Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ としかた みずの 水野 年方浮世絵師名一覧
〔慶応2年(1866)1月20日 ~ 明治41年(1908)4月7日・43歳〕
 ※〔東大〕:『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』   『【明治前期】戯作本書目』山口武美著 日本書誌学大系10   「近代書誌・近代画像データベース」国文学研究資料館    角書は省略  ☆ 明治十年前後(1877)  ◯『増補 私の見た明治文壇1』「明治初期の新聞小説」1p88   (野崎左文著・原本1927年刊・底本2007年〔平凡社・東洋文庫本〕)    「(八)新聞挿画の沿革」   〝明治初年の新聞さし絵の画家といへば、前記の落合芳幾、月岡芳年、小林永濯、山崎年信、新井芳宗、    歌川国松、稲野年恒、橋本周延(ハシモトチカノブ)、歌川国峰(ウタガワクニミネ)、筒井年峰(ツツヰトシミネ)、後藤芳景    (ゴトウヨシカゲ)の諸氏に止(トド)まり、後年名を揚げた右田年英(ミギタトシヒデ)、水野年方(ミズノトシカタ)、    富岡永洗(トミオカエイセン)、武内桂舟(タケウチケイシウ)、梶田半古(カジタハンコ)の諸氏は挿画の沿革から云へば第二    期に属すべき人々で、久保田米僊(クボタベイセン)氏が国民新聞を画き始めたのも亦此の後期の時代である〟     ☆ 明治十三年(1880)    ◯「合巻年表」(明治十三年刊)    〈見返し担当の画工〉    水野年方画    『霜夜鐘十字辻筮』三編 大蘇芳年画 見返し「年貞」「年方」武田交来作 船津忠治郎板〔東大〕    『冠松真土夜暴動』前編 大蘇芳年画 見返し「年貞」「年方」武田交来作 船津忠治郎板〔東大〕    ☆ 明治十六年(1883)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治年十六刊)    水野年方画    『絵本忠義水滸伝』口絵 芳年・挿絵 年参、年方 清水市次郎 菱花堂(巻4-31 3-12月)            〈挿絵、年参は巻28まで、12月刊の巻29から年方〉  ☆ 明治十七年(1884)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十七年刊)    水野年方画    『絵本忠義水滸伝』口絵 芳年・挿絵 年方 清水市次郎 菱花堂(巻32-55大尾 6月)    『絵本通俗三国志』口絵 芳年・挿絵 年方 清水市次郎 菱花堂(巻13-17 6月)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(明治十七年刊)   「衛生寿護禄」「応斎年方画」石川恒和 明治17年11月 ⑤⑩    ☆ 明治十七・八年頃(1884・5)  ◯「大蘇芳年のこと」(中島誠之助談『集古』所収 昭和十七年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション『集古』壬午(2)7-8/13コマ)   〝(月岡芳年門人、昭和十七年(1942)当時七十五才の中島誠之助翁の談、入門した頃)    当時は年方が塾頭格、其次が年英、年方は通ひでしたが、年英は住み込みであつた様に覚えて居ります〟    〈中島翁が芳年入門したのは17・8才頃という、逆算するとこの「当時」とは明治17・8年頃に当たる〉  ☆ 明治十八年(1885)    ◯『【明治前期】戯作本書目』   ◇戯作小説(明治十八年刊)    水野年方画『勇立春若駒』一冊 年方画 柳葉亭繁彦作 本阿弥巳之吉(合巻)    ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十八年刊)    水野年方画    『箱根権現躄仇討』 口絵・挿絵・表紙 年方 編者不詳  菱花堂   (10月)    『絵本徳川十五代記』口絵・挿絵 年方    清水市次郎 鈴木喜右衛門(11月)    『関ケ原軍記』   口絵・挿絵 年方    著者不詳  鈴木喜右衛門(12月)    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治十八年刊)    水野年方画    『勇立春若駒』  口絵・挿絵 応斎年方  柳條亭花彦 上田屋他(2月)    『通俗忠義水滸伝』口絵 芳年・挿絵 年方 清水市次郎 菱華堂他(18年刊)  ◯『東京流行細見記』(登亭逸心撰・清水市太郎編・明治十八年七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)
   「東京流行細見記」「浮世屋画工郎」(当時の諸職芸能人や専門店を吉原細見に擬えて序列化した戯作)     〝(暖簾の文字)「錦」浮世屋絵四郎   (上段 合印「入山型に△」)〝日の出 新流行 大上々吉 大々叶〟〈細見全体での序列は十位〉    〈上段は名称のみ〉     芳年 永濯 芳幾 国周 清満 広重 月耕 芳宗   (中段 合印「入山型」)〝日々流行 上々吉 大繁昌〟〈細見全体での序列は十三位〉     いねの  年 恒 〈稲野〉     うた川  国 政 〈歌川〉     やうしう 周 延 〈楊洲〉          年 方 〈(水野)〉     かつ川  春 亭 〈勝川〉     あだち  吟 香(ママ)〈安達〉     こばやし 清 親 〈小林〉     うた川  豊 宣 〈歌川〉     うた川  国 峯 〈歌川〉     やうしう 周 重 〈守川〉     うた川  国 梅 〈歌川〉    〈以下下段は名称のみ。禿・芸者・遣り手は省略〉   (下段 合印「入山型」)〝日々流行 上々吉 大繁昌〟〈細見全体での序列は十三位〉     広近 年景 芳藤 年参    〈全体は本HP「浮世絵用語」【う】の「浮世絵師番付」参照のこと〉  ☆ 明治十九(1886)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治十九年刊)    水野年方画    『嘉永水滸伝国定忠治実伝』口絵・挿絵 年方    鈴木喜右衛門編・出版(2月)    『小間物屋彦兵衛之伝』  口絵・挿絵・表紙 年方 編者不詳  荒川藤兵衛(2月)    『箱根権現躄仇討』    口絵・挿絵・表紙 年方 編者不詳  覚張栄三郎(2月)    『平井権八実伝記』    口絵・挿絵・表紙 年方 編者不詳  錦耕堂(2月)     『名鎗笹野実記』     口絵・挿絵・表紙 年方 編者不詳  錦耕堂(2月)    『白子屋阿熊之記』    口絵・挿絵・表紙 年方 編者不詳  錦耕堂(3月)(角書「大岡仁政録」)    『煙草屋喜八之伝』    口絵・挿絵・表紙 年方 編者不詳  錦耕堂(3月)(角書「大岡仁政録」)    『清水治郎長伝』     口絵 修斎国泰・挿絵 可雅賤人(年恒) 年方 国梅改国泰 中島儀市 黛弥重良(4月)        (角書「明治水滸伝」)    『赤穂忠義伝』      口絵・挿絵 年方    編者不詳  荒川藤兵衛(4月)    『松前屋五郎兵衛伝』   口絵・挿絵 年方    増田蘭谷  荒川藤兵衛(5月)(角書「大久保武蔵鐙」)     『絵本明治太平記』    口絵・挿絵 年方    清水市太郎編集・出版 (5月)     『象牙骨怨恨女扇』    口絵・挿絵 豊宣・表紙 年方 荒川藤兵衛 錦耕堂(5月)    『絵本忠義水滸伝』前編  口絵 芳年・挿絵 年方 年参 編者不詳  誾花堂(巻1-9 6月)             後編  口絵 芳年・挿絵 年方(巻11-18 6月)    『絵本徳川十五代記』   口絵・挿絵 年方    清水市太郎 駸々堂(6月)    『田宮孝勇美談』     口絵・挿絵 年方    増田蘭谷  荒川藤兵衛(6月)    『絵本徳川十五代記』   口絵・挿絵 年方    木田吉太郎 東雲堂(7月)    『清正実記』       口絵 大蘇芳年・挿絵 年方  大村粥八郎 島鮮堂(7月)    『絵本通俗続三国誌』   口絵・挿絵 年方    編者不詳  武田平治(8月)    『関ケ原軍記』      口絵・挿絵 年方    著者不詳  文事堂(9月)    『絵本通俗三国志』    口絵 芳年・挿絵 年方 池田東籬亭 青柳国松(9月)  ◯「読売新聞」(明治19年6月3日付)   〝錦絵 今度琴平町の本阿弥巳之吉方より 応斎年方が画いた「伏姫富山」の錦絵(三枚)を出板せり〟  ☆ 明治二十年(1887)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十年刊)    年方画    『絵入華盛頓軍記』 口絵・挿絵 年方 東洋漁人   清輝閣(6月)    『絵本徳川十五代記』口絵・挿絵 年方 鈴木源四郎編・出版 (9月)    『日米芳話桜と薔薇』挿絵・表紙 年方 松の家みどり 共隆社(9月)    『日本古今名家図解』挿絵 小西豊之助編 九春堂(10月)〈見開きの色摺り人物像に人物略伝とその英訳を配す〉     「日本武尊」月耕 「武内宿禰」年方 「和気清麻呂」月耕 「神功皇后」楊洲周延     「源義家」 芳宗 「平重盛」 月耕 「北条時宗」 芳宗 「加藤清正」楊洲周延     「西郷隆盛」月耕 「楠正茂」 年方(この二編が明治23年に出る)  ◯『東京府工芸品共進会出品目録』上(東京府工芸品共進会編 有隣堂 明治二十年三月刊)   (東京府工芸品共進会 上野公園内 3月25日~5月25日)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第六類 各種絵画(262/327コマ~281/327コマ)     水野粂次郎 密画 武者 一枚 疎画 人物 一枚 神田区東紺屋まち〟  ◯『東京府工芸品共進会品評報告』(山崎楽編 敬業書院 明治二十年十月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「第六類(各種絵画)品評」   〝歌川派水野年方ノ明智左馬之助湖水ヲ渡ルノ図及今様芸妓ノ図ハ双方共配合モ宜シク意匠モ可ナリ 浮    世絵ト賤シムベカラズ〟(25/48コマ)  ☆ 明治二十一年(1888)    ◯『【明治前期】戯作本書目』(明治二十一年刊)   ◇戯作小説    水野年方画    『春緑北越名誉』上下二冊 表紙「年方画」挿絵「翠雨」高橋長三郎 石巻 益嶸堂(合巻)     ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十一年刊)    年方画      『折枝の梅が香』挿絵   年方    採菊散人訳  自由堂(1-3号 2-4月)    (「絵入人情やまと草紙」七冊読み切り)〈4号以下未確認〉    『野路の村雨』挿絵    年方    肌香夢史   岩崎茂兵衛(4月)    『残花憾葉桜』口絵・挿絵 年方    採菊散人   金泉堂(6月)    『化気の種』 口絵のみ  年方    まんだら居士 イーグル書房(11月)    『万年青鉢植』口絵・挿絵・表紙 年方 咲花まだき  金泉堂 (12月)    ◯『明治東京逸聞史』②p201「滑稽堂」明治三十九年(1906)(森銑三著・昭和44年(1969)刊)   〝滑稽堂 〈太平洋三九・一・一五〉    (上略)芳年の代表作の「月百姿」も滑稽堂の版で、昔から名所百景などというものはあったけれども、    実際には百枚は揃わなかったのに、滑稽堂では、「月百姿」の百枚を完成させることに骨を折り、芳年    が好んだ弁松の桶弁当を、主人自身で毎日芳年の家へ持参して督促し、やっとのことで、百枚を纏めた。    