Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ もろのぶ ひしかわ 菱川 師宣浮世絵師名一覧
〔 ? ~ 元禄7年(1694)6月4日・享年未詳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔目録DB〕:「日本古典籍総合目録」   〔狂歌書目〕:『狂歌書目集成』       〔日文研・艶本〕:「艶本資料データベース」   〔白倉〕  :『絵入春画艶本目録』   『浮世草子考証年表-宝永以降』長谷川強著 日本書誌学大系42   『近世遊女評判記年表』野間光辰著 日本書誌学大系40   『初期浮世草子年表』 野間光辰著 日本書誌学大系40   『師宣祐信絵本書誌』 松平進著・日本書誌学大系57   『赤本黒本青本書誌』「赤本以前之部」木村八重子著 日本書誌学大系95   『江戸吉原叢刊』江戸吉原叢刊刊行会編   『噺本大系』  武藤禎夫編   『江戸小咄辞典』武藤禎夫編  ☆ 明暦三年(1657)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(明暦三年刊)    菱川師宣画『三浦物語』四冊 存疑(師宣)京都 山田市兵衛板 延宝六年再刊  ☆ 万治二年(1659)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(万治二年刊)    菱川師宣画    『順礼鎌倉記』大本二巻 画工不明 林重右衛門板(頭注 ブ氏師宣)    『北条五代記』大本十巻  師宣 三浦浄心著    『しだ物語』 二冊   (師宣(頭注、存儀)    『野郎虫』  半紙本一冊 菱川画 正本屋五郎兵衛板           (万治二年の傍証ありて役者評判記の嚆矢なりといふ)    『身鏡』   大本三冊  画工不明(師宣)芳野屋板           (頭注、ブ氏、女鏡、万治二年刊といへるは此書か)  ◯『江戸吉原叢刊』第一巻   ◇遊女評判記(万治二年刊)    菱川師宣画『吉原鑑』     刊記「うろこかたや 万治二年九月吉日」     作者 未詳     画者 菱川師宣カ     版元 鱗形屋     解題「この挿図の作者を菱川師宣とする見方もあるが確証はない(田中喜作「菱川師宣        絵本年表」「書物往来」十二)」  ◯「日本古典籍総合目録」(万治二年刊)   ◇地誌    菱川師宣画『鎌倉物語』五巻五冊 菱川師宣画 中川喜雲撰  ☆ 万治三年(1660)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(万治三年刊)    菱川師宣画    『高屏風くだ物語』小本二冊「菱川師宣画」    うろこかた屋板    『吉原かゞみ』  小本一巻 画工不明 稍師宣 うろこかた屋板    『女諸礼集』   大本七巻 画工不明 師宣  田中文内板     『儒仏問答』   大本一冊 画工不明 師宣  ◯『近世遊女評判記年表』(万治三年刊)    菱川師宣画『高屏風くだ物がたり』万治三年刊     著者 山の手奴花桴 版元 うろこがたや板     (「年表」は「菱川師宣の挿絵」とする)  ☆ 寛文元年(万治四年・1661)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛文元年刊)    菱川師宣画    『六ぽう名乗ことば尽し』一冊 菱川師宣画    『替花伝秘書』半紙本一巻 画工不明 師宣 高橋清兵衛板    『伊勢物語』 小本    有疑(師宣画)  京林出雲掾板  ☆ 寛文二年(1662)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛文二年刊)    菱川師宣画    『弘法大師伝記』三冊   有疑(師宣ノ画)    『案内者』   大本六巻 画工不記名 師宣 中川喜雲序 秋田屋平左衛門板    『水鳥記』   大本三冊 師宣画 松会板(頭注、ブ氏寛文十二)    『剥野老』   小本一冊 師宣画 ます屋板  ☆ 寛文三年(1663)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛文三年刊)    菱川師宣画    『曽我物語』大本十二冊 画工不記名(師宣)山本長兵衛他板    『兵部物語』中本一冊  師宣 未見    『今川物語』一冊   (師宣画)  ☆ 寛文四年(1664)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛文四年刊)    菱川師宣画    『大和孝経』大本六巻 画工不明 師宣 山本長兵衛板    『義経記』 大本八冊(師宣ノ画)   西村又左衛門板  ☆ 寛文五年(1665)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛文五年刊)    菱川師宣画 『京童』大本七巻 画工不記名 師宣  ☆ 寛文六年(1666)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛文六年刊)    菱川師宣画    『替花伝秘書』小本一巻 画工不明 師宣 高橋清兵衛板    『保元物語』 三冊  (師宣画)  ☆ 寛文七年(1667)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛文七年刊)    菱川師宣画    『吉原讃嘲記』半紙本一冊 画師宣 畠山箕山作 うろこかたや加兵衛板(頭注  上るリ)    『宇治物語』 三冊   (師宣画) 貞享二年再板    『宝物集』  大本三巻  画工不明 師宣若がき(中ニ曽我物語中ノ貧女の一燈ト同図アリ)    『水鳥記』  大本二巻  画工不明(師宣ニアラズ)中村五兵衛板    『吉原雀』  二冊   (師宣画) ます屋板  ◯「日本古典籍総合目録」(寛文七年刊)   ◇俳諧     菱川師宣画『やつこ俳諧』一冊 俳諧 菱川師宣画 可徳編  ☆ 寛文八年(1668)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛文八年刊)    菱川師宣画    『身のかゞみ』大本二巻  画工不明 師宣 本間屋板    『やまと大王』半紙本一冊 有疑(師宣画)  ◯『近世遊女評判記年表』(寛文八年刊)    菱川師宣画『よし原六方』小本 一冊 寛文八年九月刊 版元 江戸正本屋(空白)門板     (「年表」は「名所案内記」「姿絵は菱川」とする)  ☆ 寛文九年(1669)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛文九年刊)    菱川師宣画    『釈迦八相記』一冊  (師宣)    『伊勢物語』 大本二冊 画工不明 師宣(寛文二年版と同画)山本九左衛門板  ☆ 寛文十年(1670)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛文十年刊)    菱川師宣画    『観音経和談抄』半紙本三冊 師宣ノ画 鱗形屋孫三郎板    『新板 義経記』大本八冊 (師宣ノ画)吉野屋惣兵衛板  ◯「日本古典籍総合目録」(寛文十年刊)   ◇仮名世草子    菱川師宣画『古今軍鑑』五巻四冊 角書「菱川絵入」本問屋板  ☆ 寛文十一年(1671)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛文十一年刊)    菱川師宣画    『しかたばなし』大本四巻 師宣 中川喜雲作 うろこかたや板            (序、万治二ッの己亥年九月 中川喜雲)    『案内者』(あとをひ京すゞめ)大本五冊 師宣風 松会板  ◯「噺本大系』第一巻「所収書目解題」(寛文十一年刊)    菱川師宣画『私可多咄』中川喜雲 万治二年序    刊記「寛文十一年 辛亥孟春吉旦 大伝馬三丁目 うろこがたや板」    〈無署名。従来より師宣画とされてきたが、これを否定する説もある。『噺本体系』の「所収書目解題」は画工につい     ては言及がない。また本書は万治二年刊の再版本とされているが、同「解題」は「果して万治二年に初版が出たか不     明である」とする〉  ☆ 寛文十二年(1672)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(寛文十二年刊)    菱川師宣画    『武家百人一首』大本一巻 絵師 菱川吉兵衛 東月南周 鶴屋喜左衛門板            (師宣の署名のある絵本ハ本書を以て嚆矢とす)     〈佐藤悟氏は寛文十一年刊とする。千葉市美術館「菱川師宣展」カタログ所収「菱川絵本の諸問題」より。なお同カタログ      の作品解説が載せる『武家百人一首』の刊記は次の通り〉     「寛文十二壬子歳孟春吉日/筆者東月南周/絵師菱川吉兵衛/鶴(以下欠)」     〈「跡見学園女子大学/図書館所蔵百人一首コレクション」本に次の識語あり〉     〝是より以前、師宣の名あるものを見ること稀也 されば此書師宣在名本中最も早きもの      ゝ一に数ふべし 斎藤月岑旧蔵本、外題書は月岑自筆といふ〟    『黄檗山隠元咄』大本四冊 師宣 正本屋十右衛門板    『二十四孝抄』 大本二巻 画工不明 師宣 ふ屋伝兵衛板    『源氏物語 宇治十帖』大本十冊 師宣之画 松会板    ◯「艶本年表」(寛文十二年刊)    菱川師宣画『倭国美人あそび』墨摺 大本 一冊「菱川吉兵衛」鱗形屋板 寛文十二年     (白倉注「師宣艶本の初作か、落款入りの最初」)  ☆ 寛文年間(1661~1672)    ◯「艶本年表」(寛文年間刊)    菱川師宣画    『なり平たはれ草』二冊 菱川師宣画 寛文頃刊 〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『恋のうわもり』 一冊 菱川師宣画 寛文年間刊〔目録DB〕(注記「絵本の研究による」)    『好色伽羅枕』  一冊 菱川師宣画 寛文年間 〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    ◯「日本古典籍総合目録」(寛文年間刊)>   ◇絵本    菱川師宣画『源氏白旗』一冊 絵本 菱川師宣画(注記「絵本の研究による」)   ◇浄瑠璃(寛文年間刊)    菱川師宣画『日本大王』一冊 浄瑠璃 菱川師宣画 岡清兵衛作 丹波少掾平正信正本  ☆ 延宝元年(寛文十三年・1673)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(延宝元年刊)    菱川師宣画『まんしゆの前(ヒメ)』大本三冊 師宣画 鱗形屋板  ☆ 延宝二年(1674)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(延宝二年刊)    菱川師宣画     『日本王代記』中本一  師宣画    『義経記』  大本八巻 画工不明(師宣)  ◯『江戸吉原叢刊』第二巻(延宝二年刊)    菱川師宣画『吉原失墜』延宝二年刊     刊記「延宝弐年甲寅二月中旬」作者 油虫朝臣濡高氏勘太郎/頓敵朝臣ふくべ氏十太郎     版元 山本九左衛門 解題「水谷不倒は菱川師宣画とする(『古版小説挿画史』)」    ◯「艶本年表」〔白倉〕(延宝三年刊)    菱川師宣画『伊勢源氏色紙』(仮題) 墨摺 大本 一冊  ☆ 延宝三年(1675)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(延宝三年刊)    菱川師宣画    『山茶やぶれ笠』小本一冊 師宣画 頓適林作 菊屋七郎兵衛板    『吉原大ざつ書』小本一冊(菱川師宣画)     (種彦曰く、吉原の図を例の鯰のうちに画き吉原暦中段などすべて雑書のおもむきに綴りし遊女の評書なり)     『心学男女鑑』 大本四巻 有疑 師宣画    『源氏小鏡』  大本三冊 画工不明 師宣 靏屋喜右衛門板    『狂言尽』   大本一巻 有疑 菱川師宣画     ◯「艶本年表」〔日文研・艶本〕〔白倉〕(延宝三年刊)    菱川師宣画『若衆遊伽羅之縁(枕)』墨摺 大本 一冊      巻末「右此一冊は徒然としてあるひハ無常を観しあるひハ世間の事に心を労する人の気欝を散せん         が為にこれをしるすもの也 他見用捨(一字不明)秘々         延宝三乙卯余月上旬  大伝馬三丁目 鱗形屋板」         〈余月は四月。「艶本資料データベース」の書誌は刊年を記さず〉     (白倉注「延宝六年説もあるが、延宝三年が正しい。もちろん年記を差し替えた後摺本がある可能性がある。あるい      は『若衆遊伽羅枕』というのがそれか。若衆(男色)物で一書というのは、本書が最初」)    ◯「日本古典籍総合目録」(延宝三年刊)   ◇歌舞伎    菱川師宣画    『狂言尽』一冊 菱川師宣画(注記:絵本研究による)  ◯『江戸吉原叢刊』第二巻(延宝三年刊)    菱川師宣画    『吉原大雑書』延宝三年刊     刊記「延宝三年卯壬四月中旬」作者 未詳 版元 菊屋七郎兵衛カ     解題「師宣風の挿図」「延宝六年刊師宣画『吉原恋の道引』を簡略化したような吉原遊        びの様子が描かれている」   『山茶やぶれ笠』延宝三年刊     刊記「延宝三年夏至 堺町 菊屋七郎兵衛板」作者 小石川住 山水氏頓滴林     画者 菱川師宣カ 版元 菊屋七郎兵衛     解題「挿画は『吉原大雑書』と同じ菱川師宣であろう」  ☆ 延宝四年(1676)  ◯『好色本目録』柳亭種彦著(『新群書類従』巻七・p153)   〝源氏きやしや枕 三冊或は一冊 延宝四年    一名『若紫』    源氏絵の春(一字欠)なり、菱川なるべし〟  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(延宝四年刊)    菱川師宣画『大日本王代記』小本一冊 師宣画          (前年のものを見たるに師宣の画にあらず、蒔絵師か吉田風)     ◯「艶本年表」〔白倉〕(延宝四年刊)    菱川師宣画    『源氏きやしや枕』墨摺 大本 一冊 松会板 延宝四年 菱川師宣画     (白倉注「『源氏物語』を画題とした初期の傑作」)    『伽羅枕』墨摺 大本 一冊「絵師菱河吉兵衛」本問屋板 延宝四年頃     (白倉注「絵本に落款のはいった最初か、といわれていたが、『倭国美人あしび』にゆずる」)  ☆ 延宝五年(1677)  ◯『江戸雀』〔大成Ⅱ〕⑩284(菱川師宣画・延宝五年刊)   (刊記)   〝延宝五年丁巳仲夏日              武州江戸之住 絵師 菱川吉兵衛            江戸大伝馬三丁目    鶴屋喜右衛門板〟    〈千葉市美術館の展覧カタログ『菱川師宣』によると、初版の刊記は〝延宝五年丁巳中春日/武州江戸住近行遠通撰之     /同絵師、菱川吉兵衛/江戸大伝馬三丁目 鶴屋喜右衛門板〟とし、また、選者の近行遠通については『東海道分間     絵図』著者の遠近道印と同一人物で富山藩医藤井半知と推定されるとしている。なお「日本随筆大成」第二期第十巻     の「解題」は〝旧本に近行遠通撰と見えるが、静嘉堂の「東海道分間絵図」五巻末に遠近道人の名が見え、絵師菱川     師宣、板木屋七郎兵衛とあるところから推すに、これも師宣のこの書に際しての筆名と思われる〟とする。不思議な     のは、後印本から選者近行遠通の名を削除した点である〉  ◯『好色本目録』柳亭種彦著(『新群書類従』巻七・p170)   〝恋の息うつし (一字欠)画 大本一冊 延宝五年    鱗がた屋板〟    〈柳亭種彦未見本〉〈〔目録DB〕は菱川師宣画とする〉  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(延宝五年刊)    菱川師宣画    『江戸雀』大本十二巻 跋「武州江戸之住 絵師菱川吉兵衛」鶴屋喜右衛門板    『義経記』大本八冊  画工不記名(師宣画)鱗形屋・本間屋開板     ◯「艶本年表」(延宝五年刊)    菱川師宣画    『当世ひいな形』二冊 菱川師宣画〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)     〈松平進氏は「師宣とするには疑問がある」とする(『師宣祐信絵本書誌』「附記」)より〉    『恋の息うつし』一冊 菱川師宣画〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『小むらさき』 墨摺 大本 一冊「大和絵菱川吉兵衛」松会板 延宝五年〔白倉〕     (白倉注「見るに思ひを増し、聞くに災ひをもよはすハ尤此道也、しか有とも、捨てもおかれず、とかく見ざる聞か      ざる、こそ寿命の種ならんかし」跋)     〈『小むらさき』の刊記は「大和絵菱川吉兵衛」延宝五年正月刊・松会板、『恋の品枕』の刊記は「絵師菱河吉兵衛」      同年二月刊・本問屋板。以上、佐藤悟著「菱川絵本の諸問題」より(千葉市美術館「菱川師宣展」カタログ所収)〉    『恋の品枕』  墨摺 大本 一冊「絵師菱川吉兵衛」本問屋板 延宝五年〔白倉〕     (白倉注「なお、落款、年記については、後に入木(象嵌)の記があるため、師宣画に疑問を呈する説もある」)  ☆ 延宝六年(1678)  ◯『好色本目録』(柳亭種彦著 『新群書類従』巻七・p153)   〝若衆伽羅枕 二冊 延宝六年印行    男色の(一字欠)画なり、頭書に詞ありて香具若衆の(一字欠)など見えたり、画風は菱川に似たり〟    ◯『大尽舞考証』〔燕石〕⑤232(山東京伝著・享和四年(1804)序)   〝引用書目 吉原恋の道引【延宝六年印本/菱川師宣絵本】〟    〈二朱判吉兵衛の小歌「大尽舞」の歌詞にある「から尻(駄賃馬)」という言葉から、京伝は『吉原恋の道引』を引い     て、吉原通いの駄賃の考証に及ぶ〉  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(延宝六年刊)    菱川師宣画    『絵本上々御の字』大本一巻    絵師菱川吉兵衛画 松会板             (広重の写本を見たり「文化とふまり三のとしはつ春 広重」輪池叢書第二三冊の内)    『奈良名所八重桜』大本十二巻六冊 画工不記名 師宣画 大久保秀興・本林伊祐作 柏屋仁右衛門板             (頭注、全然師宣ノ画也)    『増補名所方角抄』小本二巻 画工不明 師宣 山口市郎兵衛板    『伊勢物語平詞』 大本二巻四冊 画工菱河吉兵衛 柏屋与市郎板             (画は寛文版の曽我物語に似たり)    『吉原恋の道引』 大本一冊 画工不記名 師宣画也 本問屋開板    『初春のいわひ』 小本一冊 赤本 画工不明(師宣風)    『古今役者物語』 一    有疑 菱河師宣画 本問屋開板    『女詩仙集』   大本二巻 画工不記名(師宣)藤昌琳撰 跋 藤昌琳画 笹屋三郎左衛門板     〈『古今役者物語』について、佐藤悟氏は「師宣と断言するのは難しくなる」とし(千葉市美術館「菱川師宣展」カタ      ログ所収「菱川絵本の諸問題」)下掲、松平進氏は「師宣在名本ではないが、同じ延宝六年版『吉原恋の道引』と      本の意匠・奥書の形式などが同一で、画風からも両書共に師宣と断定してよいと考える」とする〉    ◯『師宣祐信絵本書誌』   ◇絵本(延宝六年刊)    菱川師宣画    『百人一首像讃抄』大本三巻三冊     刊記「武州江城之下愚大和絵師/菱川吉兵衛師宣/延宝六年午正月吉辰日/大伝馬町参町目鱗形屋新板」     〈後印本として天和三年版・元禄五年版がある由〉    ※(国文学研究資料館「新日本古典籍総合データベース」画像)     「武州(ふしう)江城(ごうじやう)之(の)下久(かぐ)大和絵師(やまとゑし) 菱河吉兵衛師宣」    『吉原恋の道引』大本一冊 署名なし     刊記「延宝六年清明日/通油町本問屋開板」  ◯『赤本黒本青本書誌』   ◇赤小本    菱川師宣画『初春のいわひ』画作者名なし (菱川師宣画)    〈「日本古典籍総合目録」は「赤本」とするがこちらは「赤小本」とする。