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中国編 【こ】大田南畝が見た書画 〔中国・来日人編〕大田南畝関係
【江稼圃】(こうかほ)※◯は欠字、◎は表示不能文字
分類記事・画賛等形態年月日場所出典巻・頁
画・山水「胡振兆新 江大来稼圃の画く山水に題す
 千尋太華峰如掌 万里長江花化虹 宇内山川奇絶処 被君教巻向胸中
 (南畝もまた)清人の山水の画に題す
 十日江山五日功 揮毫謾借片時雄 可憐辮髪通商客 猶有前明学士風」
〈江稼圃の「山水図」に、折から来日中の胡兆新と南畝が賛を寄せた。しかし、実際に画中に揮毫したかどうかは分からない。弁髪をした通商の客でありながら「猶ほ前(ゼン)明(ミン)学士の風有り」ともあるから、南畝は江稼圃のどこかに明の士大夫然としたものを感じたようである〉
不明文化2年
1805/03/
長崎
〈南畝実見〉
瓊浦雑綴
南畝集15
漢詩番号2651
⑧540
④375

梅と蟹図
「清人江大来泰交稼圃が画きし梅と蟹の画に、花甲重逢乙丑春法元人筆於長崎山とあり。花甲重逢は
 いはゆる本卦がへりなるべし」

〈乙丑は文化二年。本卦還りは還暦。江稼圃は文化二年に六十一歳ということになる〉
掛幅?文化2年
1805/03/
長崎
〈南畝実見〉
一話一言
巻28
⑭54
「清の江泰交【名大来】が画し梅と蟹の画に、花甲重ねて逢ふ乙丑の春 元人の筆に長崎山に法(ノツト)る
 と書しは
(南畝『西遊記』から「花甲重逢」の意味を勘考して) 今のいはゆる本卦がへり也(以下略)」
南畝莠言⑩394
画・菊図「清人江泰来稼圃の墨菊
 幽崖霊菊 稼圃彩毫 冷香佳色 豈没蓬蒿」
〈実際に画中に揮毫したものか不明)〉
不明文化2年
1805/03/
長崎
〈南畝実見〉
杏園集⑥228
画・蘭図「船主張秋琴詩 (五言律詩四首あり、省略)
 右三月三日、旅館述懐と題して四首、太田先生の賢喬梓原韵に和し奉り、
 并びに斧政を祈る 萍寄張秋琴草
 (五言律詩一首あり、省略)
 上巳日感懐五韻を畳ね奉呈す
  南畝先生教政    葬花菴主張秋草
 右乙丑五月五日、張秋琴詩扇、訳司彭城仁左衛門携来、扇面に江稼圃の画
 く蘭有り」

〈張秋琴と江稼圃(泰交)との関係は、唐船の船頭(船主)とその財副(筆記勘定役)。三月三日、張秋琴は、南畝父子が唱和した韻を用いて四首を賦し、さらに五月五日、それに一首を加えた。そして、その五首を江稼圃の蘭画の扇面に配して南畝に贈ったのである。それにしても詩の斧政(添削)を請うといい、南畝父子を「賢喬梓」と尊称するなど、張秋琴の南畝に対する姿勢は、南畝が幕府の役人ということもあろうが、実に丁重である。なお「賢喬梓」の喬梓の意味について、南畝は早速『尚書大伝』を引いて、橋梓が父子の喩えであることを記している。(⑧578)扇面を携来した彭城仁左衛門は唐通事(劉徳基字君美)張秋琴の詩は、本HPのTop掲載の「南畝の観た書画・長崎滞在編-来日人書画」江稼圃の項にあります〉
扇面文化2年
1805/05/05
長崎
〈南畝収得〉
瓊浦雑綴⑧577
「乙丑午日、訳司劉生携ふる処の扇の頭に、清客萍寄主人張秋琴の「三月三日、旅館に懐ひを述ぶ」と
 題し、余と児俶と唱和せる原韻を和せる五首を観る。畳和して以て萍寄主人に寄す
 (南畝の五首、省略)」
南畝集15
漢詩番号2669
④381
「清人江大来稼の画蘭
 紛々賈胡 集我崎陽 維書及画 孰縦其狂 有一稼圃 勝百葦航 蘭室雖摧 其国余香」
杏園集⑥232

五言律詩
(杜甫)
「(長崎)悟真寺の坐敷に衝立あり。清客江稼圃、杜詩の五律を書き
 落日平台上 青(春)風啜茗時 石欄斜点筆 桐葉坐題詩 翡翠鳴衣桁 蜻蜒立釣◯(糸)
 自今幽興極(熱) 来往那朋凧(亦無期)
  嘉慶十年二月望前

 中華稼圃書於悟真禅院と書けり。酔後の筆と見ゆ」
〈嘉慶十年(文化二年・1805)二月望前(十四日)の書。杜甫の詩は「重ねて何氏に過る 五首」の三首目。「青風」は「春風」「釣◎」は「釣糸」「幽興極」は「幽興熟」「那朋凧」は「亦無期」が正しい。なるほど「酔後の筆」らしく思われる〉
不明文化2年
1805/06/06
長崎 悟真寺
〈南畝実見〉
瓊浦又綴⑧601
画・山水
菩薩蛮?
「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章
 嶺桂開花秋露冷 冷露秋花開桂嶺 琴譜共長吟 味(ママ)長共譜琴
 誦声同送銭 銭道(ママ)同声誦 題詠任湖西 西湖任題(落字ナルベシ)

   〔欄外。江稼圃不文、於此詞可見矣〕
  又菩薩蛮廻文以(似)
  聖福寺主方丈文以(似)
     此下ニ山水ノ図アリ

 雪嶺源流法師伝 飽(一字欠)縕乗隶(秉)直堅 崎山坐処花頻雨 宿契梅橋一笑緑(縁カ)
  俚句共呈竜門大和尚蓮座祈棒喝   張秋琴拝草」

〈文化元年十月、竜門和尚が聖福寺の住職に就任したときの祝賀詩。張秋琴の詩に江稼圃の山水図。これを南畝は翌二年九月二十三日書写した。欄外注は江稼圃を「不文」と指弾する。僧侶の祝賀にもかかわらず、艶めかしい恋の歌をテーマとする詞「菩薩蛮」を配した江稼圃の不見識をいうのであろうか。南畝の書簡に「洪(ママ)泰交近作をも乞候処久々作り不申候由」(書簡番号107⑲154)とあるから、江稼圃が長崎で詩を作ることはなかったようだ。この日南畝が詩を書き取ったのは他に、胡兆新・程赤城・張秋琴・程雪香・劉景筠・銭守和・沈椿・夏雨村・許錫綸・王雪巣という面々。医者に船頭(船主)に財副(筆記勘定役)すべて当時長崎に滞在していた清人のものである〉
不明文化2年
1805/09/23
長崎 聖福寺?
〈南畝実見〉
瓊浦又綴⑧662
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