とはいうものの最後に残った二三枚は、芳年が精神的に罹ったために、彩色の出来ていなかったのを、    門人の年方に図り、年方が代ってそのことに当って、ついにこれを完成した。そこまで漕ぎつける主人    の苦心は、容易なことではなかったので、芳年の歿後には、更にその建碑のことその他に就いても、よ    く世話をした。    「月百姿」が芳年の作品たることはいうまでもないが、その背後には滑稽堂の主人があり、更に主人の    背後には、その師で博覧強記の人だった桂花園桂花がいて案を授けたのだった。芳年一人の力で、「月    百姿」の百番が成ったのではない〟  ☆ 明治二十二年(1889)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十二年刊)    年方画    『千艸の花桶』   口絵・挿絵 年方        柚阿弥   金泉堂(2月)    『折枝の梅が香』  口絵・挿絵 年方・表紙 習古? 採菊散人  薫志堂(3月)    『操競女学校』   口絵・挿絵 年方・表紙 未詳  三遊亭円朝 金泉堂(3月)    『迷ひの夢』    口絵・挿絵 年方・表紙 清親? 採菊散人  金桜堂(3月)    『五月雨日記』   口絵・挿絵 としかた      菊亭香水  駸々堂(4月)(角書「西南追討」)    『腹皷』      口絵のみ  年方        笑門舎福来 イーグル書房(4月)     『業平文治漂流奇談』口絵 年方・挿絵 年方 楊洲  三遊亭円朝 大川錠吉(5月)    『大悪人』     口絵・挿絵 年方・表紙 習古? 一筆庵可候 自由閣 (7月)     『釣荵』      口絵・挿絵 年方・表紙 習古? 南新二   鈴木金輔(8月)    『遠山桜』     口絵・挿絵 年方・表紙 習古? 一筆庵可候 自由閣 (9月)    『再度花小春の陽炎/栗の笑』口絵・挿絵 年方・表紙 習古? 南新二 三友舎(12月)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治二十二年刊)    年方画    『昆太利物語』中 挿絵 年方 年恒 福地桜痴 蔵玉堂(4月)〈上は明治21年、下は同23年刊〉    『花の命』    口絵のみ  年方 柳浪子  吉岡書籍店(11月)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕(明治二十二年刊)   「やまと双六」水野年方 応斎年方画 やまと新聞 明治22年1月  ③H-22-3-144   ◯『東京大画家派分一覧表』東京(児玉友三郎編輯・出版 明治二十二年十二月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝歌川派     橋本周延 天神丁三   一松斎芳宗 日吉丁   勝川椿年 木挽町一     安藤広近 根岸金杉   村田良和  馬道八   梅堂国貞 薬研ボリ丁     正木芳盛 下谷坂丁   泰近清   飯倉片丁  落合芳幾 京バシ滝山丁     豊原国周 東京     応斎年方  紺屋丁   歌川国久 カメ井戸     安藤広重 下平右ヱ門  鍋田玉英  西鳥越丁  河守芳豊 ◎◎◎丁     柴田延子 佐クマ丁三   梶田半湖  下谷徒丁〟  ☆ 明治二十三年(1890)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十三年刊)    年方画    『鶍の喙』    口絵・挿絵 年方・表紙 習古? 採菊散人 自由閣(1月)    『新編月雪花』  口絵 芳景 年方・挿絵 国英 年方・表紙 習古? 梅の家かおる 東雲堂(3月)    『茨の花』    口絵・挿絵 年方・表紙 習古  採菊散人 金泉堂(3月)    『相馬平氏二代譚』挿絵 年方           福地桜痴著・出版(4月)    『近世侠客水滸伝』口絵 画工未詳 ・表紙 習古  著者不詳 日吉堂(4月)             挿絵 [一星]印  稲野年恒(可雅賤人) 年方 国梅改国泰(修斎) 芳宗 芳年                一応斎国松 芳幾 月耕 〈篆字印の「一星」は未詳。月耕以外は歌川派〉   〈②の書誌は明治23年4月刊とする。しかし二つある序文の年紀は明治19年の3月と4月である。また国梅の国泰改名は明治19年と    されるから、作品の成立は明治19年か〉    『吾妻形縺島田』 口絵 年方・挿絵 光方・表紙 習古 為永春水 イーグル書房(4月)    『孝女お蝶の伝』 口絵・挿絵 年方・表紙 習古   三遊亭円朝 中礼堂(5月)    『操鏡お民の伝』 口絵・挿絵 年方・表紙 習古   三遊亭円朝 中礼堂(5月)    『貞操お里の伝』 口絵・挿絵 年方・表紙 習古   三遊亭円朝 中礼堂(7月)    『新説小簾の月』 口絵・挿絵 豊宣 年方 月耕   著者不詳  日吉堂(9月)    『新編春告鳥』  口絵 芳年・挿絵 年方 月耕   編者不詳  日吉堂(9月)    『三人令嬢』   口絵・挿絵 年方・表紙 習古?  条野採菊  鈴木金輔(12月)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治二十三年刊)    年方画    『松と藤芸者の替紋』口絵・挿絵 玉亀 年方 月耕・表紙 清親 三遊亭円朝 聚栄堂(1月)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕   「曽我双六」年方画 やまと新聞 明治23年1月 ③H-22-3-145  ☆ 明治二十四年(1891)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十四年刊)    年方画    『怪談嬉野森』口絵・挿絵 年方・表紙 習古?    春錦亭柳桜  跡部正直 (4月)    『明和三幅対』口絵 年方・挿絵 光方        松林伯円   イーグル書房(4月)    『流の暁』  口絵・挿絵 年方 芳年・表紙 習古? 快楽亭ブラック 三友舎  (9月)    『切なる罪』 口絵・挿絵 年方・表紙 習古?    快楽亭ブラック 銀花堂  (10月)    『浪花嵐東男』口絵 年方・挿絵 光方        松林伯円   イーグル書房(11月)    『井筒女之助』口絵 年方・省亭           ちぬの浦浪六 春陽堂(12月)    〈画工名は明治32年刊『小萩集』の巻末広告による〉  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十五年刊)    年方画    『友千鳥』     口絵・挿絵 玉亀 年方 三遊亭円生 三友社(2月)    『裸美人』     挿絵・表紙 年方    紅葉山人  進化閣(9月)    『大詐偽師』    口絵・挿絵 年方    著者不詳  日吉堂(11月)    『曲亭馬琴翁叢書』 口絵・挿絵 月耕 年方 曲亭馬琴  銀花堂(11月)     「俊寛僧都島物語(月耕)/殺生石後日怪談(月耕)/松浦佐用媛石魂録(無署名)/昔語質屋庫(無署名)/      椿説弓張月(月耕)/夢想兵衛胡蝶物語(無署名)/勧善常世物語(年方・月耕)」    『忍ケ岡義賊の隠家』口絵・挿絵 芳年 年方 三遊亭円朝 金桜堂(12月)    『美人鏡』     口絵・挿絵 年方    著者不詳  日吉堂(12月)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治二十五年刊)    年方画    『当世少年気質』挿絵      年方     大江小波 博文館(1月)    『友禅染』   口絵のみ・表紙 年方「応斎」印 漣山人  春陽堂(3月)  ◯「読売新聞」(明治25年7月14日)   〝二世芳年    先頃死去したる大蘇芳年の門人中水野年方子が推されて 今度二世芳年の号を継ぐ事となりしと云ふ〟  ◯『読売新聞』(明治25年9月16日)   ◇錦絵    村上義光芋瀬に錦旗を奪ひ返す三枚続に図は 年方の筆にて美事に出来なり 此頃日本橋区室町の秋山    方より発行せり〟  ◯「読売新聞」(明治25年11月2日)   〝三十六佳撰    例の年方筆の三十六佳撰の中 侍女(宝徳年間)琴しらべ(弘化頃)ひさぎ女(文安頃)の三枚は日本    橋室町三丁目の秋山方より出版せり〟    〈「三十六佳撰」は古今の婦人風俗集。明治24年から26年にかけて36枚出版〉  ☆ 明治二十六年(1893)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十六年刊)    年方画    『八景隅田川』 口絵のみ  年方 三遊亭円朝  博文館(2月)〈2ページ大折込口絵〉    『痘痕伝七郎』 口絵・挿絵 年方 条野採菊   博文館(2月)〈2ページ大折込口絵〉    『美人の犯罪』 口絵・挿絵 年方 榎本破笠   金桜堂(2月)    『笑ひ草』   口絵・挿絵 年方 清親?    金港堂(1集 2月)〈2ページ大折込口絵〉    (「金が敵」如電居士/「黄金仏」酔夢道人/「一風かはり男」水蔭居士/「銭ひらひ」善笑子。