解題によると、師宣画とするのは宮武外骨     著『菱川師宣画譜』や水谷不倒著『草雙紙と読本の研究』等多数が認めるという〉  ◯『近世遊女評判記年表』(延宝六年刊)    菱川師宣画『吉原恋の道引』大本 一冊 延宝六年三月刊     画工 菱川師宣画     刊記「延宝六年清明日 通油町 本問屋開板」    〈『江戸吉原叢刊』第三巻(江戸吉原叢刊刊行会編・八木書店・2010年8月刊)は「古来菱川師宣画と認められている」     としつつ「画者 菱川師宣カ」とする〉     ◯「艶本年表」(延宝六年刊)    菱川師宣画    『若衆遊伽羅枕』二冊 菱川師宣画〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『恋の息うつし』墨摺 大本 一冊 う路こ形や板 延宝六年〔白倉〕     (白倉注「本書は貞享二年(1685)に松会三四郎板で再摺された」)    『絵本雑書枕』 墨摺 大本 一冊「絵師菱河氏師宣」柏屋仁右衛門板〔白倉〕     (白倉注「改題再摺本に『男女相性和娯縁』男女の相性を頭書にした趣向。同趣向の艶本はその後多くを数える」)    『和合同塵』  墨摺 大本 一冊「絵師菱河吉兵衛師宣」柏屋仁右衛門板 延宝六年〔白倉〕     (白倉注「初期を代表する傑作。「秋の鹿、夏の虫のこがるゝも和合同塵のおしゑなれば」(跋)」)  ◯「日本古典籍総合目録」(延宝六年刊)   ◇仮名草子    菱川師宣画『伊勢物語ひら言葉』菱川吉兵衛画 紀暫計和述   ◇赤本    菱川師宣画?『初春のいわひ』    〈『草双紙事典』は「小赤本」とし「絵は画風から菱川師宣との関連が考えられるという指摘もある」とする〉   ◇浄瑠璃(延宝六年刊)    菱川師宣画 『四天王鬼退治』一冊 菱川師宣画 丹波少掾正本   ◇地誌(延宝六年刊)    菱川師宣画『奈良名所八重桜』十二巻十二冊 菱川師宣画 大久保秀興・木村伊祐著  ☆ 延宝七年(1679)  ◯『好色本目録』柳亭種彦著(『新群書類従』巻七・p154)   〝四十八手 春 延宝七年    大伝馬町三丁目 鶴屋喜右衛門〟    〈菱川師宣に『恋のむつごと四十八手』という版本がある。平成12年、千葉市立美術館で開催された菱川師宣展のカタ     ログ解説によると、その初板本には「延宝七己未年三月吉祥日」の刊記があり、展示された版本には「延宝/絵師      菱川師宣図/板本大伝馬町三丁メ 鶴屋喜右衛門板」の刊記があるという。刊年も板元も同じであるから、種彦の     「四十八手」がこの『恋のむつごと四十八手』と同じもののようにも思えるのだが、おそらく別のものなのだろう。     何より種彦本には絵師名がない。また種彦も絵師については全く触れていない。この『好色本目録』において、種彦     は署名の有無と問わず、十四の作品を「菱川画」あるいは「菱川風」と判定している。つまり署名がなくとも、種彦     は菱川か否かの判断を下せるのである。その種彦が、この「四十八手」の絵師については何も言及しないのである。     菱川系統の画風ではないという判定を下したのである。ともあれ参考までに、師宣の項目に入れておいた。ところで     「四十八手 春」の「春」とは春画の意味であろうか〉  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(延宝七年刊)    菱川師宣画    『新撰絵抄百人一首』大本一巻 画工不記名(師宣)大坂上町 荻氏板    『伊勢物語頭書抄』 大本三巻 絵師 菱河吉兵衛 松会板     『あふぎながし』  大本三冊 画工不明(師宣)松会板    『一休品物語』   大本三巻 画工不明 師宣 伊丹屋吉右衛門板    『自讃歌註』    大本三巻 絵師 菱河師宣筆 須原屋茂兵衛板    ◯「艶本年表」〔白倉〕(延宝七年刊)    菱川師宣画    『恋のむつごと四十八手』墨摺 大本 一冊「絵師菱川師宣図」鶴屋喜右衛門板 延宝七年     (白倉注「いわゆる「表四十八手」で、外題はこちらが正しい。標題通り「色恋の四十八手を扱ったもので、体位の      みの題材ではない、「右四十八手は業平の述作する所也」(跋)」)    『華の語ひ』(仮題)墨摺 大判 十二枚組物 延宝七年頃  ☆ 延宝八年(1680)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(延宝八年刊)    菱川師宣画    『小倉山の百人一首』大本一巻 画工 菱川氏師宣    本問屋板    『余景作り庭の図』 大本一巻 菱川の画師(跋文による)柏屋与市板              (元禄四年刊の跋に「日本画師 菱河吉兵衛師宣」ト署せり)    『人間不礼考』   大本一巻 大和絵師菱川吉兵衛画之 柏屋与市板(放屁合戦といふべきものなり)    『和哥註撰抄』   大本三巻 絵師 菱河師宣     松会板    ◯『師宣祐信絵本書誌』(延宝八年刊)   ◇絵本    菱川師宣画    『人間不礼考』   大本一冊      刊記「大和絵師菱川吉兵衛画之/延宝八年庚申孟春吉辰日/柏屋与市開板」    『小倉山百人一首』 大本一冊     刊記「延宝八庚申年初夏/画工菱川氏師宣/通油町本問屋開板」    『大和侍農絵づくし』大本一冊      刊記「大和絵師菱川吉兵衛尉/延宝八庚申歳五月上旬/板本所/大伝馬三町目鱗形屋三左衛門」     〈天和四年版・貞享三年版(服部九兵衛板)の再刊本がある由〉    『大和絵つくし』  大本一冊     刊記「大和絵師菱川吉兵衛尉/延宝八庚申年五月上旬/板本所/大伝馬三町目鱗形屋三左衛門」     〈年月を削った鱗形屋の再版本と貞享三年の服部九兵衛板がある由〉    『月次のあそび』  大本一帖 折本     刊記「延宝八申歳七月吉日/大和絵師菱川師宣/柏屋与市開板」     〈元禄四年刊の鱗形屋版あり〉    『大和武者絵』   大本一冊      刊記「大和絵師菱川吉兵衛尉/板木所/大伝馬三町目鱗形屋三左衛門」     (「延宝八年刊『大和絵づくし』の同形体の出版で、ほぼ同じ頃の刊行とみていいのではないか」)    ◯『近世遊女評判記年表』(延宝八年刊)    菱川師宣画『吉原山茶本草』一舗 延宝八年(1680)正月刊     署名「菱川吉兵衛画」刊記「延宝八庚申孟春 鶴屋板」     (「年表」は「名寄」とあり、署名は「揚屋遊興図」にありとする)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(延宝八年刊)    菱川師宣画    『好色いと柳』墨摺 大本 二冊「大和絵師菱河吉兵衛師宣」鶴屋板 延宝八年頃     (白倉注「『裏四十八手』と呼ばれているもので「口説の四十八手」といった内容」)    『人間不礼考』墨摺 大本 一冊「画工菱川師宣」柏屋板  ☆ 延宝年間(1673~1680)  ◯『好色本目録』柳亭種彦著(『新群書類従』巻七)   ◇『枕ものぐるひ』p153   〝枕ものぐるひ    闕本にて巻数時代知れず、是も菱川の画風に似たり〟    〈残本なので刊記もなく、国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」の成立年もないが、種彦が延宝六年と九年の間     にこの本を置いているので、取り敢えず従った〉   ◇『さゝげ絵枕』p171   〝さゝげ絵枕 大形本一冊 延宝板    師宣画、春(一字欠)なり〟  ◯『赤本黒本青本書誌』   ◇赤小本    菱川師宣画    『【うさぎのちりく】兎の手柄』(師宣風画)〈解題、漆山天童カード「赤小本 師宣風画 延宝版」を引く〉    『【京ひがし山】ばけきつね』 (師宣風画)(藤田版)     〈解題、漆山天童カード「赤小本 師宣風 延宝版」を引く。版元名は林若吉編『従吾所好』に拠る〉     参考『本之話』三村竹清著(『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(2)・青裳堂・昭和57年刊)     「狸の金玉」の項〝文福茶釜も、延宝の頃には『京ひがし山ばけきつね』【師宣画】とあり〟    『【福神】大ふるまい』(師宣風画)(井筒屋版)     〈解題、漆山天童カード「赤小本 師宣風画 延宝版 しんめい前 井づゝや」を引く〉    『【新板】仙人づくし』(師宣風画)(升屋版)      〈解題、漆山天童カード「赤小本 師宣風画 延宝版」を引く。版元名は朝倉無声著『新修日本小説年表』に拠る〉    『古今名物宝づくし』 (師宣風画)〈解題、漆山天童カード「赤小本 師宣風画 宝永版」を引く〉    『たゞ取山の時鳥』 (師宣風画)〈解題、漆山天童カード「赤小本 丹表紙 師宣風 延宝版」を引く〉    『【新刊】亀万歳』 (師宣風画)〈解題、漆山天童カード「赤小本 師宣風 延宝版」を引く〉    『日本むまどろへ』 (師宣風画 西村屋版)〈解題、漆山天童カード「赤小本 師宣風画 延宝版 西村屋」を引く〉    『【三国】宝船始』(菱川師宣画 藤田版)〈解題、漆山天童カード「赤小本(菱川師宣画)延宝版 藤田」を引く〉    『唐人のみかり』 (菱川師宣画 藤田版)〈解題、漆山天童カード「赤小本(菱川師宣画)延宝版 藤田」を引く〉    『念仏さうし』  (菱川師宣画)    〈解題、漆山天童カード「赤本 小本 六丁 画工不明 師宣風」を引く〉    『絵本福神遊』  (菱川師宣画)十一オに「山本九兵衛」     〈平成十七年十一月の東京古典会に「菱川師宣画 延宝頃刊 山本九兵衛板」として出品したとあるが、解題は画工名      ・刊行年いずれも確証なしとする〉    ◯「絵入狂歌本年表」(延宝年間刊)    菱川師宣画『卜養狂歌集』二冊 菱河師宣画 半井卜養詠 延宝末年 うろこ形屋板〔狂歌書目〕     〈備考に「柳亭種彦旧蔵」とあり。〔目録DB〕は刊年の記載なし〉     ◯「艶本年表」〔目録DB〕(延宝年間刊)    菱川師宣画    『於佐奈那志美』一冊 菱川師宣画(注記「絵本の研究等による」)    『恋の釣針業平』一冊 菱川師宣画(注記「絵本の研究による」)    『恋のうつし絵』一冊 菱川師宣画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『さゝげ絵枕』 一冊 菱川師宣画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『好色物語』  一冊 菱川師宣画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『竹夭斤白』  一帖 菱川師宣画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)  ☆ 天和元年(延宝九年・1681)    ◯『大尽舞考証』〔燕石〕⑤232(山東京伝著・享和四年(1804)序)   〝引用書目 好色吉原春駒【延宝九年印本/菱川春画】〟    〈二朱判吉兵衛の小歌「大尽舞」の歌詞にある「とうれん坊」という言葉の意味に関して、『好色吉原春駒』所収の記     述を引いて考証。吉原の地廻り(ひやかし客)で「ぞめき」ともいう。一方で、遊女の逃亡や心中を防ぐ監視役であ     ったともいう〉    ◯『麓の花』〔燕石〕⑥204(好問堂主人(山崎美成)著・文政二年(1819)成書)   (撞木杖の考証)   〝菱川吉兵衛画本「浮世百人女」といへる物に、此絵あり。天和元年印本〟    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元和元年刊)    菱川師宣画    『難字訓蒙図彙』小本五巻「画者 師宣」永井如瓶子著 一名「邇言便蒙抄」    『御雛形万女集』大一   菱川師宣画(頭注「杉本◎◎堂書目ニヨル」)    『浮世百人女』 有疑  菱川師宣画    『大和歌詞』  有疑  師宣画    ◯「絵入狂歌本年表」(天和元年刊)    菱川師宣風画『吉原三茶三幅対』一冊 師宣風画 玉門寺隠居撰 升屋開板〔狂歌書目〕    〈〔目録DB〕の分類は「評判記」〉     ◯「艶本年表」〔白倉〕(天和元年刊)    菱川師宣画    『さゝげの絵枕』墨摺 大本 一冊「画師菱川氏師宣」柏屋与市板 延宝九年    『床の置物』  墨摺 大本 一冊「絵師菱川吉兵衛」柏屋与市板 天和元年     (白倉注「他に鶴屋板、鱗形屋板などが記録されているが、同一本かどうかは不明。全十二図。奥女中の生態をうが      ったものだが、テーマは「張方」。おそらく遺存例は天下一本という稀覯書」)    ◯『師宣祐信絵本書誌』(天和元年刊)   ◇絵本    菱川師宣画    『大和万絵つくし』大本一冊     序文「此しな/\あつめたるやまと絵は菱川氏青柿のむかしより今じゆくしてへたの名をとりたれど        も(中略)とりあつめて大和絵つくしと外題するのみ也」     刊記「延宝九年/酉ノ七月吉日/鷲屋新板」    『浮世百人女絵』大本一冊     刊記「天和元年辛酉霜月吉日/絵師菱川吉兵衛筆/板本堺町柏屋与市」  ◯「日本古典籍総合目録」(天和元年刊)   ◇絵本    菱川師宣画    『当風花のおもかげ』二巻一冊 菱川師宣画    〈松平進氏は本書を天和二年刊『千代の友つる』の改題後摺本とする(『師宣祐信絵本書誌』)〉    『年中行事之図』  一冊   菱川師宣画    『好色吉原春駒』一冊 菱川師宣画(注記「絵本の研究による」)    『浮世百人女』    菱川師宣画(注記「絵本の研究による」)  ☆ 天和二年(1682)  ◯『狂歌たび枕』上下 野々村信武詠 稀書複製会本   (国立国会図書館デジタルコレクション)     刊記「天和弐年戌初秋上旬 絵師 菱河吉兵衛           江戸おやぢ橋本問屋 酒田屋開板」  ◯『好色本目録』柳亭種彦著(『新群書類従』巻七・p155)   〝枕(一字欠)大全 大本三冊 天和二年    山形や板    菱川なるべし、上の巻は扇の形、色紙形のたぐひ、いろ/\なる枠にて仕切り、中の巻よりさも無くて    頭書を加へたり、端本を取集めたるやうなれど、柱に薬と同じやうにあれば、さにてしもあるべからず〟    〈底本の(一字欠)を補い『枕絵大全』とする〉  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天和二年刊)    菱川師宣画    『四季模様諸礼絵鑑』半紙本三巻 画工不記名(師宣に疑なし)     (本書もやうひなかたの部に入るべき性質のものなれども中に五六ヶ所純粋の絵あればこゝに載せたり)     〈「日本古典籍総合目録」は「絵画」「菱川師信(ママ)画?」「天和年間」とする。松平進著『師宣祐信絵本書誌』は      「刊年不明。師宣の可能性は強いと思われるが、今は保留した」とする〉    『諸国名所歌すゞめ』小本二巻 絵者 菱川書之  松会板〈「日本古典籍総合目録」は『名所和歌の道引』〉    『狂歌たびまくら』 大本二巻 絵師 菱河吉兵衛 酒田屋板    『屏風掛物絵鑑』大々本三巻一冊 画師 菱川氏師宣 山形屋板    『古今絵づくし』大本二巻 有疑「画者師宣」    『ちよの友づる』大本三冊  菱川氏の画工(序による)松会板    『このころくさ』大二    絵師 菱川(師宣)吉兵衛板  松会板    『西行和歌修行』大本二巻  大和絵師 菱川吉兵衛  酒田屋板    『長哥古今集』 半紙本一冊 菱川師宣の画 いかや板             (吉原の流行唄を集め、名妓の絵姿を載せたり)    『貞徳狂歌集』 大本三冊  絵師 菱河吉兵衛板   柏屋与市板             (頭注「絵いゝさか小さく諸房に似たる所あり」)    『女歌仙新抄』 大本一巻 有疑「師宣画」序「天和二壬戌正月十日 土橋春林」    『親鸞上人記』 大本三巻  師宣画    ◯『師宣祐信絵本書誌』(天和二年刊)   ◇絵本    菱川師宣画    『岩木絵つくし』大本二冊一巻      刊記「天和二歳戌正月日/武州江城之下愚大和絵師/菱川吉兵衛師宣/大伝馬参町目鱗形屋開板」     〈天和三年版もある由〉    『浮世続絵尽』 大本一冊     刊記「天和二年正月吉日/大和絵師菱川氏/板本鱗形屋三左衛門」     〈天和四年版(『浮世続』)もある由〉    『西行和歌修行』大本三巻三冊     刊記「天和二歳戌正月吉日/江戸葺屋町草子問屋酒田屋開板」    『屏風掛物絵尽』大本三巻一冊     刊記「画師菱川氏師宣/天和二壬戌載正月吉日/通油町板本山形屋新板」    『千代の友つる』大本三巻三冊     序文「爰に菱川氏農(の)画工一流遍満して唐の大和のなにのかの終に見ぬ友までも絵に顕し(以下略)」     刊記「天和二壬戌歳/正月吉日/松会開刊」     〈『当風花のおもかけ』は本書の改題後摺本の由〉    『このころくさ』大本二冊     刊記「天和二年戌孟春吉祥日/絵師菱川吉兵衛書/松会開板」     (稀書複製会本・国立国会図書館デジタルコレクション)    『女歌仙抄』  大本一冊 奥書なし            後表紙見返しに紙片貼付「天和二壬戌歳正月吉日 山形屋」    『東叡山名所』 大本一冊 〈松平氏は在名本ではないが画風から師宣画とする〉     刊記「天和二壬戌歳二月吉日/三河屋七右衛門開板」    『小袖のすがたみ』     刊記「大和絵師菱川画之/天和二年戌三月上旬/大伝馬町三町目うろこかたや開板」    『和国名所鑑』 大本三巻一冊     刊記「絵師菱河師宣/天和二壬戌載四月吉日/下巻終 本通油町板本山形屋版」     〈元禄九年刊『大和名所鑑』万屋清四郎板はこの再刻本〉     参考〔国書DB〕筑波大本 刊年未詳      外題「やまとめいしよ絵本尽 菱川筆」序「大和名所鑑序」中・下巻扉「和国名所鑑」      中巻末「菱川氏師宣昼夜こゝろをつくして以今爰に梓にちりばめ則(スナハチ)題号を倭国名所鑑とやらむに名付(云々)」    『団扇絵づくし』大本一冊     刊記「大和絵師菱川師宣筆/天和二年壬戌五月日/大伝馬三町目うろこかたや開板」     〈天和四年刊・鱗形屋板の再刻本あり〉  ◯『歌舞伎年表』①143(伊原敏郎著・昭和三十一年刊)   (「天和二年」の項)   〝「このころ草」(今年孟春出版、師宣絵)に古へ伝内の事を記す〟  ◯『改訂日本小説書目年表』   ◇浮世草子(天和二年刊)    菱川師宣画『吉原大豆俵』    〈「日本古典籍総合目録」は、不申共御推(都鳥)著の評判記とし、挿絵に関する記載はない〉    ◯「絵入狂歌本年表」〔狂歌書目〕(天和二年刊)    菱川師宣画    『貞徳狂歌集』 三冊 師宣画 松永貞徳詠 柏屋与市板    『狂歌旅まくら』二冊 師宣画 永井信斎著 酒田屋板    『卜養狂歌』  二冊 師宣画 半井卜養詠 柏屋与市板     〈備考、延宝年間の『卜養狂歌集』よりは「書型大きく、挿画も全く異つて居る。