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名所編大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌 〔名所編〕大田南畝関係
(江戸・長崎・大坂・東海道・木曾街道等の名所)
【か】※◯は欠字、◎は表示不能文字
名所詞書・詩歌出典巻・頁年月日
かい
甲斐
「峡中懐古
 忽聞垓下楚歌声 天目悲風振樹鳴 蛮触従来争底事 英雄割拠果何情 一時空恃山河険 百世長添日月明
 巌邑不封帰版籍 只今唯有甲陽城」

〈「峡中」は「甲斐」天目山は武田氏滅亡の地。三月十四日、岡田寒泉の詩会にて賦す〉
南畝集6
漢詩番号1082
杏園詩集二
壬寅詩叢
③373
⑥66
⑥281
天明2年
1782/03/14
かがみがいけ
鏡が池 (橋場)
「上からも下からもまた花とはなあはせかゞみが池の藤波」蜀山百首
清好帖
①308
⑳355
文化15年刊
1818/
かくほ
鶴歩
「鶴歩楼にて 千年のつるのあゆみのたかどのにはしごもながくのぼる寿」紅梅集②369文政2年
1819/06/
かけがわ
掛川 (遠江)
「掛川の城下にてそばむぎくふとて、れいのざれごとうたよめるものあり
 湯豆腐の葛布ならでさらさらと一ぱい汁をかけ川のそば
このあたり葛布うるもの多ければなるべし」
改元紀行附録⑧136享和1年
1801/03/03
かけがわ
掛川 (遠江)
「懸河駅に街有り。十九首と曰ふ
 行々海駅且行々 十九首街行自平 底事家々鬻葛布 初寒已入懸河」
小春紀行附録
南畝集15
漢詩番号2831
⑨99
④429
文化2年
1805/11/13
かげとり
影取 (相模)
「戸塚の宿をすぎ、かげとりといふ所にて一本の桜さきいでたるをみて
 けふよりやゆくてになれん旅衣ひもとく花の咲そむる比」
改元紀行附録⑧134享和1年
1801/02/28
かすみがせき
霞ヶ関
「霞関春望
 城南大道接桜田 花覆楼台柳帯煙 白虎門臨滄海出 紫煙関並綵雲懸 原嘗意気三千客 韋杜豪華尺五天
 不見東都如此壮 寧知春色遍山川」
南畝集4
漢詩番号0644
③224
安永8年
1778/03/
「同じく東都の諸勝を賦して霞関を得たり。韻を分ちて侵を得たり
 日出霞関散積陰 王侯第宅鬱如林 泊船門外千帆色 万里朝宗東海潯 【外桜田門旧名泊船門】」
南畝集5
漢詩番号0888
③304安永9年
1780/12/
かすみやま
霞山
「春のはじめ麻布さくら田町霞山いなりの前にて
 やがてさくさくら田町のさくら麻の麻布のほとりまづかすみ山」
七々集②293文化13年
1816/01/
かせやま
加瀬山 (橘樹郡)
「春日、将に加瀬山に之かんとして、雨、登る能はず
 前山春雨闇 咫尺不能登 地入金吾夢 雲思泰岳層 松林応宿鳥 崖寺或逢僧
 何得乗晴景 七盤援古藤

 【加瀬山、大田左金吾、嘗て此地に宿す。将に一城を営まんとするも。夢悪しく而して止む。故に名づけて夢見崎と曰ふ。又(ママ)源寺有り】」
「春日、加瀬山に登る。山に夢見碕有り
 瀬山何処卜城池 宿昔金吾夢見之 樹杪春帆破麦浪 登臨独撫孤松枝
 ふるさとの事をゆめみが崎ならばかへらん鳥の翼かせやま」
玉川余波②145文化6年
1809/03/16・17
かたしま
片島 (播磨)
「片島といふ所に白き山茶花のさけるを見てものゝ名によめる
 しらぬひのつくしに見てし此花を折てかざゝんくはちらぬまに」
小春紀行附録⑨92文化2年
1805/10/28
かたたのらくがん
近江八景
「近江八景狂歌 堅田落鳫
 松風をかぢる音かとよくきけばかたへの堅田ならぶ落鳫」
六々集
万紫千紅
②232
①281
文化12年
1815/03/
かつしか
勝鹿 (葛飾)
「勝鹿六詠
 国府台 万古荒台上 空留国府台 悲風吹不尽 日暮起辺声
 総寧寺 清秋古寺中 落日空山上 不見采樵人 但聞鐘磬響
