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   人物編Ⅰ  大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌〔人物編Ⅰ〕   大田南畝関係
  (浮世絵師・狂歌師・役者・遊女・芸者等、当世の人物)
  【お】※浮世絵師は名前別。◯は欠字、◎は表示不能文字
人名詞書・詩歌出典巻・頁年月日
おうぎ の すえひろ
扇 末広 (吉原)
「北里扇末広が柱かくしに、東方か金馬門にかくれんよりは北方の大門口に入にしかじと書て
 くれ竹のよを大門にさけきげん心やすくもおきふしみ町」
狂歌才蔵集①47天明7年刊
1787/01/
おうぎ の すえひろ
扇 末広 (長崎)
「長崎名村氏進八たはれうたの名をこふに、扇末広〈あふぎすゑひろ〉と名づけて
 いく千代をあふぎが島の末広くさしいる舟や要なるらん」
放歌集②197文化9年
1812/06/
おおい
大井
「遊女大井がかける山水に 嶋田よりちゝの金谷へわたるまで大井の川のとをき水あげ」七々集
万紫千紅
②259
①290
文化12年
1815/09/
おおい の かわあけ
大井 川明
「島田氏狂名をこふまゝに、大井川明となづく
 島田から通るは歌の御状箱俊成卿の九十川でも」
あやめ草
千紅万紫
②74
①236
文化7年
1810/05/
おおい の かわず
大井 蛙
「大井のむさと、名を蛙とあらため給ひければ
 みな人のむさとのぞきし大井こそふかきかはづの歌ぶくろなれ」
「大井蛙のもとより、こし(越)のくに紙とうに(雲丹)といへるものを壺にいれておくられけるに
 たま物もありがたんざくしきしまの道しある世にすみ流しとて
 あめつちのひとつの壷をあけみればげにも無中のうにのあぢわひ」
巴人集②395天明3年
1783/02/
おおい の むさと
大井 むさと
「大井のむさと、名を蛙とあらため給ひければ
 みな人のむさとのぞきし大井こそふかきかはづの歌ぶくろなれ」
巴人集②395天明3年
1783/02/
おおく の たびと
多 旅人
「多旅人におくる 此宿にちゝんぷい/\入来るおほんたからのおほき旅人」
〈伯楽連の会日が四日であることから、四月四日とした〉
巴人集②399天明3年
1783/04/04
おおね の ふとき
大根 太木
「大根太木十五番狂歌合判詞奥書
 そもそも和歌のうら店に借宅し、泉がそまつなる身の分にて、批判を何と正札付の符帳もわいだめず、和歌三神をかけねなしの安売して、十露盤の玉をみがきける (中略)
 やすらにながき七のとし文月十あまり六日」
四方のあか①131安永7年
1778/07/16
「(安永八年)八月十三夜、山田屋何がしを思ひいで侍りて〔欄外。山田屋半右衛門、綽名号雁奴、亦号大根太木、松本氏〕
 今ははや死出の山田となる人のおもかげのこる半えもんつき
 なか坂やなかねばならぬなき人をたれもあはれといひ田町哉」
 〈赤良の大根太木追悼詠〉
月露草⑱19安永8年
1779/08/13/
「大根太木が一周忌に、寄柏町懐旧といふことをひと/\よみ侍りけるに
 引き臼の一周りにもなりにけり過し昔の懐かしは餅」
〈この一周忌は上出から安永6年と考えられる。柏餅とあるから5月であろう。すると大根太木は安永8年5月頃に亡くなったのではないか〉
万載狂歌集①12安永9年
1780/
「飯田町鳫奴のもとにやどれりけるに、となりのからうすの音におどろかされて
 ごぼこぼとふむからうすに目さむれば東しらける飯田町かな」
〈雁奴は狂歌名・大根太木の俳号。『奴凧』に「ガンヌ」のルビあり⑩467〉
をみなへし②10未詳
おおはら の あんこう
大原 あん公
「周春日賀海老蔵夷歌 あんかうのはらは何より大入を祝ふちとせのつるしきり幕」江戸花海老①99天明2年
1782/11/
おおはら の ざこね
大原 雑魚寝
「大原雑こ寐におくる 大原のざこねがよめる歌のとく男女の中は得手物」
〈伯楽連の会日が四日であることから、四月四日とした〉
巴人集②399天明3年
1783/04/04/
おおめしのくらんど
大飯 食人
「大飯食人が、もりつけて五はいくらゐは物かはの蔵人どのもゆるし給はれ、とよみけるをんみ侍りて
 待宵の夜食に五はいくらんどはいか物くひの物かとはしる」
巴人集②416天明3年
1783/09/
「大飯食人のもとより、その国のかみのしり給ふ下野の原、さのゝいもがらをおくられければ
 しもつけのさののふなばしとりあへずこのいもがらにあふぞうれしき」