但し筆者は同じく師宣」とする。      〔目録DB〕は刊年を記さず〉     ◯「艶本年表」(天和二年刊)    菱川師宣画    『小袖もやう枕絵』一冊 菱川師宣画〔目録DB〕(注記「絵本の研究等による」)    『まくら絵大ぜん』墨摺 手彩色 大本 三冊「大和画師菱河氏師宣」山形屋板 天和二年〔白倉〕     (白倉注「序に「世人のすける仕様模様を画図にして」とあるように、世の色模様を巧みに描写している」)    『花木のまくら』 墨摺 半紙本 一冊 菱川師宣画  天和二年頃〔白倉〕    『浮世恋くさ』  墨摺 大本 一冊  菱川吉兵衛画 鱗形屋 天和二年〔白倉〕     (白倉注「人物姿態がかなり大きく描かれていて、治兵衛の『恋の丸はだか』と共通した描法だが、刊記だけ見ると      治兵衛の方が前年ということになる。各図に題名が付いているのは珍しい」)  ◯「日本古典籍総合目録」(天和二年刊)   ◇仮名草子    菱川師宣画『千代の友鶴』菱川師宣画〈稀書複製会五期〉   ◇地誌    『和国名所鑑』三巻三冊 菱川師宣画    『東叡山名所』一冊   菱川師宣画  ☆ 天和三年(1683)  ◯『好色本目録』柳亭種彦著(『新群書類従』巻七・p170)   〝大和のおほよせ 大本一冊 天和三年月日 江戸堺町物の本屋 柏屋与市板    春(一字欠)ならぬ好色の絵本、頭書に歌などあり、序跋ありて、文中に菱川画と見えたり〟    〈柳亭種彦未見本〉〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は菱川師宣画とする〉  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(天和三年刊)    菱川師宣画    『わかくさ物かたり』大本三巻 画工不明 師宣 うろこかたや板    『百人一首像讃抄』 大本一巻「武州江城之下久 大和絵師菱川師宣」中院通勝著 鱗形屋板    〈初版は延宝六年刊。「下久」について、宮武外骨は「かく」と読み「下久とは客の意にして、江戸城の下に久しく住すとの     洒落ならん」とするが、初版には「下久(かぐ)」のルビあり〉    『日蓮聖人註画讃』 大本二巻 画工不記名 師宣 鱗形屋板    『大和のおほよせ』 大本一  菱川画 柏屋与市板     (種彦曰く「春画ならぬ好色絵本、頭首に歌などあり、序跋ありて文中に菱川画とみえたり」)    『岩木絵つくし』  大本三巻「武州江城之下久大和絵師 菱川吉兵衛師宣 癸亥年七月吉日」鱗形屋板    『花鳥絵つくし』  大本一巻 画師菱川真跡     鱗形屋板    『美人絵つくし』  大本三巻「大和絵師 菱川師宣筆」鱗形屋板(西施・静等和漢歴史的美人小伝)    『日蓮一代記』   大本三巻 師宣画(頭註「有疑」)    『藤川百首』    小本二巻「画師 菱川師宣」鱗形屋板     (本書の挿画により推測するに、此頃の本にて和歌物語などの挿画ハ大方は師宣の画くところなるべし)    『竹斎物語』    大本二巻 画工師宣 鱗形屋板    『忠度百首』         師宣画    『小夜衣』     中本五冊(菱川師宣画)城坤散人茅屋子作 江戸西村半兵衛 京西村市郎右衛門板    ◯『師宣祐信絵本書誌』(天和三年刊)   ◇絵本    菱川師宣画    『大和のおほよせ』大本一冊     奥書「此一冊菱川氏之絵師あるあらゆる所のしな/\を見聞て大ぬめりのわかちを筆によせ(以下略)        大伝馬三町目鱗形屋」〈上掲、柳亭種彦の『好色本目録』は天和三年刊、柏屋与一板とする〉     備考「図中提灯に「天和二年七月朔日南無阿弥陀仏」とある」     〈佐藤悟氏は『大和のおおよせ』初刻本・再刻本ともに刊年を記さず(千葉市美術館「菱川師宣展」カタログ所収「菱川      絵本の諸問題」)〉    『美人絵づくし』 大本三冊     刊記「大和絵師菱川吉兵衛筆/天和三年亥五月吉日/江戸大伝馬三町目鱗形屋板行」     〈佐藤悟氏は「天理図書館所蔵の上巻部分が天和三年板と異なり、それ以前の初刻本が存在している可能性がある」      としている(千葉市美術館「菱川師宣展」カタログ所収「菱川絵本の諸問題」)〉    『花鳥絵づくし』 大本一冊     刊記「天和三年五月吉日 画師菱川真跡/大伝馬三町目鱗形屋開板」    『恋のみなかみ』 大本一冊     奥書「此一冊大和絵菱川氏あるとあらゆる所の品/\を見聞老若のわかちを筆にまかせ(以下略)」        大伝馬三町目鱗形屋開板」     〈刊年は仲田勝之助著『絵本の研究』の書誌に拠って「天和三年七月」とする〉  ◯『江戸小咄辞典』「所収書目解題」(天和三年刊)    菱川師宣画『武左衛門口伝はなし』鹿野武左衛門作 鱗形屋板    〈『噺本大系』第五巻の「所収書目解題」によると、鱗形屋板は後刷本。元板は柏屋与市板で天和三年(1683)九月刊     という。ただし、画工名については言及がない。さてこの小咄本には菱川師宣の挿話も登場するので抽出しておく〉   〝一 とりつぎのそさう    点者の高井立志の子息、軒号を松葉軒、名ハ立詠(りうゑい)といふ。文月中旬に、人形町に俳諧の門    弟に菱川氏といふ画工のかたへ、夕つかた見まハれけるに、玄関にて案内を云入られければ、とりつぎ    の小者、そさうものにて、菱川の前にまいり、しやうれうけんゆふれいさまの御見廻なされましたとい    ふ。菱川聞て、さて/\、おりから盆の事なるに、しやうれうけんゆふれいといふハ、こゝろもとなき    名かな。いか様なるものぞととハれけれハ、かのそさうもの、やせるたる小坊主の白装束にて、つえを    つき御出候と申。とかくふしぎにおもひ、ものかげより見れバ、立詠にておハしき。どっとわらひて、    ざしきにいたり、右のあらましかたりけれは、立詠もうちわらひて、てい主、わらひ草のたねとて哥よ    ミける。      なにといふれいのそさうのまた出て        しやうれうけんもなきうつけもの〟    〈この高井立志は二代目。万治元年(1658)~宝永二年(1705)没・48歳。この文月は天和三年の七月であろうか。     菱川師宣は俳諧を高井立志に学び、当時は人形町に住んでいたようである。この小咄のポイントは、立志の俳号・松     葉軒立詠(しょうようけんりゅうえい)を、師宣側の取次の者が、折からの七月のお盆の時期ということもあって、     精霊軒幽霊(しょうりょうけんゆうれい)と聞き違えたという点にある〉  ◯『初期浮世草子年表』(天和三年刊)    菱川師宣画『【絵入】下り竹斎』大本・二冊 天和三年(1683)三月刊          菱川師宣の絵本 江戸鱗形屋板     ◯「艶本年表」(天和三年刊)    菱川師宣画    『恋の花むらさき』墨摺手彩色 大本 二冊「大和画師菱河師宣筆」武城書林松会板 天和三年頃〔白倉〕     (白倉注「「こひの花むらさきと外題して初心の人のためにならんかし」(序)との恋の手習書」)    『於佐名那志美』 墨摺 大本 二冊「画工師宣図」柏屋与市版 天和三年〔白倉〕     (白倉注「のちに刊年を削った「鱗形屋開板」とした再摺本がある。全図いずれも半丁図「おさななじみ」の外題簽      も、原題簽とも思えない」)    『恋の水かみ』  菱川師宣画〔目録DB〕(注記「絵本の研究による」)    『恋の楽』    墨摺 半紙本 二冊「大和絵師菱河氏画之」山形屋板 天和三年〔白倉〕     (白倉注「宮武外骨による三冊本の記述があるが、二冊本であるらしい。また享保二年(1717)刊の再摺一冊本「【京      寺町四條下ル町】菊屋長兵衛板」がある)  ◯「日本古典籍総合目録」(天和三年刊)   ◇絵本    菱川師宣画『獣絵尽』一冊 菱川師宣(注記「絵本の研究による」)   ◇絵画    菱川師宣画『菱川三十六歌撰』一冊 菱川師宣画  ☆ 天和年間(1681~1683)    ◯「艶本年表」(天和年間刊)    菱川師宣画    『業平本朝のしのび』墨摺 大本 二冊「菱川」天和期〔白倉〕     (白倉注「絵の上部の中央に菊花文入りの枠を使用。「大和絵に名をえし菱川に望て」(跋)」)    『心なぐさみ二番続』二冊 菱川師宣画 天和年間刊〔目録DB〕(注記 好色浮世絵版画目録による)    『情のうわもり』  三冊 菱川師宣画 天和頃刊 〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『裏四十八手』   一冊 菱川師宣画 天和年間 〔目録DB〕(注記「絵本の研究等による」)    『風流絶暢図』   墨摺 大本 一冊 東海病鶴居士序 天和期頃〔白倉〕     (白倉注「明板『風流絶暢図』を日本風に模刻したもの。明板は描線に色板使用」)    『竹夭氏日』(仮題) 墨摺 中判 一帖 天和期〔白倉〕     (白倉注「藤花文粋で知られている。読みは不明。「笑昏」を分けたもの「夜の笑い」でもよいか。師宣『欠題組物      Ⅲ』に同じ」)    『恋の花紫』       菱川師宣画 天和年間刊〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)  ◯「日本古典籍総合目録」(天和年間刊)   ◇仮名草子    菱川師宣画『うちでの小つち』菱川師宣画   ◇風俗    菱川師宣画?『杉山肥前掾人形芝居小屋前の図』菱川師宣画?   ☆ 天和 ~ 貞享年間(1681-1687)  ◯『好色本目録』柳亭種彦著(『新群書類従』巻七・p155)   〝床のおきもの 大本一冊    菱川筆、狂画の枕(一字欠)なり    鱗形屋板にて巻尾に菱川の名あり、年号ある本未だ見ず    〔補註〕葩雪曰、本書二巻に分ち上巻を『しあはせよし』下巻を『たからくらべ』と名づくと云ふ〟    〈これも種彦の配置(天和と貞享の間)にあることから、取り敢えずここに入れた〉  ☆ 貞享元年(天和四年・1684)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(貞享元年刊)    菱川師宣画    『大和侍農絵づくし』大本一巻 大和絵師 菱川吉兵衛 鱗形屋三左衛門板    『団扇絵つくし』  大本一巻 大和絵師 菱川師宣筆 鱗形屋板    『浮世続』     大本一巻 大和絵師 菱川氏   鱗形屋三左衛門板    『下谷桂男』    一    師宣画    『絵本子の日の松』 大本一冊 師宣画 有疑    『香具大全』         師宣画 香具大全かまくら大全の誤りナラン有疑    ◯『師宣祐信絵本書誌』(天和四年刊)   ◇絵本    菱川師宣画    『当世早流雛形』大本二巻一冊      刊記「天和四年子正月吉日/画師菱川真跡/大伝馬町三ス目鱗形屋開板」  ◯『初期浮世草子年表』(天和四年刊)    菱川師宣画『好色一代男』半紙本 八冊 貞享元年(1684)三月刊     署名「大和画師 菱河吉兵衛師宣画」     (「年表」は「江戸版『好色一代男』の最初」とする)    ◯「艶本年表」〔白倉〕(天和四年刊)    菱川師宣画    『花の小かくれ』墨摺 大本 一冊「菱川氏」松会板 天和四年     (白倉注「古風不珍とて四十八手の曲を工夫して男女のたはむれとするを、当流の画師筆をつくし書しを」(序)。画      面上部中央に桜花文の枠がはいっている。貞享二年刊のものもある)  ◯「日本古典籍総合目録」(貞享元年刊)   ◇絵本    菱川師宣画『古今武士道絵つくし』一巻 菱川師宣画(注記「絵本の研究による」)   ◇絵画    菱川師宣画    『当世早流雛形』二巻一冊 菱川師宣画    『団扇絵つくし』一冊 菱川師宣画    『もしほ草』一冊 菱川師宣画  ☆ 貞享二年(1685)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(貞享二年刊)    菱川師宣画    『古今武士道絵つくし』大本一巻  大和絵師 菱川氏師宣  うろこかたや板    『諸職ゑほんかゝみ』 大本三巻  絵師 菱川師宣    『◎男なさけの遊女』 大本二冊  大和絵師 菱川吉兵衛尉 うろこや板 一名山三情の通路               名古屋山三、不破伴左衛門、遊女(島原の)葛城等の物語也〈◎は「女+巷(キャシャ)」〉               (国立国会図書館デジタルコレクション・稀書複製会本画像)    『和国諸職絵つくし』 大本四巻  絵師 菱川師宣    『源氏大和絵鑑』   半紙本二巻 大和絵師 菱河氏師宣筆 うろこかたや板    『絵本勇士力草』   一     師宣 有疑    『百人一首姿』          師宣画    『和歌の手引』    半紙本五巻 画者師宣 大和絵師 菱川吉兵衛 本屋清兵衛板    『平治物語』           画工不記名 師宣 文台屋治郎兵衛板    ◯『師宣祐信絵本書誌』   ◇絵本(貞享二年刊)    菱川師宣画    『古今武士道絵つくし』大本一冊     刊記「貞享二年丑正月日/大和絵師菱川氏師宣/大伝馬三丁目うろこや開板」    『山三情の通路』   大本一冊     刊記「貞享二年丑正月吉日/大和絵師菱川吉兵衛尉/大伝馬参町目うろこや開板」    『和国諸職絵つくし』 大本四巻四冊      刊記「貞享弐年丑二月吉日/絵師菱河師宣〔菱河〕印」    『源氏大和絵鏡』   半紙本二巻二冊     刊記「貞享二年四月丑四月吉日/大和絵師菱河氏師宣筆/大伝馬三町目うろこかたや開板」    ◯「艶本年表」〔白倉〕(貞享二年)    菱川師宣画    『今様枕屏風』墨摺 大本 一冊 貞享二年頃    『今様吉原枕』墨摺 大本 一冊 貞享二年頃     (白倉注「本来は『今様枕屏風』大本二冊が正しいか。というのも『【新刊】今様枕びやう婦上』の題簽が遺存して      いる)  ◯『戯作六家撰』〔燕石〕②64(岩本活東子編・安政三年(1856)成立)   (「山東京伝」の項の「不破名古屋伝奇考」)   〝貞享二年の印本に、菱川師宣の筆の絵草紙二冊あり。名古屋山三郎絵尽と号す〟    〈この「不破名古屋伝奇考」は山東京伝作・一陽斎豊国画の読本『本朝酔菩提』(文化六年(1819)刊)所収のもの。     『本朝酔菩提』は文化三年刊行の京伝作・豊国画『昔話稲妻表紙』の後編にあたる。この師宣の絵草紙については次     項『歌舞伎年表』の記事を参照のこと〉  ◯『歌舞伎年表』①137(伊原敏郎著・昭和三十一年刊)   (延宝八年(1680)の項)   〝貞享二年正月版、師宣画「名古屋山三郎絵尽し」あり。「婲(キヤシヤ)男なさけの遊女」また「山三情の通    路」と題す。土佐浄るりの「名古屋山三郎」と其筋全く同じ。其跋文に「頃日人のもてはやすにより、    其品をあつめて絵にして令板行者也」とあり。浄瑠璃にて流行せしか〟    〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は統一書名を『山三情の通路』とし「婲男情の遊女」を別書名とする〉  ◯『筆禍史』「諸職絵尽」〔貞享二年(1685)〕p24(宮武外骨著・明治四十四年刊)   〝浮世絵師菱川師宣筆にして全編四巻なり、其第二巻中に武家の専用たる甲冑製作の図を掲出せしは不都    合なりとて、一時其売買を禁ぜられたるが、後数年にして其禁を解かれたりといふ。何等記録の現存す    るものなく、此説の真偽不詳なり。       〔頭注〕甲冑師の図    元禄三年京村上平楽寺の開板にかゝる『人倫訓網図彙』にも甲冑師の図あり、又宝永末年頃の版本『職    工絵鏡』には『諸職絵尽』と同筆の図を出せり〟
   『和国諸職絵つくし』 菱川師宣画(早稲田大学図書館「古典籍総合データベース」)      〈上記「古典籍総合データベース」本の巻末には「貞享二年丑二月吉日 絵師 菱河師宣」とある。「日本古典籍総合     目録」は『和国諸職絵尽』とする〉  ◯「日本古典籍総合目録」(貞享二年刊)   ◇絵本    菱川師宣画『名古屋絵尽』二冊 菱川師宣画(注記「絵本の研究等よる」)  ☆ 貞享三年(1685)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(貞享三年刊)    菱川師宣画    『二十四孝諺解』大本一巻  師宣   大坂書林 清三郎/三郎兵衛板    『和歌の手引』 半紙本五巻 大和絵師 菱川吉兵衛 江戸本屋清兵衛板    『平家物語』  半紙本一巻 画工師宣 京 山本力右衛門/大森太右衛門板   ◇仮名草子(貞享三年刊)    菱川師宣画『源氏明石物語』中本一 師宣 うろこかたや板    ◯『師宣祐信絵本書誌』(貞享三年刊)   ◇絵本    菱川師宣画    『大和絵のこんげん』大本四巻四冊 内題「好色世話絵つくし」     刊記「大和画工菱河氏師宣/貞享参暦寅正月吉日/大伝馬町三町目鱗形屋開板」     〈井原西鶴の『好色一代男』の絵本化したもの〉  ◯『初期浮世草子年表』(貞享三年刊)    菱川師宣画    『【好色】大和絵のこんげん』大本 二冊 貞享三年(1685)正月刊    『【大和絵】好色絵本大全』大本 四冊 貞享三年(1685)正月刊      署名「大和画工 菱河氏師宣」     (「年表」には「いづれも上蘭に『好色一代男』の本文を抄記す」とあり)     ◯「艶本年表」〔目録DB〕(貞享三年刊)    菱川師宣画『おもひのてつけ』一冊 菱川師宣画(注記「艶本目録による」)  ☆ 貞享四年(1687)  ◯『江戸鹿子』(藤田理兵衛著・貞享四年刊)   〝浮世絵師        堺町横丁 菱川吉兵衛              同吉左衛門〟    〈吉兵衛が師宣、吉左衛門は師房。大田南畝著『浮世絵考証』(『大田南畝全集』第十八巻所収)では「堺町横丁」に朱     筆して「イ(*異本)ニ村松町二丁目」とある。これはこの続編とでもいうべき元禄三年(1690)刊『増補江戸惣鹿子名     所大全』に「村松町二丁目」とあるから、それによって大田南畝か誰かが書き込んだものであろう。2010/10/06記〉  ◯『好色本目録』柳亭種彦著(『新群書類従』巻七)   ◇『好色一代男』p154   〝好色一代男     此書大に流行して、江戸にて重彫をなしたる本あり、原板は大本なり、江戸板は半紙本にて菱川の画なり。      江戸重板の奥書 貞享四丁卯年九月上句      大和絵師   菱川吉兵衛師宣      日本橋青物町 大津屋四郎兵衡板    又【好色】やまとゑの根元 上下     【日本】ふうぞく絵本  上下    といふ書あり、是も菱川が画にて、『一代男』の絵を大本に書き、文章を約めて頭書になしたるものな    り、闕本のみ見たれば巻数は知らざれども、取集て四冊なるべし。    