 刀禰川 悠々刀禰水 遠自総州来 万里長風色 布帆破浪回
 真間山 山上丹楓樹 蕭々昨夜霜 徘徊人不見 石磴下斜陽
 遍覧亭 遍覧亭何在 空山坐不移 自傷千里目 非是一時悲
 氐胡祠 粉黛空黄土 祠壇賽美人 請看山下井 千古塋心神」
三餐余興
遊勝鹿記
⑧5明和4年
1767/09/30
がていげん
賀邸原
「夏夜、諸子と同じく賀邸原に遊ぶ
 月下班荊望碧空 蒼茫煙霧自無窮 一樽此地憐幽処 長笛何人和牧童 尋径休驚臨海郡 乗車疑入襄城中
 由来草創称謀野 欲賦新詩愧未工」
南畝集5
漢詩番号0805
③278安永9年
1780/05/
かながわ
神奈川 (武蔵)
「金川の眺望 日出金川十二欄 冬青台畔望雲端 人烟直接江城外 滄海千帆泊紫瀾
【冬青台、此れ青木台を云ふ】
小春紀行附録
南畝集15
漢詩番号2841
⑨101
④431
文化2年
1805/11/18
がびさん
峨眉山(長崎・彦山)
「峨眉山を望む【崎陽の彦山、一に峨眉山と名づく。旧観再賞図に題す】
 朝望峨眉山 暮望峨眉山 翠黛連豊嶺 不離眉宇間 一年不得登 徒背美人顔 安得青烏翼 翻飛出塵寰」【豊嶺、此れ豊前房を曰ふ】
南畝集16
漢詩番号3056
⑤67文化4年
1807/03/
かまくら
鎌倉
「鎌倉懐古。虞韻を得たり
 源大将軍有覇図 英風忽掃虎狼都 八州形勝朝千里 三世豪華占一区 明月空低星井没 白雲長傍鶴岡孤
 当年第宅今安在 唯見春光満緑蕪」
南畝集4
漢詩番号0616
杏園詩集二
③215
⑥56
安永7年
1778/12/
「鎌倉。右幕下の墟に過る 禾黍離々入旧都 秋風無処不荒蕪 欲尋三世将軍跡 冢上青苔片石孤」南畝集14
漢詩番号2478
④323文化1年
1804/07/26
かまた
蒲田 (荏原郡)
「正月初五、蒲田探梅、吉伯教と同じく賦す。六首
 度阡越陌欲探春 遥指蒲田向海浜 行過金鈴林下去 茅簷唯見緯蕭人」【蒲田、武州荏原郡大森村に在り】
「其の二 樹杪雲連南浦水 梅花香澹北蒲田 春初早韮兼生菜 小摘盤喰腹果然」【北蒲田、村名】
「其の三 村落蕭然太古風 驚人野雀入幽叢 誰来一見梅千樹 不是林逋必放翁」
「其の四 古祠曾奉応神皇 花隠長光寺裏墻 莫謾相憂無雨具 淡雲初散漏斜陽」
【村に長光山栄林寺有り。又八幡宮有り】
「其の五 疎枝近水両三家 但為塩梅不為花 野老当嫌延我輩 蹊田藉草損桑麻」
「其の六 正是花魁何物斉 不令桃李謾成蹊 分明記得重遊路 夫婦橋前薬舗西」
「(大森村)百姓三左衛門といへる者の縁にこしうちかけて、戯れに三句を書てあたふ。発句は予がなぞらふる所にして、脇と第三は吉見がなり
 梅さくや春のはじめの三左衛門 はせを
 鍬もかま田もとらぬうらゝか 曾良
 鴬の片言まじり野らこへて キ角
 七部抄のすがたありておかし。この門のさし入に、梅の枝さしかはして、見るめもあやなり
 世の中に人にもれんもあなかま田ひとりわけいる梅の下道」
南畝集13
漢詩番号2205-10
細推物理
④241
⑧340
享和3年
1803/01/05
「北蒲田賞梅 南枝低発北蒲田 不齅清香七八年 再到夫妻橋北望 師雄已伴美人眠
「北蒲田梅 此うらに梅の木ありと看板の和中散まできた蒲田むら」 〈多摩川巡視中〉
玉川余波②123文化6年
1809/01/27
かむろ
加室 (周防)
「八月廿五夜、加室に泊す。風雨に値うて舟中に酔臥す
 (詩なし)」〈翌廿六日も天候不順にて碇泊『革令紀行』⑧425参照〉
南畝集14
漢詩番号2512
④330文化1年
1804/08/25
かめいど
亀戸
「舟亀戸村に繋いで酒家に過る 亀水亀戸野煙青 葛東葛西下晩汀 猶有回舟情未尽 岸頭遥指一旗亭」
「又 繋舟江畔謁菅祠 雨滴前村紋樹枝 少婦不知仙客侶 逢迎錯比羽林児」
「帰舟  雲情含雨色 月気引晴光 共倒残樽酒 帰舟向柳塘」
南畝集8
漢詩番号1641-3
④52寛政2年
1790/04/05
