Top        『江戸(時代)文化』(雑誌)        その他(明治以降の浮世絵記事)   出典:『江戸時代文化』(山崎麓編 江戸時代文化研究会 ジャパンマガジーン社 昭和二年(1927)創刊~)      『江戸文化』(江戸時代文化研究会 六合館 昭和三年創刊~同六年(1928-1931)休刊)     (国立国会図書館デジタルコレクション)  ◯「江戸の梅見其他」今泉雄作翁談 9/31コマ(『江戸時代文化』第一巻第一号 昭和二年二月刊)   〝昔の人は足は達者でした。旧幕の頃には、遠足といふ事がありました。鎌倉の八幡へ江戸から約十六里    の道を一日で往復して来るのでした。江戸を発(た)つて、鎌倉の八幡へ行つて「遠足でございます」と    云ふと「はい」と云つてすぐ御札を呉れます。之を証拠に持つて帰つて上役に見せるので、遠足といふ    と役所をすぐ休む事は出来たのでした〟   〝大道に、いろいろ変つたものが少からずありましたが、私が今でもわからないのは「まかしよ」と云ふ    者です、それは大小をさしてゐて、ひよつとこの面をかぶつて往来を歩いて居たものです、武士でない    事は確かです。その後を子供等が追ひかけて「まかしよ、まかしよ」とわめくと、懐中から辻占らや謎    々などを書いた細い紙切れを撒いて行つたものです〟  ◯「口絵解説」三村清三郞(『江戸時代文化』第一巻第二号 昭和二年三月刊)   (目黒成就院(蛸薬師)絵馬)   「碇に蛸」  北尾重政画 願主 勝俣言珍      天明三年九月奉納   「矢の根五郎」鳥居清長筆 願主 しんば和泉屋半治郎 文化七年六月奉納  ◯「上野の花見」今泉雄作(『江戸時代文化』第一巻第二号 昭和二年三月刊)   〝上野の山で花見の出来るのは、三月四月の二月だけです。三味線や踊は止められてゐました。それに時    々宮様が、飴色網代のお駕籠で御成りになるので、「下に/\」で皆んな土下座しました。此処の花見    で面白いのは、山同心です。山同心といふのは、東叡山を守る、今でいふと巡査みたいなものです。そ    して幾らか扶持を貰つて生活してゐるのですが、それが花見の時に茶屋を出して、薄縁を貸して居りま    した。又こゝでは、茶は絶対に禁じられてゐて、湯の中に香煎を入れて出すのです。私は親の心やすい    寺から、茶を貰ひました。さて「こゝへ蓙を下さい」といふと、その山同心がすぐ持つて来ます。面白    事には、酒は山では売りませんが、花見だからやはり瓢等へ入れ持つて来てゐるので、酒に酔つて喧嘩    が起ると、山同心は、竈の薪箱に大小を入れておいて、それを出して自分の職務の山同心をしたのです。    其時分は、花見の場所は、袴腰から入つて、山王山、摺鉢山の辺で、奥の方でなく、すぐ口もとだけだ    つたのです〟  ◯「文のかけはし」山崎麓(『江戸時代文化』第一巻第五号 昭和二年六月刊)   (艶書指南)   『文しなん』  一冊 口絵 歌川風   一陽斎為山編(文は『黄素妙論』の翻訳) 刊年未詳   『文しなん』  一冊 口絵 麿丸(国麿) 十返舎一九編(前書と同名異本。文は上掲の剽窃)   『文の林』   一冊 口絵 歌川国直? ◯◯庵かく丸編(上段に男女一代心得の歌を掲げる)   『風流文しなん』一冊 表紙 国貞風   『文のゆきかひ』一冊 女好庵主人編(前書の板を流用して女好庵の序を付けたもの)   『文の林』   一冊 口絵 歌川国麿 (二部を合冊したもの)   〔失題〕    一冊 口絵 英泉風〝『恋の山文文の枝折』といふ未見の書かと思ふ〟  ◯「根岸八景」野見濱雄(『江戸時代文化』第一巻第六号 昭和二年七月刊)   〝酒井抱一の弟子喜一の画いた根岸八景    天台暮雪  坂本から上野の山を望んだ雪景色    尾久帰帆  荒川の景色 飛鳥山下 音無川の向こう一面の田圃 笹の雪    芋坂晴嵐  団子屋 天王寺の裏門    大沼群禽  日暮里から三河島方面 カンカン森 猿田彦の碑 大沼    御行松時雨 石橋 御嶽山 石稲荷    元三島秋月 鎮守の森 かん竹の藪    護国院晩鐘 東叡山の護国院 大黒様    感応寺桜花 天保年間、感応寺取りつぶし天王寺と改称〟   ◯「梅ヶ枝漫録(一)」伊川梅子(『江戸時代文化』第一巻第六号 昭和二年七月刊)   〝初代豊国     私の祖父の初代歌川豊国の事をお話しませう。     芝の神明前あたりに、人形作りの五郎兵衛といふ人が居ました。六代目の団十郎の人形を作りました。    それが大へん有名になつて、代々団十郎の家に伝つてゐました。その伜に熊吉といふのあります。これ    が初代豊国であります。彼ほ(ママ)初手は蒔絵師でした。蒔絵師の素養として、絵を歌川豊春の弟子とな    つて習ひました。生来、器用で、似顔絵などを描きました。又酒を好み、遊芸も踊りは藤間勘十郎の弟    子、三味線は杵屋六左衛門の弟子で上手でした。得意なのは上方唄だつたそうです。時々素人芝居など    を催したそうです。     家内の里は下槙町の西宮三次郎といふ見附のたきだしでして 江戸の数寄屋河岸の喜三郞と両関とい    はれた人で、仲々義侠な人でした。     その娘の幼名八十(やそ)、後にそのと云つた人が、豊国の妻であつて、その娘のきんといふのが私の    母です。     豊国の弟子に、お成街道に、石川日向守といふ亀山のお大名がありました。雅号は国広といひました。    そのお方に、歌川の定紋になつてゐる、としまるの紋を貰ひました。その時に、三代目の菊五郎も、四    つ輪の紋を貰ひました。その石川様に、私の母が、七つの折に御奉公にあがりました。御絵の具ときと    いふ名目でした。     或る時、豊国が頼まれて、商家の人の為に絵を書きました そして 結構な表装が出来て、座敷開き    の時に、御披露した所が、その折来合はせた客の絵の好きな人が「大そういゝ軸が出来た。しかし落款    でぶちこはした」と云ひました。それを聞いた豊国は「私は狩野、四條家に勝る程に書いたが、落款で    さげすまれた。何故かといふと、私は版下を彫つてゐる。それでさげすまれるのは残念である」と云つ    たさうです。     歌川家では、芝居に関する絵を書きました。美人画や景色もやりました。似顔絵が重(おも)でした。    それで上方から俳優が下ると、歌川鳥居両家に挨拶にまはりました。     或る時、加賀屋歌右衛門が参りまして「先生、私は此度千本桜の忠信をしますが、忠信のしつけが、    一寸江戸のお方の目のつくやうに変へたいのですが」と聞きましたが、豊国が云ふには「これはどこで    姿をかへるかと云つても難しい。静が、義経のあとを慕つて行きたいといふ所を、初音の鼓を与へて、    鳥居へ静を縛る。すると、静のしばられてゐる所へ、藤太といふトボケが出て大騒ぎをする。そこへ忠    信が出て助ける。そこは稲荷の景色で、赤い鳥居、赤い道具である。むかしは長裃で出た。こんどは忠    信の扮装をかへるのは鳥居場の所ばかりである。其時の姿は、鎌倉三代記の佐々木の姿、赤いよてんに、    永楽銭がついてゐるが、これを源氏車をつけて、顔を赤く狐ぐまにとつたらいゝだらう」と云ひました。    