以上四作所収、挿絵なし)    『当世馬鹿息子』口絵・表紙 年方 空想子    金松堂(3月)    『破太皷』   口絵のみ  年方 ちぬの浦波六 春陽堂(3月)〈2ページ大折込口絵〉    『黒眼鏡』   口絵・挿絵 年方・表紙 未詳  榎本破笠 弘文館(5月)(探偵小説)    『秋色桜』   口絵・挿絵・表紙 年方     榎本破笠 日吉堂(10月)〈2ページ大折込口絵〉    『元禄塚』   口絵・挿絵 年方 土橋亭りう馬 イーグル書房(10月)    『切なる罪』  口絵・挿絵 年方 ブラック     銀花堂  (11月)(探偵文庫)    『評判娘』   挿絵 年方    三遊亭円右  イーグル書房(12月)〈挿絵は全て2ページ大折込〉    『三十六佳撰』年方画 秋山武右衛門(12月)  ◯「読売新聞」(明治26年3月14日)   〝年方子の筆になる「三十六佳撰」の内 正保頃の婦人(洗髪)享保頃の婦人(遊山)上代の婦人(眺月)    の錦絵を例の日本橋区室町の秋山方より売出せり〟  ◯『浮世絵師便覧』p209(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年九月刊)   〝年方(トシカタ)応斎と号す、芳年門人、◯明治〟  ◯『読売新聞』(明治26年10月24日)   〝三十六佳撰 売出の画工年方子の麗筆に成る三十六佳撰の中 汐干(文化)茶酌女(宝暦)花見(文政)    の三枚は例の日本橋室町三丁目の秋山武右衛門より発売す〟  ☆ 明治二十七年(1894)    年方絵(落款の変化)〈この年の七月ころから「年方画」ではなく「年方絵」といった落款が現れ始める〉  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十七年刊)    年方画    『俊傑神稲水滸伝』口絵 吟光「年方絵」   岳亭定岡 扶桑堂(4-11巻 1-12月)〈2ページ大折込口絵〉    〈口絵のみ新調。吟光4-7巻、年方8-11巻か。挿絵は原作(岳亭画)を流用〉    『浮世見物』   口絵のみ  年方     桜痴居士 春陽堂(2月)    『荻廼上風』   口絵・挿絵・表紙 年方  採菊散人 扶桑堂(4月)〈2ページ大折込口絵〉    『落椿』     口絵 年方・表紙 習古? 柳浪子  精完堂(4月)    『髯の自休』   口絵のみ  年方     浪六   春陽堂(5月)〈2ページ大折込口絵〉    〈無署名だが、明治31年刊『菊と桐』の巻末広告に水野年方画とある〉    『弘法新太』   口絵・挿絵・表紙 年方  採菊散人 扶桑堂(6月)〈2ページ大折込口絵〉    『百物語』    口絵・挿絵「年方絵」   採菊散人 扶桑堂(7月)    〈口絵:2ページ大折込。挿絵は全て見開き2ページ大〉  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治二十七年刊)    年方画    『明治文庫』博文館     第14編 口絵「年方絵」(7月)〈2ページ大色摺折込口絵〉     第18編 口絵「応需 年方絵〔年方〕印」(11月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『紫・琴』口絵・挿絵 年方 紅葉・水蔭   春陽堂(8月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『片靨』 口絵 年方 省亭 紅葉・風葉合作 春陽堂(12月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    ◯『日本美術画家人名詳伝』補遺(樋口文山編 赤志忠雅堂 明治二十七年(1894)一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝年方 応斎と号 芳年門人 浮世絵を画く〟  ◯『読売新聞』(明治27年1月12日)   〝牛若丸と伊勢三郞は日本橋室町の滑稽堂より売出せり 年方子の丹精に係る三枚続きの錦絵にて至極に    て至極の上出来〟  ◯「読売新聞」(明治27年8月18日)   〝吾妻錦絵    日清事件に関する錦絵の出版日も猶足らざる如くなるが 此程又々成歓襲撃和軍大捷(年方筆)及び成    歓激戦(清親筆)の両国を売出したり 板元は前者は日本橋区室町三丁目の秋山、後者は同区吉川町    の松木方なり〟    〈水野年方「大日本帝国万々歳/成歓襲撃和軍大捷之図」・小林清親「成歓ニ於テ日清激戦/我兵大勝図」か〉  ◯『読売新聞』(明治27年9月26日)   〝戦争絵 海軍将校等征清の戦略を論ずる錦絵は年方筆にて 発売所は京橋銀座一丁目の関口政次郎(中    略)年方の意匠に成る平壌激戦大勝の錦絵は 至極上出来なり 発売所は日本橋室町の滑稽堂なり〟  ◯『読売新聞』(明治27年10月25日)   〝掩撃鏖殺平壌略取の錦絵 年方子の意匠に成る九枚続つゞきの同図は我兵の突貫、清兵敗走の有様 実況を見る    が如き想ひあり 売捌所は日本橋区横山町の辻岡文助方〟  ◯『読売新聞』(明治27年11月14日)   〝戦争絵 赤城艦長坂本少佐奮戦の錦絵(年方筆)は日本橋室町滑稽堂よりいづれも売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治27年11月29日)   〝戦争絵 鳳凰城陥落敵兵潰走の錦絵(年方筆)日本橋室町の滑稽堂より売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治27年12月2日)   〝錦絵 玄武門先登原田重吉氏の錦絵(年方筆)は日本橋室町滑稽堂より売出せり〟  ◯『読売新聞』(明治27年12月9日)   〝戦争絵 年方子の筆なる九連城攻撃より占領に至るまでの錦絵(九枚続)は彩色精麗頗る上出来のもの    なり 発売所は日本橋横山町の辻岡文助方〟  ◯『読売新聞』(明治27年12月12日)   〝戦争絵 斥候川崎軍曹錦絵は京橋銀座一丁目関口政次郎より売出せり〟〈水野年方画か〉  ◯『浮世絵師歌川列伝』「歌川国芳伝」p208(飯島虚心著・明治二十七年 新聞「小日本」に寄稿)   〝其〈芳年〉門人年方、年宗、の徒又よく画き、今盛に行わる〟    〈飯島虚心が「歌川国芳伝」を執筆したのは〝去年即明治廿六年は、国芳が三十三回忌なるをもて、法会を執行せしと     見えて〟とあることから、「今」とは明治二十七年(1894)と推定される〉  ◯『読売新聞』(明治27年12月29日)   〝戦争絵 玄武門開門者原田重吉氏図(年方筆)金州大激戦の図(秋香筆)は何れも三枚続きの美麗なる    錦絵なり 発売所は京橋銀座一丁目関口政次郎方〟  ☆ 明治二十八年(1895)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治二十八年刊)    年方画    『名刀正宗之伝』 口絵・挿絵・表紙 年方 英樹  無名氏  国華堂(1月)    『名妓の達引』  口絵・挿絵 年方・表紙 習古? 著者不詳 国華堂(1月)    『俊傑神稲水滸伝』口絵 年方・挿絵 原作画    岳亭定岡 扶桑堂(巻12-15 2-10月)〈2ページ大折込口絵〉    〈口絵は巻13のみ確認。挿絵は原作画を使う〉    『薩摩潟波瀾万丈』口絵・表紙 年方        中島蒿  嵩山房(7月)〈2ページ大折込口絵〉    『後の三日月』  口絵 年方         ちぬの浦浪六 春陽堂(7月)〈2ページ大折込口絵〉    〈初出は明治27年の東京朝日新聞〉    『剣の刃渡』   口絵 芳景・挿絵 年方  快楽亭ブラック 文錦堂(7月)〈2ページ大折込口絵〉    『十人妾』    口絵 年方           幸堂得知 金桜堂(9月)〈2ページ大折込口絵〉    『おあき』    口絵・表紙 年方「蕉雪」印    渋柿園  春陽堂(11月)    『速射砲』    口絵・挿絵 年方「蕉雪」印    江見水蔭 博文館(11月)    『大和撫子』   口絵・挿絵 年方・表紙 習古? 有明山樵 弘文館(12月)    『最上川』    口絵・表紙 年方        渋柿   春陽堂(12月)    〈画工名は明治29年刊『浄瑠璃坂』の巻末広告による〉  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治二十八年刊)    年方画    『餅むしろ』口絵 蕉窓・挿絵 年方 秀湖 永洗 大橋新太郎 博文館(1月)    『滝口入道』口絵・表紙 年方 高山樗牛  春陽堂(9月)〈画工名は明治36年の3版から〉    『伏魔殿』 口絵    年方 桜痴居士  春陽堂(9月)〈2ページ大色摺口絵〉    『五調子』 口絵・表紙 年方 尾崎紅葉編 春陽堂(12月)〈2ページ大色摺口絵〉  ◯『読売新聞』(明治28年1月19日)   〝戦争絵 白神喇叭手の錦絵(年英筆)は日本橋横山町辻岡文助方より 大和尚山先登者伊藤少尉の錦絵    (年方筆)は京橋銀座一丁目関口政次郎方よりいづれも売出せり〟    ◯『読売新聞』(明治28年4月27日)   〝戦争絵 日本橋室町の滑稽堂より売出したる『丁汝昌於自宅自殺』の錦絵は年方子の意匠になる上出来    のものなり〟  ◯『読売新聞』(明治28年5月1日)   〝戦争絵 樋口第六師団大隊長豚児を抱きて大雪を冒し奮戦の錦絵は年方子の筆に成る美麗のものなり     発売所は京橋銀座一丁目関口政次郎方〟  ◯『読売新聞』(明治28年6月27日)   〝戦争絵 『青木参謀休戦使として清軍に赴く』の錦絵は年方子の筆に成る 発売所は日本橋室町秋山滑    稽堂なり〟  ◯『読売新聞』(明治28年7月11日)   〝錦絵 年方子の筆成る『美人観吉野園花菖蒲』の三枚続きは清妍艶麗のものなり 発売所は日本橋区室    町三丁目の滑稽堂方 『大元帥陛下御進幸凱旋門御通輦』の錦絵は月耕子の筆 発売所は京橋銀座一丁    目関口政次郎方〟  ◯『読売新聞』(明治28年7月12日)   〝錦絵 「澎湖島に於て粟田大尉刀を振るって賊漢を惨殺するの図」は年方子の意匠になる上出来のもの    発売所は日本橋室町三丁目の秋山滑稽堂方〟  ◯「読売新聞」(明治28年10月9日)   〝戦争絵 勇兵田中石松の三枚続き錦絵は奉書摺にて 画工は年方子の意匠に成る上出来のものなり 発    売所は京橋銀座一丁目の関口政治郎方〟  ☆ 明治二十九年(1896)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治年二十九刊)    年方画    『第一の佳人』   口絵・挿絵 年方・表紙 習古? アルノー  薫志堂  (1月)    『大和武士』    口絵・表紙 年方        遅塚麗水  春陽堂  (1月)〈2ページ大折込口絵〉    『大内錦』     挿絵 年方           無名氏   扶桑堂  (前後 1-2月)    『志のぶの露』   口絵・表紙 年方        藐姑射山人 桃華堂  (2月)〈2ページ大折込口絵〉    『椿説蝦夷訛』   口絵・表紙 年方        三遊亭円朝 博文館  (3月)〈2ページ大折込口絵〉    『四ツ車大八』   口絵・宜方 清方・表紙 年方  神田伯山  朗月堂  (3月)    『名人長二』    口絵・挿絵・表紙 年方     三遊亭円朝 博文館  (3月)〈2ページ大折込口絵〉    『伽羅少年』    口絵のみ  年方        奴之助   青木嵩山堂(4月)〈2ページ大折込口絵〉    『水の声』     口絵 年方・挿絵 年峰     江見水蔭  春陽堂  (4月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『伊達政宗青葉の誉』口絵 吟光 年方 芳景・表紙 習古 放牛舎桃林 鳳林館(5月)    