Top      浮世絵文献資料館 人物編Ⅰ
 
   人物編Ⅰ 【な】大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌 〔人物編Ⅰ〕大田南畝関係
  【中村 歌右衛門 三代目】(なかむら うたえもん 3)◯は欠字、◎は表示不能文字
詞書・漢詩・狂歌出典巻・頁年月日
「郭公【欄外、文化五年戊辰芝翫初下の時の歌也】
 座頭のてへんかけたる歌右衛門下駄も血になく初郭公
  甚矣江戸ッ子之気之衰也、久矣吾不復夢見白猿
 江戸っ子の水市川のおめおめとなど京談の下駄をいたゞく
 公家悪の背負てたゝれぬ葛篭など大入なれど舟月が雛
 若い衆の骨折ゆへに傘にたてもつきぬく金の勢い
 いづ平が節も覚へぬ二才どもめづらしさうにみる猿廻し

  いづ平は泉屋平兵衛八重大夫が事也
「芝翫事上手は上手に候へども、初下りの節、座頭市川男女蔵を下駄にて叩き候狂言いたし候。男女藏は下手に候へ共、市川と申し候名字は、江戸ッ子の大切なる名字也。下駄にて叩き候狂言、作者より申付け候とも辞退可致処、其義押て座がしらと成り、江戸の狂言の風俗を破り候間、上手なれども江戸者の風上に可置ものに無之、早々帰国為致たく候。新場は上方多く候間、ひいきも有之、小田原町は真の江戸ものに候。是もどうか不知の由に御座候。上方役者、上方儒者、皆々大嫌に候也」(文化八年、竹垣柳塘宛書簡179・⑲241)
 江戸ッ子の随市川のおめ/\となど京談の下駄をいただく」
をみなへし②32文化5年
1808/04/
「さるなまけたる上方もの江戸のことなん事をねがふよしをきヽて
 大谷歟千日へゆけ大江戸は土一升に金が一升
 大あたり大あたりとは金元と帳元座元よみと歌右衛門
 ねぶたくて朝はとうからゆかれねば無言の幕はみずにだんまり」
②33文化5年
1808/04/
「五月十七日歌右衛門三階にて打れしよしをきゝて
 うつものもうた右衛門も又かはら者くだけて後はもとの大入」
②33文化5年
1808/05/17
「みな人こぞりてめできこゆるわざをぎをあざける 五常軍甘輝のやうな清盛はげに小芝居の翫びもの
中村芝翫が事也。清盛の装束天冠に唐装束」〈中村座「御摂恩賀仙」〉
②36文化5年
1808/11/
「淮南子の邪許は江戸ッ子はきやりうたなり。隣の松助うしろの豊前にもはづべし
 いかほどに梅の加賀やがうなるとも松と柳に及ぶものかわ 加賀や中村歌右衛門芝翫が事也」
「深川浄心寺の妙見北辰祠。芝翫の営む所なり
 浪華曾識俳優名 都下喧伝競劇評 拝斗新成堂構美 由来一箇野狐精」
南畝集17
漢詩番号3301
⑤142文化6年
1809/12/
「堺町の番付に中村歌右衛門が名の左右をあけて書しもおかしくて
 江戸ものの仲間はづれの歌右衛門左右のすきて見ゆる番付」
あやめ草②59文化7年
1810/01/
「中村歌右衛門、忠臣蔵の寺岡平右衛門に菖蒲がはの衣きざるを嘲る
 菖蒲皮きぬ足軽は虎の皮のふんどしをせぬ鬼も同前
 菖蒲皮きぬ足軽のみえ坊は寺岡ならぬ米や平右衛門
 菖蒲皮きぬ足軽はものゝふの鎌倉風をしらぬ上方」

〈竹垣柳塘宛、八月九日付書簡にも同狂歌あり。書簡番号176〉
放歌集
書簡
②202
⑲238
文化8年
1811/08/09
「中村芝翫が番付に兼ルといふ字を書しをみて
 当今の御諱をも憚らず書ちらしたる上方役者
 浄るりの義太夫ぶしも内職にかねがね是をかねるとぞきく」
放歌集
書簡178
②202
⑲240
文化8年
1811/10/12
「芝翫が一寸法師の狂言をみて
 三丈のゐたけ高なるかけ声におそれてちゞむ一寸法師
 花道をちよこちよこ出る座がしらは膝がしらとぞいふべかりける
 ちよこのちよこ平といへる名なればなり」
〈中村座「吾嬬花岩井内裡」〉
放歌集
書簡183
②172
⑲245
文化8年
1811/11/
「芝翫をほめてうたよめと人のいひけるに はいりさへすればかまはずなには江のよしといふ人あしといふ人」放歌集②178文化9年
1812/02/
「贈中村芝翫
 狂言のやまとうた右衛門山姥も小春のにしき着てや帰らん
 山姥名残山又山 狂言大入五年間 吾妻贔屓兼京摂 柳緑花紅色々顔」

