Top浮世絵文献資料館中国編
中国編 【と】大田南畝が見た書画 〔中国編〕大田南畝関係
【董其昌】(とうきしょう)※◯は欠字、◎は表示不能文字
分類記事・画賛等形態年月日場所出典巻・頁
画・馬図「(浅草鳥越伊勢屋源右衛門所蔵書画)
 馬 横幅 三  趙子昂写」
掛幅寛政11年?
1799/?
浅草 伊勢屋
〈南畝実見〉
一話一言 巻22⑬356
画・春画(南畝、長崎にて春画一巻をみる。これには明の文人解縉の跋があり、それによるとこの春画は「趙魏公春意図三十一景」というものらしい。これに二十首からなる作者不詳の「春意詩」が跋者の解縉によって書き加えられた
 啼鴬談燕豓陽天 小院相陰集女仙 一局囲碁争勝負 羞将時態逐鞦韆
 (以下、十九首省略。参考までに、解縉の跋は次の通り)
「右春意詩二十首、誰氏の作る所と為るかを記さず。偶々客有りて趙魏公の春意図三十一景を持ち示す、余に命じて是の詩を後に書かしむ、為(スナハ)ち之を録して右の如し。夫れ趙魏公字画古今に冠たり、声名宇宙に盈つ、何ぞ亦此の淫媒の図を屑(ヨ)しとするか。曾て聞く、此の図古より有する所、宮闕庫蔵に必ず一つ二つ置き、以て火災を避く、名公高士の亦淫媒を以て廃(ス)て得ざる所以なり。烏(イヅ)くんぞ魏公の詔旨を奉じて此を図し以て文庫を鎮めるものに非らざるを知らんや。況や其の筆意の工緻、設色の清深にして神情の煥発たるを閲するをや。真に以て目を眩まして心を蠱(マド)はす、魏公に非ざれば孰れか能く此を為さん、庚午夏五月解縉跋〔大字十印〕〔負墨林監賞章〕」
(原漢文)
〈明の文人・解縉によれば、春画を古来信じてきた火災を避けるためのものと考えると、趙魏公(趙孟頫、子昂ともいう)の狙いは理解できないだろうし、彼の絵が放つ興奮や耀きを感じることもできないだろうという。解縉の趙孟頫に対する評価は高い。この目眩くような妖しい魅力を表現しえるのは彼をおいて他にいないとまでいう。加えて、春画を呪いという効用の面から捉えるのではなく、絵画それ自体、つまり表現行為の一形態として捉えようという視点が、宋末元初の趙孟頫には既に備わっていたと指摘している。なお南畝がこの「春意詩」と跋文を写したのは「甲子季冬幾望」〉
巻子本文化1年
1804/12/14
長崎
〈南畝実見〉
瓊浦雑綴⑧490
書・漢詩?「趙子昂書とて人の見せしが
 重遊何将軍山林【五首】皇慶二年五月晦日書子昂
 〔趙氏子昂〕〔天水郡図書印〕〔栄陽仲章〕

未知真偽 正月十三日」
不明文化1年
1804/12/14
長崎
〈南畝実見〉
瓊浦雑綴⑧503

後赤壁賦
「七月三日(中略)水晶道人書の後赤壁賦一巻をみる【未知真偽】」巻子本文化2年
1805/07/03
長崎
〈南畝実見〉
瓊浦又綴⑧612
書・漢詩「草菴紀遊詩
 塵海嵌仏地 廻塘独木梁 不容人跬歩 宛在水中央
 僧定兀蒲座 鳥嗁空竹房 喬然双石塔 和月浸滄浪
 昔人曾此詠滄浪 流水依然帯野堂 不見濯纓歌孺子 空余幽興属支郎
 性澄一碧秋雲朗 心印千江夜月涼 我欲相尋話空寂 新波堪著野人航
 招提水木映滄浪 筇竹携来上草堂 塔影何年浮碧澗 花源終古断猟郎
 鐘敲隔院催残照 柳払寒塘送晩涼 為赴維摩香火社 石橋南畔繋軽航
 山門聳石塔 止宿渡魚梁 孤榻清無寐 虚窓夜未央
 風高黄葉寺 月冷白雲房 対景殊堪画 松煙取楽浪
  延祐二年七月七日   呉興趙孟頫書

 右墨帖杉浦西厓携来于府中 走筆写之、壬戌初冬廿日、今暁雨雪」
帖装本享和2年
1802/10/20
杉浦西厓携来
〈南畝実見〉
一話一言 巻26⑬492

竹里館図
「辛未六月十四日虫干 護持院什宝 目録
 趙子昂 竹里館図 白描著色 大徳元年趙◯◯ 人物甚奇ナリ  横 一幅」
掛幅文化8年
1811/06/14
護持院所蔵
〈南畝実見〉
一話一言 巻49⑮310
Top中国編中国編 【と】大田南畝関係