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日本編 【う】大田南畝が見た書画 〔日本編〕大田南畝関係
【浦上 玉堂】(うらがみ ぎょくどう)※◯は欠字、◎は表示不能文字
分類記事・画賛等形態年月日場所出典巻・頁
書・画賛
渡唐天神
「渡唐天神賛
 〔西来正脈〕
 投入大唐国伝持心印来/要見便可見惟此一枝梅  渡唐天神ノ墨絵
   如意玉堂敬題 〔元珍之印〕〔玉堂氏〕
掛幅?文化6年?
1809/
不明一話一言
巻29
⑭99
「浦上玉堂は現代では近世を代表する文人画の名手として評価されているが、長崎における南畝の意識では高尚な琴士としての印象の方が強く、画人としての印象は無かったようだ。文化二年五月二十七日、聖福寺に古書画を尋ねたおり、南畝は偶然にも玉堂と出会った。
 「白髭生ひ、髪は長く、唐輪に結ぶ。白衣を着たり」 (『瓊浦雑綴』文化2年5月27日 ⑧588)
 何やら山水画に出てくる隠士といった趣で、玉堂は南畝の前に登場する。「雲水」と「玉堂清韵」という銘の入った、明の顧元昭作と伝えられる七絃の古琴を携え、いにしえを再現したという「南薫操」と「催馬楽の伊勢海」を弾いた。
 「心閑に手敏といひけんいにしへの人の語も思ひあはせらる。詩酒をこのみて風雅なる翁なり」(同上)
「心閑手敏(心がのびやかで手はきびきび動く)」これはもともと琴の名手の弾き方をいうらしいが、南畝の目には、恰好といい弾き方といい、まさしく中国の士大夫が玉堂を通して蘇ったように見えたのだろう。般若湯(酒)を傾け、じっと古琴に聴き入る。その余韻に「玉堂集」をひもとけば「詩も又幽玄也」であった。南畝は次の詩を賦して玉堂に贈った。
 「(聖福禅寺に過る)席上、玉堂翁の琴を弾ずるを聞く
  高山と流水と 此の地の清音足る 況んや復た招提の境 玉堂綺琴を弾ず」
 (『南畝集15』漢詩番号2688 文化2年5月27日賦 ④386)
 山中の流れから澄んだ音が聞こえる、いうまでもない、ここは俗世と無縁の寺の中、玉堂翁がその美しい古琴を弾じる、すると清音はいっそう冴えわたるのであった。玉堂はこの時六十一才、寛政六年(1794)岡山の鴨方藩を脱藩して、春琴・秋琴の二子を携えて流浪すること十年余年に及んでいた。南畝は玉堂の詩を思い起こした。
 「万銭買一琴 千銭買古書 朝弾幽窓下 暮読寒灯余 有衣聊換酒 有竿足求魚」 (『瓊浦雑綴』文化2年5月27日「玉堂集」所収の詩「書感」より ⑧589)
 琴棋書画、まさに自在な境地である。一方の南畝は五十七才、幕府の役人として長崎勤務。
 「滔々たる欲海、扨々あきはて申候。手前勝手之名文、名弁、蘇秦張儀が月代をそりて革羽織きたるが如し」 (「書簡番号108」大田定吉宛 文化2年2月25日付 ⑲155)
 とても俗世を離れるどころではなかった。この日、南畝は次のような詩も作って贈っている。
 「梅天の晴色清涼に入る 昏飲頻りに傾く般若湯
   即(も)し官を休(や)めて林下に住まんと欲するも 児孫羅列して家郷に在り」
 (『南畝集15』漢詩番号2687 文化2年5月27日賦 ④386)
 官吏を辞めて退隠したくとも、家族を思うとそれも出来ないというのである。
 「鶯谷の逸民となりて夕の日に子孫を愛し、絃歌の声に心をやり一酔いたし度、此外に何も願も望もへちまも入不申候」(「書簡番号124」馬蘭亭主人宛 文化2年8月24日付 ⑲184)
 家族のいる小日向の鶯谷に戻って、せいぜいが市中の隠士、酒と三味線から離れられない南畝には、二子と共に諸国を流浪する玉堂のような身の処し方は、とても無理であった。南畝の書き留めに玉堂の絵に関するものは見当たらない。六月上旬、再び玉堂と会っているが、そこでも話題になったのは「熊野浦の歌」という歌謡のこと。孫引きになるが、濱田義一郎氏によると、鈴木進氏の「浦上玉堂年譜」に、寛政十年(1798)玉堂五十四歳の時、南畝を訪ねて「江山覓句図」を贈ったとある由。(「偶観抄」濱田義一郎著「浦上玉堂と南畝」の項(濱田義一郎編『天明文学』所収)とすると、文化二年の長崎の南畝に、画人としての玉堂記事が全くないのは不思議な気がする。

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