〈中村歌右衛門帰阪、名残狂言「嫗山姥」中村座〉
放歌集②202文化9年
1812/09/
「中村歌右衛門、十月十六日の舞納より、下駄はきて近きわたりにゆくふりにて、たゞちに甲州道中をへて浪花にかへりしが、その妻子はあとにのこりて、はつかすぎて女切手など乞ひうけて東海道を上りしが、川崎といふ所にて雲助四十人斗出て酒手をこひければ、こがねあまたとらせしが、これよりゆくさきも又かくのごとくならんと、ひとまづ江戸にかへりしときゝて
 歌右衛門下駄ながらこそにげにけれ女の切手間にあはずとや
 うた右衛門は上下のもの五人やとひて金十五両遣しけるとぞ。その妻の川崎にて酒手をこはれしは三拾五金ばかりとなん此比の世がたりなり」
放歌集②202文化9年
1812/10/
「戯を看る
 戯房吚軋荷肩輿 聡慧Y鬟出女閭 二妙一台双白璧 宛然廉頗藺相如」
【秀佳、角觝濡髪に扮し、芝翫、放駒に扮し、多門、Y鬟に扮す。戯、双蝶々と名づく】
南畝集18
漢詩番号3905
⑤318文化11年
1814/07/
「ことしの春中村芝翫のわざおぎに其九重彩色桜といふ九変化のかたかきたる豊国が絵に、四季のうたよめと芝翫の
 もとより乞けるに、よみてつかはしける
 春 文使い 老女の花見 酒屋調市  けそう文つかひは来り酒かふて頭の雪の花やながめん
 夏 雨乞小町 雷さみせんをひく  雨乞の空にさみせんなる神のとゞろ/\とてんつてん/\
 秋 やりもち奴 月の辻君  辻君の背中あはせのやつこらさやりもち月の前うしろめん
 冬 江口の君 石橋  冬牡丹さくやさくらの花の名の普賢象かも石端の獅子」
〈市村座三月興行「其九重彩色桜」中村歌右衛門の九変化所作事〉
「中村芝翫、餞別に硝子もてつくれる手拭かけを贈るとて
 引戻す手ぬぐひかけは浪花津の大手笹瀬の連城のたま」〈七月、歌右衛門の上坂名残狂言あり〉
六々集②252文化12年
1815/07/
「中村芝翫の舞台にてゑがける吃の又平の像に
 上方の役者は性がきらひじゃといはんとしては吃の又平」
〈中村座七月廿八日より「傾城返魂香」興行。中村歌右衛門の吃又平〉
七々集
万紫千紅
②265
①293
文化12年
1815/08/
「乙亥秋日劇場の事を紀す
 芝翫は去んぬ 市鶴は之れが奴と為り 来芝は飛んで逃ぐ
 江子(エドツコ)曰く 坂に三の津有り 狂言冷色鮮矣人(スクナイカナジン)

 芝翫が句に、漕戻すあとはやみなれ花火舟、といふ秀佳のもとよりおこして評をこひければ
 年々の花火はたえず川開き
 又内々よみしは 三津又の花火はたえず川びらきぬしでなければ夜は明いせん
  下の句は此比のもてはやせる青楼のことばもて役者を評せしことばを用ひたり」
七々集②255文化12年
1815/09/
「坂東秀佳【三津五郎】、中村芝翫【歌右衛門】やりもち奴のわざおぎの画に
 大和やと加賀屋と江戸と大坂の奴は外にまたないまたない」
七々集
万紫千紅
②265
①293
文化12年
1815/10/
「芝翫の芝居に出しより大入となりしをみて
 あすよりは茶粥すすりて八里半やきいもくふて世をわたらばや」〈中村座「鎌倉三代記」二月下る〉
紅梅集②325文化15年
1818/02/08