『船越重右衛門』  口絵 清方 宜方 信方・表紙 年方 邑井一   朗月堂(5月)    『月に叫谷間の鶯』 口絵・表紙 年方        橘屋円喬  朗月堂  (5月)〈2ページ大折込口絵〉    『石井源之亟』   口絵 宜方 清方・表紙 年方  一立斎文車 朗月堂  (5月)    『大村少尉』    口絵・表紙 年方「蕉雪」印    眉山人   春陽堂  (5月)〈2ページ大色摺口絵〉    『局松島』     口絵のみ  年方        仰天子   青木嵩山堂(5月)〈2ページ大折込口絵〉    『鬼あざみ』    口絵のみ  年方        浪六    青木嵩山堂(6月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『あはせ鏡』    口絵 年方・表紙 米仙     ふたば   大倉書店 (6月)〈2ページ大色摺口絵〉    『鬼婦人』     口絵・表紙 年方        戸田為治郎 愛智堂  (6月)    『侠客大前田英五郎』口絵 蕉堂(せう堂)・表紙 年方 宝井琴凌  朗月堂  (7月)    『竹川森太郎』   口絵 蕉亭・表紙 年方     松林円竜  朗月堂  (前編 7月)    『あづま菊』    口絵・表紙 年恒        蓬州    早川熊治郎(7月)(小説叢書4編)〈2ページ大折込口絵〉    『雪中梅』     口絵のみ  年方        鉄腸居士  青木嵩山堂(7月)〈2ページ大折込口絵〉    『千鳥啼真砂白浪』 口絵・挿絵 鳳斎 年方 表紙 習古 邑井一 金桜堂  (8月)    『名人逸話』    口絵・表紙 年方        風流翁   春陽堂  (8月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『細川桜』     口絵のみ  年方        武田仰天子 青木嵩山堂(8月)〈2ページ大折込口絵〉    『敵討玉川宇源太』 口絵・表紙 年方        真竜斎貞水 朗月堂  (9月)〈2ページ大折込口絵〉    『蟹のおかく』   口絵 清方・挿絵 年方・表紙 未詳 採菊散人 弘文館 (9月)    『利根の船歌』   口絵・表紙 年方        江見水蔭  青木嵩山堂(9月)〈2ページ大折込口絵〉    『佃の白浪』    口絵・表紙 年方        松林伯円  朗月堂  (9月)〈2ページ大折込口絵〉    『大川友右衛門』  口絵 清方・表紙 年方     放牛舎桃林 朗月堂  (10月)    『十文字』前編   口絵のみ  年方        浪六    青木嵩山堂(10月)〈2ページ大色摺折込口絵。後編12月刊〉    『前原伊助誠忠伝』 口絵 康方・表紙 年方     宝井琴凌  朗月堂  (11月)    『鷲の羽風』    口絵・表紙 年方        村井弦斎  春陽堂  (11月)〈2ページ大折込口絵〉    『好男子』     口絵のみ  年方        三宅青軒  青木嵩山堂(11月)〈2ページ大折込口絵〉    『当世五人男』   口絵・表紙 年方        浪六    青木嵩山堂(前編 12月)〈2ページ大折込口絵。後編翌30年4月刊〉    『段だら染』    口絵 年方〔蕉雪〕印      柳浪    春陽堂  (12月)〈2ページ大色摺口絵〉  ◯『読売新聞』(明治29年6月29日)   〝昨今の錦絵    東錦絵は日清戦争に止めを刺して 是ほど捌けしこと古来稀なりといへるが 其余波今も猶残りて 年    方・年英・月耕などの筆になる京城談判より講和談判に至るまで 五十組に仕組みて画帖となせしもの    地方は勿論 遠く海外へも輸出するもの多しとぞ 代価は凡そ三円五十銭乃至四円なり(中略)    折本類は清親、周延、月耕、年方等のもの多く 時としては「月耕随筆」(四十八枚)年方筆「三十六    歌仙」、月耕筆「五十四帖」「歴史図会俤源氏」などを一部に揃ふものあり〟  ◯『読売新聞』(明治29年11月21日)   〝茶湯錦絵 故南新二氏の考案に成りたる石州流茶の湯の一切の式を美麗なる錦絵にしたるもの 揮毫は    水野年方にして全幅十五番の内七番を例の滑稽堂より出版せり〟  ☆ 明治三十年(1897)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十年刊)    年方画    『桜田騒動』  口絵・挿絵 年方 微笑小史  松声堂  (前後 1月)    『鰯屋騒動』  口絵・表紙 年方 双竜斎貞鏡 朗月堂  (1月)〈2ページ大折込口絵〉    『侠客黄金角鍔』口絵・表紙 年方 邑井一   朗月堂  (2月)〈2ページ大折込口絵〉    『田毎源氏』  口絵・表紙 年方 江見水蔭  青木嵩山堂(2月)〈2ページ大折込口絵〉    『つづれ錦』  口絵・表紙 年方 稲岡奴之助 青木嵩山堂(2月)〈2ページ大折込口絵〉    『当世五人男』 口絵・表紙 年方 浪六    青木嵩山堂(後編 4月)〈2ページ大折込口絵。前編は29年12月刊〉    『黒田健次』  口絵・表紙 年方 浪六    青木嵩山堂(前後続 5・8月)②〈2ページ大折込口絵。続編の刊年月未確認〉    『源三位』   口絵・表紙 年方 仰天子   青木嵩山堂(9月)〈2ページ大折込口絵〉    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治三十年刊)    年方画    『しなさだめ』  口絵・表紙 年方    眠獅菴浪六 青木嵩山堂(1月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『侠男児』    口絵 年方「蕉雪」    美妙    青木嵩山堂(3月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『牧の方』    口絵 省亭 挿絵 蕉窓 年方 永洗 華邨 春のや主人 春陽堂(5月)    『多情多恨』   挿絵 水野年方二葉   尾崎紅葉  春陽堂  (7月)〈初出は明治29年読売新聞〉    『新羽衣物語』  口絵・表紙 年方    露伴    青木嵩山堂(8月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    (明治31年刊再版本奥付「三十年八月十五日初版発行」による)     『日本女礼式大全』口絵・挿絵 年方 永洗 坪谷善四郎 博文館  (上 9月)〈2ページ大色摺折込口絵〉      ☆ 明治三十一年(1898)  ◯「月岡芳年翁之碑」明治三十一年五月 芳年七回忌 向島百花園に建立   〝芳年門人 水野年方(現存)〟  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十一年刊)    年方画    『浮世草紙』  口絵のみ 年方 浪六    青木嵩山堂(1月)    『佐原の喜三郎』口絵のみ 年方 春風亭柳枝 青木嵩山堂(4月)〈2ページ大折込口絵〉    『修身童話』1「桃太郎」挿絵・表紙 水野年方 樋口勘次郎 開発社(10月)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治三十一年刊)    年方画    『もしや草紙』    口絵 年方 桜痴居士 春陽堂(1月)〈見開き色摺口絵〉    『日の出島 富士の巻』口絵 年方 村井弦斎 春陽堂(7月)〈見開き色摺口絵〉    〈画工名は明治32年刊『小萩集』の巻末広告による〉    『闇夜鴉』      口絵 年方「蕉雪」印 鉄腸居士 青木嵩山堂(10月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    〈訂正五版、初版は明治25年で年恒画。何版から多色刷の口絵になったのか未詳〉    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕   「春遊亥の子双六」「水野年方君図画」幸田露伴考案 博文館 明治31年12月 ①  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(91/103コマ)   〝応斎年方【明治元年~三十年 1868-1898】    水野氏、大蘇芳年の門弟〟  ◯『こしかたの記』鏑木清方著・中公文庫   (「年方先生に入門」)   〝三十一年の五月に、末松子爵を会頭とする、日本画会の第一回展覧会があって、先生はその評議に推さ    れた時に、始めて大作を出品された。それは御物に収まっている「佐藤忠信参館図」で、私には御新造    さんを喪った先生が、まだ紅顔の少年であった、後の池田輝方を傍に、この大作に打ち込んでいられた    姿を忘れない。先生はかぞえて三十三歳であった〟  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第五回 日本絵画協会展 明治三十一年十月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    尾形月耕 江戸の花 銀牌    寺崎広業 後赤壁  銀牌         春怨・春暁秋暁    梶田半古 比礼婦留山 一等褒状         奈良朝美人    富岡永洗 今様美人  一等褒状    水野年方 夕暮    一等褒状         御殿女中・養老  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治年刊)    年方画    『ふところ子』「絵日傘」挿絵 年方    鏡花   春陽堂  (1月)    『優男の仇討』  口絵・挿絵 年方 清方 採菊散人 順成堂  (4月)    『最後の黒田健次』口絵・表紙 年方    浪六   青木嵩山堂(前後編 6月)〈2ページ大折込口絵〉    『初子集』    口絵のみ  年方    乙羽生  博文館  (12月)〈2ページ大折込口絵〉  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治三十二年刊)    年方画    『はるさめ』口絵・表紙 年方 露伴他  青木嵩山堂(5月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『夜の風』 口絵・表紙 年方 長野楽水 春陽堂  (7月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『風月集』 口絵のみ  年方 乙羽生  博文館  (9月)〈2ページ大色摺折込口絵〉   ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第七回 日本絵画協会展 明治三十二年三月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    梶田半古 闘雞 銀牌 ・雉子・牡丹    富岡永洗 秋雨 銀牌 ・双美春装・美人    尾形月耕 蟬丸 銅牌 ・落葉・昔話桃太郎・昔話舌切雀・諸侯行列    水野年方 平忠度 銅牌         小楠公・李将軍    大野静方 吉野の雪 二等褒状 ・高倉の宮    鏑木清方 かざし花 三等褒状    島田楊斎 能楽田村・能楽羽衣・能狂言靱猿〈島田延一〉  ◯『東京専門書画大家一覧表』番付 東京(市橋安吉編集・出版 明治三十二年六月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝各派画 水野年方 下谷谷中清水丁ノ十九〟  ☆ 明治三十三年(1900)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十三年刊)    年方画    『原田甲斐』   口絵・表紙 年方 浪六   青木嵩山堂(中編 1月)〈上下未見、2ページ大折込口絵〉    『恋慕ながし』  口絵・表紙 年方 小栗風葉 春陽堂  (5月)〈2ページ大色摺折込口絵。