巴人集②425天明3年
1783/12/
「悼大飯食人祭文
 水すまば先赤ゑひをあらふべし、にごらば蛸の足をあらはんとよみて、浮世の茶漬一ぱいとも思はざりし大飯食人、かりそめの病にふし侍しが、つひにきたのまくらめしとなり侍しときゝて、例のたはれたる友どち、みそひともじの精進ものに、其人のとしの数三十五さいのかげ膳をすゑぬ。みたまそれしる事あらば、こひねがはくはうけよといふ」
四方の留粕①217天明5年
1785/06/03
おおそれながら
大曽礼長良
「大曾礼長良におくる おほそれのながらの橋のつきしなき狂歌をもつて申上候」
〈伯楽連の会日が四日であることから、四月四日とした〉
巴人集②398天明3年
1783/04/04
「大曾礼長良、長月の比、亀戸むらに山里をもとめければ、おの/\下屋鋪によする祝といふ事をより侍りし時
 よく咲やかかえ屋しきときく月は千代ませがきの花に縁あり」
巴人集②416天明3年
1783/09/
おおもん の きわなり
大門 喜和成
「いたみ諸白序  子のおやにおくるゝは順なり。おやに子の先だつは逆なり。おくるゝものハもとの雫。さきだつものは末の露。逆にお先へ参るも可なり。順にお跡へのこるもよし。たゞにおやと子のみならんや。おほぢうばひうばひおほぢこと/\く死なずにいてはと。此道の先達の雄長老の詠給ひしごとく。上つかたハ情なし。下つかたハ情に及ばず。その中たんぼのくぼたまりに。情のあつまる所はたそ。大門のきわなり。旅寐を思へば千さとの外、よはひをとへばわづかに十七、たちまちあの世へいたみもろはく。声を呑ても哭さざらめや。天明四のとし盂蘭盆の比 四方赤良
 大門んのきわまでもまだ行つかず人間わずか五十間道」
いたみ諸白序

『天明文学』
濱田義一郎編
p372文化13年
1816/01/
おおや の うらずみ
大屋 裏住
「日ぐらしの会のあくる日、大屋うら住、銀杏みつかど、坂月米人、紙屋丸彦などと潮干狩すとて、けふも又馬鹿をつくだの塩干がりきのふは山にひぐらしの里、後万歳集、鳫金をかへした跡も桜がり塩干とまでにかりつくしたり」
〈『狂歌知足振』酒上不埒序「過し弥生の十九日、日ぐらしの里狂歌大会の節布袋堂の前にてひらき候まゝ」とあり〉
巴人集②397天明3年
1783/03/20
「大屋裏住がふすまに梅のかたかきたるを見侍りて
 色も香も名にしおほ屋にさく梅の花をみそかのやみはあやなし」
巴人集甲辰②435天明4年
1784/02/
「さつき十一日、萩の屋翁大屋裏住身まかりしとききて
 長櫃と思ひしものを重箱のを(ママ)萩となりぬ秋もこぬまに」
万載狂歌集②73文化7年
1810/05/11
おがわ まちずみ
小川 町住
「小川町住・沢辺帆足・ふしわらの中貫・酒呑親文などゝ墨田川に逍遙し侍りて
 酒をのみ肴をくへばすみ田川たとひ狂歌はありやなしやと」
巴人集②407天明3年
1783/05/
おのえ えいざぶろう
尾上 栄三郎 初代
「尾上松助、同栄三郎がわざおぎを祝して
 高砂の松の栄を三の朝尾上のかねひゞく大入」
をみなへし②43文化6年
1809/07/
「小田原町柳屋のもとに沢村訥子・尾上三朝来りければ、此ほどの狂言を思ひいでゝ
 一鉢に植し松王さくら丸にほんのはしの柳屋のもと」
放歌集②164文化8年
1811/08/
おのえ きくごろう
尾上 菊五郎 三代
 尾上菊五郎3 (別資料)
おのえ しょうろく
尾上 松緑
「尾上松緑・松助父子を祝して 周の春殷の柏のわか緑名は夏后氏の松をもつては」あやめ草②56文化6年
1809/12/
おのえ まつすけ
尾上 松助
「尾上松助、同栄三郎がわざおぎを祝して
 高砂の松の栄を三の朝尾上のかねひゞく大入」
をみなへし②43文化6年
1809/07/
「尾上松緑・松助父子を祝して 周の春殷の柏のわか緑名は夏后氏の松をもつては」あやめ草②56文化6年
1809/12/
おの らんざん
小野 蘭山
「郊行
 担頭花卉色班々 五歩薫風十歩間 百種千名々不辨 使人長憶野蘭山 【小野蘭山、心を本草に潜め、能く草木を識る。今や則ち亡し】
南畝集19
漢詩番号4042
⑤360文化12年
1815/05/
おやまだ ともきよ
小山田 与清
「松屋主人よしのゝ花みて帰るに
 花ぐはしさくらさく比いかゞとぞよしのよくみし人にとはばや」
紅梅集②339文化15年
1818/04/
おんなきみ
女君
「お玉が池にてみ奉りし女君のもとより加賀紋の絹を給はりければ
 池の名のお玉ものとて末広きうゐ冠の梅がかが紋」
七々集②261文化12年
1815/10/