縮画は、永楽屋東四郎に依つて印刷され、都鄙到る処盛んに行はれ、今に至るも芸園の談柄    となつて居る〟