よろこんで歌右衛門は其の通りにしました。すると鳥居場は、すばらしい評判でした。それで只今もし    きたりになりました。加賀屋歌右衛門は大層喜んだといふ事です。     母(きん)が十六の時、初代は死にまして、十七の時に私の実家に嫁ぎました。十八の時に兄を生みま    した。     国虎といふ弟子は、長く私の家に居りましたが、手は仲々上手でしたけれ共、怠け者で仕方がありま    せんでした。とう/\家を持たずに死にました。     本所の豊国は、もと国貞と云つてゐましたが、本郷の豊国のやめてから、十年程たつてから、豊国を    名乗りました。本郷の豊国をいれると、三代目になりますが、本郷のは、だまつて名乗つたので、公然    ではありません。其の間の消息はよく知りませんが、弟子が、二組になつてゐたのかも知れません。     本所の国貞が、豊国を名乗る時は、相談に参りました。     それで、初代豊国の墓のある三田の聖坂の功運寺(現在は中野へ移転)のつけとゞけは、私共がした    り、初代豊国の家内の後に縁づいた埼玉の粕壁の上村平兵衛といふ呉服屋 その上村の方でしました。     本郷の方は、全然かまはなかつたのです。夫婦養子をしたとか云ひますが、私は何とも聞きませんで    した。     私の祖母は、初代の後妻だつたらうと思ひます。直次郎とかいふ息子があつた由ですが、放蕩のため    行方が知れないといふ話がありますが、母は何とも申しませんでしたから、知りません。「豊重」と云    つてゐますが、国虎などは「国重」と云つてゐました。     歌川家の弟子は、名前が刀剣工みたいだと、初代が云つた事があるさうです。     初代の絵が、末になつておちたといふのは、永い事飯をたべると腹痛がする。それで病んでゐました。    腕の鈍つたのは、そのせいかも知れません。弟子に代筆させたのは、どうですかしら、しかし酒を飲ん    でも、よそでは固くなる一方でした。家にかへると怒るのです。     あの商売で、勝負事は全く嫌ひでした。碁、将棋、双六かるた、何でも叱言(こごと)を云ひました。    それですから手なぐさみは、決してさせませんでした     (「上野の戦争と長兵衛」は省略)〈以下、著者伊川梅子の縁者・長兵衛が、戊辰戦争時、輪王寺宮(北白川宮      能久親王)の奥州落ちに助力した挿話をかたる〉〟  ◯「呼び売り」山中共古(『江戸時代文化』「忘れ残り(二)」第一巻第六号 昭和二年七月刊)   「お宝おたから道中双六おたからおたから」     初夢用七福神の宝船・東海道五十三次色摺双六。正月元旦   「はぜやはぜや」     ハゼとは糯米の殻を湿して炒り自づと爆(は)ぜふくれて白梅花の如くなりしもの。三宝に積み新年の     祝意として来客へ出す。元日   「飴のお茶碗にハゼが一杯はいりまして四文でござい」     爆(バゼ)を赤青などに染め菓子飴の茶碗に入れて売り廻る。子供菓子。元日   「払ひ扇箱は御座い」     武家を廻って、出入りの町人が年礼に持参した扇子や桐箱を回収する。正月七日(七種)    太鼓売り(売り声なし)     二月の稲荷祭用の太鼓を天秤棒に担いで売り廻る。正月中旬より   「稗蒔やひえまき」     今戸焼きの鉢に稗を芽生えさせて青田になぞらえ、薄の穂で作った農夫を立たせ、白鷺や橋を配した     盆栽を売る。涼感を楽しむ物   「茄子(なすび)の苗や胡瓜の苗 冬瓜(とうがん)南瓜(とうなす)茘枝(れいし)おしろいの苗」     美声で長い呼び声は瓜の蔓も長く延びるとされる   「桜草やさくら草」     鉢に植えて売る。戸田産が名所。   「鮓(すし)や鰭(こはだ)のすし鮓やこはだのすし」     肩に鮓箱を重ねて載せ、茜木綿の布をかけて売り廻る   「丁斑魚(めだか)金魚めだかきんぎよ」     緋メダカと白メダカと称す。〈昭和初年にはメダカ売りは見かけずとあり〉   「豆や枝まめまめや枝まめ」     ゆでた枝豆を籠に入れて売る。秋の末まで。旧五月廿八日の両国川開き、見物人に売り廻る   「玉子玉子鶩(あひる)の玉子」     ゆでたまごを籠に入れて売り廻る   「深川名物馨(こうばし)や花林糖でござい」     「かりん糖」の赤文字を記した丸提灯を下げて売り廻る   「正月やお汁粉正月やおしるこ」     この振り売り屋は、冬には夜中「そばウハウイねぎなんばんしつぽこ」の売り声で蕎麦やとなり、夏     は汁粉屋となる〈夏の呼び声なのになぜ「正月や」というのかは明確でなりらしい〉   「心太(ところてん)や寒てんや、ところてんやてんや」    「冷やつこい氷水ひやつこい冷やつこい」     片荷にところてんを入れた手桶、片荷に皿と青杉を口にさした徳利、ところてんと白玉氷水を兼業す     るものあり   「蚊屋や万年がやほろがや」     万年蚊屋とは子供を寝かすに使う母衣(ほろ)蚊屋と同じ、形が亀の甲に似ているので万年とした   「御座やもんぜんござや花ござ」    「もんぜんござ」とは毛氈(もうせん)ござ   「丹波酸漿や千成ほゝづきや長刀ほゝづきや海ほゝづき」     女子、口に入れ吹き鳴らす〈昭和初年には見かけずとあり〉   「竹や竹や」     七夕祭用で五色の紙短冊は男竹、生霊飾り用は女竹だが、呼び声は同じ   「おやんないしお生霊様お迎ひおむかひ」     お盆、生霊棚の敷物に使う真菰売り   「八ッ八通りに替る文福茶釜でござい椀になつたりお盆になつたり」     紙細工、折り畳みかたでさまざまに形を変える玩具   「納豆(なつと)なつとう」     秋風が立つ頃から売りに来る   「きんちや、うまい砂糖入金時」     金時・大角豆(さゝげ)の砂糖煮売り。朝は納豆、子供が遊ぶ時分は金時豆を売り歩くという。   「出たよ出たよ飴の中からおたさんと金太郎さんが飛んででたよ」     冬季の飴売り、切り口にお多福や金太郎が出る飴   「岩見銀山鼠取受合薬いたづらものはゐないかなゐないかな」     猫いらず売り。鼠が皿の食物を食べる図様と「岩見銀山鼠取~」の文字入り幟を肩に掲げて売り廻る   「来年の大小柱暦閏あつて十三ヶ月の御調宝」     暦売りは十一月末から。これは閏月のある時の売り声。   「松や松やまつや」     新年の門松売り。十二月中旬より  ◯「夏の思ひ出」今泉雄作(『江戸時代文化』第一巻第七号 昭和二年八月刊)   △「仕事師」   〝(湯屋)商売によつては湯は只であつた。仕事師なぞはその一人で、これは町内で飼つておく様なもの    で、巾がきいてな。又大火を焚くから何ン時世話になるかもしれぬから火消なぞは皆んな只で入れもし、    大いばりで入りもした〟   △「涼み」   〝大川は実に賑かであつた。川開の花火は別として涼みの人出は毎晩であつた。陰芝居、八人芸、手品、    人形の軽業、咄家なぞが船を借りて川へ出で、涼み宿船のそばへつけて演芸した。陰芝居は船のまはり    へ幕を張り、その中で鳴物入りで声色をつかひ本当の芝居の様にやつた。