「亀井戸の藤 本院のおとどの氏のふぢのはななど菅原の広前にさく」千紅万紫①257文化5年
1808/05/
「春日、亀戸の梅荘に過る 白竜含燭臥蒼苔 五歩軽陰十歩開 江雨欲来春黯澹 梅花幸不受塵埃」南畝集18
漢詩番号3865
⑤307文化11年
1814/02/
「亀井戸の藤花さかりなるをみて すみだ川桜におくれ亀井戸の藤のはなにはやつとはひつく」万紫千紅①269文化年間
かもがわ
鴨川 (京都)
「鴨河を度る
 想見薫風鴨水干 涼棚緑樹接祠壇 我今偶度清霜後 徒作夏炉冬扇看
 寒空に鴨の河原をすぎ行は冬の扇のたぐひならずや」
小春紀行附録
南畝集15
漢詩番号2812
⑨95
④423
文化2年
1805/11/05
かやばちょう
茅場町
「七月初八、萱葉洲に遊ぶ 八達涼風入葛衣 夕陽将尽月花微 直過日本橋南去 更踏医王閣上帰」
〈医王は薬師如来。八日は茅場薬師の縁日〉
南畝集19
漢詩番号4287
⑤425文化14年
1817/07/
「穀日、独り萱葉洲に遊ぶ 金盞花欹側 瓊姿根屈盤 一担移春色 医王閣下看」〈縁日へ〉南畝集20
漢詩番号4327
⑤441文化15年
1818/01/08
からさきのやう
唐崎夜雨
「近江八景狂歌 唐崎夜雨 真昼の日本晴の天気より雨の夜のゆかし唐崎の松六々集
万紫千紅
②232
①281
文化12年
1815/03/
かわ
「川 川といふものなかりせば塵あくたうみにいかでかはき出さまし」巴人集②459天明3年?
1783?
かわぐち
川口
「川口暁発 如雲千騎出郊関 川口風煙駅路間 挙首東方猶未暁 天辺何処日光山」
〈南畝、将軍家治の日光社参に従行〉
杏園詩集一⑥44安永5
1776/04/14
「川口遠帆 真帆かた帆かげかすが出の新田にやすく治る川口の舟」紅梅集②315文化14年
1817/10/
かわさき
川崎 (砂子)
 川崎 (別資料)
かわらざきざ
河原崎座
「さつき廿日、河原崎座にわざおぎみし日よめる
 疱丁の音羽屋たかきはつがつほたいてはくはぬ江戸ツ子のはら
 去年の此比、狩野素川のもとにて音羽屋にあひしに、発句「江戸ッ子の肴なりけり初がつほ」をいふ句かきてくれし事を思ひ出でなり」
あやめ草②82文政4年
1821/05/20
かんこくかん
函谷関 (中国)
「函谷関 にわとりの宵鳴もほど過し比棒ちぎり来てせきに関守」徳和歌後万載①34天明4年序
1784/04/
かんだこんやちょう
神田紺屋町
「詠五色狂歌
 青 藍瓶の藍よりいでゝ紺屋町柳づゝみになびく染物」
七々集
万紫千紅
②284
①296
文化12年
1815/12/?
かんそうてい
灌叢亭 (高田)
「高田に遊びて灌叢亭に過る 霜満東籬冷 日低西嶽斜 村翁能抱甕 時潅一叢花」南畝集4
漢詩番号0571
③201安永7年
1778/09/
かんなべ
神辺 (備後)
「今津より神戸に至る途中の作
 日升雲外列疎松 霜落田間老晩菘 遥見盤回駆犢者 迢々一路上前峰
 かんなべといふ所に昼餉してざれごとうた
 こゝろざし煮花の茶には出たれど名におふ酒のかんなべはなし」
南畝集15
漢詩番号2797
小春紀行附録
④419
⑨90
文化2年
1805/10/25
かんばら
蒲原 (駿河)
「蒲原駅に宿す 利渉争喧富士川 蒲原駅舎接巌淵 海門近隔幽篁裏 一夜風濤響枕辺」南畝集14
漢詩番号2483
④324文化1年
1804/07/28
かんもんかいきょう
関門海峡
「小倉舟中
 楫師孤塔人浮沈 剣客双刀散怨讐 紅白旌旗何処有 青山依旧落中流
 【楫師与二兵衛の塔、波心に在り。剣客は佐々木氏・宮本氏を謂ふ。其の址、巌流島に有り】」
〈楫師与二兵衛は明石与二兵衛。豊臣秀吉を乗せた船を座礁させた責任を取り自害した船頭。紅白の旌旗とは源平合戦。巌流島は言うまでもない〉
小春紀行附録
南畝集15
漢詩番号2774
⑨85
④413
文化2年
1805/10/15
Top浮世絵師総覧名所編大田南畝関係