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中国編 【こ】大田南畝が見た書画 〔中国・来日人編〕大田南畝関係
【胡兆新】(こちょうしん)※◯は欠字、◎は表示不能文字
分類記事・画賛等形態年月日場所出典巻・頁

七言絶句
「(長崎滞在中)
 我学空門並学仙 朝看紅日暮蒼煙 蓬莱一別方平老 不及王喬正少年
   【癸亥冬日為】如登先生正   胡兆新
 右の詩扇、会(ママ)役人【吟味役】村上氏【清太郎】よりかり得て写す。書も亦婉美にして尋常の賈舶の
 ものゝ書に異なり。詩意を味ふに不満の気甚し。想ふに落第の書生、医に逃れたるなるべし」

〈癸亥は享和三年。如登は村上清太郎。この扇面は村上氏の所蔵。昨年の冬、胡兆新に揮毫して貰ったものと見える。南畝の長崎到着は九月十日、しかも病気療養中であったから、まだ胡兆新とは面会していない。詩から人となりを「落第の書生医に逃れたるなるべし」と推測している。それでも書は「婉美」だとして推賞している〉
扇面文化1年
1804/09/17
長崎官舎
〈南畝実見〉
百舌の草茎⑧432
書・墓碑「(長崎奉行・成瀨因幡守の先祖弌斎君)の墓大阪の仏照寺にあり。今年【甲子】林祭酒【信衡】に文を
 こひ、清国の医胡新兆新にかゝしめて、仏照寺にたてらるゝといふ」

〈この時の林大学頭は林述斎〉
不明文化1年
1804/12/01/
大坂、仏照寺瓊浦雑綴⑧484

五言律詩
「唐医胡兆新当春帰国、光紬三枚計り遣し詩を書せ申候。書はことの外見事也。紛々商賈の輩にあらず
 左に記す

  甲子初秋於崎陽旅館、雨後聞蝉有感之作
 一雨生涼思 羈人感歳華 蝉声初到樹 客夢不離家 海北人情異 江南一路賒
 故園鬼女在 夜夜卜燈火   蘇門胡兆新
 人説洋中好 我亦試軽游 掛帆初意穏 風急繁心憂 漸漸離山遠 滔々逐浪流
 不堪回憶想 郷思満腔愁   在乍揚帆離山試筆為南畝先生雅正 蘇門胡兆新」

〈南畝の胡兆新の書に対する評価は高い〉
不明文化2年
1805/02/15
長崎書簡105⑲149
書・画賛
七言絶句
「胡振兆新 江大来稼圃の画く山水に題す
 千尋太華峰如掌 万里長江花化虹 宇内山川奇絶処 被君教巻向胸中
 予(南畝)亦、清人の山水の画に題す
 十日江山五日功 揮毫謾借片時雄 可憐辮髪通商客 猶有前明学士風」
〈江稼圃の「山水図」に、折から来日中の胡兆新と南畝が賛を寄せた。しかし、実際に画中に揮毫したかどうかは分からない〉
不明文化2年
1805/03/13
長崎
〈南畝実見〉
瓊浦雑綴
南畝集15
漢詩番号2651
⑧540
④375
書・画賛
七言絶句
「胡兆新常禎画の山水図に題する詩
 遠渚高山欲挑天 微風細雨一邨烟 何時結個漁樵侶 好向滄江自在賦
〈胡兆新は享和三年の来日。長崎滞在中に常禎なる人の山水図に詩を寄せたようであるが、常禎は未詳〉
不明文化2年
1805/03/21
長崎
〈南畝実見〉
瓊浦雑綴⑧555
書・画賛
七言絶句
「長崎にて竹の画の賛を胡兆新が書しをみしに
 乙丑春杪四月朔日 凌霜尽節無人 終日虚心持鳳来  蘇門胡兆新書
 乙丑は文化二年なり。此とし四月朔日まで立夏節にあらざるゆへに、春杪と書しなるべし。面白き書や
 うなり」

〈『南畝莠言』は文化十四年(1817)刊。「杪春」は春の末三月の異称。文化二年の立夏は四月十日。 「面白き書やう」とは「杪」とあるべきところが「抄」とあったからか〉
不明文化2年
1805/04/01
長崎
〈南畝実見〉
南畝莠言⑩394

五言古詩
「文化元年聖福寺主方丈となりし時、賀章
 聖福古叢林 巍々聳百尋 我自到崎陽 一載頻登臨 未訪赤松子   先探白雲岑 寺中老比丘
 超凡入慧心 道高千倡捷 水満一投針 説法天花散 行吟仏語源(深) 久宜尊上坐 瞻礼遐迷欽
 小詩不足賀 鄙俚汚梵音
 時在甲子小春書奉龍門大和尚隆(陛カ)坐之喜即請法鑒  蘇門胡兆新拝稿」