初出は明治31年読売新聞〉    『原田甲斐』   口絵・表紙 年方 浪六   青木嵩山堂(続編 5月)    『落葉のはき寄せ』口絵・表紙 年方 鉄腸居士 青木嵩山堂(6月)〈2ページ大折込口絵〉    『神田武太郎』  口絵・表紙 年方 快楽亭ブラック 菅谷与吉(9月)    『小学理科』   口絵 年方    教科書  普及会  (巻3 10月)    『伝書鳩』    口絵のみ  年方 村井弦斎 春陽堂  (10月)〈2ページ大折込口絵〉    『浪華名物男』  口絵・表紙 年方 浪六   青木嵩山堂(前中編 10・12月)〈2ページ大折込口絵〉    〈前編口絵は「近代書誌・近代画像データベース」本による、中編口絵は2版(34年6月)による〉    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治三十三年刊)    年方画    『花間鴬』九版    鉄腸居士  口絵・表紙 年方 青木嵩山堂(3月)③ 上〈2ページ大色摺折込口絵〉    〈3版(28年刊)の口絵は楓湖と月耕、何版目から年方画になったのか分からない〉    『源氏車』口絵・表紙 年方 仰天子 青木嵩山堂(8月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第八回 日本絵画協会展 明治三十三年四月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    尾形月耕 ◎◎◎用明天皇道行 銀牌 〈◎は不明文字〉         三曲(三枚)・寒梅・船・菩提    水野年方 富峯   銅牌         端唄・秋の夜・春暁・秦武文・落葉・寒梅・春の曙・義太夫    池田輝方 楠公訣別 三等褒状    鏑木清方 霜どけ 三等褒状 ・暮れゆく沼・冬の朝・稽古帰り    寺崎広業 后徳・桜見物・寒鴉・春水・暮色・清元梅の春・秋月    橋口五葉 野辺・鹿児島・もの見・犬    富岡永洗 新内・落葉・春暁    梶田半古 春の曙・寒意    大野静方 吉凶  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第九回 日本絵画協会展 明治三十三年十月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    水野年方 勾当の内侍 銀牌         渡舟・秋風・蓬萊    寺崎広業 秋草 銀牌 ・嫦娥    鏑木清方 紫陽花 二等褒状 ・琵琶行    尾形月耕 宮角力・夕暮・行旅・層巒    笠井鳳斎 松風・福原怪異    富岡永洗 蓬萊  ◯ 第九回 絵画共進会日本美術院展覧会(明治三十三年十-十一月開催)   (『第九回絵画共進会日本美術院展覧会/出品目録』高木源四郎編・日本美術院・十一月刊)    水野年方 秋風  50,00 ・渡舟  25、00 〈「秋風」本文は「勾当内侍」巻末の「正誤」にて訂正〉    〈数字は「売値」50,00は50円。上記銀牌を受賞した「勾当の内侍」の売値は不明〉  ☆ 明治三十四年(1901)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十四年刊)    年方画    『山鹿甚五左衛門』口絵 年方・表紙 寛方 神田伯川  萩原新陽館(2月)(英雄文庫10)    『海上奇談大悪事』挿絵 年方       一筆庵可候著 日本館 (3月)    『三保物語』   口絵・表紙 年方    露伴・松魚 青木嵩山堂(4月)〈2ページ大折込口絵〉    『奇々怪々』   口絵・表紙 年方    三宅青軒  誠進堂  (11月)〈2ページ大折込口絵〉  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治三十四年刊)    年方画    『浪華名物男』口絵・表紙 年方 浪六 青木嵩山堂(再版本 1月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『三人兄弟』 口絵 年方    浪六 青木嵩山堂(前後編 9・12月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第十回 日本絵画協会展 明治三十四年三月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    富岡永洗 美人(娼妓)銀章 ・美人(姉妹) 長野    水野年方 少女 銀章         洗髪    大野静方 婚礼 一等褒状 ・霜    荒井寛方 温和 二等褒状 栃木    歌川国峯 春野 二等    鏑木清方 ちりゆく花 二等 ・雛市・晩夏・遣羽子    尾形月耕 暖和・絲桜・日本名物(桜紅葉)・宝船・美人    梶田半古 牡丹に帳  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第十一回 日本絵画協会展 明治三十四年十月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    寺崎広業 月光灯影(小督)金牌         春山水・秋山水・唐美人・鶴(屏風一双)・競寿    富岡永洗 加藤清正 銀章 ・嫦娥    水野年方 源為朝  銅牌    池田輝方 中将姫  一等 ・美人    荒井寛方 児島高徳 二等 ・子供遊    大野静方 木村重成 二等    尾形月耕 風神雷神・観桜  ☆ 明治三十五年(1902)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十五年刊)    年方画    『毒婦』     口絵・表紙 年方 浪六    青木嵩山堂(前後編 1・6月)〈続編36年刊 2ページ大折込口絵〉    『海上奇談大悪事』挿絵・表紙 年方 一筆庵可候 日本館  (3月)    『雌竜雄竜』   口絵のみ  年方 奴の助   青木嵩山堂(前後編 5月) 〈2ページ大折込口絵〉    『倉橋幸蔵』   口絵・表紙 年方 浪六    青木嵩山堂(前後続編 3版 9・10・11月)〈初版の刊年月未詳 2ページ大折込口絵〉    ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治三十五年刊)    年方画    『黒百合』 口絵・表紙 年方 泉鏡花  春陽堂  (3月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『倉橋幸蔵』口絵・表紙 年方 浪六   青木嵩山堂(前後続編 5・?・11月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『新学士』 口絵・表紙 年方 小杉天外 春陽堂  (7月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『うた枕』 口絵・表紙 年方 仰天子  青木嵩山堂(8月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『若き妻』 口絵・表紙 年方 菊池幽芳 春陽堂  (後編 11月)〈2ページ大色摺折込口絵。前編は2月永洗画〉    『三湖楼』 口絵・表紙 年方 田村松魚 春陽堂  (11月)〈2ページ大色摺折込口絵〉  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第十二回 日本絵画協会展 明治三十五年三月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    寺崎広業 今様美人 銀牌 ・月夜山水    尾形月耕 大物浦 銀牌 ・気界下瞰     梶田半古 春宵怨 銀牌    池田輝方 山王祭 一等    新井芳宗 浅草寺 二等褒状 ・京遊女    水野年方 弥生・江畔美人・春の夜    荒井寛方 桜下美人  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第十三回 日本絵画協会展 明治三十五年十月開催 於谷中初音町日本美術院)    水野年方 橘逸勢女 銀牌         日野阿新・旅途雨・少女摘花・美人聴雨・海浜遊鶴    鏑木清方 孤児院  銅牌    池田輝方 婚礼  一等    荒井寛方 落武者 二等    芳野尚方 空房  二等    笠井鳳斎 左遷  三等 ・愛    富岡永洗 浴後美人・雄快    尾形月耕 軒端梅・夕涼    名取春僊 秋色・霜夜    大野静方 月夜  ◯『大日本絵画著名大見立』番付 京都(仙田半助編集・出版 明治三十五年十二月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝浮世画 水野年方 東京下谷区谷中〟  ☆ 明治三十六年(1903)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十六年刊)    年方画    『毒婦』    口絵・表紙 年方 浪六   青木嵩山堂(続編 1月)〈前後編M35年刊 2ページ大折込口絵〉    『加藤清正軍記』口絵・表紙 年方 編者不詳 島鮮堂  (巻1-3 6月)  ◯「近代書誌・近代画像データベース」(明治三十六年刊)    年方画    『漁隊の遠征』口絵・表紙 年方 美妙   青木嵩山堂(1月)〈2ページ大色摺折込口絵〉    『酒道楽』  口絵・挿絵 年方 村井弦斎 博文館  (上下 3・5月)〈2ページ大色摺口絵〉     『水車物語』 口絵・表紙 年方 江見水蔭 青木嵩山堂(7月)〈2ページ大色摺折込口絵〉   ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第十四回 日本絵画協会展 明治三十六年四月開催 於上野公園旧博覧会跡第五号館)    寺崎広業 王陽明      銀章    池田輝方 江戸時代の猿若町 銅章    池田(榊原)蕉園 つみ草    尾形月耕 群盲評象・旅僧    梶田半古 鷲・朧夜    水野年方 熊沢蕃山  ◯『明治期美術展覧会出品目録』   (第十五回 日本絵画協会展 明治三十六年十月開催 於谷中初音町日本美術院)    寺崎広業 山水 銀章 ・冬・海辺・美人・仏御前    梶田半古 豊年 銀章    池田(榊原)蕉園 夕暮    尾形月耕 年の暮・富士に双鶴・元禄美人・鼠の婚礼    鏑木清方 秋宵    水野年方 少女  ☆ 明治三十七年(1904)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十七年刊)    年方画    『地中の美人』口絵・表紙 年方 徳田秋声 青木嵩山堂(9月)〈2ページ大折込口絵〉    『新学士』  口絵 年方    小杉天外 春陽堂  (11月)〈2ページ大折込口絵〉  ☆ 明治三十八年(1905)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(明治三十八年刊)    年方画    『阿古屋及食道楽』口絵 華邨・挿絵 年方 村井弦斎 報知社出版部(2月)〈2ページ大折込口絵〉    『大悪魔』    口絵・表紙 年方    浪六   青木嵩山堂 (前後編 7・9月)〈2ページ大折込口絵〉  ◯「大日本絵画著名大見立」(仙田半助編 明治三十八年刊)