只の者でもそれ/\趣向を凝    してひやうきんな事をして出た。船の上で踊つてる踊り自慢なものも居た。義太夫のすきな者が船を借    り受け、三味線をやとつて、船の真中へ見台を置いて、うなつて居たのもあつた。これなぞは、見よ、    聞けかしとの心懸けからである。或は、咄家、大鼓持なぞを同船させて出かけたものもあつた。馬鹿囃    子なぞは人の邪魔をしたものだ。私なぞは清楽をやつた。川は船で一ぱいで、船から船へと飛んで川を    渡り切る事も出来た〟   △「麦湯屋」   〝町の広い所や池の縁なぞには葦簾張りをかけて、少しばかりの腰掛を並べて麦湯やが出て居た。麦湯へ    砂糖を入れて四文であつた。麦湯で聞えたのは、通二丁目に夕方から出た麦湯であつた。別に支度はい    らない、葦簾張りで腰掛を出す位なものだ。その麦湯に大きな行灯が出た。絵は狂斎が画いた。狂斎は    元、駿河台に居た狩野の門人であつた。狩野家は元来将軍家の抱へで無闇なものが画けなかつた。新し    い絵はあまり画かぬ事になつて居た。狂斎は色々勝手なものをかいて遂に破門されてしまつたので「破    門されりやア何ンでも画く」といつて春画なぞまで画く様になつた。その麦湯の行灯は三間程もある横    長いもので、それに蛙の大名行列を画いた。行列の鎗やお籠は皆んな草で作られて居る様に画かれてゐ    た。それがすばらしい評判になつて遠くから見にくると云ふ工合で、只見て居るわけにも行かぬから麦    湯がうんと売れたものだ。なんでも真黒になるまで-五六年-は出て居た後どうなつたかと思つたら、    外国人が買つて行つたと云ふことだ〟  ◯「春駒」口絵解説 伊川譲(『江戸時代文化』第一巻第八号 昭和二年九月刊)   〝春駒とは年の始に、十二三歳ばかりの女子の眉目よきものに、衣服髪容などうつくして出立せ、馬頭の    木偶を作りて頭に戴き、三味線、胡弓、太鼓などに合せ、声面白く風流の舞をなし、◎門に至り米銭を    乞ふ万歳や鳥追に似た、新春を寿く延喜ものの一つである。     〽めでたや/\春の始の春駒なんぞは夢に見てさへよいとや申す〟    ◯「漫画と不景気の対立」伊藤晴雨 27/36コマ(『江戸時代文化』第二巻第三号 昭和三年三月刊)    河鍋暁斎と小林清親(国立国会図書館デジタルコレクション)  ◯「江戸座談会」 16/36コマ(『江戸時代文化』第二巻第四号 昭和三年五月刊)   (大槻正二談)   〝木戸芸者といふは芝居町の太鼓持(男芸者)であります。芝居の帰りに芝居茶屋で、芸者などを上げて騒    ぐ時に呼ぶもの、役者の声色などを使はしたり、色々の芸をさせて座をもたせるによぶのです、私の知    つて居る木戸芸者は、玉金と〆八と二人でした。玉金は猿若町二丁目の役者新道に行かうとする横町に    居ました。昔は十一月の顔見世の時に、鼠木戸の所で「こわいろ」をつかつたそうです。これは来年出    る役者のこわいろでありましよう〟  ◯「八丁堀の暑中」原胤昭(『江戸文化』第二巻第六号 昭和三年六月刊)   ◇「むぎわらのじや」(7/34コマ)    六月一日は富士のお山開き蛇の祭、此の日麦の茎にて蛇の形を結び、口の中へ薄い木片を朱に染めて差    し込み、火焔の舌を装ひ、黒青紅などの絵具にて、麦稈を染め画どりて蛇の形となし、大小様々に造り、    富士山を囲む床店にて売る。人々富士に詣うでゝ之を買ひ求め、各家の台所に祭つてある、荒神棚に供    へる。之を火防せの呪咀と信じた。麦稈の蛇が、二ツ三ツとブラ下つて居ると、日を追うに従つて燻つ    てくる。麦稈は光沢を放つ、私共子供の眼にはなんだか怖かつた〟   ◇「山王祭礼」(7/34コマ)    (八丁堀与力・同心の警固役について解説 省略)神楽の練り歩るく道筋は、江戸真ン中の目貫き、麹    町から日本橋、神田、京橋の大通りを 町々南側の商店は青竹の手摺りに赤毛氈、金銀の屏風立て廻し、    家人客人綺羅を飾つて居並び、往還の男女は、人垣を造つて立つ、其の真ン中を山車や踊屋台や地走り    は出演人員多く、地べたで踊る群、それから最も一目を引く特選一つぶより芸者の鉄棒ひき、斯んな間    に挟まれる警固与力と云ふのだから、どうもウツカリした型では居られない。公儀の御威光に係はる、    八丁目堀の恥になると来るから、一番踏ンばらなきやならなかつた。     麻上下紋付帷子は云ふ迄もなく、大小の刀、腰に挟む提ケ物、緒〆め珊瑚の玉も目に立つもの、乗馬    の毛色も、馬具の金紋あざやかに、供廻りの物具、鎗の毛鞘も立派に飾り立つて出役した〟  ◯「江戸時代の変態趣味」山崎麓(『江戸文化』第二巻第六号 昭和三年六月刊)   ◇「春本」   〝一筆斎文調画『栄花遊二代男』〈宝暦5年刊〉    渓斎英泉画 『画図玉藻譚』 〈天保1年刊〉    春潮画   『笑本雙が岡』 〈刊年未詳〉    国盛画   『春色玉揃』  〈刊年未詳〉    勝川春好画?『艶本千夜多女志(ちよのためし)』〈刊年未詳〉    西川祐信画 『西川なごり能筆』〈刊年未詳〉    国麿画   『宝文庫』〈刊年未詳〉    一魁斎国虎画『開中鏡』〈刊年未詳〉    歌川国芳画 『新日暮里物語』 〈天保年間刊〉    歌川国麿画 『朝比奈諸国一覧』〈弘化年間参照〉    歌麿門下  『笑本久良妣裸嬉(ゑほんくらひらき)』    歌川国貞画 『恋能八藤』〈刊年未詳〉    勝川春潮画 『御覧男女姿(おみなめし)』〈寛政1年参照〉    勝川春章画 『艶図美哉花(えどみやげ)』〈刊年未詳〉    勝川春潮画 『会本和良怡副女(わらひそめ)』〈天明8年参照〉    初代豊国画?『会本執心蔵』〈刊年未詳〉    歌川国貞画 『千里鏡』  〈刊年未詳〉    歌川国虎画 『今粧年男』 〈刊年未詳〉    渓斎英泉画?『開談百陰語』〈文政12年参照〉    国貞画   『百鬼夜行』 〈文政8年参照〉〟  ◯「江戸座談会-江戸の暮」(『江戸文化』第三巻二号 昭和四年(1929)二月刊)   ◇「河鍋暁斎」(7/48コマ)   (今泉雄作談)〈美術史家、岡倉天心らと東京美術学校創立・京都市美術工芸学校校長。昭和6年没82歳〉   〝猩々狂斎も貧乏がひどかつた、或る時羅凌王の面を百円で求めた。勿論狂斎の貧乏なるを 道具屋も知    つてゐるが、有名な人だからと思つて(ママ)仲々払はない 道具やの方で不躾に家まで催促に来ると、ウ    ンそうかといつて家にある物を全部質に入れ、売れる物は一切売つて、面一つにしてしまつた。それで    面をながめて酒をのんでよろこんでゐた。    根岸に狂斎の娘がゐるがあの時程困つた事はないと何時も話す。もうそんな人はなくなりましたね    (以上、舞楽「羅凌王」の面をめぐる挿話。以下、明治三年十月の書画会泥酔騒動逮捕事件の記事あり、     これは明治三年の項参照)   (今泉雄作談)   〝それから狂斎が牢に入るときなんか大へんでした。    書画会の時に、弾正台の役人も沢山入りこんで居る中で、日本人が外人に尻をほられてゐる所をかいた、    これは誰だといふと、三條だといふので、とう/\弾正台の役人につれてゆかれた、その時「いやだ/\    俺アいやだ」といつたけれど、仕方がない。