〈龍門和尚が聖福寺の住職に就いたのは文化元年十月〉
不明文化2年
1805/09/23
長崎
〈南畝実見〉
瓊浦又綴⑧663

漂客奇賞図
 文化元年十月二十三日、南畝は唐館に胡兆新を尋ねたが、不在であった。その時の心境を、次のような題詞を添えて七言絶句を作った。
 「冬日、唐館に過るに胡兆新国手を見ず。悵然として賦して小川文庵に示す。胡国手の漂客奇賞図に題せる韻を次ぐ
 忘機心与侶鷗同 宦海悠々任化工 客館思人々不見 恍疑簾月隔玲瓏 【胡号侶鷗】」 (『南畝集14』漢詩番号2574・④350)
 侶鷗は胡兆新の号。南畝は国手(名医)と呼び敬意を表している。南畝の詩は、その胡兆新の「漂客奇賞図」の詩韻を使って作ったというのだが、その「漂客奇賞図」とはいかなるもの
 であろか。谷文晁に同名の絵があるが、関係があるのだろうか。よく分からないが参考までに取り上げた。ところでこの挿話には続きがあって、翌日、南畝は小川文庵宛に次のような
 書簡を送っいる。

 「昨夕胡氏へ遣候詩之結句改作仕候間、是と御引かへ被下度奉頼申候。元微之妾商玲瓏の事を用候へども、胡氏は船主と違ひ愛妓有之まじく失礼故改作いたし候」
 (「書簡番号80~81」小川文庵宛・文化1年10月23日付・⑲109~110)
 結句の「恍疑簾月隔玲瓏」は、唐の元微之(元稹)や白居易が愛でたという名妓・商玲瓏を踏まえて作ったのだが、唐船の船主ならまだしも、国手たる胡兆新には失礼であるから、
 改作するというのである。ただ、どう改作したのかは定かでない
医業 南畝は文化元年七月二十五日、長崎へ向けて江戸を発ったが、その直前の七月十九日、摘子定吉の嫁・お冬に女児が生まれた。ところが母乳が出ない。長崎に着いた南畝は、これ
 を心配して、二人の医者に相談した。
 ひとりは、官医の小川文庵。南畝は赴任途中から大病に陥ったが、この人がたまたま同道していて、難儀する南畝の診療に当たってくれた。南畝にとっては命の恩人とでもいうべき
 ひとである。もうひとりが唐医の胡兆新。彼は民間の治療に当たる一方で、その小川文庵等、江戸から派遣された三人の官医の質問にも応じていた。
 文庵の処方は
「よく鯉をたべ候がよく候由、一切塩からも(ママ)れのたべ候事あしく候。とかくうまくなき淡泊のものたべ候が宜候由」と官医の小川文庵のは食事療法であった。一方
 胡兆新は「七星猪蹄」という薬を処方した。南畝はこれを躊躇なく受け入れたようで、早速その薬を入手して江戸に送った。(「書簡番号77」大田定吉宛・文化1年10月16日付・⑲106)
 このとき、役所の中の誰かが、南畝の自身の病気も胡兆新にみて貰ってはどうかと勧めた。しかし南畝は
「源平盛衰記小松内府の例を引き」これを断固として拒絶した。曰く「婦人は
 格別、官吏之身として異国之薬可服事には有之まじく相断申候」
と。その昔、平重盛が重病に陥ったとき、当時来日中の宋の名医の治療を断ったという例を引いて、官吏の身の上
 で異国の治療を受けるわけにはいかないというのである。(「書簡番号84」大田定吉宛・文化1年11月17日付・⑲112)なお、胡兆新の処方であるが、文化二年三月の南畝の書簡には

 「乳母も居馴み候由御同慶に候。小児共嘸々成人いたし候事と遥想致候」とあるから、効き目はなかったようである。(「書簡番号113」島崎金次郎宛・文化2年3月30日付・⑲162)
 南畝が長崎以降、胡兆新の余波とでもいうべきものに出合ったのが、文化六年の正月二日。多摩川を巡視中、府中の小野宮というところで、
「清胡兆新製精神湯といへる招牌ある家
 あり【欄外。此薬野火留にてうる也。此家は取次所也】」
という書留を残している。(『調布日記』文化6年1月2日記・⑨121)民間レベルでは彼の影響が関東にまで及んでいたのである。
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