   浮世絵師番付〝浮世画席不問 水野年方 東京下谷谷中〟    〈本HP「浮世絵事典」の「浮世絵師番付」所収〉  ☆ 明治三十九年(1906)  ◯「双六年表」〔本HP・Top〕   「歴代女装寿語禄」「水野年方画」版元未詳 明治39年1月 ⑦  ☆ 明治四十一年(1908)(四月七日没・四十三歳)  ◯『日本書画名覧』番付 東京(樋口傳編集 書画骨董雑誌社出版 明治四十一年三月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)    〈「古人浮世絵各派」以外は主な画家のみ収録。都県名は省略〉   〝近代国画各派名家   (一段目)竹内栖鳳 川端玉泉 渡辺省亭 鈴木華邨 梶田半古 松本楓湖 尾形月耕   (二段目)荒木寛畝 鈴木松年 佐竹永湖    (三段目)熊谷直彦 今尾景年 野村文挙 三島蕉窓 竹(ママ)内桂舟   (四段目)寺崎広業 望月玉泉 村瀬玉田 荒井寛方   (五~十段目)鏑木清方 阪巻耕漁 竹田敬方 歌川若菜〟   (欄外)〝水野年方 高橋玉淵〟  ◯「年方の絵」梶田半古の追悼文(『早稲田文学』第2次30号 本欄p39 明治41年(1908)5月1日刊)   〝水野年方氏とは十四五年前に交つて居りましたが、その後疎遠になつて居りましたので、今度亡くなら    れたについても親しく知りませず、又氏の人物性行等に関しても委しく知つては居りませんから、たヽ    氏の絵についてほんの一寸した所感だけをお話いたしませう。    氏が広く世間に知られたのは錦絵や版画や小説の挿絵などが重なものでせうが、今日その方面から氏の    絵を云々するのは、故人の本懐でもなからうと思ひますから、こゝには普通の絵についてのみ申しませ    う。    氏の絵は大体から云へば、上手と云ふ方でした。そしてその作風は客観的であつて、主観的の味はなか    つたやうです。即ち形と云ふ方を主として居た絵です。氏が画界の人となつた始めは芳年の門に入つて    版下を習つたのにあつたのでせう。それから錦絵を書くやうになつて著しく世にあらはれました。年齢    の割にして世の中へ出方が早かつたと云ふのも、重にこの店頭の錦絵の為めでせう。錦絵では当時誠に    評判の好い方でした。今から見ても、おかしくもなく可成によく出来で居るものが多い。    その後共進会など云ふ事が盛なるにつれて、氏も普通の絵を研究し始めた。一体版下や錦絵を書いて居    た後で普通の絵に入る場合には、どうも版下錦絵風を脱する事が困難なものですが、氏があれだけまで    に俗を脱して世に出られたのには、どれ程の苦心あつたらうかと察するに余りあるのです。    氏は重に歴史画をよく書かれた。歴世の風俗などに関しての研究もなか/\精細なもので、共進会など    へ出品する度に著しい進歩が見えて、近来は誠に立派な人物画を沢山書かれるやうになつた。それまで    の氏の苦心は相当なものであつたのでせう。    氏の絵は、氏の人物の如く極めて真面目なものです。筆法も着色も頗る真面目です。大体から云つて氏    の氏の絵を一口に評すれば、全然客観的だと云ふ所に特色があるのでせう。凡てのものを表はすに、あ    くまでも形を以てする。例へば或会に出品した『養老孝子』の絵を見ても、老人に酒をすゝめて居る所    の形はいかにも孝子らしく出来て居るし、老人の顔なども酒を飲んでいかにもうまさうなと云ふ格好が    よく出て居る。凡ての形を以て情を精細に表はすと云ふ方に努められたやうです。    だから、現今の人物画家の中で形を巧みに書く人と云つたらば、試(ママ)に氏の如きは類の少ない方なの    です。兎に角氏の絵の進歩は、巧みに/\と進んで行つたものです。これからはおひ/\に主観的の味    も加へられてさぞ面白い絵が出来たらうと思ひますが、惜しい事にはもう此の世の人ではありません。    氏の作中で私の頭に残つて居る名作は『武文の絵』『忠信』それから横物で秋野に古代婦人の居る絵な    どです。    一寸最後にお断りして置きたいのは、前に申した客観的主観的と云ふ言葉ですが、あれは普通歴史画を    客観的の絵と云ひ、山水を主観的と云ふ、あれとは違ふのです。山水画歴史画の別なく総じて書き方に    客観的と主観的との別があると云ふのが私の考なのでして、例へば雅邦翁の絵の如きを主観的とすれば    文挙氏の絵の如きは客観的─さう云ふ見方であの言葉を用ひたのですからどうぞそのおつもりで願ひま    す。    ☆ 刊年未詳(明治)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕   「三国志豪傑寿語録」「年方画」版元未詳 ②  ☆ 大正六年(1917)  ◯『日本絵画名家詳伝』下(竹内楓橋著 春潮書院 大正六年(1917)二月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝水野年方    浮世絵の泰斗なり 通称粂次郞 慶応二年正月二十日 神田山本町に生る 父は野中吉五郎と呼び 左    官棟梁たり 幼より画を好み 十四歳の時 当時浮世絵の大家水野(ママ)芳年の門に入り 傍ら山田柳塘    に就て陶器画を学び 其の改良に尽す所あり 其後陶器画を捨て 芳年師の外 南画家柴田芳州に学び    芳州没後は三島蕉窓及び渡辺省亭等の画伯に贄を執り 人物以外草木景色の描法を研究し 明治二十年    頃より 師芳年の後を承けて やまと新聞の挿画を担任し 名声忽ち揚り 尾形月耕と並びて 新聞画    の双璧と称せらる 明治二十四年初めて富山県共進会に作画を出品して二等賞を得 爾来 日本美術協    会・日本美術院日本絵会其の他の画会に出品し 或は評議員となり 又審査員となれり 同四十一年四    月七日病を以て逝く 年四十三 浅草区松葉町貞源寺に葬る〟  ☆ 大正九年(1920)  ◯「国立国会図書館デジタルコレクション」(大正九年刊)    中村不折画『絵本辰巳巷談』泉鏡花 春陽堂(11月)            挿絵 中村不折 富岡永洗 鈴木華邨 下村為山 水野年方 揚州(ママ)周延            装幀 小村雪岱  ☆ 大正十二年(1923)  ◯ 水野年方顕彰碑建立(関厳二郎撰書・於神田明神境内)   (碑 表)   〝水野年方君は本姓野中氏通称粂次郎 慶応二年一月江戸神田に生まる。月岡芳年に学び後諸派を研究し     率先浮世絵の向上に努力せり 展覧会審査員に選ばれ其画筆精微気品も高し 忠信参館図は恭くも御府    に入れり 明治四十一年四月七日没 年僅に四十三年生情義に厚く門下秀才に富む 茲に胥謀りて塔を    建て永く其徳を紀す 嗚呼君芸に游びて華を摭ひ根を培い筆精に韻高し 稟命永からざりしかど 芬芳    は窮りなからむ     大正十二年四月             同庚の友 関 巌二郎撰并書   (碑 裏)   〝小山光方 竹田敬方 山口米庵 鏑木清方 山本宣方 笠原常方 田島定方 大石雅方 須藤家方     草野栄方 中井智方 西村京方 山本方堂 吉本月荘 池田輝方 大野静方 荒井寛方 水野秀方    池田蕉園 源山隆方 椎塚応義 大江蕉玉 歌川花菜 古山勝方 古荘信方 中山秋瀧 佐藤和方     池田秋方 芳野尚方 小倉高嘉 田中崇籏 小林きん 山脇義久 平田月方 木村貞治郎 藤浦富太郎     秋山武右衛門 新富〟  ☆ 昭和以降(1926~)    ◯『こしかたの記』(鏑木清方著・原本昭和三十六年刊・底本昭和五十二年〔中公文庫〕)   ◇「やまと新聞と芳年」p33   〝創刊紙の続き物は、円朝の「松操美人生埋(マツノミサオビジンノイキウメ)」。採菊は「廓雀小稲出来秋(サトスズメコイ    ナノデキアキ)」。四代目稲本(イナモト)楼の小稲と中野梧一とのことに取材したもので、この挿絵は芳年の推    薦に依って、まだ二十一歳の年方が画いた。挿絵は芳年一枚、年方二枚と覚えていたが、その一つはど    うしても思い出せなかったところ、「新聞集成明治編年史」を見ているうちにそれが塚原渋柿園の「欲    情新話」という花柳ものの現代小説であることが解った。年方のさし絵もそこに宿刷されてあったが、    (以下略)〟     ◇「年方先生に入門」p87   〝(鏑木清方が)母に連れられて、神田東紺屋町の年方先生の許に弟子入りしたのは、明治二十四年七    月なかば過ぎてのことであった。先生は慶応二年の出生で、その時はかぞえて二十六歳になる。父は野    中吉五郎と云って左官の棟梁であったから、塗家造りの土間には、大小さまざまの竈(ヘツツイ)が列んでい    た。     大半紙一枚に朝顔の鉢植を、毛筆、淡彩で、覚束なく写生したものが、古い綴込帳に見出される。そ    の日附には八月一日とある。それが弟子入の後、通学の第一日なのであろう。これを見ていると、その    日の思い出が銀幕に写し出される古い映画のように、ぼやけながらも印象は蘇る。店蔵の竈の間を縫っ    てはいると、木造二階建が狭い中の間と共に建て継いである、その二階が先生の画室になっていた。南    北に高窓があって、東は二尺足らずの掃出し廊下が附いたのを背にいして、丈は低いが、平たくて大き    い机を据えて、先生はいつも挿絵をそこでかいていられる。私はその前に、机の左側を師の机にピッタ    リ寄せ、南側の高窓の光線を正面に受けた座に着いた。