Top          河鍋暁斎と小林清親        その他(明治以降の浮世絵記事)  ◯『江戸時代文化』第二巻第三号 昭和三年三月刊   「漫画と不景気の対立」伊藤晴雨(27/36コマ)(国立国会図書館デジタルコレクション)   (河鍋暁斎と小林清親)   〝(前略)明治年間に於けるかの有名な河鍋狂斎(後に暁斎)小林清親の二氏の如き、其手段と目的は全    然異なつて居るが、縲絏(1)の苦を嘗めた事は同じで、殊に小林清親の如きは其方法が面白くなかつた    為に晩年を不遇に終つて、其肉筆の如きは、半折一枚市価一円五十銭内外であつたが、それでも右から    左と売れなかつたのは、今日清親の版画一枚に五六円から百円以内の市価のあるのを 冥土から清親老    人嘸(さぞ)や嘸 骨董やの釣上政策を恨んで居る事であらう。尤も清親を盛んに買ひあふつたのは、誰    れあらう かく云ふ僕なんだから 其責の一半はかかつて居る訳なんだが…… 兎に角そんな風に清親    の終りは実に悲惨であつた。暁斎の方は動機がやゝ国家的であつたし、物質には恬淡な人であつたから    結局は「酒の上」といふ事で事済みとなつて了つたから 暁斎は伝馬町の牢屋でチヨツト窮屈なおもひ    をした丈(だけ)で あとは又イケ酒(シャ)ア/\と飲んで歩いて、まづ幸福な生涯を終つたが、人物は清    親の方が一枚上であつたように私は思ふ。尤もこれは私の考へであるが、清親の方は真の天才肌で狂斎    の方は努力の結晶であつたと思ふ、画品は狂斎よりも清親の方にあつたかの様に思ふ 震災で版本は失    つてしまつたが 秋山滑稽堂から出版(?)した美人風俗などを見ると 清親は決して単なる漫画家    (ポンチ画といつた)ではなかつた事が判る、肉弾の著者桜井忠温君(2)は清親の三枚続きの画を非常    に激賞されて居た。此間私が同氏と会見して、清親の戦争画の画き方から、清親のポンチ画「百撰百捷」    (明治廿七八年の日清戦争時代に出版し 又日露役にも出版した)共に両国広小路の松木平吉の出版で    一枚が二銭五厘で 本文といふか乃至(ないし)は諷刺文といふか、何れにしても一枚絵の上部へ滑稽極    まる文章を 当時の戯作者西森骨皮道人が認めたもので 当時は非常な人気で売れたものであつた。    暁斎の方は明治九年前後から憲法発布時分(3)の團々(まる/\)珍聞(俗にまるちん)を始め 各種の    新聞雑誌又は錦絵等へ時事諷刺画を 歌川派と狩野派と合併した筆意で画いて居たが 相当の人気はあ    つた。併し両者を比較すると狂斎(此時代は狂斎)(4)の方が着想が低く、格別寸鉄殺人的の事はなか    つたが 宣伝は狂斎の方が巧みであつたし、時代の影と云はうか、人の嗜好と云はうか、相当に感激は    あつた。それから日露戦争後 俄然としてポンチ画は台頭した 即ち今迄の清親のにしき絵風や勿論暁    斎風では駄目になつた、といふのは石版の印刷術が戦争と同時に非常に進歩したのと 其以前から万国    聯合郵便の規定が制定(5)されて、民間の私製はがき即ち絵葉書の流行が戦争画の出版と並んで従来の    錦絵を駆逐し 之に代るに石版と写真版と凸版が巾を利かせる様になつた。而して「東京パツク」とい    ふ雑誌を現時事新報社の北沢楽天初が主筆となつて出版された。    (以下、明治から大正期にかけての漫画界の盛衰記事あり 中略)    私の家は本所の小さい旗本で北斎が本所小梅(向島三囲稲荷の傍)に居た頃、私の祖父と親交があつた    のでよく話しに聞いて居るが、北斎は当時米塩の資に困つて時々編笠に顔を隠して両国の広小路で大道    で画直しをやつて居たといふ話しを聞いた。これは私しはそうあり相な事だと信じる、其当時の画家の    生活といふものは今時の人から見ればお話しにもならぬ低いものであつて(後略)〟      (1) 縲絏(ルイセツ)は縄目に掛かること。      河鍋狂斎は明治3年10月、書画会の席上、泥酔のまま貴人を侮辱したとして逮捕される。      小林清親は『二六新報』の社員であった明治33年、知人の不倫記事掲載を止めてもらうための賄賂を受け取ったと      いう容疑で逮捕される。結局は無罪放免となる    (2) 桜井忠温は小説家・軍人、『肉弾』は重傷を負った日露戦争の体験記    (3) 明治憲法発布は明治22年(1889)2月    (4) 狂斎から暁斎への改名は上掲明治3年の騒動後の明治4年からとされる。下掲「江戸座談会-奇人譚」(『江戸文化』      第四巻四号 昭和五年(1930)四月刊)の今泉談参照