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(浮世絵師・狂歌師・役者・遊女・芸者等、当世の人物) |
人名 | 詞書・詩歌 | 出典 | 巻・頁 | 年月日 | |
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どうみゃく 銅脈先生 | 「遙に寐惚先生に寄す 道楽意見重り 親類相談催す 直(ズイ)行(イキ)其夜短く 朝飯過て未だ回らず 近日追出されれば 忽ち関東に向て之ん 戯気(タワケ)尽して又尽さば 偶々寐惚の知る有らん」 「銅脈先生の寄せらるるに和答す 四角なる字を知しより 貧乏転た相催す 文盲大才多く 腹筋日に九回す 偶々太平楽を読む 御作又之有り 始て識る我が姓名 君能く御存知」 | 二大家風雅 | ①507 | 寛政2年刊 1790/07/ | |
とくほん 徳本 和尚 | 「南紀の徳本上人、東都に来たりて伝通院に寓す。男女麇至す | 南畝集18 漢詩番号3915 | ⑤321 | 文化11年 1814/08/ | |
「徳本和尚遷化ときく【十月七日といへども実は九月廿二日となん。九日の葬礼人多くつどへり】 名蓮社号誉上人、称阿弥陀仏徳本行者。遷化十月七日といへども実は九月廿二日となん。九日の葬礼人おほくつどへり」 | 一簾春雨 | ⑩487 | 文政1年 1818/09/22 | ||
「徳本和尚遷化とききて 蜀山 名蓮社号誉上人、称阿弥陀仏徳本行者」 | 紅梅集 | ②355 | 文政1年 1818/10/07 | ||
とせ (芸者) | 「十三夜、酔月楼にて二人の白拍子の三すぢのいとひきけるをきゝてよめる。そのふたりの名は千代・とせとなんいひける | 万載狂歌集 | ①10 | 天明2年 1782/09/13 | |
「山手白人・あけらかん江・地口有武などゝ同じくすみ田川に舟逍遙し侍りし時、おちよ・おとせといへる二人のしら拍子の今様うたふをきくに、野辺の若草むすぼんことを、いなか風とて花染ちらし、梅のかほりのつんとして、姫御前の身のつまからげ、ほんに気まゝなうき世わたりは、うれしからふじやないかいな、といふをきゝてよめる けふの舟うれしからふじやないかいな隅田川原のうき世わたりは」 | 巴人集 | ②402 | 天明3年 1783/04/ | ||
とみのこうじさだなお 富小路 貞直 | 「富小蕗殿貞直卿より (歌なし) 返し | をみなへし | ②20 | 文化4年? 1807/? | |
とみもといつきだゆう 富本 斎宮太夫 | 「長月廿一日の夜、豊岡大守もみまへにて、富本斎宮太夫が浄るりをきゝ侍りて 三味線もよくなりひらのあい方はいつきのみやときくぞうれしき」 「梅川忠兵衛の一曲をきゝて | 巴人集 | ②418 | 天明3年 1783/09/21 | |
「富本斎宮丈が豊前太夫に倍して肥前に之くを送る 日々に弾き連る三味線 時々来往す二丁町 大夫の床の脇き見台黒く 贔屓連中引幕青し 豊竹変して豊後の地と為る 知んぬ君が高慢聴くに堪えざらんことを」 | 壇那山人 藝舎集 | ①452 | 天明4年刊 1784 | ||
とみもとぶぜんだゆう 富本 豊前太夫 | | ||||
とやまのかすみ 外山 霞 | 「師走十三日、外山霞とみに身まかりけるに【法号宝華院釈清光】 | 紅梅集 | ②378 | 文政2年 1819/12/13 | |
とよしま 豊島 (芸者) | 「廿三日 柳長と約し、例の二歌妓の病後をなぐさめんとて、亀沢の別業にゆく(中略)豊島病後にて、酒のまず、物くはず(中略)豊島にうたかきてあたふ | 細推物理 | ⑧365 | 享和3年 1803/05/23 | |
「擁書城の小集。歌妓阿勝・豊島を迎ふ。而して勝至らず。勝、駿河台に住す 「南畝君に酬い奉る 鈴木 恭 | 南畝集19 漢詩番号4105 一話一言巻50 | ④375 ⑮347 | 文化12年 1813/11/05 | ||
とよなか 豊仲 (芸者) | 「うたひめ豊仲が扇に | 放歌集 | ②201 | 文化9年 1812/08/ | |
とよのぶ いしかわ 石川 豊信 | 「折句 飯盛か父の死しけるときいしかはしうはをとふらふといへる十二の文字を上下の句の上におきてよみてつかはしける 四方赤良 かしつきし父のみさとりさきたてゝ はゝはそはから気をやいたむる しての山こへて七日になりぬれと うちは涙の川つかへかな はてしなき涙てのりをこへぬらん 老たるとしに不足なければ とよのふとかきし紅絵のすり物も 筆のあととへかたみとそなる 来世には蓮のうてなをきつき置て ふしんもいらすすくに極楽」 『万代狂歌集』は『江戸狂歌本選集』8巻〉 | 万代狂歌集 | p210 | 天明5年 1785/05/25 | |
「石川豊信秀葩墓碣銘 大田覃 | 序跋等拾遺 | ⑱580 | 天明5年 1785/05/25 |