その世話は先生の御新造のしてくださるに任せ    て、私はただ「ここへ御坐りなさい」と、御新(ゴシン)さんの云うなりになっていた。もう少し前までは    三、四人の通い弟子が来ていたこともあったが、巣立をした小山光方、竹田敬方の二人が時々機嫌きき    に見えるだけで、通うのは私(清方)一人きりであった。入門第一日目の課題として、写生の他に、    丁度その時連載され始めた桜痴居士の小説「天竺徳兵衛」第一回の挿絵を、礬水(ドウサ)のない薄美濃に    敷きうつしをすることであった。浪人すがたの徳兵衛が故郷に帰って柴刈娘に道を尋ねる。その黒の着    附の線を除けて、濃墨でベタ塗りにしたり、直線を定木で引くとは知らないので紆々(ウネウネ)に引いたと    ころが、木版下の場合には、黒の衣裳なら、線を除けて塗るに及ばず、薄墨を塗って置けば、彫師が心    得て黒く出るようにしてくれるのだと云うことも、直線は竹の曲(カネ)尺を定木に使って引くものだとう    いうのも、たちどころに解って、習うことのありがたさを知った。     私が上ってから間もなく、店の土間に有った竈は残らず片附けられて、そこに床の間の附いた客間が    新設された。先生の画名も高くなって来客も多くなり、相踵いで入門者も殖えて来たりした為であった    のだろう。私より一と月後れて、「やまと新聞」の彫刻師山本の息子で私と同い年なのが入門し、笠原、    浅野、田島、渡辺、と、これだけが一年ばかりの内に続いて弟子入をした。先生の机を中心に、左右向    き合って机を並べるようになったので、そうでなくても狭い室は、周囲を歩くことさえ容易ではなかっ    た。前に川辺御楯(ミタテ)に学んだという渡辺の他は、どれも同じように、敷写しか模写か、花ものの写    生をする程度なので、こちらの方は小机で用は足りたが、先生は版下以外の大きい制作には、画こうと    してもどうにも拡げる席がなかった。でも偶(タマ)には枠張の絹地の絵が出来たところを見ると、それは    日曜か、八月の暑中休みの間に画かれたものであろう。その他にも、深川の不動尊へ納める、祐天上人    が夢に不動の利剣を呑む図を画いた時などは、その出来上るまで自然休課にするより仕方がなくなった    こともある。何もそんなことの拘束があったせいでもなかったろうが、傍(ハタ)から見たところでは、上    野の展覧会、と云ってもその時代には、日本美術協会と、二十五年に出来た青年絵画協会があっただけ    だけれど、先生は別にどちらへも出品の用意をされる様子はなかった。この青年絵画協会は後の日本美    術院に続くもので、創立の時既に先生の名は、真哉、広業、丹陵、敬中、半古、月耕その他と共に審査    員として二十五名の中に挙げられていた。会頭は岡倉天心、上置と云ったところに雅邦、玉章が据えて    あった。後になって見るとこの会は、先生にも私にもかなり関係を有つものになった。それはもう少し    先きに述べるとして、この頃では先ず先生の身辺を顧みよう。     先生の名は粂次郎、水野と云う姓は、明治初年にはよく行われた徴兵除けの改姓だということに聞い    ているが、先生の生母は早く家を離れて、継母に栄之助と云う子が生れていたから、父の姓はそれに継    がせたいと、恐らくそう望まれたのではなかったろうか。併し後年この栄之助は、通称にはやはり水野    を名告って、呂童の名で尺八の大家になった。     先生もちいさい時から父の仕事を継ぐように仕込まれていたのだが、画工(エカキ)になりたい一心から、    十四才の時芳年の内弟子に住み込みはしたものの、丁度それは根津宮永町時代という、芳年がいかにも    頽廃期の浮世絵師らしい生活に没入して、近所の遊郭に入り浸っていた時分なので、職人気質の父親は    我慢し切れず、出世前の者を預けて置けるところじゃアねえ、と怒って退げて了ったのはその翌年の、    先生が十五歳の時と聞いているが、その時分に先生が画かれたという「青砥藤綱」の絵には、浮世絵畠    と見られる風はちっともなく、芳年の筆法もあまり窺えない。     室町の秋山から「雪月花」三組と、楠公が兵庫に鳳輦を迎える図と、盛綱の藤戸の渡、と、引き続い    て出たと思われる三枚続きがある。この内、明治十七年の出版届のある分が恐らく「年方」の署名を持    つ最初の錦絵と見てよかろう。前章にもあったように、芳年の推輓に依って、「やまと新聞」を画くこ    とになった十九年、二十一歳まで、芳年の許を離れてからの先生は、陶器の絵を画くことを学んで、父    の厄介にならず、自活の途を立てて居られたことは解るが、再び芳年の膝下に帰った時はハッキリしな    い。私の推量ではあるが、十七年に秋山から三枚続がつづいて出る前に、父の許しを得て復帰したので、    秋山が無名の青年の作に資本をかけてくれたのも、芳年の口添えが無ければ望めないことだったろう。     (輸出用の薩摩焼きの陶器について、樋口一葉の小説『うもれ木』中の記事を引用)私も先生(芳    年)の花瓶に画かれた「桃園三傑」などを見ているが、一葉のこの小説は実兄が陶器を業にしていたの    に基づくといういことでもあり、且年代も殆ど同じところから、これを読むと先生が、継母の実家猪岡    氏の一室で花瓶や飾皿に精緻を極めた彩筆を執った様子がありあり偲ばれて来る。     猪岡氏の家のあった麻布の広尾は、芳年の漫画に、狸が蝙蝠傘を差して、原っぱの中を、千金丹売り    に化けてゆくさまを画いたほど、野萩、尾花のみだれ咲く片田舎で、二十になるやならずの先生が、朱    やら緑やら、夕日にかがやく金泥描きの、雲形、紗綾形(サヤガタ)と面相の筆を運ばれる傍には、いつも    猪岡氏の末娘の姿があったという。それは名を房と呼んで、後には私が一方ならず世話になった、御新    造さんに他ならぬ。私が弟子入をしてからも、先生の机の左、御自分の縫った肱突(ヒジツキ)に触れるほ    どに身を寄せて、先生の筆の動きを、さも愉しそうに凝(ジツ)と見入っていられる様子は、髪かたちは    変っても、広尾の野末に春を待つ、昔を今に同じ思いであったろう。     私の稽古はいつも学校の帰りからなので時間が乏しく、それでなくてもあまり勉強家の方ではなかっ    たから、一向に実が入らず、写し物には「飄々として海上の小舟の如し」という、先生の朱書きが附い    て返される始末で、格別に目をかけて下すった御新造には、どんなに張合のないことであったろうと遉    がに済まない気がしていた。     三時のお茶受時になると、何かしら、お茶と一緒に御新造の手で運ばれる。それを弟子達に取り分け    て、みんなで食べながら雑談に耽るひとときを、私は楽しみにして待っていた。私は先生に画を教わっ    たばかりではなく、その感化を受けたものが数々あるが、好物のうちに焼芋をかぞえるのもその例の一    つかも知れない。先生は殊の外その切焼が好きで、昼時をそれで済まされることが度々あった。私も久    しくそれに倣ったが、今日ではその頃で云う焼芋は全く影を消して了った。先生に受けた感化は何も焼    芋ばかりではない。先生は芸事に趣味はあったけれど師の芳年とは似もつかない堅人で、なんの道楽も    持ち合わず、派手な生活、派手な振舞を嫌われた。相撲が好きだったが、横綱、大関の花々しいのより、    上りも下りもしない地道な角力を取るからと云って、若湊という力士に好意を有たれた。江戸っ子で、    然も職人の子でありながら、その人柄や志操には、どうしても士人の出としか思えない節があった。浮    世絵の系統に育った為めに、先生はとかく美人画家として見られ勝ちだけれど、親炙(シンシャ)した者から    云うとそれは決して正しい見方とは云えない。前にも述べたように、処女作時代既に歴史画に発足して    から晩年まで、肉筆にも版画にもそれは終始一貫して少しも変りがなかった。明治三十年に始めて日本    画会の展覧会に「佐藤忠信参館図」を発表されてから、絵画協会と美術協会へ相当大作を続けられたけ    れど、凡てが歴史画で、美人風俗は僅か二、三作に過ぎなかった。     私が入門した時、先生は丁度「本多忠勝小牧山軍功図」の三枚続版下に色分をしていられた。本多平    八郎が蜻蛉切の大鎗を携えて、馬に一息入れている。それから続いて「村上義光(ヨシテル)」「小楠公」    「伊勢三郎」などの三枚続が次々に出来て、私達も追々この色分の手伝をするように仕込まれて来た。     歴史画に熱心な先生は、従って武具、甲冑(カツチユウ)に興味が深く、家名は忘れたが、京橋弥左衛門町    か、佐柄木町かの東側に在った武具屋から腹巻だの、籠手(コテ)脛当(スネアテ)やら買い込まれるのが、参    考品とは云え、唯一の道楽でもあったのだろう。紺屋町の家の蔵と、画室のある二階屋とのつなぎにあ    たる狭いところには、いろいろ蔵書が収めてあったが、後のように調法な覆刻本のない時分なので、    「集古十種」や「貞丈雑記」「軍器考」などが、かなり場を取って積み重ねられていた。こうした雰囲    気の中にあって、私は江戸の浮世絵に就いては何も知らされることが無かった。また世の中の歴史尊重    の盛時だからでもあったしするので、「俊基東(アズマ)下り」とか、「経政竹生島詣」などを諳(ソラン)じ    て朗読するのを楽しんだ。声に出して本を読むのの好きな私は、先生や御新さんの云いつけで「英(ハナ    ブサ)草紙」や「繁々夜話」を、積まれた本の中から抽き出して来ては読んだ。未知の書物で始めて知る    数々の怪奇な物語にスッカリ興味を覚えて、成人の後、古本の会で求めたのが今も残っている〟     ◇「年方先生に入門」p95   〝 紅葉山人の「三人妻」に、桂舟、永洗、年方の三人が、それぞれに三美人を合作した口絵をかいた頃    は、木版の挿絵、口絵の最も全盛を極めた時であったろう。私はまだ神田紺屋町の先生の許に通って、    いつか自分も口絵に花を飾る晴れの舞台に登場する日を夢みないのではないが、世がのんびりしていた    上に自分も欲がなかったのか、少しも焦る気を起した覚えがない。今のように展覧会が憧憬の的になる    ような時代は夢想だにしなかった。とは云えその時にも上野では、守旧派の美術協会と、それに比して    は新派とも云われる青年絵画協会が対立して展覧会を開いていたが、社会の関心は至って薄く、同じ画    家でも私どものような挿絵志願の者には、遠縁の親類ぐらいにしか思えず、床の間へ掛ける掛物など何    処が面白くてかくのだろうと、私などは後々までそう思っていた。同じ社中でも皆が皆までそんなふう    に考えていたわけではなく、御楯に学んだ渡辺などは、育ちが育ちだけに、展覧会出品への志は自分で    ももちつづけ、傍の同門生にもこれを勧めてやまなかった。今になって思うと、後日先生が出品を続け    られるようになったのも、時の動きと共に、この人の存在が幾分の遠因になったのかも知れない。