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   人物編Ⅰ 【い】大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌 〔人物編Ⅰ〕大田南畝関係
  【岩井 半四郎 五代目】(いわい はんしろう 5)◯は欠字、◎は表示不能文字
詞書・漢詩・狂歌出典巻・頁年月日
「早春、清河氏の宴集。優杜若・三紅坐に在り
 山郭移舟向海浜 食医樽酒進奇珍 春初月地千金夜 燈下梨園両玉人
 入老益生当壮気 知雄愈見守雌真 当時色藝誰殊絶 最是芳州杜若新」
南畝集17
漢詩番号3312
⑤145文化6年
1809/01/
「清河玄同といへるくすしと岩井杜若のうはさしければ、杜若によみてつかはしける
 音たかき岩井の水を清河の流の末にきくぞゆかしき」
をみなへし②39文化6年
1809/05/
「早春、清河氏の宴集。優.杜若・三紅坐に在り
 山郭移舟向海浜 食医樽酒進奇珍 春初月地千金夜 燈下梨園両玉人
 入老益生当壮気 知雄愈見守雌真 当時色藝誰殊絶 最是芳州杜若新」
南畝集17
漢詩番号3311
⑤145文化7年
1810/01/
「金馬亭にて岩井杜若が羽織のうらに書てつかはす
 蓬莱山にちとせふる、万歳千龝かさなれり、松の枝には鶴すくひ、岩井の上に亀あそぶ
これなん祇王が君があげこし、静がしづやしづとうたひし今様ともいふべきかも」
あやめ草②58
「席上(金馬亭)作 岩井流清杜若叢 市川団助字三光 更迎花井朝比奈 築地笑談対善公」
〈「団助三光」は市川団之助三紅〉
「杜老といへる二字を岩井杜若に書てもらふとて 少陵の野郎帽子の紫のゆかりの色の名をかきつばた
 けふより蜀山の杜老ともいはんかし」
あやめ草②59
「岩井杜若がわざおぎに墓よりほりいだしたるかたをみて
 むさらきの江戸の根生のかきつばたほり出してこそみるべかりけれ
 目のあたへ口のあたへも千両をたかにせん両かねのやまとや
 俳諧は夏和歌は春いつとてもあたりはづさぬかきつばたかな」
あやめ草②64文化7年
1810/02/
「板東三津五郎・岩井半四郎、大のしやと書たる傘をさして出しわざおぎに
 浄るりの幕は大いり大のしの相合傘のやまと大和屋」
あやめ草②70文化7年
1810/03/
「杜若が藝を見て 麻のはのかのこまだらに業平のひしこそ立のふじの大和屋」あやめ草②71文化7年
1810/04/
「市村の芝居に新場のものゝ喧嘩ありときゝて、岩井杜若の事をよめる
 われも又岩井の水をくみぬれば新場の事のはやくすめかし」
放歌集②164文化8年
1811/08/
「岩井杜若がしづか御前のわざおぎをみて 薙刀で心しづかになぎちらせ小山の開山よしのやまとや」放歌集②167文化8年
1811/09/
「木挽町芝居にて岩井半四郎、しら井権八もどり駕籠の狂言大入ときゝて、岩井杜若のもとによみてつかはしける 顔みせの花のかげ膳すへてまつ堺町へはいつもどり駕籠」放歌集②168文化8年
1811/10/
(文化九年、顔見世狂言の詠、成田不動・団十郎、矜迦羅童子、松本幸四郎)
〈石塚豊芥子編『街談文々集要』所収〉
「同(成田屋不動明王)脇立、勢多迦童子、岩井半四郎
 我先とせきに勢多迦木挽町ひゝやひゐきの人の大和屋」
追補二
(狂歌等)
別p102文化9年
1812/11/
「甲戌の春 (「大つごもりの装束榎に狐火見んといひ、~」の狂文省略)
 詩は五山役者は杜若似和嘉(傾はかの)藝者は御勝料理八百善」
〈当時全盛のもの、詩は菊池五山、役者は岩井半四郎、傾城はかの、芸者はお勝、料理は八百膳。狂文の全文は「人事編」の文化十一年の「述懐」か「時候編」の「春」一月の「吉書始め」参照〉
巴人集拾遺②480文化11年
1814/01/
「岩井杜若がうつし絵姫のわざおぎをよめる 豊国がうつし絵姫のうつし画も及ばぬ筆の毛延寿哉」
〈市村座「増補富士見西行」〉
六々集②250文化12年
1815/02/
「岩井杜若がわざおぎをたゝえて
 杜若一もとゆへに紫の朱をうばへる女しばらく
 みつ扇まねくこがねのやまと屋は日本一の花のかほみせ
 見物は日々にあらたに又日々にはいる女の銭湯の盤」

「杜若に玉盃を贈るとて 硝子をさかさにくめばうつくしき玉のさかづき大入のさけ」
〈河原崎座「大和名所千本桜」世上、今年の顔見世を、立役の多い中村座を男湯、若女形の多い河原崎座を女湯と評す〉
七々集
万紫千紅
②278
①295
文化12年
1815/11/
「岩井半四郎ふきや町へ下るときヽて
 から衣きつつなれにしかきつばた花のおほみせよい折句也
 大入の人の大和屋まちわびし花の吾妻風ふきや町」
をみなへし②52文政5年
1822/11/
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