按に、初めに『絵本一代男』として四冊刊行なしたるを、後に二冊づゝ引分て『やまと絵の根元』『風    俗絵本』と名を附けたるもの歟    〔補註〕松雲堂云、一本に左の奥書あり、原板ならむ        大坂住 大野木市兵衛開板〟   ◇『花の盃』p171   〝花の盃 大本一冊     菱川風の画〟    〈柳亭種彦未見本〉〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は、菱川師宣画・貞享四年とする〉  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(貞享四年刊)    菱川師宣画    『つくば山恋明書并名所』半紙本一冊 画工不明 師宣 山本又兵衛板    『故郷帰の江戸咄』大本六巻八冊 画工不明 師宣画    『清明通變占和伝』小本    師宣画    『大和絵つくし』 大本一巻  大和絵師 菱川吉兵衛尉 序「闇斗」鱗形屋三右衛門板    『本朝美人鑑』  半紙本五冊 画工不明 靏屋喜右衛門 西村利右衛門板             吉田半兵衛 師宣ニモ似タリ    『福ざつしよ』  小本  師宣画 福ざつしよ 大本一冊アリ 日本絵菱川ト署セリ    『浮世絵尽』   大本一 画工師宣  末には「浮世続絵尽」とあり    『曽我物語』   大本  師宣  須原平助板    『美人尽』    大本  画者師宣 有疑 天和三年ノ美人絵つくしナラン   ◇浮世草子    菱川師宣画『好色一代男』半紙本五冊 大和絵師 菱川吉兵衛師宣 江戸 大津屋四郎兵衛板  ◯『噺本大系』第五巻(貞享四年刊)    菱川師宣画『正直咄大鑑』刊記「作者 石川流舟 日本絵師 菱川師宣 維◎貞享四歳次丁卯皐月                   江戸日本橋青物町藤本兵左衛門板行」    〈◎を古典文庫の『石川流宣画作集』の下巻は「貶」と判読している。石川流舟は石川流宣〉  ◯『江戸吉原叢刊』(貞享四年刊)    菱川師宣画『吉原源氏五十四君』貞享四年(1687)     奥書「貞享四卯年 其角」作者 四国太郎(宝井其角)画者 菱川師宣     解題「挿図は全十面。識語中の談州楼(烏亭焉馬)説に従うと、画者は菱川師宣」  ◯『歌舞伎年表』①167(伊原敏郎著・昭和三十一年刊)   (貞享四年(1687)の項)   〝本年中冬としたる師宣の絵巻、博物館にあり。其のうちに     △風流和田酒盛、巴(伊藤小太夫)六方ノ武士(村山平十郎)    △二人猿若 男猿若(伝九郎)女猿若(袖嶋市弥 上村小吉弥)〟    〈この絵巻は東京国立博物館所蔵「北楼及び演劇図鑑」。その中の「貞享四年卯中冬日菱川師宣筆」と落款のある二図     に関する記事。役者名は画中の書き入れに拠った〉    ◯「艶本年表」(貞享四年刊)    菱川師宣画    『花のさかづき』墨摺 大本 二冊「菱川師宣」鱗形屋板画 貞享四年〔白倉〕            跋「右此枕絵者菱川師宣といひし画工」    『情のうわもり』墨摺 大本 三冊「日本絵師菱河吉兵衛師宣」鱗形屋板〔白倉〕     (白倉注「上巻内題「男女大濡絵枕」下巻内題「日本千話の大寄」)    『枕絵づくし』 墨摺 大本 三冊「菱河吉兵衛師宣」鱗形屋板 貞享四年〔白倉〕     (白倉注「「此枕絵づくしは菱川師宣といひし画工」(跋)」)    『三世相性枕』 三巻三冊 菱川師宣画〔目録DB〕(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)  ☆ 貞享年間(1684~1687)    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(貞享年間刊)    菱川師宣画    『花の小がくれ』三冊 菱川師宣画 貞享年間 (注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『旅枕』    一冊 師宣画   貞享年間刊(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)  ◯「日本古典籍総合目録」(貞享年間刊)   ◇絵画    菱川師宣画    『浮世絵尽』一冊 菱川師宣画(注記「絵本の研究による」)    『みやぎの』三冊 菱川師宣画(注記「絵本の研究による」)    『美人尽』 二冊 菱川師宣画(注記「絵本の研究による」)  ☆ 元禄元年(貞享五年・1688)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄元年刊)    菱川師宣画     『女諸礼集』大本七巻 画工不明 師宣 平野屋佐兵衛板  ☆ 元禄二年(1689)  ◯『江戸図鑑綱目』乾(石川流宣俊之編作・元禄二年(1689)刊)   (『石川流宣画作集』下巻「絵図縁起篇」所収・吉田幸一編・近世文芸資料24・古典文庫)   〝廿五 浮世絵師       橘 町  菱川吉兵衛師宣       同 所  同 吉左衞門師房    廿六 板木下絵師       長谷川町 古山太郎兵衛師重       浅 草  石川伊左衞門俊之       通油町  杦村治兵衛正高       橘 町  菱川作之丞師永〟    〈「板木下絵師」は板下絵師と同義であろう。それにしても、現在なら浮世絵師として一括するものを、編者石川流宣     はなぜ浮世絵師と板木下絵師とに分けたのであろうか。さらに不可解なのは二版以降、以下のように改変されたこと     である〉   〝廿五 浮世絵師       橘 町  菱川吉兵衛師宣       同 所  同 吉左衞門師房    〈「廿六 板木下絵師」を削除して一行空白〉       長谷川町 古山太郎兵衛師重       浅 草  石川伊左衞門俊之       通油町  杦村治兵衛正高       橘 町  菱川作之丞師永〟    〈この改変を指摘した佐藤悟氏はその理由を次のように説明している。「初板において「浮世絵師」とされたのは菱川     師宣・師房親子である。そして「板木下絵師」とされたのは師宣の弟子である古山師重、編者の石川流宣その人であ     る石川俊之、杉村治兵衛、師宣の子供である師永の四人である。第二版以降で「板木下絵師」が削られたのは、この     当時「板木下絵師」は「浮世絵師」よりランクが低いという考え方があり、石川流宣に対して杉村治兵衛から抗議が     あったためと想像している。菱川派の要求によってこの改変がおこなわれたならば、後述するように「浮世絵師」は     「大和絵師」に修正されなければならなかったと考えられるからである」(「菱川師宣の再検討」たばこと塩の博物     館・研究紀要第4号・平成3年)佐藤悟氏の「後述」とは、貞享四年(1687)刊行の藤田理兵衛の地誌『江戸鹿子』で     は、菱川吉兵衛・同吉左衞門が「浮世絵師」と記されていたのが、元禄三年(1690)の増補版『江戸惣鹿子名所大全』     の方になると「浮世絵師」が削除されて「大和絵師」に修正されたことを踏まえる。     さて、「板木下絵師」を削除した理由はそれとしても、よく分からない点もなお残る。なぜ石川流宣はこの自著『江     戸図鑑綱目』において、師宣を「大和絵師」とせず「浮世絵師」としたのであろうか。佐藤悟氏が指摘するように     『江戸図鑑綱目』出版の一年後には、増補版『江戸惣鹿子名所大全』の挿絵を担当した師宣が「浮世絵師」の呼称を     削除させて、自らを「大和絵師」と呼ぶよう改変しているのである。師宣の中に「大和絵師」という自覚が確固とし     てあったことは明らかである。にもかかわらず流宣は師宣を「浮世絵師」と呼んだ。なぜであろうか。     ところで、師宣を「浮世絵師」と最初に呼んだのは石川流宣ではない。延宝八年(1680)刊とされる師宣の版本『大     和武者絵』の序にあるものが最初であった。そこでは序者の闇計なるものが、師宣を「うき世絵師の名をとれり」と     記している。もっとも刊記の方は「大和絵師 菱川吉兵衛尉」である。なお、この序文をめぐっては、初版時にあっ     たという説と、天和三年(1683)の再版時に入れられたという両説があって、「浮世絵師」の初出がいずれか、今の     ところ決しがたいが、ともかくも『江戸図鑑綱目』が出版される元禄二年以前に「浮世絵師」という呼称が既に使わ     れていたことは確かである。流宣は単にそれを引き継いだのであろうか。しかし、これまで師宣の版本の肩書きはこ     とごとく「大和絵師」である。流宣が師宣のこの自称を知らないはずはあるまい。二版の時期がよくわからないが、     その時点でも「板木下絵師」は削除したが「浮世絵師」の方はそのままで通した。流宣は自ら「浮世絵師」を自称し     たともいえるのである。流宣には師宣のような抵抗感がなかったのだろうか。あるいはそう呼ばれることを望んだの     であろうか。2011/12/29修正追記〉  ◯『好色本目録』柳亭種彦著(『新群書類従』巻七・p164)   〝好色法のともづな 元禄二年印本    作者磯貝捨君 画者菱川師宣    五冊なるべし、絵本のみを見る〟    〈「磯貝捨君」は「捨若」の誤記か〉  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄二年刊)    菱川師宣画    『異形仙人絵本』大本五巻 大和絵師 菱川師宣 鱗形屋板    『義経記』   半紙本六巻 師宣画    ◯『師宣祐信絵本書誌』(元禄二年刊)   ◇絵本    菱川師宣画    『異形仙人つくし』大本三巻三冊     刊記「右此異形仙人つくしは菱川師宣と云し大和絵師書集しを、絵本にもならんと首書を加へ令板行        者也/元禄二巳年正月吉日/大伝馬町三丁目鱗形屋開板」  ◯『初期浮世草子年表』(元禄二年刊)   『【江戸賢女】小夜衣』半紙本 五冊 元禄二年(1689)七月刊     著者 懸河舟也 自跋     画工 菱川師宣     序 「元禄二年初秋吉鳥」書林松鈴常渡辺保大序     版元 江戸 渡辺善右衛門板        〈懸河舟也は磯貝捨若〉   『好色法のともづな』五冊      著者 磯貝捨若     画工 菱川師宣     (「年表」著者未見本。柳亭種彦『好色本目録』に拠るとする)  ◯「日本古典籍総合目録」(元禄二年刊)   ◇浮世草子    菱川師宣画    『好色法のともづな』五冊 菱川師宣画 磯貝捨若(注記「好色本目録による」)    『小夜衣』     五巻五冊 菱川師宣画 懸河舟也(磯貝捨若)作  ☆ 元禄三年(1690)  ◯『江戸惣鹿子名所大全』(藤田理兵衛著・菱川吉兵衛画・元禄三年刊)   (「諸師諸芸」の項)   〝大和絵師 村松町二丁目 菱川吉兵衛  同 吉左衞門  同 作之丞〟    〈『江戸叢書』巻の四所収の『増補江戸惣鹿子名所大全』より引用。著者藤田理兵衛は、貞享四年(1687)刊の『江戸鹿     子』では菱川吉兵衛(師宣)を「浮世絵師」とし、ここでは「大和絵師」と呼んでいる。なぜ書き換えたのであろう     か。〔これについては前項の『江戸図鑑綱目』の解説参照。この挿絵を担当した師宣の意志が働いたのは間違いある     まい。2010/10/06補記〕〉  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄三年刊)    菱川師宣画    『東海道分間絵図』大本五帖 絵師菱川吉兵衛 作者遠近道印 板木屋七郎兵衛板    『源氏雲隠』   大三   画工不明 菱川派  (参考)  ◯『本之話』(三村竹清著・昭和五年(1930)十月刊)   (出典『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(2)・青裳堂・昭和57年刊)   〝東海道分間図奥付は                作者 遠近道印(花押)     元禄参年庚午孟春吉旦 絵師 菱川吉兵衛           新和泉町 板木屋七郎兵衛板    とあり、後摺には     正徳元辛卯年五月吉日 日本橋通一丁目 万屋清兵衛〟  ◯「日本古典籍総合目録」(元禄三年刊)   ◇地誌    菱川師宣画    『江戸惣鹿子名所大全』六巻八冊 菱川師宣画 藤田理兵衛著  ☆ 元禄四年(1691)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄四年刊)    菱川師宣画    『余景作り庭の図』大本一巻 日本画師 菱河吉兵衛師宣 鱗形屋板             跋元禄四年(原板ハ延宝八年也)    『十二月の品定』 大本一巻 日本絵師 菱河吉兵衛師宣 鱗形屋板    ◯『師宣祐信絵本書誌』(元禄四年刊)   ◇絵本    菱川師宣画    『余景作り庭の図』大本一冊     刊記「元禄四年/未五月吉日/日本画師菱川吉兵衛師宣/大伝馬三丁目鱗形屋開板」    『月次のあそび』 大本一帖 折本     刊記「元禄四年未五月吉日/日本絵師菱河吉兵衛師宣/大伝馬町三町目鱗形屋開板」     〈延宝八年版の改刻本の由〉  ◯『歌舞伎年表』①176(伊原敏郎著・昭和三十一年刊)   (「元禄四年」の項)   〝五月、菱河師宣の「月次のあそび」一冊出版。(勘三郎座顔見世の図)〟    ◯「艶本年表」〔白倉〕(元禄四年刊)    菱川師宣画    『わけのこんげん』墨摺 半紙本 一冊「日本絵師菱川図」中嶋屋板 元禄四年     (角書「菱川吉兵衛師宣絵」白倉注「画中の屏風は「河末軒流舟画」に「石川」の印。場合によっては師宣没後の出板で、      実質は「石川流宣画」ということか」)  ◯「日本古典籍総合目録」(元禄四年刊)   ◇絵本    菱川師宣画『みたれかみ』二冊 菱川師宣画    ◯『近世女風俗考』(生川正香著・天保末成稿)   〝(前髪の考証に古図を引く)「築山図庭尽」元禄四年印本 菱川師宣画 延宝の中頃より切て無しハ古    風になりて図の如く、◎紙にて結へり〟  ☆ 元禄五年(1691)  ◯『万買物調方記』(『諸国買物調方記』所収。花咲一男編・渡辺書店 昭和47年刊)   (別書名『買物調方三合集覧』・元禄五年刊)   〝京ニテ  当世絵書     丸太町西洞院  古 又兵衛     四条通御たびの後  半兵衛    江戸ニテ 浮世絵師     橘町 菱川 吉兵衛        同 吉左衛門        同 太郎兵衛〟    〈京都では浮世絵師と呼ばず、当世絵書と称したようである。この又兵衛を山東京伝は浮世絵又兵衛と呼び、斎藤月岑     は当世又兵衛と呼んでいる。(本HP「浮世絵又兵衛」及び「当世又兵衛」参照)。また半兵衛の方は斎藤月岑が吉     田半兵衛かとしている。(本HP「吉田半兵衛」参照)江戸の浮世絵師では菱川吉兵衛が師宣、吉左衛門が師房、太     郎兵衛が師重。菱川師宣を大和絵師と呼ばず、浮世絵師と呼ぶ人々が、師宣の意に反して絶えないのである。元禄五     年の刊行であるから、師宣はまだ現存である。当然この「調方記」も見たであろうが、晩年の師宣、感慨や如何?で     あろうか。2010/10/17記〉    ◯『賢容絵入歌之顕図 百人一首像讃抄 下 伝記系譜』(表題) 挿絵 江戸   (跡見学園女子大学図書館・百人一首コレクション)    刊記「武州江城之下愚大和絵師/菱川吉兵衛師宣」「元禄五歳申初秋吉旦 朋林軒開板」    〈延宝六年本の注釈の誤りや仮名遣いを訂正した再版本〉  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄五年刊)    菱川師房画『女重宝記』 半紙本五巻 画工不明 師房 苗村三径撰  ◯『浮世草子考証年表-宝永以降』(元禄五年刊)   ◇浮世草子   (「年表」p133 元禄五年刊・遊色軒作『諸わけ姥桜』四巻・第十の文に「菱川 がうき世絵」とある由を記す)    〈『諸わけ姥桜』の解題本に寛延二年(1749)刊の『傾城千尋之底』がある。霞亭文庫本に拠ると同所は「西川がうき世     絵」に書き改められている〉  ☆ 元禄七年(1694)(六月四日没・享年未詳)  ◯ 元禄七年五月 師宣 安房保田町 浄土宗林海山別願院に洪鐘(梵鐘)を寄進   (本稿 享和二年の項、山東京伝の『浮世絵類考追考』参照)  ◯ 元禄七年六月四日逝去    安房富山町(現南房総市) 浄土真宗勝善寺の過去帳・元禄七年六月四日の条に「元禄七戌六月即友士菱    川友竹」とある由    (千葉県教育委員会のページ 南房総市の国・県指定および国登録文化財「菱川師宣過去帳」)    〈勝善寺は師宣の妹ヲカマの嫁ぎ先。またこの発見は昭和三十三年とのことである(千葉県南房総市・勝善寺沿革)〉    ◯『師宣祐信絵本書誌』(元禄七年刊)   ◇絵本    菱川師宣画    『獣絵本つくし』大本一冊     刊記「絵師菱川師宣/元禄七戌稔順陽吉/大伝馬三町目鱗形屋開板」    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄七年刊)    菱川師宣画    『獣絵本尽』大本一巻 画者師宣    『大和墨』 大本三巻 「菱川」序署名なし 松会板    〈松平進氏は「序文末に「菱川図之」とあるが、恐らく師房か」とする(『師宣祐信絵本書誌』「附記」より)〉   ◇咄本(元禄七年刊)    菱川師宣画『正しきばなし』半紙本五巻 日本絵師 菱川師宣 石川流宣作 万屋清兵衛板  ◯『初期浮世草子年表』(元禄七年刊)   『【西鶴】彼岸桜』半紙本 五冊 元禄七年二月刊     序 「元禄甲戌衣更着下旬」志村孫七序     版元 江戸 志村孫七板     (「年表」は「元禄六年刊『西鶴置土産』の江戸板。挿画菱川風」とする。また宝永五年刊『風流門      出加増藏』(奥村政信画)は本書の解題改竄本とする)    ◯『松屋筆記』巻112 写本(小山田与清著 成立年未詳)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(57/79コマ)◎は不明文字   〝野郎役者浮世絵師菱川    越後記二の巻 万徳丸殿御家督養子に成事の条に 御在府の内 家老安藤九郎左衛門は兼而より 美作    か内意を請 己か居宅を物好に普請し 庭の風景手を尽し 居間座敷舞台迄もかまへ置 三河守殿を招    請し 堺町吹屋町にて名高き野郎役者を呼集め 酒宴遊興を事とし 専ら奢を進めて浮気に仕立云々     若殿居間屏風共を金銀にて極さいしきにして 吉原の景色を委細に写させ 別て其身の寛活姿にて 随    身の者ども通ふ体 少しも違なく浮世絵師菱川氏に筆を揮はせて書せ 常々建替 是を眺め云々     義士記実記四の巻 大石主税父に諌言の条に 或日の事なるに 嶋原に趣く時 主税座敷を見れば菱     川某といへる筆のあでやかなる浮世絵を床に掛置たり 主税是を見て 口惜や侍の道理を忘れ給ふ父     上哉 主君の敵を眼前に◯置 遊君に身を抛げ ◎増の御身持哉と 自分此絵を散々引さき捨て 唐     の予譲が衣袍を切て 君の仇を報ぜし所を 探幽法印が書し絵を 引替置たり云々 江戸図鑑綱目に     菱川元(ママ)信有〟    〈『越後記』は延宝から天和元年にかけて起こった越後髙田藩のお家騒動の実録。時代は師宣の作画期と重なるが、     この挿話の事実は不明。同書は『近世実録全書』(巻十五)所収。『義士記実記』は不明〉  ☆ 刊年未詳    ◯『師宣祐信絵本書誌』(刊年未詳)   ◇絵本    菱川師宣画    『武者さくら』大本(ブラウン氏『日本版画』元禄三年刊とする)     刊記「絵師菱川師宣/松会開板」    ◯「往来物年表」(本HP・Top)(刊年未詳)    菱川師宣画か?