とう/\ひつぱられてしまつた。    其の書画会は、不忍弁天の龍池院といふ寺の座敷でやつた〟    〈弾正台は明治2年に発足した警察機関、後明治4年司法省と合併。三条とは新政府の右大臣であった三条実美を指すの     であろう。ここでの図様は「日本人が外人に尻をほられてゐる所」と極めて具体的、しかも吟味において、この日本     人は誰かと問われたとき、狂斎は三条と答えたとある。この談話の方が『暁斎画談』のいう「画体高貴の人を嘲弄せ     しもの」に、あるいは『美術園』(明治22年刊)「その図当時の相国を諷譏し、尊きあたりを侮辱し奉れる寓意あり」に     よく符合するように思う。三条は明治24年没、『暁斎画談』も『美術園』それ以前の出版である。そこに遠慮がなか     ったはずはないと思うのだが、果たして真相はどうか〉   〈以下、飯島虚心著『河鍋暁斎翁伝』と併せて、逮捕後の狂斎の動向を略記する〉   十月六日 貴人を嘲弄したという容疑で逮捕され、仮牢に収容される。門人等赦免を請うも許されず   同十五日 吟味で手長足長の図について問われると、外国人が日本の士を馬鹿にしたと、誰かが言うので        憤慨のあまり、あの様な図柄を画いたと弁明。   十一月(在獄数十日) 身体衰弱、息も絶え絶えという状態に陥り、いったん自宅療養に入る   十二月末 平癒するや再び獄にもどる   翌四年一月 判決が出て、笞五十の刑に処せられる  ◯「古野の若菜」山崎麓著(『江戸文化』第三巻六号 昭和四年(1929)六月刊)   ◇『古野の若菜』(24/36コマ)   〝「古野(ふるの)の若菜」と云ふ一巻は、常陸鹿島神社の代々宮司をして居た鹿島家の所蔵本である。近    頃同家の当主鹿島則幸氏に見せて貰つたから紹介する事にした。     同書の目次は次の如く記してある。    ◯大和の大よせ  菱川筆  天和二年刻    ◯草花宮城野   同    同時    ◯百女一巻    同筆   元禄八年刻    〈以下、菱川以外の書名略。寛永から元禄にかけて出版された草子類13部〉     右十七部の要をつみとりて一巻とし古野の若菜と号ケて蔵む      嘉永三年卯月六日   篠廼屋狂夫     終末の断り書でわかる如く、以上十七部の端本の一部づつを集めて合冊にしたものである。篠廼屋狂    夫とは何人か不明であるが、欄外に種々の書入れがあり、夫には守田翁とある、蓋し同人であらう。     以下順次に内容に就いて説いて行かう。    △大和の大よせ     原書二枚だけを採つてある。此書は菱川師宣の代表的艶本であるが、茲には淫猥でない画だけ撰んだ    ものらしい、原本奥付には「此一冊菱川氏之絵師、大伝馬三丁目鱗形屋開板」とあり刊年月は明記して    無い、本巻に綴つてあるのは十七丁十八丁及廿一丁、廿二丁の半丁づつであるが、その廿一丁の盂蘭盆    の灯籠に「天和二年七月朔日」と明記してあるので、註者守田翁は「コノ一丁にて天和二年ナルコト明    ケシ」と云つて居るが、夫で此書が天和三年の刊本なる事が明確であらうと思ふ。板倉氏編の艶本目録    に「江戸堺町物の本屋極屋与市板」と記してあるのは再摺本か、現本を比較し得ないから、何とも云へ    ない。    (以下、本誌の口絵とした十八丁詞書の翻刻あり、省略)〟    〈再摺本かとする版元「極屋与市」は「柏屋与市」の誤記ではなかろうか。〔国書DB〕の統一書名は『やまとの大寄』天     和三年刊〉    △草花宮城野     十丁の表裏しか綴つてない。完本を見た事がないから、絵模様だけで推測するのであるが やはり菱    川師宣筆の艶本らしい、下に若い男女、或は婦人の姿態を描き、上に草花の名と俳句とが記してある、    十丁の裏の草花の図柄が性的の意味にとれるやうになつて居る。(艶本に往々見受ける意匠である)註    に次の如く記してある。〈註は上記守田翁のもの〉    「此画風を当時の四五本にてらし合せ考ふるに、菱川吉兵衛が筆なるべし、されど年号見えざれば発兌     の年を今知るよしなし。此本こゝより末十丁許もうせたるものとおぼし、巻末には画者の名及発板の     年号などもあるにや。按るに『毛吹草』の発句をのせ『紫一本』の歌を出ししなどもて思ふに、貞享     中か元禄はじめ比の印本なるべし」    次に朱字細書で次の如く書入がしてある。    「森正朝此本全部を得たり それを見るに此本上中下三巻ものにして、これは上の巻也、書名『草花宮     城野』とあり、下の巻末に山本九左衛本(ママ)板とありて発兌の年号はなし、天保十五年十月十五日書     つく」    〈『草花宮城野』の関する記事はこれだけのようで、他に見えない。〔国書DB〕にも記載がない〉    △百女一巻     此書は大本一巻で、原本の奥付に「元禄八亥歳正月吉日、画師菱川師宣、書林松会朔旦」とあるもの    である。註を記すと    「菱川吉兵衛師宣筆、元禄八年印本、今年に至り百四十一年に及べり、此書名百人女郎といひて上下二     巻のうちの是は下の巻なるべし、画中古代考証のたよりとなる事あり。       天保六年五月十八日  苫廼屋蔵 印」     稽の屋(ママ)は守田翁の号であると見え、下の印に守田翁と見える。此説の誤つた事を悟つたらしく直    ぐ右横に書入がある。    「さきのとし此菱川本のなかばを得て左の如くしるし置きしか、今此半の上の方を得て、かれとこれと     合せ見るに 左に記せしは誤也、故に今改記す。此書は全一巻のものにして丁数三十四葉也、そをふ     み屋が手に二ツにさきて二巻とせしもの也、書名左に記せしは違へり、此巻のはじめに「百女一巻」     とあり。もとも師宣筆のものにて百人女郎といへるものあるよし、耳に聞はさみたればそれなるべし     と、そゞろに思ひしなり【西川筆にも同名のものあり】     半よりすゑはさきに天保六年五月十八日に得たるところのものにして、半より上は今同十年四月十に     得たり、あはひ四とせを経てここに全本となりぬ。       卯月十一日 浦屋のやどりにむらきみがかいつけ蔵」     (以下、図様の説明と詞書あり、略)〟    〈〔国書DB〕の統一書名は『和国百女』三巻一冊・元禄八年刊〉    ◯「涼台漫語」有山麓園 17/36コマ(『江戸文化』第三巻八号 昭和四年(1929)八月刊)   ◇「団扇河岸の海老林」   〝 暑くなると思ひ出されるのは、日本橋堀江町の団扇河岸のことである。茲処には団扇問屋が数軒あつ    た、中にも海老林といふのは主個(あるじ)が頗るの劇通で、その頃六二連の一人だつたかと思ふ。