| 浮世絵文献資料館 | |
| 大田南畝(四方赤良・蜀山人)の詩・狂歌 |
「長月廿日、吉田蘭香のもとにてはじめて市村家橘にあひて 「けふなん中興全枝半太夫が三回の忌日なりとて、原夏若の三味線にて家橘半太夫をかたりければ 「をなじく夏若の三味線にて誌仲の源平兵揃蓮生道行の段をかたりけるにとりあへず太夫元の舞出ければ 返し 市村家橘 はじめての連中様へ蓮生の道行かゝりさてもめいわく」 「東牛斎にて布留糸道のさみせんにあはせて誌仲といへる翁、源平つはもの揃蓮生道行の段をかたりけるに、橘大夫舞ければ | 巴人集 徳和歌後万載集 | ②418 ①33 | 天明3年 1783/09/20 |
「長月廿あまりひとひ、市村家橘わがやどりをとひ来りたはれ歌の名をこひ侍りしかば、橘太夫元家と名づけ侍るとて | 巴人集 | ②418 | 天明3年 1783/09/21 |
「大草屋しきの袖すりの松見のもとにて、吉田蘭香・布留糸道・橘太夫元家など酒のみけるに、あるじの庭ちかき一本の松の大きなるを袖すり松といへるよしをきゝて、かの太夫はいかいのほく、肌寒さ袖すり松にわすれけり、といふをきゝて | 巴人集 | ②420 | 天明3年 1783/10/ |
「橘大夫元家、葺屋町の芝居やすみて堺町にてみつ人形のわざをぎしける時申つかはしける。天明五のとしきさらぎの比なりけり | 狂歌才蔵集 | ①47 | 天明5 1785/02/ |
「市村家橘、狂名を橘太夫元橘といふ、天明五年二月十八日より堺町へスケに出て、三ッ人形の所作事大入也、此時、狂歌連中、三枚の摺物、各二百枚づゝおくる、これ芝居狂歌すり物のはじめ歟」 「天明五年巳八月二十五日、五(ママ)代目市村羽左衛家橘死、致興院譲誉保寿居士 寺は本庄押上大雲寺」 | 俗耳鼓吹 | ⑩29 | 天明5 1785/08/25 |