『新女今川』画工未詳 沢田氏の女 きち自序 刊年未詳〔国書DB〕    (書誌「菱川師宣画か」)    ◯「日本古典籍総合目録」(刊年不明)   ◇絵本・絵画    菱川師宣画    『むしやえ尽し』一冊 菱川師宣画(注記「徳川時代稀覯本索引による」)    『姿絵づくし』二冊 菱川師宣画 (注記「絵本の研究による」)    『大和武者絵』一冊 菱川師宣画 (注記「服部九兵衛〈落陽〉 貞享3」)    『世話絵尽』 四冊 菱川師宣画 (注記「絵本の研究等による」)    『色双子』菱川師宣画(注記「絵本の研究による」)   ◇仮名草子    菱川師宣画    『名古屋菊女之誉』〈「日本小説年表による」とある〉    『三浦軍記』   菱川師宣画? 角書「道灌早雲赤松」鱗形屋板     書誌注記「延宝六年刊『鎌倉公方九代記』巻八至一〇の改題後刷本」    ◯「艶本年表」〔目録DB〕(刊年未詳)    『好色にせむらさき』五冊 菱川師宣画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『日本千話の大寄』 三冊 菱川師宣画      (注記「情のうわもりの改題本、日本艶本目録(未定稿)による」)    『好色はつむかし』 五冊 菱川師宣画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『わけのこんげん』 二冊 菱川師宣画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『床の置物』 一冊 菱川師宣画(注記「日本艶本目録(未定稿)等による」)    『好色糸柳』 二冊?菱河師宣画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『艶色軌範』 一冊 菱川師宣画(注記「絵本の研究による」)    『旅葛籠』     菱川師宣画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)     『床礼儀』     菱川師宣画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『恋の糸』  一冊 菱川師宣画(注記「艶本目録による」)    『大枕』   二冊 菱川師宣画(注記「艶本目録による」)      ☆ 没後資料  ☆ 元禄八年(1695)  ◯『好色本目録』柳亭種彦著(『新群書類従』巻七・p164)   〝香のかほり 半紙形 三冊 元禄八年 作者九思軒 画菱川なるべし。    紅梅之助といふ者、白菊といふ娘に馴染むる事を、和文やうに書きたり、考べきこと多くは見えず。柱    に(白)といふ字あり。按に例の外題直しにて、『白菊物がたり』といひたる歟〟  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄八年刊)    菱川師宣画    『姿絵百人一首』半紙本三巻 菱川氏師宣 木下甚右衛門板    『和国百女』  大本三巻  画師菱川師宣 松会板    『香か薫り』  半紙本三巻 師宣画 九思軒著 松会板    〈『和国百女』について師房画とする見解あり。下出『近世女風俗考』記事参照のこと〉   (参考)   〝師宣「和国百女」一冊ものは天保の後摺多し〟   (『浮世絵』第五号「浮世絵手引草(一)」国立国会図書館デジタルコレクション(19/25コマ)  ◯『姿絵百人一首』菱川師宣画 木下甚右衛門板    (国立国会図書館デジタルコレクション)    序に「かの菱川が古人に成しかたみなれば」とあり    跋「名を広ふし道をたつるは いづれにかわる所なきにや 爰に菱川(ひしがわ)氏師宣は自然と画図に      奇を顕(あらは)して 世に鳴ことを得たる歟 此道をすける人の為に 古今(いにしへいま)の風俗      時々(より/\)に和(やはらぎ)移(うつり)変(かはる)姿を百絵に残して 続子師房家に伝へり し      かるに 予多年をちなみ月久しく乞ひ求め 梓に鏤(ちりばめ)弘めて 世上のめをよろこばしむる      のみ  元禄八暦乙亥四月吉辰 小伝馬三丁目 木下甚右衛門板」    〈元禄八年四月刊の序に「古人」とあり、前年の同七年五月、師宣は安房保田町の別願院に洪鐘(梵鐘)を寄進〉   (参考)   〝菱川師宣の「姿絵百人一首」は奥付に師宣とあれど、画風は正に師房也、恐らくは同人の偽筆ならんか〟   (『浮世絵』第五号「浮世絵手引草(一)」国立国会図書館デジタルコレクション(19/25コマ)    ◯『師宣祐信絵本書誌』(元禄八年刊)   ◇絵本    菱川師宣画    『和国百女』大本三巻一冊      刊記「元禄八乙亥歳/正月吉辰/画師菱川師宣/書林松会朔旦」        (宮武外骨は「師宣在名ながら真跡か否かうたがっている」由である)     ◯「艶本年表」(元禄八年刊)    菱川師宣画    『好色五れいこう』墨摺 大本 二冊 内題「男女五れいかう」「菱川氏吉兵衛」松会板 元禄八年 〔白倉〕    (白倉注「師宣は前年に没しているから、その遺作となるか「世に目の薬を与ふによつて五れいかうと呼ぶならし(序)」)  ◯『近世女風俗考』(生川正香著・天保末成稿)   〝(楴枝曲(かうがいわげ)の考証に「笄髷之古図」を引いて、著者曰く)和国百女といへる絵本に所載に    して、画工は菱川師宣と奥書にあれども、おそらくハ師宣の二字ハ入木なるべし。師宣には筆力やゝ拙    なり。おもふに此冊子は元禄八九年より後の風俗にて、師宣の師房が筆なるべし〟  ☆ 元禄九年(1696)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄九年刊)    菱川師宣画    『倭国名所鑑』大本三巻 絵師 菱川師宣 万屋清四郎板(天和二年原板歟)〈天和二年参照〉    『哥仙やまと抄』 大本一巻 画工不記名 師宣(書光悦)序 桃仙子 須藤権兵衛板    『宝箱』     大本四巻 画工不明  菱川 本屋利兵衛・菊屋七郎兵衛板    ◯『師宣祐信絵本書誌』   ◇絵本(元禄九年刊)    菱川師宣画    『大和名所鑑』刊記「絵師菱河師宣/元禄九年子正月吉日/万屋清四郎板」〈初版は天和二年刊『和国名所鑑』〉  ☆ 元禄十年(1697)  ◯『国花万葉記』巻七下(菊本賀保著 元禄十年刊)   (新日本古典藉総合データベース画像)   〝大和絵師 菱川吉兵衛 村松丁二丁メ  菱川吉左衛門  同作之丞〟    〈三者とも村松町二丁目住か。宮武外骨はこの吉兵衛を師房、作之丞を師永、吉左衛門を「師喜ならん」とする『菱川師     宣画譜』より〉  ☆ 元禄十一年(1698)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄十一年刊)    菱川師宣画    『八幡愚童訓』大本三巻  画工不明 菱川 井上忠兵衛板    『曽我物語』 大本十二冊 師宣ノ画 薬師◎蔵板  ☆ 元禄十二年(1699)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄十二年刊)    菱川師宣画    『百人一首』和歌 大本一巻 師宣  ☆ 元禄十三年(1700)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(元禄十三年刊)    菱川師宣画    『かな文しやう』大本一冊 師宣 伊勢屋清兵衛・板木屋新助板    『吾妻紀行』     画工不明  師宣 跋 宇遯庵由的 京 萬屋嘉兵衛板    『女今川』 大本一巻 菱川師宣画 伊勢屋清兵衛・板木屋升助板  ◯「日本古典籍総合目録」(元禄十三年刊)   ◇狂言本    菱川師房画『好色一もとすすき』五巻五冊 菱川師房画 桃の林紫石作   ◇往来物    菱川師宣画『女用訓蒙図会』二冊 菱川師宣画  ◯『役者万年暦』八文字屋八左衛門板(元禄十三年刊)   (『難廼為可話』小寺玉晁編 天保三年序・『未刊随筆百種』巻12 三田村焉魚編)   〝(若女方)瀬川竹之丞を評する条に     誠にたへなる御形うつすに、菱川にても、つたなき筆をはぢてにげぬべし〟    〈死後もなお師宣画への高評価は続いていたようだ〉  ☆ 元禄十四年(1701)    ◯『師宣祐信絵本書誌』(元禄十四年刊)   ◇絵本    菱川師宣画    『屏風掛物絵尽』大本三巻一冊     刊記「画師菱川氏師宣/元禄十四年辛巳正月吉日/通油町板本山形屋新板」     〈初版は天和二年刊〉  ☆ 元禄年間(1688~1703)  ◯『好色本目録』柳亭種彦著(『新群書類従』巻七)   ◇『好色夢之助』p163   〝好色夢之助 絵入 中本 紙数二十枚程あるを綴分けて上下とす 鱗形屋板夢之助といふ者、花より姫    を恋ひわび、末に夫婦となる物語なり。画風菱川に似たり、江戸作なるべし、己が見たる本は、年号を    削りたる跡のみあり、元禄年間の印本と思はる、作は今少し古かるべし〟   ◇『姥揃』p163    〝姥揃 絵入五冊 序に東都愚民遊色軒とあり。    一人は傾城には真実なき者ゆゑ、廓へ立寄るまじといひ、一人は傾城にも誠あるものなりといふ両人の    問答なり。    菱川の絵を入れたる本あり。又た絵は摺る時除きて、筆耕を継合せたる本あり、原摺の年号ある本は、    序に嵐三右衛門、伊藤小太夫の噂あり、又巻中に沢田おきち、菱川等の名あれば、元禄年問の作なるこ    と疑ひなし、後に享保寅の春と入木したる本あり、また此冊子も何とやらん、外題を替へしと、蜀山の    『さゝちまき』にありしが、今抄録を失ひたり〟    〈『瑣々千巻』は、文化八年(1811)、大田南畝が慶長以降の稗史(小説)野乗(民間史書)等の古書に関する書誌や考     証を書き記したもの。(『大田南畝全集』第十巻所収)だが、そこにはこの『姥揃』に関する記事が見えない。天保     十四年十月、斎藤月岑はこの『瑣々千巻』に「右一の巻ばかりにして末の巻なし」と注記しているから、その時点で     すでに二の巻の方は散逸していたのであろう。おそらく二の巻に収録されていた『姥揃』の記事を、種彦は見たので     ある。なお「日本古典籍総合目録」に『姥揃』はない。ただ遊色軒作として『諸わけ姥桜』(元禄五年(1692)刊)と     いう書名が見え、その改題本に『傾城千尋之底』(寛延二年(1749)刊)があるとするのだが、この『姥揃』との関連     は判然としない〉   ◇『歌仙枕』p170   〝歌仙枕 大本一冊    三十六番狂歌入(一字欠)画〟    〈柳亭種彦未見本〉国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は菱川師宣画とする〉     ◯「艶本年表」〔目録DB〕(元禄年間刊)    菱川師宣画    『恋の乱れ髪』一冊 菱川師宣画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)    『好色名女枕』二冊 菱川師宣画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)     『枕絵づくし』三冊 菱川師宣画(注記「日本艶本目録(未定稿)による」)      ◯「日本古典籍総合目録」(元禄年間刊)   ◇絵本    菱川師宣画    『浅草観音伝記』一冊 菱川師宣画     『絵本二種合巻』一冊 菱川師宣画(注記「統一署名は(仮題)」)   ◇歌舞伎    菱川師宣画『諸芸絵鏡』一冊 菱川師宣画    〈松平進氏画風が異なるとして師宣画とせず(『師宣祐信絵本書誌』「附記」より)〉  ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   ◇「元禄年間記事」1p105   〝浮世絵師 橘町菱川吉兵衛、同吉左衛門、古山太郎兵衛、石川伊左衛門、杉村治兵衛、石川流宣、鳥井    (ママ)清信、菱川作之条〟
  ◇「元禄年間記事」1p106   〝菱川が浮世絵はことに行はれたり。宮川長春も此の時代の浮世絵師にて、元禄宝永の頃行はれたり〟  ☆ 元禄・宝永年間(1688~1710)  ◯『赤本黒本青本書誌』   (元禄・宝永年間(1688~1710)刊 赤本)   『たゝとる山のほとゝぎす』(菱川師宣筆)    〈解題、昭和九年の『岩崎文庫和漢書目録』に菱川師宣筆とある由。「仮年表」は師宣風とされる赤小本の『たゞ取山     の時鳥』を載せず〉    ☆ 宝永元年(元禄十七年・1704)  ◯『大尽三つ盃』(宝永元年(1704)九月刊)『歌舞妓評判記集成 第三巻』所収   〝敵役之部     上上吉 実悪 山中平九郎 中村座    すさまじきこと菱川が公平絵(きんひらゑ)よりはまされり。実悪の開山、別而むりいふ公家にして、    よこに車をのいてとをせ/\〟    〈この金平絵を画くという菱川は、元禄七年(1694)に亡くなった師宣を指すのであろうか、それとも菱川工房という意     味なのであろうか〉  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝永元年刊)    菱川師宣画『島原合戦記』三冊 画工不明 師宣  ☆ 正徳三年(1713)  ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(正徳三年刊)    菱川師宣画『ふん太もの語』二冊 菱川師宣画  ☆ 正徳四年(1714)  ◯『増訂武江年表』(斎藤月岑著・嘉永元年脱稿・同三年刊)   ◇「正徳四年」1p118   〝〔只補〕八月二日、画家菱川師宣卒す(七十七歳)〟    〈〔只補〕は関根只誠の補注だが、何に拠ったのだろうか〉   ◇「正徳年間記事」1p120   〝浮世絵師菱川師宣、正徳中七十余歳にして終れり(薙髪して友竹といへり)〟    ☆ 享保十七年(1732)  ◯『浮世絵と板画の研究』(樋口二葉著・昭和六年七月~七年四月(1931~32))   ◇第一部「浮世絵の盛衰」「明和の彩色摺から錦絵の出るまで」p20   〝享保十七年板『近世百談』に「浮世絵は菱川師宣が書出し、現在は懐月堂、奥村政信等なり、富川吟雪    房信と云ふ人、丹絵の彩色を紅にて始めたるを珍らしく鮮かなりとて評判云々」とある〟    〈「日本古典籍総合目録」に『近世百談』は見当たらない。下出『本朝世事談綺』のことか〉    ☆ 享保十九年(1734)  ◯『本朝世事談綺』〔大成Ⅱ〕⑫521(菊岡沾凉著・享保十九年刊)   〝浮世絵 江戸菱川吉兵衛と云人書はじむ。其後古山新九郎、此流を学ぶ。現在は懐月堂、奥村正信等な    り。是を京都にては江戸絵と云〟    ☆ 宝暦九年(1759)      ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(宝暦九年刊)    菱川師宣画『絵本列仙画典』三巻 画工菱川師宣図 辻村五兵衛板     (元禄二年板師宣画「異形仙人絵本」の後摺改題本)    ☆ 明和七年(1770)    ◯『役者裏彩色』明和七年刊役者評判記(八文字屋八左衞門著・『歌舞伎評判記集成』第二期十巻p31)   〝若女形之部    見立浮世絵師に寄ル左のごとし   【いわくあり開口】山下金作   森田座  何をされてもわつさりとする春信  〈鈴木春信〉    上上吉     吾妻藤蔵   市村座  武道にはちと角があつてよい菱川  〈菱川師宣〉    上上吉     中村喜代三郎 同座   どふみても上方風でござる西川   〈西川祐信〉    上上半白吉   中村松江   中村座  思ひのたけをかいてやりたい一筆斎 〈一筆斎文調〉    上上白吉    尾上松助   市村座  此たびはとかくひいきと鳥居    〈鳥居清満か〉    上上半白吉   瀬川七蔵   中村座  瀬川の流れをくんだ勝川      〈勝川春章〉    上上半白吉   山下京之助  森田座  風俗はてもやさしひ歌川      〈歌川豊春〉    上白上     尾上民蔵   市村座  うつくしひ君にこがれて北尾    〈北尾重政〉    上上      嵐小式部   森田座  いろ事にかけては心を奥村〟    〈奥村政信〉    ☆ 天明年間(1781~88)  ◯『俗耳鼓吹』〔南畝〕⑩18(天明八年六月以前記)   〝元禄の比の板にて月次の遊といへる絵本あり。菱川吉兵衛也。中に芝居の顔見世の事をしるして、つら    みせといへり〟    〈『月次の遊』は元禄四年(1691)の刊行。南畝は師宣画を江戸の風俗資料として見ている〉    ☆ 寛政十二年(1800)  ◯『浮世絵考証(浮世絵類考)』〔南畝〕⑱438(寛政十二年五月以前記)   〝菱川吉兵衛師宣    大和絵師又は日本絵師とも称ス。房州の人なり。和国百女【三冊、元禄八年板】 月次の遊び【一冊、    元禄四年板 やまの(ママ)大寄 一冊 恋のみなかみ 一冊 其外天和、貞享の頃板本多し。        貞享四年板の江戸鹿子に        浮世絵師      イニ村松町二丁目(朱筆)        堺町横丁 菱川吉兵衛              同吉左衛門        元禄二年巳年板の江戸図鑑に         浮世絵師        橘町   菱川吉兵衛師宣        同所   同吉左衛門師房        長谷川丁 古山太郎兵衛師重        浅草   石川伊左衛門俊之        通油町  杉村治兵衛正高        橘丁   菱川作之丞師永       (以下上段六行分朱筆)     元禄五年板 買物調方三合集覧 横切本一冊        江戸浮世絵町(ママ)        橘町   菱川吉兵衛             同吉左衛門             同太郎兵衛 〟    〈『やまとの大寄』および『恋のみなかみ』はともに天和三年(1683)の刊行。元禄五年板の『買物調方三合集覧』の     「江戸浮世絵町」は「江戸浮世絵師」の誤り〉    〈追記、大田南畝が引いた「元禄二年巳年板」の『江戸図鑑綱目』は初板ではなく二版以降のもの。初板は「同所 同     吉左衞門師房」の次ぎに「板木下絵師」の文字があり、「長谷川丁 古山太郎兵衛師重」以下に続いている。上記     古典文庫『石川流宣画作集』下巻所収の『江戸図鑑綱目』参照。2010/10/06〉  ◯『古今大和絵浮世絵始系』(笹屋邦教編・寛政十二年五月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)
   菱川師宣  ☆ 享和二年(1802)    △『稗史億説年代記』(式亭三馬作・享和二年)〔「日本名著全集」『黄表紙二十五種』所収〕   〝草双紙の画工に限らず、一枚絵の名ある画工、新古共に載する。尤も当時の人は直弟(ヂキデシ)又一流あ    るを出して末流(マタデシ)の分はこゝに省く。但、次第不同なり。但し西川祐信は京都の部故、追て後編    に委しくすべし    倭絵巧(やまとゑしの)名尽(なづくし)      菱川吉兵衛  (他の絵師は省略)〟
