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   人物編Ⅰ 大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌〔人物編Ⅰ〕   大田南畝関係
 (浮世絵師・狂歌師・役者・遊女・芸者等、当世の人物)
  【と】※浮世絵師は名前別。◯は欠字、◎は表示不能文字
人名詞書・詩歌出典巻・頁年月日
どうみゃく
銅脈先生
「遙に寐惚先生に寄す
 客は坊主に如くは莫く 仏は随求より貴きは無し 茶屋悉く受悪く 借銭積て丘の如し
 道楽意見重り 親類相談催す 直(ズイ)行(イキ)其夜短く 朝飯過て未だ回らず
 近日追出されれば 忽ち関東に向て之ん 戯気(タワケ)尽して又尽さば 偶々寐惚の知る有らん」

「銅脈先生の寄せらるるに和答す
 狂詩和する者無く 年来且つ相求む 門番老子を留め 坭坊孔丘を叱る
 四角なる字を知しより 貧乏転た相催す 文盲大才多く 腹筋日に九回す
 偶々太平楽を読む 御作又之有り 始て識る我が姓名 君能く御存知」

〈以下、狂詩の応酬あり〉
二大家風雅①507寛政2年刊
1790/07/
とくほん
徳本 和尚
「南紀の徳本上人、東都に来たりて伝通院に寓す。男女麇至す
 本公来自紀南郷 一念称名課幾場 無量山中量客 応身不敢疲津梁」
南畝集18
漢詩番号3915
⑤321文化11年
1814/08/
「徳本和尚遷化ときく【十月七日といへども実は九月廿二日となん。九日の葬礼人多くつどへり】
 念仏の徳本和尚かきのこす南無阿弥陀仏一行の院
 名蓮社号誉上人、称阿弥陀仏徳本行者。遷化十月七日といへども実は九月廿二日となん。九日の葬礼人おほくつどへり」
一簾春雨⑩487文政1年
1818/09/22
「徳本和尚遷化とききて  蜀山
 念仏の徳本和尚かきのこす南無阿弥陀仏一行の院”十月七日といえども九月二二日の由。
 名蓮社号誉上人、称阿弥陀仏徳本行者」
紅梅集②355文政1年
1818/10/07
とせ (芸者)「十三夜、酔月楼にて二人の白拍子の三すぢのいとひきけるをきゝてよめる。そのふたりの名は千代・とせとなんいひける
 十日あまりみすぢの糸も長月のけふの月見は千代にやちとせ」
〈酔月楼は勘定組頭・土山宗次郎邸。天明二年九月十三夜の宴〉
万載狂歌集①10天明2年
1782/09/13
「山手白人・あけらかん江・地口有武などゝ同じくすみ田川に舟逍遙し侍りし時、おちよ・おとせといへる二人のしら拍子の今様うたふをきくに、野辺の若草むすぼんことを、いなか風とて花染ちらし、梅のかほりのつんとして、姫御前の身のつまからげ、ほんに気まゝなうき世わたりは、うれしからふじやないかいな、といふをきゝてよめる
 此比のいなか風とてもはやす狂歌に心のべの若草
 けふの舟うれしからふじやないかいな隅田川原のうき世わたりは」

〈『蜀山人判取帖 補正』に「卯月廿二日山手白人のあそのすみだ川へ舟逍遥し給日とあり」〉
巴人集②402天明3年
1783/04/
とみのこうじさだなお
富小路 貞直
「富小蕗殿貞直卿より (歌なし)
 返し 千金の富の小路のたまものを拝してよものあからめもせず」
をみなへし②20文化4年?
1807/?
とみもといつきだゆう
富本 斎宮太夫
「長月廿一日の夜、豊岡大守もみまへにて、富本斎宮太夫が浄るりをきゝ侍りて
 此とのはむべも富本浄るりのみつばよつばに番組をせり
 三味線もよくなりひらのあい方はいつきのみやときくぞうれしき」