先生    の実力はいつなん時何処へ出してもヒケを取るものではないと、勿論私などにも解ってはいたが、社中    の誰かれの青年絵画協会へ出す作品の下絵を直したり、顔の仕上げに補筆をしてやったりはされても、    先生自身が出品を考えられる様子はちっとも見ることは出来なかった。何故か私にはそれが頼母しいよ    うな気がしてならなかった。     私が通っていた頃には、月に二度ぐらい鳥越に住居のある省亭さんへ行かれたのを知っている。大き    い折本にみごとな附立ての鶴のかしらを見た覚えもある。またその他にも、松原佐久と云う故実家にも    就いて、有職故実を学ばれた。小堀鞆音(トモネ)、梶田半古の両先生との交遊もそこから始まって、まだ    若々しい梶田先生を、紺屋町の二階に見たこともある。また、先生は、松原さんへ来るまだ若い人だが、    吉川(キツカワ)霊華と云うのは今に立派なものになる、と推奨していられた。私が十七、八だったろうから、    吉川さんは二十そこそこであったのであろう。これが吉川さんの名をきく始めであった〟      ◯『こしかたの記』「大根河岸の三周」p56   〝(明治)二十六年四月大根河岸に祭礼があって、踊屋台が出たり、飾り物が辻々出来たりする他に、    芝居で大当たりの塩原多助(前年正月、歌舞伎座にて三遊亭円朝原作『塩原多助一代記』の初演が尾    上菊五郎によって行われた)の昂奮がまだ醒め切らなかったと見えて、多助一代記の絵行燈を河岸中に    立てる話が極まって、年方先生の一門でそれを画くことになった、門弟一同と云ったところで、古い弟    子の小山光方の他は、私(清方)同様まで写し物の初歩段階で、自力でものの形の画けるものは一人    も無い。私は新年の新聞にコマ絵を一度画くことがあって、画号が要(イ)るからと、昔からの仕来りに    従って師匠の「方」の字を貰い、その上に適当な字を師匠がいくつか書いて、そのうちからいいのを択    ぶことになったので、ここに苔の生えるほど使い古した「清方」の名は出来たけれども、その落款を入    れるに足る画の成るべくもない。河岸の小父さんなる三周(青物市場大根市場の顔役。落語家円朝や    尾上菊五郎の後援者)に、「そんなものは画けません」と断ったが許してくれない。籤引(クジビキ)で引    き当てた私の画題は、大団円になる多助とお花の婚礼の図であった。仕上げはどうやら自分がしたけれ    ど、骨格となる下画は殆ど先生の手に成ったも同様だから、画いたというより実は写しものに彩色をし    たのに過ぎなかった。何事も質素な時分なので、材料も絹地を使わず寒冷紗に礬水(ドウサ)を引いて用い    たので、それも私たちばかりではなく年方先生もこの粗末な材料に画かれたのである〟     ◇「鈴木学校」p29   〝(清方)芝居の帰りにこの長谷川(新富座近くの絵草紙屋)で、五代目菊五郎の仁木の、幕外一人    立と、左団次の宮本無三四が白倉の邸で湯殿を破って、柱を振り冠っている、これも一人立半身のもの    で、どっちも国周筆の三枚つづきを自分で見立てて買って来たこともある。左団次の無三四は湯殿で浴    衣姿の大立廻りが凛々しくて大層好評だったもので、これは二十一年の夏狂言であった。     その後、芳年、年方、周延、月耕と、次々に新版は店頭を飾って、絵草紙屋はまだ庶民に親しまれて    いたようだったが、二十七、八年の日清戦争に、一時戦争物の全盛を見せたのを境にして段々店が減っ    て行った。役者絵は何といっても写真の発達に抗し得なかったろうし、出版の戦後目覚ましい進展を見    せて来たことと、三十四五年に絵葉書の大流行が旋風のように起って、それまでどうにか錦絵を吊るし    続けていた店も、絵葉書に席を譲らなければならなくなった〟     ◇「年方先生に入門」p97   〝 父(条野採菊)の経営していた新聞(「やまと新聞」)も、戦争(日清戦争)などがあって元のよ    うにはゆかなくなり、先生はまだ関係は断たれなかったけれど、私ば半ば引き継ぐような形になって来    た。新聞代を払う読者は遠慮がないから、不評判の投書はかなり来たらしい。絵を始めてから四、五年、    十七、八の青二才には重荷過ぎた。     先生の今日の地位から見ると、神田紺屋町の家は似合わしくないので、谷中清水町に在る、大河内子    爵家の庭園の一部、まだ狐がいると云われた藪地を拓いて、新に起工され、二十八年の五月には、神田、    を引き払ってそこに移ると間もなく、私の大層厄介になった夫人は、引越しの取込みもまだ片づかぬ六    月の三十日にチフスを病んで、先生が展覧会へ、かねて望まれた歴史画の大作を続いて画かれるのを見    ずに逝かれた。     三十一年の五月に、末松子爵を会頭とする、日本画会の第一回展覧会があって、先生はその評議員に    推された時に、始めて大作を出品された。それは御物の収まっている「佐藤忠信参館図」で、私には御    新造さんを喪った先生が、まだ紅顔の少年であった、後の池田輝方を傍に、この大作を打ち込んでいら    れた姿を忘れない。     先生はかぞえて三十三歳であった〟       ◇「傘谷から京橋へ」p130   〝(*明治三十三年)その秋には、現代少女がハンモックに眠る「紫陽花」と、潯陽江頭、夜客を送る、    と云う「琵琶行」とを出品した。九月に入ってわが家の裏に工事が始まって制作にもさしつかえるので、    前田家の家中の一室を借りて漸く画き上ることが出来たけれど、その前にこの下画が出来た時に、今ま    での慣例に従って年方先生に見ていただくと、先生は白楽天が憔悴して見えるのがいけない、と云って、    デップリとした、酒客で大人らしい風貌に、筆を把ってスッカリ訂正して下すった。たしかにそれらし    い恰幅(カップク)と貫禄は備えたけれど、それでは私の意図に背く、そうかと云って先生の朱筆を無視す    るのも気が咎める。結局どっち附かずの表現に終わったが、それ以来、善くも悪くも判断は自分で極め    ることにした。     浮世絵の出ではあるが、師の年方が日常歴史画を主として画いた関係もあったろうが、この年の八月    に先生の宅で開かれた研究会では、輝方が「知盛入水」静方が「伊賀の局」私も「劉備」「仁徳天皇」    他に画題を不明ながら寛方の歴史画がある。寛方は後に美術院に属した荒井寛方なので、その歴史画は    不明ながら、私や輝方がこれに筆を染めているのも一つには時世であろう、     容斎派の盛りの頃から歴史画が日本画の主流と見られる傾向を示したのが、日清戦争の済んだ後はそ    の擡頭は一層目立って、歴史画、歴史小説の流行を促した。代表的は出版者であった博文館では歴史関    係の出版は少年ものにも及んでいた。「読売新聞」は歴史画題を募って、日本美術院がこの課題制作を    採り上げた。街頭にはまた「われとにかくになるならば、世を尊氏の代となりて」の歌声が続けられて    いた〟     ◇「口絵華やかなりし頃(一)」p192   〝 先師の年方は、時分の師匠だから云うわけでないが、挿絵画家としてこれだけ本格的な、基本の勉強    した人は珍しい。画系が、その伝統の上に立っているのは云うまでもないが、国芳、芳年と二代続いて    歌川派の様式から脱却した巨匠の後を承けて、先師はその性格に依る堅実な歩みを辿り、流派を超えた    一つの境地を築くことに努められたと見られる。     芳年は毎日画く新聞の挿絵にも、一々写生に拠ったものだが、先師もまたその通りにした。諸家の口    絵を比較通覧すると、年方のものは一番ムラがなく、与えられた仕事はいつも真向(マツコウ)から誠意で    当って、己れの好き嫌いは抑えるように心掛けられた。されば一般に出来、不出来は目立たなかったが、    鮮やかな記憶に上(ノボ)るもののうちから採ると、桜痴の「もしや草紙」、渋柿園の「最上川」「おあ    き」、浪六の「井筒女之助」、鏡花の「葛飾砂子」「辰巳巷談」等がある。     これらの諸先輩は、こうした仕事を愉しんで、他に何を求める雑念もなく、日夜動かす筆の先きの、    その命毛を熟(ジツ)と見つめて一生を送られたのである〟    ◯『狂歌人名辞書』p148(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝応斎年方、一号蕉雪、通称水野粂次郎、芳年門下の浮世絵師にして、清方、輝方等の師、専ら新聞挿画    を描けり、明治四十一年四月七日歿す、年四十三    ◯『浮世絵師伝』p127(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝年方    【生】慶応二年(1866)一月廿日 【歿】明治四十一年(1908)四月七日-四十三    【画系】芳年門人        【作画期】明治    水野氏、俗称粂三郎、応斎・蕉雪等の号あり。もと神田紺屋町なる左官職の家に生れ、幼時より画を好    み、夙に芳年の門人となりて専心浮世絵を学びし外、柴田芳洲・三島蕉窓・渡辺省亭等に就て得る所尠    からず。彼が新聞の挿画に一新記元を開きし事は、著名なる功績の一なるが、しかも門生を薫陶するに    宜しきを得たるは、延いて明治画壇に貢献する所多大なりしものと謂ふべし。現代画壇に一地歩を占む    る鏑木清方氏及び故人池田輝方・蕉園女史の如きは、彼が門下のうち錚々たる人々なり。彼が錦絵は風    俗画・戦争画等数多出版されしが、其中に明治十八年版『日本略史図会』三韓征伐の図(三枚続)には    「画工、神田区東紺屋町五番地、野中粂次郎」とせり。法名色雲院空誉年方居士、墓所浅草区松葉町貞    源寺〟    △『東京掃苔録』(藤浪和子著・昭和十五年序)   「下谷区」谷中墓地   〝水野年方(画家)通称粂二郎。芳年の門人、新聞挿画にて画名揚る。門下より多くの俊才出づ。明治四    十一年四月七日歿。年四十三〟  ◯『浮世絵師歌川列伝』付録「歌川系図」(玉林晴朗編・昭和十六年(1941)刊)
    「歌川系図」〝月岡芳年門人 年方〟   ◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p90(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)   〝年方(としかた)    水野粂三郎、応斎、蕉雪等の号がある。神田紺屋町の左官職の家に生れ、幼時より絵を好み、芳年の門    人となつて、浮世絵を学ぶ他に、柴田芳州、三島蕉窓、渡辺省亭に就いても得る所が少くなかつた。明    治十五六年より、四十年代に至るまでに風俗画美人画などを数多く描いたが、新聞の挿絵にも新紀元を    開いたのは顕著な功績の一つである。また肉筆画にも長じ、岡倉天心等の日本絵画協会に参加し、浮世    絵派を土佐、四条などと同等の地位に置かせたのも年方等の功績であるとされている。その門下に錚々    たる人を出し、鏑木清方、大野静方、池田輝方、池田蕉園、水野秀方がある。慶応二年生れ、明治四十    一年四月、四十三才で歿した〟