   『稗史億説年代記』式亭三馬自画作    (早稲田大学図書館・古典籍総合データベース)  ◯『浮世絵類考追考』(山東京伝編・享和二年十月記・文政元年六月写)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)    菱川師宣伝并系図    菱川吉兵衛師宣、剃髪して友竹と称、始縫箔を以て業として、上絵といふものより画を書ならひて、後    一家をなせり。英一蝶と時を同じうすといへども、十とせばかり前立て世に行わる、按に、師宣は土佐    の画風を好み、浮世又兵衛【岩佐氏】が筆意に傚て一家をなせり、一蝶は狩野家の筆意を以て、師宣の    画風により、時世粧を画て一家をなせり、ともに近世の名画也、一蝶若かりし時、師宣が画風をしたひ    し事は、四季の絵の跋といふものに、岩佐、菱川が上にたゝん事を思ひてと、みづからかけるを以て証    とすべし、師宣もつぱら印本の板下といふものを画て、板刻の絵本甚おほし、他国の人、江戸絵と称し    て板刻の絵をもてあそぶは、此人におこれり、      みなし栗  山城の吉弥むすびも松にこそ  其角            菱川やうの吾妻俤       嵐雪    みなし栗は天和三年の板なり、此比さかりに行たるを見るべし。
   「菱川系図」
     師宣の血脉、六代ニ至リテゼツス、今養子を以て家ヲ継、房州保田町ニアリ、      是七代目也、女子他ニ嫁シテ生ル、血脉ノ者、今ニ同所他家ニハアリトゾ。  
     洪鐘一口 【周廻七尺、厚サ二寸五分、口広二尺二寸五歩、長三尺五寸】           【房州保田町林海山別願院境内ニアリ】        寄進施主        菱川吉兵衛尉 鐫字如上        藤原師宣入道友竹 予折本一紙をおさむ       元禄七甲戌歳 五月吉日      【已上、房州保田町医師渋谷元竜に問て其実を記す、元竜は菱川の親族也】〟   参考資料   (房州保田町医師渋谷元竜が、山東京伝の依頼に応えて作成した師宣の家系に関する記事と、保田近辺に散在する師宣作品    に関する記事)    「菱川師宣家譜」(国立国会図書館デジタルコレクション)    ☆ 享和三年(1803)  ◯『山東京伝書簡集』(竹垣柳塘宛・享和三年五月)   (『近世の学芸』p398 肥田晧三記・三古会編・八木書店・昭和51年刊)   〝菱川絵巻物 御貸被遊、難有ずいぶん大切に致し拝借仕候、僕蔵浮世又兵衛美人之図一幅、おりう絵一    幅、破笠なぞ/\の絵一幅、右御使へ御渡し申上候、ゆる/\御一看可被遊候    菱川御一軸 奥書拝見仕候所、杏園先生小子考を御書被遊、好古のほまれと大喜奉存候、菱川没年再考    仕候所、元禄七年にて御座候、右御軸の奥書へ御加筆被下候様相願候、後世へ伝へ申度候、欽白      五月廿七日     柳塘公子     京伝〟    〈柳塘公子は竹垣庄蔵。文化五年(1808)の『武鑑』には「御普請方」とある。父・竹垣三右衛門は代官であるから、公子と     呼んだのである。その柳塘から菱川の絵巻物を借りた返礼として、京伝は自ら所蔵する浮世又兵衛画の「美人図」・山崎     お龍および小川破笠の掛軸をお目にかけたいというのである。さてその拝借した菱川の巻物には、「杏園先生」こと大田     南畝(蜀山人)の認めた奥書があって、そこには「小子考」すなわち京伝の考証事が記されていたので、大変光栄に思った     と喜んでいる。加えて師宣の没年を再考したところ、元禄七年と知れたので、それを後世に伝えるべく奥書に書き加え     てほしいと依頼したのである。それにしても京伝は師宣の没年を何に拠って知ったのであろうか。京伝の考証、前年享     和二年の『浮世絵類考追考』には「元禄七甲戌歳 五月吉日」とあるものの、これは師宣が安房保田町別願院に鐘を寄進     した年次日付であって、忌日ではなかった。したがって、京伝の「追考」をそのまま引いた無名翁(渓斎英泉)の『無名翁     随筆(続浮世絵類考)』(天保三年序)も、斎藤月岑の『増補浮世絵類考』(天保十五年序)も没年を正徳年中としている。     元禄七年説が出てくるのは嘉永年間の『古画備考』からと思われるが、これは師宣作品の序に拠ったもので、京伝説と     は無関係のようだし、明治二十六年、飯島虚心の『浮世絵師便覧』に「正徳四年死、七十七、一説に元禄七年に死せり     と」とはあるものの、これはおそらく『古画備考』に拠ったに違いない。つまり享和三年の時点で、山東京伝は師宣の     没年を元禄七年と認めていたにも関わらず、世に伝わらなかったのである。なお、現在、師宣の没年月日は元禄七年六     月四日と明らかになっているが、これは実に昭和三十三年のことである(千葉県南房総市・勝善寺沿革)〉  ◯『後は昔物語』〔大成Ⅲ〕(てがらのおかもち(朋誠堂喜三二)著・享和三年序)   ◇(「顔見世、つらみせ」記事)⑫280   〝美成云、菱川の画ける十二月遊びといふものに、顔見せをつらみせとあり〟    〈「十二月遊」は『月次のあそび』(元禄四年刊)のことか。「美成」は山崎美成、この注記は曲亭馬琴の注記の後に     出てくるが年代は未詳〉   ◇(吉原遊女屋の家作記事に喜多村筠庭の按記)   〝むかしの絵を見るに、見せに金屏風などたてたる所、菱川師宣が書たるあり〟    ☆ 文化元年(享和四年・1804) ◯『大尽舞考証』〔燕石〕⑤232(山東京伝著・享和四年成立)   (「引用書目」の項) 〝一、吉原恋の道引【延宝六年印本/菱川師宣絵本】〟   〝一、好色吉原春駒【延宝九年印本/菱川春画】〟    〈二朱判吉兵衛作の小唄「大尽舞」の歌詞考証に二書を典拠としてあげる〉  ◯『近世奇跡考』〔大成Ⅱ〕(山東京伝著・文化元年序)   ◇「凡例」⑥256   〝浅井了意、井原西鶴等がたはれ書(ブミのルビ)、雛屋立圃、菱川師宣等がざれ絵のたぐひも、その代のお    もむきをもてかけるは、いにしへをまのあたり見るごとき有りて、証とすべき事おほかり。それゆゑへ    に俗書といへども、実とおぼしきはとりもちゐぬ〟
  ◇「土手の道哲并高尾」の項 ⑥278・282    (『吉原恋の道引』延宝六年板を引用する。模写あり)   〝土手道哲菴図 延宝六年板 菱川繪本ノ図ヲ摸ス〟    〈模写は『近世奇跡考』の「凡例」に〝古画はすべて予が自画なり。覧者あやまりて、予が筆のつたなきを画者におふ     する事なかれ〟とあるから、山東京伝(北尾政演)である〉    ◯『山東京伝書簡集』(竹垣柳塘宛・文化初年(1804~))   (『近世の学芸』p400 肥田晧三記・三古会編・八木書店・昭和51年刊)   〝宮川長春御懸物拝見、正筆無相違相見え申候、乍然長春は菱川師宣と違、筆もおとり絵も折々出候もの    ゆへ、価はずいぶんかろく御もとめ可被遊候、此御懸物は出来至極よろしく相見え候間、南一より銀二    両か三十勿位のものと奉存候、出来あしきものにいたりては四五勿位にて骨董舗などに折々御座候也、    〇菱川写しのものには大きに出来のよきものありて、価も又高きものも御座候、宮川の絵はとかく絵が    らと出来の善悪にて価も高下可有奉存候、時代は正徳享保元文の比に御座候〟    〈これは竹垣柳塘(幕臣)が所蔵する宮川長春の掛幅を鑑定した山東京伝の言である。長春物は師宣より劣るのと出物が     多いのでそれほど高くはないが、これは間違いなく真筆でしかも出来が良いのから、南一から銀三十匁くらはするだ     ろうという見立てである。この書簡で気になったのは「菱川写しのものには大きに出来のよきものありて、価も又高     きものも御座候」というくだり。これは長春が菱川師宣の絵を写していて、出来のよいのには高値がつくという意味     なのであろうか。そうすると落款はどうしたのだろうなどという疑問もわくが、本館としては判断のしようがない〉  ☆ 文化五年(1808)    ◯『浮世絵師之考』(石川雅望編・文化五年補記)   〔「浮世絵類考論究10」北小路健著『萌春』207号所収   〝菱川吉兵衛師宣    大和絵師又ハ日本絵師とも称す、江戸元祖一流大和絵の始、房州平群郡保田の産なり。和国百女【三冊    /元禄八年板】、月次の遊び【一冊/元禄四年板】、大和の大寄 一冊、恋のみなかみ 一冊、其外天    和、貞享の頃板本多し。      貞享四年板の江戸鹿子に        浮世絵師      菱川吉兵衛             堺町横丁 同吉左衛門      元禄二己年板の江戸図鑑に        浮世絵師             橘町   菱川吉兵衛師宣             同所   同 吉左衛門師房             長谷川丁 古山太郎兵衛師重                  石川伊左衛門俊之             通油町  杉村治兵衛正高             橘丁   菱川作之丞師永
   按ずるに、井沢長秀が俗説弁に国史を引て、大和画師ハ倭画師とて、みだりに称すべからざる事を述たり〟    ☆ 文化六年(1809)    ◯『一話一言 巻三十』〔南畝〕⑭177(文化六年八月下旬記)  〝やまとめいしょ絵本尽 駒形堂他江戸名所菱河師宣の絵本に、やまとめいしょ絵本尽といふ三巻あり〟    〈南畝は「駒掛堂」を駒形堂と見做し抄書した。ここでの師宣画は江戸地誌の資料であった〉  ◯『柳亭種彦日記』p132 文化六年十二月廿三日   〝きのふ買おきたる三国伝記十二冊合本六冊、鱗形屋板菱川夢の占絵尽壱冊、湯島切通し西宮清蔵方ぇ    取に遣す、代八匁五分〟    〈「三国伝記」は玄棟著の説話か。この年、式亭三馬作・勝川春亭画の合巻『玉藻前三国伝記』が出版されたが、冊数     が合わない。菱川画「夢の占絵尽」は未詳〉    ☆ 文化七年(1810)    ◯『一話一言 巻三十四』〔南畝〕⑭282(文化七年一月七日明記)  〝元禄四年板 月次の遊といふ菱川の画本に江戸山王祭の体をゑがきて(以下略)〟    〈この山王祭の絵は、室町時代の僧万里が編集した『帳中香』の記事「竹枝歌(コキリコ)」を、南畝が考証する資料     として使われている〉  ◯『燕石雑志』〔大成Ⅱ〕(飯台簑笠翁(曲亭馬琴)著・文化七年刊)   (「浅草の事実」の項)   ◇「駒形堂」の考証 ⑲369   〝大和名所鑑は菱川師宣が画く所にして、書肆万屋清四郎刊す。発兌の年号は後に削去りしにや、正月吉    日とのみ記して詳ならざれども、江戸名所記と同じころに出せるものなるべし。何をもてこれをしると    ならば、同書亀戸天神の図説に、葛西の郡亀井戸といへるところあり。ちかき比まで、べやう/\たる    原なりしを見たて、筑紫安楽寺の天神を勧請し奉るなりとあり。亀戸天満宮は寛永三年に菅原信祐建立    す。これらの説によりて考るときは、その書の刊行寛永を去ること遠からじ〟    〈「国書基本DB」『江戸名所記』(浅井了意著)は寛文二年刊。『大和名所鑑』は元禄九年刊(万屋清四郎板)で、     天和二年刊『和国名所鑑』(山形屋板)の再刻本〉   ◇「笠」の考証 ⑲378   (「大和名所鑑」浅草仁王門前の茶屋の図を引く)   〝嘗て菱川師宣が画けるものを見るに、武士編笠を戴き、長き両刀を帯び、高脛をあらはして立てり。こ    こにも又その図あり。(中略、「昔々の物語云く」として)万治の比より玉淵といふ編笠、寛文の頃松    坂といふ笠、延宝の頃熊谷笠虚無僧などはやり、八分はやり、天和、貞享の頃より、編笠次第に止て、    皆一同に菅笠になる云々。菱川が画はみなこのころの時勢粧(イマヤウスガタのルビ)なり〟   ◇「西鶴〔附〕羽川珍重」の項 ⑲503   〝其角が五十四君〔割註 作名を四国太郎としるせり。繍像(サシヱのルビ)は菱川師宣が筆なり〕〟    〈「五十四君」は『吉原源氏五十四君』。「国書基本DB」は貞享四年刊とする〉   ◇「六郷橋」の項 ⑲523   〝六江橋躰 大和名所鑑上巻菱川師宣出像を臨す〟    ☆ 文化八年(1811)   ◯『式亭雑記』〔続燕石〕①70(文化八年四月一日)   “護国寺山内において、秩父三十四番、一同に開帳あるよし聴て、参詣する序、本堂の額を見るに、正面    より右の隅の方に、四尺四面ばかりの額あり、遠目にはわきがたけれど、大和絵師菱川吉兵衛師宣が流    儀と覚し(元禄年号の絵馬略図あり)〟  ◯『一話一言 補遺参考編一』〔南畝〕⑯91(文化八年四月二日)   (「雲茶会」初集、四月二日、山東京伝の出品。凡例参照)  〝延宝年間よし原の図 菱川師宣筆〟  ◯『瑣々千巻』〔南畝〕⑩339~40(文化八年四月八日)  〝姿絵百人一首 菱川 残本〟  〝和国名所鑑 闕本 菱川師宣〟    〈『瑣々千巻』は、書肆青山堂・雁金屋の千巻文庫(慶長已来の稗史野乗、古器古書画を収蔵)を、南畝が点検して表     題を与え、識語等を記したもの。『姿絵百人一首』は元禄八年(1695)、『和国名所鑑』天和二年(1682)の刊行〉    ☆ 文化十一年(1814)   ◯『骨董集 上編上中巻』〔大成Ⅰ〕(山東京伝著・文化十一年刊)   ◇「金竜山米饅頭」の考証 ⑮370(模写あり)   〝延宝六年板、菱川の絵本に此辻売の図あり〟
  ◇「臙脂絵売(べにゑうり)」の考証 ⑮376(模写あり)   〝板行の一枚絵は延宝天和の比始れる歟。朝比奈と鬼の首引土佐浄瑠璃の絵、鼠の嫁入の絵の類なり。芝    居の絵は坊主小兵衛をゑがけるなど、其始なるべし。当時は丹緑青などにてまだらに彩色したり。菱川    師宣、古山師重等これを画けり〟
  ◇「挑燈」の考証 ⑮393   〝(延宝)八延宝六年板〔菱川絵本〕に、箱挑燈に柄をつけたるものあり。当時よりもはらこれを用ひた    りと見ゆ〟
  ◇「笠の下に布を垂」の考証 ⑮399(模写あり)    〝詞花堂蔵本 天和四年印本 菱川の絵に此の図あり〟
  ◇「女の編笠、塗笠」の考証 ⑮403(模写あり)   〝天和四年印本菱川師宣の絵に此図あり。当時かくのごとく綿にて頭面をつゝみしは中年の女又老女にお    ほく見えたり〟
  〝紫のてぼそ(綿帽子)といふ事見えたり。菱川の絵などに少年の女紫のほうかぶりしたる体多くゑかけ    り、是なるべし〟
  〝天和貞享元禄の比の女の編笠の形は寛文延宝の比とはいたく変れるを見るべし。当時此あみ笠かぶりた    るはおほくはふり袖の少女なり。菱川の絵にあまた見えたり。ゆゑにこれを小女郎手といひて男子もか    ぶれり〟
  ◇「大津絵の仏像」の考証 ⑮412(模写あり)   〝元禄三年印本 東海道分間繪図所載 大谷の所に仏絵(ぶつゑ)いろ/\有、としるせり。芭蕉の大津    絵の句は元禄四年なれば、これわづかに一年さきの板行なり。当時のおもかげ目のまへにうかびてすず    ろに珍し、奥書ニ云、作者 遠近道印 絵師 菱川吉兵衛 元禄参年庚午孟春吉旦〟    ☆ 文化十二年(1815)    ◯『骨董集 上編下巻』〔大成Ⅰ〕(山東京伝著・文化十二年刊)   ◇「お乳母日傘(ひがらかさ)といふ諺」の考証 ⑮459   〝今の世、いやしき者の人にほこるに、お乳母日傘にてそだちたる者ぞといふ諺あり。昔は乳母をめしつ    かふほどの者の児には、日傘をさしかけたるゆゑにさはいふめり。そのからかさは、丹青もてさま/\    のゑをかきしなり。ことに菱川が絵におほく見えて、延宝、天和、貞享の比もはらもちひたり。これ近    き世までもありしが、今はてて諺のみのこれり〟
  ◇「雛使図」の考証 ⑮481(模写あり)   〝天和貞享の比菱川師宣がかける年中行事の印本に此図あり〟    ☆ 文政元年(文化十五年・1818)    ◯『瓦礫雑考』〔大成Ⅰ〕②165(喜多村信節著・文化十五年(1818)刊)   (「遊女が粧(ヨソホヒ)」)   〝いにしへの江口神崎などの遊女は皆小袿(コウチギ)着たりと見ゆれど、後世の遊女はしからず。岩佐又兵    衛が画、その後は菱川師宣・英一蝶が画にも、なほ遊女に打かけ着たるはなし。それらの絵にも稀には    打(ウチ)かけ姿かけるも見ゆれど、皆内に居る体(テイ)也。外(ト)に出たるは必ずうへに帯しめたり。より    て思ふに遊女が小袖を打かけ着たるは、褻(ケ)のことにて晴(ハレ)にはせざりしを、今は武家の婦人の打    かけのごとく礼服とせしは、粗(ホボ)僭上(センシヨウ)の義とやいはまじ〟    〈近世における岩佐又兵衛・菱川師宣・英一蝶の受容は、絵画としての鑑賞用であるとともに、風俗考証の資料として     も活用されている。彼らの絵は当世を写す浮世絵だとする了解がそこにはあったのである〉  ◯『浮世絵類考』(式亭三馬按記・文政元年~四年)    (本ホームページ・Top「浮世絵類考」の項参照)   〝三馬曰、元禄十年板国家葉記 七ノ下ニ     大和絵師   菱川吉兵衛          同 作之丞  村松町二丁目         同 吉左衛門  如斯出たり〟    〈「大曲本」は『国家万葉集』とする。「国書基本DB」は『国花万葉記』(菊本賀保著・元禄十年板)とあり〉    ☆ 文政二年(1819)    ◯『麓の花』〔燕石〕⑥204(山崎美成著・文政二年成立) (「鐘木杖」の項)  〝菱川吉兵衛画本「浮世百人女」といへる物に、此絵あり、天和元年印本(挿絵あり、略)〟    ◯『紅梅集』〔南畝〕②379(蜀山人・文政二年(1819)十二月詠)   〝菱川氏江戸名所の色紙のうた鯉洗居よりもとむるにまかせて      目黒不動     かり犬を目黒に手引あし引のやまとたけじやといふもことはり      両国橋     かつ鹿の背をたちわけぬいにしへはむさし下総両ごくのはし      深川八幡     永代のはしの東に大鳥居たちはだかりし道の中町      浅茅が原     はぎ高く裳すそからげて浅茅とはきけども原の露の玉姫      池上の狂詠     千年のまつさへ石となる山はのちのいほとせ長く栄ゆく〟    ☆ 文政四年(1821)  ◯「杏園稗史目録」〔南畝〕⑲484(文政四年明記)   (「収得書目 和」の項) 〝辛巳 大和絵つくし 三巻【大内 武者/浮世】菱川吉兵衛絵〟    〈「辛巳」は南畝取得の文政四年。『大和絵つくし』は延宝八年(1680)の刊行〉    ☆ 文政六年(1823)以前    ◯『一話一言 巻二十一』〔南畝〕⑬320(年月日未詳)  〝信武 狂歌たび枕 上下   〈南畝の抄書あり、略〉  天和弐年戌初秋上旬 絵師 菱河吉兵衛  江戸おやぢ橋 酒田屋開板〟
   (南畝注)此たびまくらは永井信斎といふ人歟、此集の中のうたに、      永井ことをおもひあつめてさま/\に信濃よきこそ信斎ぢなり    といふあり、己が姓名をいひしにや未詳〟    〈この『狂歌たび枕』は南畝の蔵書。「識語集」⑲722に「【信武】狂歌旅枕二巻、先年一見之。文政改元戊寅九月尽     前於本石町曬書堂収得。七十翁蜀山人。此書不題作者姓字、按此中のうたに、永井ことをおもひあつめてさまざまに     信濃よきこと信斎ぢなれ、といふあり。永井信斎といふ人にや。蜀山人又識〟とあり。狂歌本だけに南畝は作者を特     定したかったのだろう。また南畝の蔵書目録「杏園稗史目録」⑲468にも「一巻 寛文五年 永井信斎 天和二年板」     とあり〉  ◯「南畝文庫蔵書目」〔南畝〕⑲413~5(年月日なし)  (「絵本」の部) 〝恋のみなもと 一巻 菱川吉兵衛  月次の遊 一巻 同  岩木絵つくし 一巻 同  やまとの大寄 一巻 同  和国百女 三巻 同  余景作り庭の図 一巻 同  やまと絵つくし 三巻 同〟