大体    団扇といふものは江戸時代の方が盛んに行はれたのだ、今の様に電気扇風機などのなかつたからでもあ    らうが、芝居茶屋、料理店、遊船宿、各種の飲食店、芸人社会等の暑中見舞は概ね団扇と極つて居るし、    名披露、開店などにも用ひられ、随分之等の団扇には贅をつくし、金をかけたものが多かつた、古い団    扇画を集めることは高い錦絵以外にたしかに江戸の情味を掬すべき一資料たるに足るものであらう〟   ◇「日陰町のやうだ」   〝 江戸時代の諺に女が商家の店番をして居ると 日陰町のやうだと云はれたものである、夫は当時芝の    日陰町には絵草紙屋が多くあつて 大概美貌(きれい)な娘が店番をして居つた 勤番者などがやつて来    てはあぶな絵などを買ふたものである、同じ頃であつたらう 浅草茅町にお玉といふ有名な美人があつ    た、これは森本といふ絵草紙屋の娘であつた。又浅草仲見世の茶店に大和屋のお幸(かう)といふも名高    かつた、何れも其頃の一枚絵(似顔画)にまで出されたのである…… 当時そこそこの美人と評判され    る娘はよく錦絵の一枚絵に出されたものだ、然し夫は堅気な深窓娘ではなく 多く絵草紙屋とか茶屋小    屋とか客商売をする家の娘で一枚絵にでも出されると、今で云ふ虚栄な誉れとも思ひ、又一面には店の    広告にもなつたのであらう〟  ◯「涼台漫語」有山麓園 11/36コマ(『江戸文化』第三巻十一号 昭和四年(1929)十一月刊)   (かな)は原文のルビ。(カナ)は本HPの読み   ◇「一蕙斎芳幾の二十五両」   〝 浮世絵派の画家として知られた、一蕙斎芳幾(落合幾次郎)は一代数奇なる運命の人であつた。芳幾は    吉原田町の引手茶屋の伜であつたが画を好むで国芳の門に入り、浮世絵師となつた。若い頃は恰好(て    うど)山城河岸の津藤(俳号香以)の全盛時代で津藤の催す三題咄しの会や、絵合会、芝居見物、吉原遊    びなどには当時の粋人達と共に香以の愛顧を蒙つた一人である。その頃友達間で芳幾は二十五両持つて    居るから一番金持だといはれたといふ。由来金に淡泊であつた江戸ッ子粋人達の気持はこんな話にも其    一斑を窺ひ得らるゝのである。……維新といふ芝居なら巌洞返しの世の激変に、最も新しい試みとして、    條野伝平が横浜で新聞のことを聞いて来たとて、甫喜山勘解由(1)、西田専助、広岡幸助、落合幾次郎    等四人と談合の上銀座通り尾張町の角、恵比寿屋(呉服店)の跡へ初めて日報社を設立し、日々新聞(2)    を発行した。間もなく諸官省へ新聞を納入するやうにとの御用命が下つたので、同社は俄然活況を呈し、    読者は逐日劇増し、開業して一と月経つか経ぬうちに、創業資金は全部償却したといふ大盛況で、アト    は毎日儲かつて行くばかり、芳幾は程なく、都下に於ける絵入新聞の鼻祖と謂はれた東京絵入新聞(3)    を発行し、是亦莫大の利益あつて京橋瀧山町の角地所へ惣土蔵構えの住居を設け、巨万の富を成す身と    なつた。その頃浮世絵師で氏程の富裕者は未だ曾てないとの評判は、昔日二十五両持つて居つたときの    比ではなかつた、その後絵入新聞を廃(やめ)て東西新聞(4)に関係した時代からソロ/\左り廻りとな    つてツイに全く新聞業を止め 神田万世橋外で木村屋の麵麭屋(ぱんや)を始める頃は大分不遇の身とな    り、友人が助力して画会を催した処、江戸時代からの旧知も多いので相当の好成績を収め得たのであつ    たが、悪いときは悪いものでその会が好結果であつた為に、却つて旧債が飛出して来て、一層苦境に陥    つたをいふ珍談さへある。間もなく墨堤言問(コトトイ)の並びへ引移つた、氏も追々年は老(と)り、筆を持    つのも倦気(ものうげ)であつたが、浅草の仲見世でキメ込人形を造つて售(ウッ)たことがある 斯様した    時分にも妻女は外の銭湯は気味が悪くて這入れぬから内風呂にしたいといふ注文で、一家がコンな風で    氏も弱つたといふことを聞かされたことがある。瀧山町時代派手に暮した全盛を偲ばれてお気の毒の感    であつたが、とう/\向島の棲居で亡なられた、たしか男女三四人の子女を持れて一女は本所太平町辺    の医師に嫁して現存せらるゝとのことを風の便りに聞いたことがある。其の余の消息は絶えて知る由も    ない〟    (1) 甫喜山景雄『東京日日新聞』記者    (2)『東京日日新聞』明治5年創刊    (3)『東京絵入新聞』明治9年刊(『東京平仮名絵入新聞』(明治8年創刊)を改題)    (4)「東西新聞」未詳   ◇「歌麿の錦絵が一枚十銭」   〝 今では一枚何百円、何千円とも言はれる歌麿の浮世絵も明治初年の頃までは、実に廉いものであつた。    今日から考へればトテモお話にならぬ法外な安価であつたのだ。夫からズツと後迄も未だソレ程高くは    ならなかつた、一日浅草松山町の染谷といふ古本屋の老人が、浮世絵を何十枚か持つて来て お買ひに    なりませんかと云ふて見せて呉た、夫は歌麿の美人画や写楽の大首などの錦絵で、然も初版もので保存    がよかつたのであろう。キビ/\した美麗(きれい)なもの計りであつた。価はと問へばドレでも一枚十    銭づゝでよいとのことで、その内何枚か選抜いて買つたが、まだその頃まで写楽の大首などは一向に好    かれぬものであつたから、自分の買つたものも歌麿だけであつた。夫から僅か半年経かたゝぬかに染谷    老人が又やつて来て、前に願つた歌麿の絵を一枚一円づゝで譲り受けたいと言ふ人がありますが、ナン    とエライ貴くなりましたではありませんか、いつそお譲りなすつてはどうです、また其うちにはよい出    ものが見つかりませうと、強て懇望されたのでツイその気になり、夫じや又何か珍しい本でも出たら買    ふことにしませうと、先に求めた分を悉皆(そつくり)譲つてしまつた。然しまだ/\その頃は急に価格    (ねだん)の昂騰なるやうすも見えなかつたので、別段惜いことをしたとも思はあかつた。夫はたしか明    治十四五年のことであつたらう。……当時山谷吉野町髪洗橋際に黒川といふ大きな貸本屋があつた。書    庫には三万巻といふ和漢の古書が充実(つまつ)てゐて珍本奇書も尠なくなかつた。この黒川が私どもへ    も出入して居つたので、自分は年中引かへ/\いつも二三百冊の書籍は借受け通しになつて在つた。一    度歌麿の吉原年中行事を借りて一旦返した、その後半年程経過て何の必要であつたか、見たいことが出    来て再び借受んとしたところ、中の挿絵は悉く切取られてあつた。黒川の店員もオヤ/\是は何処ぞで    悪戯をされたのでせうと言つて、今更仕方がない位に思つて居つた様子だつたが、モーソロ/\此時分    から浮世絵の木版画に目を附る者が出来たのであらう 然しその値段がトン/\拍子に騰貴(たかく)な    つて来たのは兎も角日清戦争後からのことであらう。