「梅川忠兵衛の一曲をきゝて 千金の富本流をきく月の廿日あまりに四十両かも」
巴人集②418天明3年
1783/09/21
「富本斎宮丈が豊前太夫に倍して肥前に之くを送る
 肥前は旧(モ)と是れ操り人形  何事ぞ斎宮此亭に向ふ
 日々に弾き連る三味線  時々来往す二丁町
 大夫の床の脇き見台黒く  贔屓連中引幕青し
 豊竹変して豊後の地と為る  知んぬ君が高慢聴くに堪えざらんことを」
壇那山人
藝舎集
①452天明4年刊
1784
とみもとぶぜんだゆう
富本 豊前太夫
 富本豊前太夫 (別資料)
とやまのかすみ
外山 霞
「師走十三日、外山霞とみに身まかりけるに【法号宝華院釈清光】 いかにして外山の霞へだてけん宝の花の清き光を」
〈『江戸方角分』に「大久保御タンス町住。野村梅翁」南畝の甥(長姉の子)〉
紅梅集②378文政2年
1819/12/13
とよしま
豊島 (芸者)
「廿三日 柳長と約し、例の二歌妓の病後をなぐさめんとて、亀沢の別業にゆく(中略)豊島病後にて、酒のまず、物くはず(中略)豊島にうたかきてあたふ
 とよあきつみづほの島の名にしおふ島こそ島のはじめなりけり 又お益が来りなば、二人にかきあたへんとて、よみをきけるうた
 此ごろのかのこまだらの雪みれば心ます/\うき島が原」
細推物理⑧365享和3年
1803/05/23
「擁書城の小集。歌妓阿勝・豊島を迎ふ。而して勝至らず。勝、駿河台に住す
 培塿無松柏 書城列鼓鐘 駿河雲霧隔 不見玉芙蓉」
「南畝君に酬い奉る 鈴木 恭 鴬口翻楓葉 鬢雲連鳳釵 莫将楊柳陌 不及駿河街」
 〈鈴木恭の識語に「嶋の姿色技芸、遙かに勝を超へ、及ばざる所は款待の妙のみ」とあり〉
南畝集19
漢詩番号4105
一話一言巻50
④375
⑮347
文化12年
1813/11/05
とよなか
豊仲 (芸者)
「うたひめ豊仲が扇に 三味線のね心もよき世ならばとよももゝ夜も座敷重ねん 同おれんが扇に さみせんにうき世の塵をあらひ髪心の角もおれんとぞきく」放歌集②201文化9年
1812/08/
とよのぶ いしかわ
石川 豊信
「折句 飯盛か父の死しけるときいしかはしうはをとふらふといへる十二の文字を上下の句の上におきてよみてつかはしける 四方赤良
 いしうみをたつる飛脚はゆきとゝけ しらぬ根の国底の国まて
 かしつきし父のみさとりさきたてゝ はゝはそはから気をやいたむる
 しての山こへて七日になりぬれと うちは涙の川つかへかな
 はてしなき涙てのりをこへぬらん 老たるとしに不足なければ
 とよのふとかきし紅絵のすり物も 筆のあととへかたみとそなる
 来世には蓮のうてなをきつき置て ふしんもいらすすくに極楽」

〈『万代狂歌集』は文化九年の刊行だが、石川豊信は天明五年五月二十五日逝去。
『万代狂歌集』は『江戸狂歌本選集』8巻〉
万代狂歌集
p210天明5年
1785/05/25
「石川豊信秀葩墓碣銘  大田覃 嗚呼余髫齔時。聞石川秀葩之名久矣。凡都下児女所玩図画人物花卉、至於繊姿弱質、意穠容冶、袨服靚粧、綺麗粲目者、皆曰秀葩。秀葩度越流品。名伝一時。後数歳、初見其子相。又見其父秀葩翁。乃知秀葩為都下逆旅主人。翁没。子相状行請余銘焉。余既哭弔辞。按状。曰。翁諱豊信。号秀葩。石川氏。武蔵州豊島郡。江戸人也。父宗貞。称五郎兵衛。母和田氏。正徳元年辛卯。生翁于江戸。幼喪父。為高原又七道佐所養。有加藤七兵衛浄慶者。見翁質行謂可妻也。以其女妻之以嗣其家。時年二十五。生二男二女。皆夭。延享三年丙寅。翁喪其妻。浄慶又以次女妻之。生二男一女。男長則子相。名雅。次男長女先死。天明五年乙巳。夏五月二十五日。病終于家。年七十五。葬于浅草河上。黒船街。正覚寺。翁事親孝。居家倹素。行修潔。足不渉倡門酒肆。而挙腕能描人物。曲尽其姿態。抑可謂奇矣。凡行旅之出於東都者。率舎於伯楽街。及伝馬小街。而翁居伝馬小街。迎労必謹。飲飫必豊。是以担簦躡蹻者。皆悦而願舎於其家矣。故家産亦苟完。自不至於匱乏。間則読書。或作詩。亦不経意云。子相性直而趨義。言不苟合。好学節用。以幹家事。翁其有子哉。銘曰。後素之質。発諸毫楮。可以寓心。豈為重糈。退隠于市。隠得其所。天地万物。孰不逆旅」序跋等拾遺⑱580天明5年
1785/05/25