 (「画部」) 〝そのまヽ 一巻 穴村法印 菱川師宣  遊姿枕ゑつくし 一巻 天和二 菱川  きやらまくら 一巻 菱川 〟  〈次項参照〉  ◯「杏園稗史目録」〔南畝〕⑲452(年月日なし)  (「画本部」) 〝和国百女 元禄八年 菱川 三  やまとの大寄 天和二年 菱川 一  岩木絵尽 天和三年 菱川 一  月次の遊 元禄四年 菱川 一  余慶作庭図 延宝八年 一  そのまヽ 一  遊姿枕 一  きやらまくら 一 〟    〈『きやらまくら』を『国書総目録』は寛文年間(1661~1672)とする。『やまと絵つくし』延宝八年(1680)『やまと     の大寄』天和二年(1682)。『恋のみなもと』が『恋のみなかみ』であるなら天和三年(1683)の刊行。『月次の遊』     元禄四年(1691)・『余慶作庭図』延宝八年(1680)・『岩木絵尽』天和三年(1683)・『遊姿枕ゑつくし』天和二年     (1862)・『和国百女』元禄八年(1698)「そのまヽ」は『国書総目録・著者別索引』に見当たらない〉      〈南畝の菱川師宣画に対する関心は、絵そのものつまり鑑賞用というより、近世初期の江戸風俗を知る格好の資料、考     証の資料としてあったようだ〉    ☆ 文政七年(1824)以前  ◯『近世逸人画史』(無帛散人(岡田老樗軒)著・文政七年以前成稿・『日本画論大観』中)   〝菱川師宣 晩年友松と号し、吉兵衛と称す、房州小湊の人、江戸に寓居す。画を以て活計とす、時世粧    及び春画に巧なり。其画風洒落にして其品位高し、同時に宮川長春なる者あり、時世粧を画く、其品お    よばず〟 ◯『元吉原の記』〔新燕石〕②312(曲亭馬琴著・文政八年四月中旬記)   〝菱川師宣、鳥居清信、及予が旧族羽川珍重等が画きしは、みな今の吉原になりての画図なれば、元吉原 のにはえうなし。ふるき絵巻の残欠などにも、元吉原の図の伝らざりしは、元和、寛永のころまで、江 戸はなほしかるべき浮世絵師のなかりし故也〟    〈「予」とは曲亭馬琴のこと。『兎園小説別集』(『日本随筆大成』2期4巻所収)に同文あり〉    ☆ 文政七年(1824)    ◯『耽奇漫録』   ◇上65(「耽奇会」第一集・文政七年五月十五日)   (「枕大全」「姿絵百人一首」の項)   〝枕大全 三冊 菱川師宣画    奥書 右此枕大全者人のすける仕様横根を画図にして、首書狂歌を書加、改出すといへども、其品風流    なる事を不知、是をあらためずんはあるべからずと、筆曲をつくし新板に梓、男女喜悦の前をひらきは    んめる    大和画師 菱河氏師宣    天和弐歳戌弥生上旬    姿絵百人一首 一冊 菱川師宣画    元禄八暦乙亥四月印本〟    〈「国書基本DB」は『まくら絵大全』天和二年刊とする。梅園・戸田美濃守出品〉   ◇下133(「耽奇会」第十一集・文政八年二月一日)   (「古画美人十五幅」の項)   〝古画美人十五幅【今こゝにその落款のみを模写す】    日本絵 菱川師宣(印)〟    〈松羅館・西原梭江の出品〉    ☆ 文政八年(1825)    ◯『花街漫録』〔大成Ⅰ〕⑨301(西村貘庵編・文政八年序)   「薄雲之図【長弐尺四寸六分巾八寸三分】(正八角形に「菱川」の印)花明園蔵」    (模写あり)   〝薄雲は高尾につぎたる太夫にて、世にその名も聞えし三浦屋四郎左衛門が抱の遊女也。このうつし絵は    菱川師信が筆にて誰かすがたとも極かたけれど、師信常にいへらく遊女の画は高尾薄雲などにかぎりて    ほか/\の遊女はおのれ画かゝずといひふらしたりとぞ。さるよしをもて考えれば薄雲にやともいふべ    きか〟    ☆ 文政九年(1826)    ◯『還魂紙料』〔大成Ⅰ〕(柳亭種彦編・文政九年刊)   ◇「十筋右衛門」の項 ⑫247   〝〔咄大全〕は予(種彦)が此紙料を刻する鶴屋喜右衛門が板にて、〔割註 さし絵は菱川師宣〕江戸の    軽口ばなしなり〟
  ◇「玉川千之丞」の項  ⑫286   (『役者物語』より「高安通」の挿絵の模写あり。奥付〝延宝六年清明日 通油町本問屋開板〟)   〝寛文のはじめより延宝にいたるかぶき狂言をそれぞれとりあつめ菱川師宣が画るものなり〟
  ◇「稲荷岡附小砂とり」の項 ⑫293    (菱川師宣の絵本「道引」(延宝六年刊の『吉原恋の道引』か)を引いて「土手の道哲庵」後方の合力    稲荷のあたり、吉原通いが馬を下りるところを稲荷岡と考証する)    ☆ 天保元年(文政十三年・1830)    ◯『嬉遊笑覧』(喜多村筠庭信節著・文政十三年自序)   ◇巻三「書画」上p409   〝菱川吉兵衛みづから大和絵師と称へしはいと妄なるを、西河祐信等顰にならひてこれを称せり、岩佐又    兵衛をその頃うき世又兵衛と称へたれば、菱河等も浮世絵師と称へんにはこともなかるべし(中略)    菱川師宣が絵行はれしことは〔続五元集〕などにも「菱川やうのあづまおもかげ」といふ句も有、また    其頃の草子〔女大名丹前能〕といふには、師宣がかける絵にけさうしたる男女のことを作れり。又〔色    芝居〕といふには、菱川は画図に妙あり、又人形を造るにも上手にて、役者の姿を手づからきざみ、舞    台衣裳そのまゝに彩色すといへり。されども彫刻はそのまゝに工人にさせしにもあるべし。    (中略)    江戸絵は菱川より起りて後鳥居庄兵衛清信と云者あり〟    〈『続五元集』は晋子(其角)著・宝暦三年(1753)刊。『女大名丹前能』西沢一鳳作・元禄十五年(1702)刊。『猿源氏     色芝居』は九思軒鱗長作・享保三年(1718)刊〉   ◇巻六下「児戯」下p137    〝菱川師宣出て人形の体りの絵を模せり〔誰袖海〕元禄といふ冊子に、菱氏が筆の品、面顔うつす姿絵の    どうもいはれぬ。いはじたゞ口なし色にそめなせる黄むく緋むくの衣裳人形、といへり〔以呂芝居〕    【正徳草子】といふ物に、菱川がことをいひて、人形を作るにも又上手にて、去かたより御望に役者共    の姿を手づから刻み、舞台衣装其儘に彩色さし上るといへるは非なるべし。上に引る冊子の趣をもて誤    りて手づから彫たりとする歟。衣裳は絹布にて作れる故に衣裳人形といふ。彩色にしたりとは奈良人形    のやうになるにや。望のもの有て作りし事あり共、そは必下絵をかき上彩色したるにて、彫刻は他人に    させたるにこそ〟    ☆ 天保三年(1832)    ◯『画乗要略』(白井華陽著・天保三年刊・『日本画論大観』中)   〝菱川師信(ママ) 通称は長兵衛。善く邦俗美人を写す、艶態柔情、一見して能く人心を動す〟    ☆ 天保四年(1833)  ◯『馬琴日記』第三巻 ③540「天保四年癸巳日記」十二月十日   〝山本宗慎より使札。先月頼置候瀬田問答写し出来、被差越之。且、菱川師宣遊女之像懸幅箱入一幅、代    二百疋のよし。真筆に候はゞ、かひ取申度よしにて、鑑定を乞はる。一覧の処、落款等宜見え候得ども、    卒爾ニ付、尚又、花山・文晁ニも見せ可然旨、申進ズ〟    〈菱川師宣「遊女之像」の掛け軸一幅。二百疋は二千文。約二分の一両。馬琴は真筆と見たようである。念のため渡辺     崋山と谷文晁にも鑑定してもらうよう薦めたのである〉  ◯『無名翁随筆』〔燕石〕③280(池田義信(渓斎英泉)著・天保四年成立)   〝菱川師宣【正保ノ生レ、慶安、承応、明暦、寛文、延宝、天和、貞享、元禄、宝永、正徳中歿ス、七十 余】    姓藤原、一説、日本絵師、菱川氏、俗称吉兵衛、後剃髪して友竹と云、安房国平群郡保田町の産也、    吉兵衛師宣は、若年の時より江戸に移り居して、縫箔師を業とす、後、画を(空白)門に学び、後一家    をなせり、浮世絵に妙手なり、亦、板下画を多くかけり、浮世板下画の始祖と云べし、後剃髪して友竹    と云、村松町二丁目に住す、【〔頭書〕土佐流と云は非なり、其画風に傚てかけり、東西の云の類なり】     傾城遊女をよく写せり、彫刻の画本多し、【浮世絵類考、山東庵追考也】       菱川師宣伝并系図    菱川吉兵衛師宣、剃髪して友竹と称す、初めは縫箔を以て業とし、上絵と云ものより画を書きならひて、    後一家をなせり、英一蝶と時を同じうすといへども、十年ばかり前立て世に行る、按るに、師宣は土佐    の画風を好んで、浮世又兵衛【岩佐氏】が筆意に傚て、一家をなせり、一蝶は狩野家の筆意を以て一家    を成せり、共に近世の名画なり、一蝶若かりし時、師宣が画風をしたひしことは、四季の画跋【一蝶の    部に出せり(省略)】と云ものに、岩佐、菱川が上にたゝん事を思ひて、みづからかけるを以て、証と    すべし、師宣もつぱら印本の板下と云物を画て、板刻の絵本甚多し、他国の人江戸絵と称して板刻の絵    を翫ぶは、此人に起れり、「みなし栗」に、      山城の吉弥むすびも松にこそ  其角      菱川やうの吾妻俤       嵐雪     みなし栗は天和三年の板なり、此比さかりに行たるを見るべし、
   「菱川氏系図」 菱川吉兵衛師宣入道友竹【浮世画ノ祖、始メ縫箔師、後、以画為一家、房州平群郡保田町ノ産、若年ノ    時、江戸ニ移リ居ス、正徳年中、江戸ニオイテ歿ス、享年七十余     居所ヲ考ルニ、貞享四年板江戸鹿子ニ、村松町二丁目、元禄二年板江戸図鑑及同五年板買物調方三合集    覧ニ、橘町トアリ、一説、堺町、横町、又大伝馬町二丁目ト云、是等転宅ノ処ナルベシ】〟
    〝房州保田村林海山別願院境内ニ在ル、  周廻七尺、厚二寸五分、     洪鐘一口 口二尺二寸五分          長サ三尺五寸、      寄進施主       菱川吉兵衛尉藤原師宣入道友竹、       元禄七甲戌歳五月吉日【鐫字如上、予打本一紙ヲ納ム】      以上、房州保田町医師渋谷元竜に問て、其実を記す、元竜は菱川の親族なり、【以上京伝類考追考】    杏花蔵浮世絵類考曰、菱川吉兵衛師宣、大和絵師、又日本画師とも称す、房州の人也、        絵本師宣筆      勇士ちから草 三冊 貞享二年板 【大伝馬三丁目鱗形屋開板】      和国百女   三冊 元禄八年板      やまとの大寄 一冊      画本大和墨  三冊      月次の遊び  二冊      恋のみなかみ 一冊       此頃の板刻数本あり  
      其外、天和、貞享の頃の板本多し、貞享四年の板江戸鹿子に    浮世絵師菱川吉兵衛【〔傍注〕イニ村松町二丁目】同吉左衛門    元禄二巳年板江戸図鑑    浮世絵師 【橘町】  菱川吉兵衛師宣    【同所】同吉左衛門師房 【長谷川町】古山太郎兵衛師重   【浅草】戸川伊左衛門俊之         【通油町】 杉村治兵衛正高    【橘町】菱川作之丞師永    天保四年板まくら大全に、菱川吉兵衛師宣とあり、    訓蒙図彙原板は、貞享三年吉田半兵衛画、再板は師宣画     ◯床談義、◯艶書軌範、◯旅葛籠、◯色双子、◯近世大よせ    共に師宣画なりと、しかるやいなや未見、    貞享、元禄の頃、板元江戸大伝馬町二丁目鱗形屋【吉左衛門弥兵衛】    今、馬喰町西村与八なり、  
   元禄五年板買物調方集覧【横切本一冊】     江戸浮世絵師菱川吉兵衛 同吉左衛門 同太郎兵衛    三馬曰、元禄十年板国花万葉記【七ノ下に】     大和絵師 【菱川吉兵衛 同作兵衛 同吉左衛門】村松町二丁目    如斯出たり、    按るに、伊沢長秀が俗説弁に、国史を引て、大和絵師は倭絵師と猥りに称すべからざることを述たり、     俗説弁に曰、俗間の画師、みだりに倭画師とかく者あり、倭画師は姓なり、     続日本紀に曰、霊亀元乙巳年、従六位下江見が姓を、更為倭画師、とあるをみるべし、みだりに書べ     からず〟    〈「国書基本DB」によると「天保四年板まくら大全」は艶本『まくら絵大全』(菱川師宣画天和二年刊)、「床談儀」     は艶本『床談義』(著者名・刊年とも記載なし)か。「艶書軌範」は艶本『艶色規範』(師宣画、刊年記載なし)か。     「旅葛籠」は艶本『旅葛籠』(師宣画、刊年記載なし)。「色双子」は絵本『色双子』(師宣画、刊年記載なし)     「近世大よせ」は艶本『近世大全』(師宣画、刊年記載なし)か〉    ☆ 天保八年(1837)    ◯『八十翁疇昔話』〔大成Ⅱ〕(財津種ソウ(艸冠+爽)・寛延年間記・天保八年刊)   ◇(若衆とやっこの図の模写)④145   〝菱川図縮写 醉画堂徳田慶壽筆〟    〈徳田慶壽の模写は刊年である天保八年のものか〉   ◇(笠の考証に模写)④149   〝菱川師宣図〟
  ◇(〝悪所通い〟の模写図か)④154   〝菱川氏図〟
  ◇(遊女の髪に香を焚きこむ図の模写)④163   〝箔衣裳    菱川氏図〟    ☆ 天保十年(1839)   ◯『吉原源氏五十四君』〔続燕石〕②313(柳亭種彦・天保十年春写)    (柳亭種彦の識語)     〝画人の名は載ざれども、師宣なるよし、談州楼の話也〟    〈『吉原源氏五十四君』は貞享四年、宝井其角の戯作。種彦はこの書を三十年前、談洲楼焉馬の許で一覧している〉  ◯『画証録』〔続燕石〕(喜多村信節著・天保十年序)   ◇「吉弥結び」の項 ①49   〝虚栗集に、かなはぬ恋を祈る清水、嵐雪、山城の吉弥結びに松もこそ、其角、菱川ようの吾嬬あおもか    げ、嵐雪〟    〈『虚栗』は天和三年刊。『日本随筆大成』第2期・巻4、p383 参照〉     ◇「芝居の構えよう」の項 ①49~50   〝貞享頃、菱川師宣がかける巻物絵の稿本あり。縮図にして下に出す(舞台・木戸口・堺町茶屋の縮図あ    り)〟    〈「日本随筆大成」第二期・巻四、p384参照〉   ◇「余情杖」の項 ①56 〝元禄八年刻 菱川師宣が百女の絵の中に出〟    ☆ 天保十二年(1841)    ◯『用捨箱』〔大成Ⅰ〕⑬152(柳亭種彦著・天保十二年刊)  (「高燈籠」の考証)(模写あり)   〝画本月並の遊び    此画本に元禄の年号あるは後に彫られしにて貞享元年に刻なるべし〟    ☆ 天保十三年(1842)以前  ◯『足薪翁記』〔大成Ⅱ〕⑭47(柳亭種彦著・天保十三年以前成立)   (「とりんばう」の考証)   〝「浮世続絵つくし」〔割註 天和四年印本、菱川画本〕〟 ◯『柳亭遺稿』〔続燕石〕③184(柳亭種彦・天保年間記)   〝「浮世続絵尽」【天和四年印本、菱川画】〟  ◯『柳亭筆記』〔大成Ⅱ〕(柳亭種彦著・成立年未詳)   ◇「涼船」の考証。④267   〝踊船の事種々〔大和続浮世絵〕〔割註〕天和四年子正月鱗形屋三右衛門板菱川画〟
  ◇「勝山」の考証。④301   〝〔菱川画本岩木づくし〕天和三年〟
  ◇「煙草の付ざし」の考証。④307   〝天和四年に刊行せし菱川師宣が絵本〔団扇絵づくし〕の頭書に(以下略)〟
  ◇「角兵衛獅子」の考証。④308   〝菱川師宣の画に鶏の頭をかぶり其他へ太鼓をかけしさまなんどは彼獅子にかはらざるあり〟
  ◇「女の覆面」の考証。④317   〝菱川画本十二月三月花見の画讃 ふくめんや花に忍ぶのおかただち 作者不知〟  ◯『柳亭筆記 脱漏』〔大成Ⅰ〕(柳亭種彦著・成立年未詳)   「手遊びくさ/\」の考証。④389   〝うかれん坊〔浮世続絵屋〕〔割註 天和四年印本、菱川画〕(以下略)〟  ◯『好色本目録』(柳亭種彦著 『新群書類従』巻七)   ◇「好色夢之助」の項 p163   〝好色夢之助 絵入 中本 紙数二十枚程あるを綴分けて上下とす 鱗形屋板夢之助といふ者、花より姫    を恋ひわび、末に夫婦となる物語なり。画風菱川に似たり、江戸作なるべし、己が見たる本は、年号を    削りたる跡のみあり、元禄年間の印本と思はる、作は今少し古かるべし〟   ◇「姥揃」の項 p163   〝姥揃 絵入五冊 序に東都愚民遊色軒とあり。    一人は傾城には真実なき者ゆゑ、廓へ立寄るまじといひ、一人は傾城にも誠あるものなりといふ両人の    問答なり。    菱川の絵を入れたる本あり。又た絵は摺る時除きて、筆耕を継合せたる本あり、原摺の年号ある本は、    序に嵐三右衛門、伊藤小太夫の噂あり、又巻中に沢田おきち、菱川等の名あれば、元禄年問の作なるこ    と疑ひなし、後に享保寅の春と入木したる本あり、また此冊子も何とやらん、外題を替へしと、蜀山の    『さゝちまき』にありしが、今抄録を失ひたり〟    〈『瑣々千巻』は、文化八年(1811)、大田南畝が慶長以降の稗史(小説)野乗(民間史書)等の古書に関する書誌や     考証を書き記したもの。(『大田南畝全集』第十巻所収)だがそこにはこの『姥揃』に関する記事は見えない。斎藤     月岑、天保十四年十月の注記「右一の巻ばかりにして末の巻なし」があるから、その時点ですでに二の巻の方は散逸     していたのであろう。なお「日本古典籍総合目録」に『姥揃』はない。ただ遊色軒作として『諸わけ姥桜』(元禄五     年(1692)刊)という書名が見え、その改題本に『傾城千尋之底』(寛延二年(1749)刊)があるとするのだが、この     『姥揃』との関連は判然としない〉   ◇「香のかほり」の項 p163   〝香のかほり 半紙形 三冊 元禄八年〈*1695〉 作者九思軒 画菱川なるべし。    紅梅之助といふ者、白菊といふ娘に馴染むる事を、和文やうに書きたり、考べきこと多くは見えず。柱    に(白)といふ字あり。按に例の外題直しにて、『白菊物がたり』といひがる歟〟   ◇「花の盃」の項 p171   〝花の盃 大本一冊     菱川風の画〟    ☆ 天保十四年(1843)    ◯『筠庭雑考』〔大成Ⅱ〕(喜多村筠庭著・天保十四年序)   ◇「大小十文字」の考証 ⑧132   〝菱川師宣画 元禄八年の画なれど、江戸にての当世やうにはあらず、上がたの男だてなり〟
  ◇「編み笠」の考証) ⑧143   〝天和貞享頃菱川師宣が画此体多し。一文字といふあみがさ是也。かぶりやうは伏せあみ笠なり〟
  ◇「笠」の考証 ⑧146   〝元禄 菱川吉兵衛絵本〟
  ◇「さゝら摺り」の考証 ⑧151   〝江戸雀 延宝五年 菱川師宣〟
  ◇「看板類」の考証 ⑧174   〝(金龍山米饅頭の看板図)天和の頃師宣筆〟
  ◇「雛の絵櫃」の考証 ⑧185   〝(雛の行器(ほかゐのルビ)の図)その図師宣がかけるもあり。又英一蝶がかきたるも見ゆ〟
  ◇「一服一銭下り出茶屋」の考証 ⑧195   〝菱川師宣図 堺町茶屋    貞享中に菱川がかける江戸堺町の図に水茶屋の女房茶をふる立つる処を写せり〟
  ◇「水船」の考証 ⑧198   〝師宣筆浅草寺本堂前に此図あり〟   〝延宝の頃菱川師宣がかける濃紛の絵巻物に、浅草寺の図もあり。本堂前に石の水船見えたり。是いはゆ    る船形の手水鉢なる事しるし。模して出て証とす〟    ☆ 弘化元年(天保十五年・1844)  ◯『増補浮世絵類考』(ケンブリッジ本)(斎藤月岑編・天保十五年序)   (( )は割註・〈 〉は書入れ・〔 〕は見せ消ち)   〝菱川師宣(正保の生れ、正徳中歿、七十余)     姓藤原(一説)日本絵師 菱川氏      俗称 吉兵衛 後剃髪して友竹〈いうちく〉と云      安房国平群郡保田町の産なり    アキ の門に入て学び、後一家をなれり、浮世絵に妙手也。亦板下画を多くかけり。浮世板下画の始祖と    云べし。後剃髪して友竹と云、村松町弐丁目に住す。    傾城遊女をよく写せり、彫刻の画本多し。  