前に述た私ともが深く意を留めなかつた写楽の雲    母絵(きらゑ)などが驚く勿れ 今日では一枚数千円も為るさうである〟  ◯「古翁雑話」中村一之(かづゆき) 安政四年記(『江戸文化』第四巻三号 昭和五年(1930)三月刊)   ◇「浅草観音境内 桜の植樹」(21/34コマ)   〝安政四年の春 廓中の遊女浅草観音の境内に千もとの桜樹を植たり 人々めづらしみて花林に群集しけ    る(中略)    天明八年の春、同所(浅草観音の境内)にさくら数多植たる事あり 其をりは堂の左右土弓茶店の前一側    に植並て 余りたるは人丸の祠の辺までに及べり 一過普く見物し参詣多かりしか 素彼地は砂利場に    て地味至てあしく 纔一二年すぐるうちにおほく枯木と成ぬ〟   ◇「サゴザイ」(22/34コマ)   〝春は所々の辻々にサゴザイといふ商人あまた出る 是はさま/\の菓子などを置て さござい/\と呼    居る故の名なり 長き紐に橙を結付し籠を出し 上中下の賭物を置て是を引す 橙付たるを引たるもの    には第一の品を渡す 地蔵橋の向今村井か屋敷角【其頃は多賀又八が宅也】より一つらに数多並び居て    元日の空明はなるるゝ頃ほひより いさましう呼立る声松風にひゞき 夫れサボザイとて男女の小童競    て是を買遊ぶ事なりしか 寛政の御改正に賭事に准ずとて禁止となりたき〟   ◇「団扇売 扇売」(22/34コマ)   〝夏は団扇売扇売といふもの来り 竹にさま/\のうちはを挟みて さら/\うちは奈良うちはとよびあ    りく 扇売は幾重も組たる箱の中に地紙を入て 人の許に来り好にまかせ目前にて骨をさし売あたふ     是等のあき人はなにとやらん 職人画の余風めきてみやびなりしか 寛政の末までに皆いつとなく止て    今は知る人もまれなり 又冬はむし鰈売とて鰈の干たるに銭差を通し長き棹に結ひ下けて売来る 是は    いと近き頃迄来りしかいつとなくやみたり〟   ◇「浴室付き料理屋」(23/34コマ)   〝寛政はじめの頃 三河島村に湯本と称せる料理や有【寛政三年発版『娼妓絹籭』といふ京伝が戯作本に    有】雑劇尾上松録が企にて家作を温泉のさまに造り 箱根の温泉より鏃匠を呼寄 即席の料理を出して    泉湯に浴せしめて かのゆもと細工を鬻ぐ 人々興がりて一過繁昌せしが 余りに辺鄙なれば終に廃絶    したり是江府の料理屋に浴室を造りし起原と覚ゆ 夫よりして廓中の見番大こくや初代庄六 仲の町の    茶屋伊勢屋吉蔵俳名一賀といへるものかたらひて 娼家田川やうち今の駐春亭を開き浴室を作らしむ     其後所々の撃鮮家皆湯殿補理(こしらへ)ることやうには成ぬるとぞ〟   ◇「中津富永町の賑わい」(24/34コマ)   〝中津富永町のさまは 今の蘆生(おい)たる一面に 築地にて中に径街いく小路もあり 安藤河岸の方よ    り橋三ッ程懸渡して河辺皆茶屋料理やなり そのうち東南の角に四季庵といふ料理家 殊に繁昌し誘客    最もおほし 夏は軒ごとに提灯をてらし 千舟河岸を競ひ 遠望殊に美麗にて寔(まこと)に一夜千金の    一廓ともいふべき地也 されど霜枯と成つては寒気甚しくて更に遊客の足たえ 一島寂寞たる地となれ    り こゝにおひて富永町の名も空敷(むなしく)忽ち廃地となりて 又元の芳原とは成にたりと人皆いふ      冬はなき夏はなかすのすゞみかな〟   ◇「山王・神田祭」(24/34コマ)   〝山王神田の祭礼は出し印の外に花万度一丁より幾つも出す 大きなるも小さきも有て 長き柱の様なる    木に牡丹其外の作花に縮緬の吹流しを付け 裸脱たる男これを高く指上(さしあ)げ持て行く 踊屋台は    出し印一本に一ッつゝ是非付くことなればその数夥し 囃子連中金銀の扇獅子へ緋紫さま/\の尾付た    るを被る 店警固附祭は勝手次第 男女ともおもひ/\の衣類を着し出印に付出る 毎年祭礼は前後二    日ともに見物するに絶間なくて 殊の外にぎはしき物なりし 今にくらぶれば十分の一ともいふべし     其まへかたは両御番所へ引来りて 同所の門前に桟敷を懸け御組の男女行て見しとぞ 是は明和安永頃    までの事なれば聞伝へ也〟   ◇「富興行」(24/34コマ)   〝本所一ッ目の弁天に天明の末頃まで諸検校が富突興行ありし 与力同心出役せし事なりしか 何の故に    や止ぬ 湯島天神 目黒不動 谷中感応寺の富は其むかしより絶ず年古く有しものなり〟   ◇「高島屋おひさ・難波屋おきた」(24/34コマ)   〝天明より寛政のはじめ 両国広小路の茶店に高島屋のおひさ 浅草随身門の外茶店難波やのおきたとて    名高き茶吸の女あり 尤も嬋娟時唱の婦女なれば その頃の好士悉愛し 一銭一服に千金を費し 万客    喫茶せぬものなくて 一枚絵の釣し売に迄美貌を出す 大谷鬼次か戯場の拍子舞の長唄に 名には高し    まといふ唱句を残せり 彼笠森おせんがはなしに取合せて考べし 此おきたといふは御役者日吉五郎右    衛門が落胤なり 今も随心門外の茶屋に難波やの家名残れり〟   ◇「岡場所」(30/34コマ)   〝 天明の末より寛政以来までに廃処となりたる売女屋    比丘尼【新大橋の向河岸今舟宿有所にて軒を並有 其風俗は切見世のごとく 只頭に浅黄頭巾をかぶり        ゐたり】    大橋 【今籾蔵の処は深川常盤町へ移る】    けころ【上野広小路にて銭見世】    銀猫 【本所回向院の前 是は南鐐一片の料なれば かくいふ俳優嵐龍蔵其頃の流行ものにて分銅の役        を付る故龍蔵見世と云】    蒟蒻島【霊岸島埋立地 今籾蔵の処】    中洲三俣富永町【大橋手前の寄洲築地】    根芋 【芝田町九町目の横町坂ノ上にて芝泉岳寺の方へ入る横町切見世】    舟まんぢう【箱崎永久橋際川中】    大根畑【本郷 こは幼稚にてよく覚えずとこそ】    土橋 【深川永代寺門前◎鮮家平清の並ニマ銀十二匁 見世一旦廃絶後一片の料に再興】    安宅 【御舟蔵前今茶店ある処】     此外は近く一時に廃所と成し地にて人皆知る事なれと記し置    表櫓 裏櫓 裙継 大新地 小新地 古石場 新石場 松井町 御旅所 常盤町 弁天 あひる    網打場 六尺長屋 長岡町 赤坂麦飯 三田三角 麻布市兵衛町 じく谷 鮫ヶ橋    (切見世)浅草堂前 音羽町 根津 谷中いろは やぶ下〟  ◯「江戸座談会-奇人譚」(『江戸文化』第四巻四号 昭和五年(1930)四月刊)   ◇河鍋狂斎貧乏譚(10/37コマ)   〝(鈴木)貧乏で居つたから、素行が治まらない、あの猩々狂斎なんかは    (山下)成程河鍋狂斎は畸人でした    (鈴木)狂斎が畳町十二番地の床屋と合羽屋の間に露路があつて、その入り口が鳶頭の松井留吉、その    隣りが天麩羅屋の龍助の住居で四畳半二間でした。其の一間を先生が借りて居ました、どうして龍助と    懇意になつたといふと、天麩羅の立食ひで懇意になつたのです、そして妾をおく所はないかといふと、    龍助が私の家は四畳半二間あるから、一間貸さうといふ すぐ噺しが決つた。そこで先生が引越て来た    処が先生の家庭の噺が松井の家に手に取るやうに聞えてくる 豆腐を買ふ銭がない。酒は借りて来たか    ら、どうかしろと妾に云ふ。あまり気の毒だから、松井の女房が豆腐を持つて行つてやつた。するとお    礼に猩々が崖の上から一升徳利をぶら下げて正覚坊を釣つてゐる画を呉れた。     或日狂斎が大事の墨を磨つておけと妾に命じた、しかし四日も五日も帰つて来なかつたら、妾は怒つ    て其墨をどぶへ流して仕舞つた、帰つて来て大いに憤慨した。法衣見たやうなものを着て六尺豊な大男    でした。     チイハアを買ふと、十銭で当れば三十銭になる夫だから三十銭買ふと九十銭になるので、しきりにチ    イハアを買つた 夫れに天麩羅屋の龍助の妻君はチイハアの運送をしてゐるものだから、好都合だつた。    チイハアを買うと云つてやると符合(ふは)といふ紙が来る 其紙に食於大海魚尾鳥翅などゝ書てある。    夫れへ解を記入し掛銭を付けて運送に持たせてやるのだ、解が当ると一銭掛けたら三十銭に成つて来る。    そこで運送に口銭を二銭とられるから 一銭かけると二十八銭 一円かければ二十八円になるのだ。     狂斎先生が買つた其の食於大海が当つた、猫の事だと云つた。妾が其符合を考へ居たら隣の猫の声が    聞へたから、是を辻うらにして猫と書いたので、六十銭ほどとつて来た。その大海は、鮑貝の事だ、魚    の尻尾や鳥の翅なんかを食ふと云ふ意味なのであつた。それで酒を買つて来い、肴といふわけで、妾が    こんなにみんな買て仕舞うと 私のたべるものが無いと云ひ出してとう/\喧嘩したことがあつた。     なんでも狂斎先生が死んで、娘が一人居ましたが、その時先生の遺物として、大きな長持みた様な箱    に画が一杯ありましあさうです。    (広田)暁雲と云ふのが息子でしたが、それが放蕩でしたから或は亡くしてしまつたでせう。あの陵王    の面を抱へて来た時ほど、困つたこといふ事はないと云ふ話で、よく嬢さんの暁翠さんから聞いて居る    があの一文も無いのに高価な面を買求めたのには弱らせされたといふことです、どうも奇人ですね。    (山下)あの人は、筆は感心に出来たものです。    (広田)いい酒を一升二升持つて来ると画を描いた。    (鈴木)何しろ、豆腐を一つやつても描くのだから。    (広田)棒で櫓をこしらへておいて、その上へ唐紙を貼りつけて 病床に仰のけになつたまゝで死ぬ朝    迄も観音を毎日/\かいてゐた、日課の観音と云て有名です〟    (18/37コマ)    (今泉)上野の弁天様の別当所で画会を開いたところへお役人様が来てゐた(その時分の監察は役人で    も直ぐつかまへられるので 今の警察とはよほど違ふ。人格を選んで有名な人ばかりが出る、儒者とか    道徳家などであつた)片手に西洋人に尻をほられてゐる衣冠そくたいの人をかいた。それは誰だといふ    とこちは三條、こつちは英人だといつたから 直ぐつかまつてしまつた、おらあいやだ/\と徳利をも    つてあばれた。牢には二月も入つたかしら。一番つらかつたのは酒が飲めなかつたことで、牢から出で    から暁斎とあらためた。当時は友達が狂人ですからといつてあやまりに行つたものである〟   ◇「洲崎」   〝(山下談)むかし汐干といへば州崎に限つたのですね。も一つは元旦の初日出を拝する事で頗る盛であ    つたと聞てゐます〟   ◇「岡本北辰」(17/37コマ)   〝(伊藤)葛飾北斎の弟子に岡本北辰をいふ人がある。これは本所の旗本でした。この人が奇人で御維新    の時に、榎本武楊と函館へ落げて流浪して醜態を極めてすつとこ冠りをして逃げた、それから食物がな    くて綿の実を食つて房州に流れた、其の時は旅画師になつて無事経過した。剣術が出来て晩年は小松川    警察の剣道指範になり、画がうまい。北斎の偽なんかうまい、この人が嫌ひなのは犬。唐竹割の腕を持    つてゐても犬がこわい。犬が来るとワーッと云つて竹刀をかついで逃げ出して行く。     府下南葛飾郡の鹿骨(しかもと)村、小岩村一円は傘の名産地だつた。飴屋の大きな傘に、人物の極彩    色を施して米国に輸出しました。この北辰先生のやつた仕事は、江戸末期の芸術(凧絵や絵馬)に全力    を注いださうで、かなり傑作を残しました〟  ◯「梵天祭と大山石尊詣」有山麓園(『江戸文化』第四巻五号 昭和五年(1930)五月刊)   ◇「梵天祭」(10/31コマ)   〝 毎年五月五日には梵天祭といつて各町の勇み肌の若い衆連や鳶頭などで大山石尊の祭祀を執行ふたも    のである その梵天といふのは小角材で柄を作り 先きの方へ藁苞へは小舞竹を長さ三尺位宛に切つた    ものを柄として赤、白、青の三種の彩紙で幣をつくりもの数百本を挿む、その格構は恰度住吉踊に万灯    を藁苞に代へ傘を付けないものゝやうで、是を伝馬船へ押立てゝ両国川へ乗り出し、彼処でその祭儀を    行ふたのである。偶には屋形船などで押し出す時もあつたやうだが、多くは伝馬船である。     当日は町内の若衆頭初め若衆一同、鳶頭はその侶伴(なかま)子分どもまで引つれた大勢が 何れも新    しい印半纏又は揃の浴衣にて向ふ鉢巻をした勇ましい風態で、お太刀といつて木太刀を担ぐ 此木太刀    といふのは長さ六尺位より一丈位に作つたもので 黒塗で朱書に「大山石尊大権現 大天狗小天狗 町    内安全 息災延命大願成就」などの文字を現はし、之を若い衆が代り/\に引担いで船へ乗込み、船の    中央へは梵天幣を押立て木太刀を飾り、神酒供物を並べ、囃子、手古舞、気遣(キヤリ)音頭など勇しく     恰も祭礼の時の山車を曳くと同様の情景(ありさま)であつた。ソーして船の舳先には朱の衣装束兜巾    (ときん)すゞかけ姿の法印(山伏)が法螺貝を吹き立て、錫杖を振うって両国川へと押出し、大川の東    側垢離場(東両国橋詰より南寄)の河岸に船を繋ぎ、茲処の茶店を休憩所として、若い衆達は各自下帯    (したおび)一本〆(シメ)たまゝ真裸体となつて向ふ鉢巻勇しく 一斉に川中へ飛込むで、水を浴びながら    「帰命頂来 懺悔/\六根清浄 大山石尊大権現 大天狗小天狗云々」と一心不乱に祈念する声は 水    嵩多き皐月の川水に響いて如何にも勇しい風情であつた。ソーして又一々梵天幣を振り翳しては、何十    回何百回も大声で祈念を為つゝ水垢離をとる、それが梵天祭の儀式となつて居た。夫を訖つて一同その    船で再た町内へ立帰り、梵天幣一二本宛を戸毎に配り、御神酒料とかお初穂とか構へて集金したものだ。    その彩幣は何れも門口の柱などへ挿して悪気を祓ふ悪魔除けの呪として尊敬したのである。その習慣も    時世と共に漸次悪い風儀が出て 中には強制的に過分に集金する者さへ出来たので其筋より厳しく取締    ることゝなり 終に明治初年頃迄で絶えて仕舞つた〟  ◯「小林清親翁のこと」飯島花月(『江戸文化』第四巻七号 昭和五年(1930)七月刊)   〝翁が両国の絵草紙屋大黒屋平吉の註文で描いた「百面相」の版画は非常な評判で、大平はその為大儲け    をして、当り振舞までしたとの事である(中略)その中の「画工の身振」と題せるものは、清親の若い    時の自画像で、例の左の屡眉の上の黒子は、向つて右の方にある。此肖像の出来も頗るいゝ。書入れの文    句に「諸先生にあるかなしか、小子に知らず/\身振あり 方円舎清親」とあつて、首を左に傾け画筆    を手にし、写生をして居る姿態で、全く翁自身の癖を能く現はしてある。一体翁は自像を写すに妙を得    て居て、手紙の末などに屡(シバシバ)一筆書きの像を画いた。曾て旅先で、賊に遭つて此始末と前書きし    て、褌一ッの裸像を画き、傍らに      泥坊に着物取られて丸裸さしこむ月にゾク/\として    と狂歌を題して通信されたが、以て其洒々落々たる襟懐が伺はれる(中略)    清親が『團々珍聞』に筆を執つたのは、明治十四年からの事である(中略)    晩年は筆力も降り、且二六新報事件以後、体躯も非常に衰へて同情すべきものがあつた。東京名所の絵    は、広重以降全く翁の独壇場で、早くに出た版画は謂ふ迄も無く、晩年外人の註文で沢山書かれた水彩    画風の東京名所の肉筆画は、海外で頗る持囃されて居るとの事である〟    ◯「清親画伯の自画像」原胤昭(『江戸文化』第四巻八号 昭和五年(1930)八月刊)   〝(前略)「天福六家撰」と題した大錦一枚の竪絵六枚もの、彼の福島国事犯事件の犯人河野広中氏等の    肖像小伝、それが政府を顚覆する計画であつた。怖い所の自由民権運動を祝福して、天福六家撰ともぢ    つたのだから、時の政府に怒りつけられ、忽ちお縄を戴いて、哀れわたしは、石川島の赤ン坊にされた。    此画はわたしの意匠で小林翁の筆であつたが、事少し荒つぽい遣り口だつたし、政府も亦手厳しい圧迫    時代であつたから、事に由ると発売禁止だけでは済むまい、と覚悟し、画名も隠してわたしが引受け、    清親の名は署(あらは)さなかつた。(中略)    〈「天福六家撰」は明治16年刊、三枚出して発禁処分。「風景横画」とは具足屋(福田熊次郎)版の「光線画」でいわゆる「東京     名所絵」と呼ばれたもの、明治12-14年刊・「新版三十二相」は明治15年刊・「百面相」は明治15-6年刊。「神田のはら」     とは本文の著者、神田須田町の版元原胤昭〉   〝(「百面相」に店頭は沢山の人だかりで、鉢合わせした客の喧嘩が絶えなかった。それを清親に話すと)    先生は全体柄にもない低い静かな音調の人であつたから、物柔(ものや)さしく     「アヽ、それは、いゝ事がある。そのマサ(錦絵を摺る紙)を一枚出して下さい。僕が喧嘩止めのお      守り札を書いてやるから」    と、先生は帳場にあつた太い筆を洗はせて、軽快に書き投ぐつた。画柄は絵草紙立見の鉢あはせ、アイ    タと手で額を押へて、向ふの胸ぐらを、一方は、なんしやアがるとゲンコを振りあげる。中程へ仲裁に    顕はれた笑ひ恵比寿の黒子の顔が出てゐる。     此一筆がきをなげしへ貼付けた。何人が見ても笑はずには居られない爽快な画であつた。成程、其後    は此の呪の御利益で喧嘩が止んだ。     それは好かつたが二度まで此の画を剥盗(はぎとら)れた。三度目には先生又興じて、絵具まで指した    で、これは更に剥盗れると思つて、窮策を案じた。小さい旗竿を作り、絵旗を拵えて、鉢合せ、足の踏    み合ひ、スリの潜伏と見ると、此の絵を見せ、旗を振り立てゝ体能く立見を追ッ払つた。      喧嘩止めの呪ひ/\と叫んで笑わせた     当時のうれ物には、清親翁の風景横画(版元人形町具足屋)・三十二相(神田のはら)・百面相(大平、    はら、丸鉄)・衣川・油坊主(はら)なんぞでした    (以下、口絵とした清親画「神田須田町の景」に関する挿話、省略〟    〈前項、泥棒のエピソードといい、清親という人は体躯のみならず人柄も大きかったようである〉   ◯「燈下漫談」有山麓園(『江戸文化』第四巻十号 昭和五年(1930)十月刊)   ◇「田甫の長兵衛といはれた浮世絵師 松本芳延」   〝(前略)芳延は姓を松本といつた、嘉永、安政の頃、名を馳せた玄冶店の師匠 一勇斎国芳の門人で、    号を一桂斎と云ふた、芳延が師の門を出た頃は幕末他事の世の中であつたから 画を以て立つにはなか    /\骨の折れる時であつた、芳延は恁(か)うした世態に止(やむ)を得ず最も実用に近い陶器画の方に入    り、重(おも)に猪口画を描いて居つたといふ。其内横浜開港といふ声を聞いて同地に赴き 輸出向きの    当器画などに従事して居つたといふ。     その後上京して浅草奥山の裏手田甫の傍(ほと)り、小流を前にして土橋を架した庭園を囲ひ込み、瀟    洒な構造(こしらへ)の料理店を開き 自分の一号をそのまゝ名を遊狸庵と呼んだ(宮戸座の南寄り大金    の併び 後年松島といふ割烹店のあつた辺だと思ふ)勿論これは妻君の内職しごとゝいふ触込みではあ    つたが、その実顔の弘い芳延の思ひ付きであつたに相違ないが、彼の操觚家仮名垣魯文翁なども、外妾    お為の方に珍鳥亭といふ鳥料理を聞かせた位だから類は友の無遠慮同士、或は芳延にも大に、けしかけ    たものであつたかも知れなり……。元来芳延は前にも云つたやうに 師匠国芳流の江戸ッ子肌で倶利伽    羅もん/\の刺青に、その頃田甫の長兵衛と世間で謂はれるのを無上に喜んで居つたといふやうな、稚    気あるイヽきつぷの人物であつたが、一号を遊狸庵と呼ぶだけ性癖として狸を愛し、座敷にある器物は    皆狸の模型若しくは是に因むものゝみであつた。或時何処からか一疋の子狸を誘引(つれ)て来て飼つて    居たことがある。此家の銘物は薩摩汁だつたが 夫も大方狸汁を利かした積りであつたのか知れぬ。食    後薄茶のまうけもあり、渋い好みで当時の粋人通客を俟つのであつた……。其後芳延が没してから、田    甫の料理店は廃(やめ)てしまひ、程経て赤坂田町に松本といふ待合を開いた、癸亥の震災前迄は折々同    所で未亡人を見かけたこともあつたが、災後はトンと消息を聞かぬ〟    〈「操觚家」は文筆家〉  ◯「浮世絵師雑話」飯島花月(『江戸文化』第五巻一号 昭和六年(1931)一月刊)   ◇「松本芳延」   〝(前略)画家松本芳延が浅草反圃へ遊狸を開業した時代は、多分明治二十三四年頃かと思ふ。吉原もま    だ全盛の名残りを存し、朝帰りの遊客が湯豆腐で一盃と立寄るを当込みの小料理屋で、随つて豆腐料理    専門として、飲仲間の仮名垣魯文が其引札の文句を作つてやつた 伊予奉書天地紅の木版刷りで(文言    別記の通り)気取つたものであつた〟    〈仮名垣魯文の引札(チラシ)の題名は「空也豆腐椀焼料理開業」以下文言省略〉   ◇「梅堂国政」   〝江戸時代の町絵師の気風を存して居た人に、豊斎国政があつた。国周没後の芝居絵の似顔書きとして、    最後を飾つた人と思ふ。数年前に物故し、最早あゝいふ風の江戸画工は見られぬであらう。縞の股引尻    端折りで、画筆や印章を腰にブラ下げ、テク/\歩きで全く職人を以て任じて居た。晩年には専ら豊斎    とのみ署名し、稀に豊国又は国貞と署したと(衍字)様にも聞いたが 私は一二度画席で見掛けた計りで、    渠(かれ)を知る所が少ないから、詳しい記述は避ける〟   ◇「小林清親」   〝小林清親翁は遉(さす)が武家だけに、体格も偉大で、威儀を備へた上品な士人であつた。余りに身長が    高いので、常に猫背の様に首を前へ屈めて歩かれた。或時先生のお丈は六尺ありませうねと聞いたら、    ヘヘヘヘモウちッとト、例の愛嬌笑ひをされた位だから、六尺有余だつたと思ふ。気質も恬淡無邪気で、    私は其画よりも寧ろ其人と為(な)りを愛好した。あゝ云ふ芸樹家は世に少いであらう〟