      浮世絵類考ノ山東庵追考ニ云       菱川師宣伝并系図    菱川吉兵衛師宣剃髪して友竹と称す。はじめは縫箔を以て業とし、上絵と云ものより画を書きならひて、    後一家をなせり。英一蝶と時を同ふすといへども、〔一〕〈十〉年〈とせ〉ばかり前立て世に行る。按    るに、師宣は土佐の画風を好み、浮世又兵衛(岩佐氏)が筆意に傚て一家をなせり。一蝶は狩野家の筆    意を以て〈師宣が画風により時世の粧を画て〉一家をなせり。共に近世の名画なり。一蝶若かりし時、    師宣が画風を慕ひし事は、四季の画跋(一蝶の部に出せり)と云ものに、岩佐菱川が上にたゝん事を思    ひてと、みづからかけるを以て証とすべし。師宣みづから印本の板下と云物を画て、板刻の絵本甚多し。    他国の人江戸絵と称して板刻の絵を翫ぶは此人に起れり。みなし栗に、      山城の吉弥むすびも松にこそ  其角      菱川やうの吾妻俤       嵐雪     みなし栗は天和三年の板なり、此比さかりに行たるを見るべし、    欄外(延宝、造内裏に、菱川孫之丞か事あり)
   「菱川師宣系譜」 菱川吉兵衛師宣入道友竹 浮世画の始祖  房州平群郡保田町ノ産 若年ノ時江戸ニ移リ居ス 正徳年中江戸ニ歿ス、享年七十余 居所ヲ考ルニ     貞享四年板江戸鹿子ニ村松町二丁目 元禄二年板江戸図鑑及同五年板買物調方三合集覧ニ橘町トアリ  一説堺町横町 又大伝馬町二丁目ト云是等転宅ノ処ナルへシ〟      房州保田村林海山別願院境内に在る所 洪鐘 一口   周廻 七尺 厚二寸五分             口  二尺二寸五分             長サ 三尺五寸     〈鐫字如此       寄進施主      予打本一紙ヲオサム〉 菱川吉兵衛尉藤原師宣入道友竹                 元禄七甲戌歳五月吉日    以上房州保田町医師渋谷元竜に問て其実を記す、元竜は菱川の親族なり(以上京伝類考ノ追考)  
     杏花蔵浮世絵類考曰、菱川吉兵衛師宣大和絵師又日本画師とも称す、房州の人也。     和国百女   三冊(元禄八年板)     やまとの大寄 壱冊     月次の遊び  一冊(元禄四年)     恋のみなかみ 一冊     画本大和墨  三冊     絵本勇士ちから草 三冊(貞享二年板、大伝馬丁鱗形や也)     かくら大全  (天和四年板)     訓蒙図彙(再板は師宣の画、貞享三年の原板は吉田半兵衛画也)     大和名所絵尽 三冊     江戸雀   職人尽    欄外(床談〈タン〉儀、艶書葛籠、色双子、近世大全 共ニ師宣画ナリト云、然ルヤ否ヲシラズ)    〈『温知叢書』本には〝天和四年板まくら大全に、菱川吉兵衛とあり〟とある〉    其外、天和貞享の頃の板本多し、貞享四年の板江戸鹿子に          〈イニ村松町二丁目〉     浮世絵師 〈堺町横町〉 菱川吉兵衛                 同 吉佐衛門    元禄二巳年板江戸図鑑に     浮世絵師 (橘 町)  菱川吉兵衛師宣          (同 所)  同 吉左衛門師房  (長谷川町) 古山太郎兵衛師重  (浅 草)  石川伊左衛門俊之          (通油町)  杉村治兵衛正高          (橘 町)  菱川作之丞師永    元禄五年板買物調方三合集覧(横切本一冊)     江戸浮世絵師 菱川吉兵衛             同 吉左衛門             同 太郎兵衛    三馬曰、元禄十年板国花万葉記(七ノ下ニ)     大和絵師   菱川吉兵衛            同 作兵衛 村松町二丁目            同 吉左衛門      如斯出たり     按るに、伊沢長秀が俗説弁に曰、俗間の画師みだり倭画師とかく者あり。倭画師〈ヤマトヱシ〉は姓なり。   続日本紀に曰、霊亀元年乙巳従六位下江見忍勝が姓を更為倭画師とあるを見るべし、みだりに書べからず   とあり〟    ☆ 弘化三年(1846)  ◯「古今流行名人鏡」(番付 雪仙堂 弘化三年秋刊)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (西 最上段)   〝俳祖 享保 芭蕉翁桃青  画師 元禄 菱川師信(ママ)  博学 宝暦 福内鬼外(ほか略)〟  ☆ 弘化四年(1847) ◯『神代余波』〔燕石〕③129(斎藤彦麿著・弘化四年成立)   〝浮世絵師といふは、菱川師宣といふもさら也、其後、鳥居清長、勝川春章、また其門弟ども、今の世の    風俗、遊女、戯場の俳優、人相撲人など、その者の見るが如くよくかきたり〟    ☆ 嘉永二年(1849) ◯『京山高尾考』〔続燕石〕③52(山東京山著・嘉永二年二月廿五日成立)   (「高尾終焉の実証」の項、弘化三年八月記事)  〝観世音にまうで、帰路御蔵前を通りければ、地席に古籍をならべたる中に、高屏風くだ物語といふ古本    あり、めづらしき書名なれば、とりあげてひらきみれば、さしえは菱川師宣が筆と見え、遊女のさま天    和前後の物と見えければ、すぐさま価をとらせて持帰り、(以下、冒頭に万治三年の年記ありしこと、    中略)【中本、全部上下二巻、さしゑ七丁ヅヽ、惣紙数五十二丁、序文なし、作者の名なし、但し落丁    にあらず、うろこがたや板とありて、年月なし、一部すべてよし原の事のみにて、此書の作者、万治元    年より前後一両年、よし原の遊し事をしるしたる物なり】(以下、略)〟    ☆ 嘉永三・四年(1850~51)  ◯『古画備考』三十上「近世」中p1246(朝岡興禎編・嘉永四年四月二日起筆)
   「丹青競行司」(相撲見立て絵師番付)  ◯『古画備考』三十一「浮世絵師伝」(朝岡興禎編・嘉永三年四月十七日起筆)   ◇「前書き」中p1359   〝寛闊平家物語【宝永年板】ニ云、板行の浮世画を見るにつけても、むかしの庄五郎が流を、吉田半兵衛    学びながら、一流つゞまやかに書いだしければ、京大阪の草紙は半兵衛一人にさだまりぬ、江戸には、    菱川大和画師の開山とて、坂東坂西此ふたりの図を、写しけるに、近き頃鳥羽画といふ物、扇服紗には    やり出ぬるを見れば、貌形手足人間にあらず、化物尽しに似たり、宗達流又をかし、これらは皆一流を    建立せし、巧妙手にして、気を加へたる、いたり詮義なるべし〟    〈国文学研究資料館の「日本古典籍総合目録」は『寛濶平家物語』の刊行を宝永七年(1710)とする〉   ◇「前書き」中p1362   〝骨董集云、板行の一枚絵は、延宝天和の頃始まれるか、朝比奈と鬼の首引、土佐坊浄瑠璃の画、鼠の嫁    入の画の類也。芝居の画は、坊主小兵衛をゑがけるなど、其始なるべし。当時は、丹、緑青などにて、    まだらに彩色したり、菱川師宣、古山師重等、これを画けり〟   ◇「前書き」中p1364   〝風流鏡が池【宝永六年正月板】(中略)近代大和画の開山、菱川と云し名人、書出したるうつし姿、な    りからふりから、去とては妙なりし筆のあや(中略)今の鳥井、奥村などが、后、官女、むすめ、遊女    の品を書わけて、太夫、格子、それより下つかた、その風俗をうつし書はさりとは画とは思はれず、生    たる人の如くなりそを(中略)さて菱川が画の風は、其姿しつかりとかたく書て、ぬれたる色すくなく、    おもざしいづれもけんして、目もとにいろなし、只筆勢を第一に書しゆゑにしやんと見えて、ぼっとり    とせし風流すくなしと(下略)〟
   『古画備考』「前書き」   ◇中p1368   〝菱川師宣 称吉兵衛、晩年号友竹、房州小湊人、江戸に寓居す、画を以て活業とす、時世粧及び春画に    工也、其画風洒落にして、其品尤高し、逸人画史    〔頭注〝師宣家世縫箔ヲ業トス、師宣弱冠江戸ニ来リ、画ヲ学ビ一家ヲナシ、菱川流の祖トナル、元禄     七年ニ没ス、年七十歳〕    師宣大和画師又は日本絵師とも称す、房州の人なり、和国百女【三冊、元禄八年板】月次の遊び【一冊、    元禄四年板】やまとの大寄【一冊】恋のみなかみ【一冊】、其外天和貞享の頃、板本多し【類考】    師宣専ら印本の板下といふものを画く、板刻の絵本甚多し、他国の人、江戸画と称して板刻の画を玩ぶ    は、此人におこれり、みなし栗に、山城の吉弥むすびも松にこそ 其角 菱川やうの吾妻俤 嵐雪 み    なし栗は天和三年の板なり、此頃さかりに、行はれたるを見るべし    師信、一作師直、称長兵衛、京師人、士女春画の図に其名あり、後世称菱川流【書画一覧、按此伝甚杜撰ナ    リ】    [署名]「日本絵師菱川師宣」[印章]「菱川」(朱文八角印)    [印章]「刻字未詳」(方印)「菱川」(朱文八角印)【五ッ衣、右ノ肩ヲ脱ギ、手ニ小冊ヲ持ヒラク、                              婦人大図】    (補)[署名]「日本絵菱川師宣図」[印章]「菱川」(朱文八角印)「師宣」(印章名未詳)    (補)[署名]「日本絵菱川師宣図」[印章]「菱川」(白文瓢箪印)「師宣」(同上)
   貞享四年板、江戸鹿子ニ、浮世絵師           菱川 吉兵衛                          堺町横町 同  吉左衛門    元禄二巳年板ノ江戸図鑑ニ、浮世絵師     橘町   菱川 吉兵衛師宣                          橘町   菱川吉左衛門師房                          長谷川町 古山太郎兵衛師重                          浅草   石川伊左衛門俊之                      塩町(イ通油町) 杉村 治兵衛正高                      橘町(イ桶町)  菱川 作之丞師永(イ長)   ◇「菱川師宣系譜」より p1371   〝浮世画初祖    師宣【吉兵衛入道友竹、生於房州平群保田町、始縫箔師、後以画一家、若年ノ時ニ移居ス、正徳年中、       於江戸没、享年七十余】    成徳曰、此書ニ師宣正徳中ニ没ストアルハ誤ニシテ、元禄七年ニ終リシ事、姿絵百人一首ト云ル本ニ明    カナリ、其序ニ云、     小倉色紙の後をしのびて、様々の像讃名筆をふるひ【中略】風狂したる形をうつして、彼立圃が、休     息歌仙のすさみをしのび【中略】かの菱川が、古人に成し記念なれば【下略】同跋云、名を広うし、     道をたつるは、いづれにかはる所なきにや、爰に菱川氏師宣は、自然と画図に奇を顕はして、世に鳴     事を得たる歟、此道すける人の為に【中略】百画に残して、続子師房家に伝へつ、然るに、予多年を     ちなみ、月久して乞求、梓に鏤めて、世上の目を悦ばしむるのみ、元禄八暦乙亥四月吉辰、大伝馬町     三丁目、木下甚右衛門 板
   菱川師宣墓ハ、小梅常泉寺ニアリ、俳人シンジユ見付シ由、此人元来磁器ノヤキツギヲ業トシテ、母ヲ    孝養セシ由、俳人ノ鬼簿ヲ撰ミ、甚其伝ニ委シキ由、棭斎モ親シクセシ由、文政七、十一、廿、聞、    寛文十二年板、武家百人一首、画菱川吉兵衛、歌東月南周筆
   師宣ノ血脈、六代目ニ至テ絶ユ、今養子ヲ以テ家ヲ続、房州保田町ニアリ、是七代目也、女子他家ニ嫁    テ、生メル血脈ノ者、今ニ同所ノ他家ニアリト也
    洪鐘一口            房州保田町、林海山別願院境内ニアリ、     寄進施主             周囲七尺、厚二寸五分      菱川吉兵衛尉           広 二尺二寸五分、長 三尺五寸     藤原師宣入道友竹          鐫字如斯       元禄七甲戌歳 正月吉日     右房州保田町、医師渋谷元瀧ニ問テ、其実ヲ記ス、元瀧ハ菱川ガ親族也、     天保六年二月廿二日、写山話、房州太平寺ノ鐘ト云、同歟、別歟
     (美人画の模写あり、その解説に)     絹小立  菱川風、襟、白(一)朱(二)墨(三) 一面波浪、裾の方浅黄、菊色          師宣ト申テ可然、著物裏朱、帯緑青の上金七宝
   「菱川師宣系譜」      〈「成徳」および「坦」は『皇朝名画拾彙』(文政二年(1819)刊)の檜山義慎、成徳、坦斎とも称した〉    ☆ 嘉永五年(1852)以降  ◯『高尾追々考』〔鼠璞〕上48(著者未詳・嘉永五年以降)   (「道哲寂日の不審考」の項)   〝道哲は、寛文、延宝、天和はさら也。元禄の末迄ながらへし者なる事を思ふべし。さらばかの延宝六年    の菱川が筆に見えたる者、及天和の画巻なるものは、存生中の肖像なりけり〟    〈「延宝六年の菱川が筆」とは『吉原恋の道引』のことか。「天和の画巻」は未詳〉     ◯『畸人百人一首』緑亭川柳著・嘉永五年刊〔目録DB 同志社〕32/67コマ   〝菱川師宣は上総より出て 江戸神田にて縫箔師となり 画に妙を得 下画(したゑ)を求る者多く 菱川    一流のゑ専(ら)流行す 慶安より貞享に至る 老後入道して友竹(いうちう(ママ))といひ 故郷上総保多    (ほた)村へ隠居す 故に彼国に遺物のこれり 林梅山別願院に寄附の洪鐘一口 周七尺 口広さ二尺一    寸五分 長さ三尺五寸 厚サ二寸五分 菱川吉兵衛尉師宣入道友竹(ゆうちく)寄進とあり 其外近村に    画は残り有よし ある人教へになるべき画賛を乞ければ 払子を画てその賛に    「人よき家に住(すま)んことをほつす 甲に似せて穴ほる事を悟れ 身によき衣(きぬ)を着んことを     ほつす 寒(さ)を防げばたること悟れ 色欲心の侭ならん事をほつす 身の養生をさとれ 此悟り     なき者は人の物を取(ら)んことをほつす」    とかきて与へけり 此うたは国へ退き閑居の時よめり     菱川師宣 (肖像)      先立し故郷(ふるさと)人にくらべてもおとらじと思ふ老の数かな〟  ☆ 嘉永六年(1853)    ◯『傍廂』〔大成Ⅲ〕(斎藤彦麿著・嘉永六年)   ◇「似顔絵」の項 ①36   〝似顔絵は、いと古きよりあり。文徳実録に(中略)。源氏物語末摘花巻に(中略)。後世にいたりて、    菱川師宣、西川祐信など名人なり。其のち勝川春章、鳥居清長、また近来歌麿、豊国などもよくかけり〟    身すぼらしく見ゆるがはやりものなり〟       ◇「俗画」の項 ①99   〝むかしは西川祐信、菱川師宣ともに、一家を起したり。其後は鳥居清長、勝川春章、これら我若かりし    頃世に鳴りたり。又其後は歌麿、豊国ともに用ひられたり。それより国の字を名のる者あまたになりて    いと多くなりたり。これらの俗画をうき世絵師といへるは、いかなる故ならん。時世絵師とこそいふべ    けれ。何も憂事の故もなくては、うき世とはいふべからず〟    ☆ 嘉永七年(1854)  ◯『扶桑名画伝』写本 堀直格著 嘉永七年序   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇菱川師宣([30]巻十之四 雑家 29/109コマ)   〝師宣    姓は藤原菱川氏 名は師宣【或は師信また師直につくる】法名友竹 通称吉兵衛【或は長兵衛に作る】    道茂入道光竹の男 房州の産【或は京師の人とす】江戸に住す 仕女春宮等の彩画に名を得しとぞ 菱    川流と称して一家をなせり 正徳年中死す 年七十余    「増補近世逸人画史」巻之上云 菱川師信(ママ)通称長兵衛 一ニ師直ニ作ル 晩年友竹ト号ス 京師ノ     人又房州小港ノ人トモ江都ニ寓居ス 画ヲ以活業トス 仕女或ハ春宮ノ図 又時世粧及ビ春画ニ名ヲ     得 世ニ菱川流ト称ス 一家トス 其画風 洒落ニシテ其品最モ高シ 同時ニ宮川長春ナル者アリ      時世粧ヲ専ラ画ク 其品及バズ〟    (以下『画乗要略』『浮世絵類考』『浮世絵類考追考』『本朝古今書画便覧』記事 収録済み 省略)  ☆ 嘉永年間(1848~1853)  ◯『画家大系図』(西村兼文編・嘉永年間以降未定稿・坂崎坦著『日本画論大観』所収)
   「菱川氏系図」    ☆ 安政二年(1855)  ◯『古今墨蹟鑒定便覧』「画家之部」〔人名録〕④212(川喜多真一郎編・安政二年春刊)   〝菱川師宣 通称長兵衛、?邦俗ノ美人ヲ写ス、艶容一見シテ実ニ人心ヲ動ス〟    ☆ 安政三年(1856)    ◯『戯作六家撰』〔燕石〕②65(岩本活東子編・安政三年成立)   (「山東京伝」の項、「不破名古屋伝奇考」)   〝貞享二年の印本に、菱川師宣の筆の絵草紙二冊あり、名古屋山三郎絵尽と号す、    (以下、延宝八年、不破伴左衛門と名古屋山三郎の芝居についての記事あり、略)〟    〈「名古屋山三郎絵尽」は「国書基本DB」では『名古屋絵尽』〉    ☆ 文久二年(1862)  ◯『本朝古今新増書画便覧』「シ部」〔人名録〕④360(河津山白原他編・文化十五年原刻、文久二年増補)   〝師信(ママ)【一ツニ師直(ママ)ニ作ル、菱川氏、通称長兵衛、京師ノ人、仕女春宮ノ図ヲ画クニ名ヲ得、世    ニ菱川流ト称ス】〟    ◯『宮川舎漫筆』〔大成Ⅰ〕⑯318(宮川政運著・柳川重信画・文久二年刊)   (「東錦絵はじまり」の項)   〝愛閑楼雑記といへる写本にいふ、江戸絵と称して、印板の絵を賞翫する事、師宣【菱川】をはじめとす、    印板の一枚絵は古く有りしものなれども、彩色したるはなく、貞享の頃より漸く彩どりたるもの出来し    を、明和のはじめ、鈴木春信はじめて、色摺の錦絵といふものを工夫してより、今益々壮んに行はる〟    ☆ 慶応元年(元治二年・1865)  ◯『俗事百工起源』〔未刊随筆〕②93(宮川政運著・元治二年記事)   (「江戸錦絵の始」の項)   〝愛閑楼雑記に云ふ【星野周庵といへる医師の筆記なり】江戸絵と称して印板の一枚絵は古く有しものな    れども、彩色したるはなく、貞享の頃より漸く彩どりたるもの出来しを、明和の始、鈴木春信始て色ず    りの錦絵と云ふものを工夫してより今益々盛んに行はる、江戸の名物とはなりぬ、他邦の及ぶ処に非ざ    れども、春信生涯、歌舞伎役者を画かずと云々    右明和元年より当丑年迄百二年と成、又菱川師宣が画し貞享なれば、元年より当丑年迄百八十二年と成〟    〈「江戸絵」の起源を菱川師宣に求め、「錦絵」の起源を春信に求める見解である。この『俗事百工起源』には他に     「似顔画のはじまり」はあるが、「浮世絵のはじまり」なるものはない〉  ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(出典は本HP Top特集の「川柳・雑俳上の浮世絵」参照)   1 色好めとや菱川が筆      「あるが中」元禄6 【雑】     〈菱川絵は色好みになれと勧めているのではないかと〉   2 此やうに・菱川が絵の生ほしや 「塗笠」  元禄10【雑】   3 からぞめき・菱川が絵を見る清僧「大花笠」 享保中【雑】注「春画」     〈品行方正な僧たちに師宣画を見せたらさぞ大騒ぎになるだろうといううがち〉   4 菱川西川湯具のさらし場    「ちへ袋」 寛政8【雑】注「師宣に初る浮世絵」     〈師宣や祐信の春画はまるで腰巻きの曝し場のようだと〉  ☆ 成立年未詳 ◯『於路加於比』〔新燕石〕①289(柳亭種秀著・成立年未詳)   〝虎が石    菱川吉兵衛がゑがきたる「東海道分間絵図」【元禄三年刊行】大磯の所には、じふくじ、虎が石、此寺 にあり、と記せり〟 ◯『花街漫録正誤』〔新燕石〕④189(喜多村筠庭著・成立年未詳)   〝薄雲は高尾につゞきたる太夫にて、世にその名も聞えし、三浦屋四郎左衛門抱の遊女也、このうつし絵 は、菱川師宣が筆にて、誰姿とも極がたけれど、師信常にいへらく、遊女の絵は高尾、薄雲になどにか ぎりて、ほか/\の遊女はおのれ画かずといひふらしたるとぞ、さるよしをもて考ふれば、薄雲にやと もいふべきか、 〔正誤〕此菱川ノ印アルハ贋作也、但シ、此画ヲカキタル者、菱川ヲニセタルニハ非ズ、画風大ニ異ナレ バ也、菱川ノ印は、後ノ人弁ヘ無者ノ所為ニシテ、此草紙ノ作者欺又ハ此作者ノ所為カ、ハカリ難シ、    菱川ハ高名ニテ、シカモ其真蹟又板本ハコトニ多ク、其ノ風雅モ知ルベキニ、是ヲ縮図シタル画カキノ    タハケガ、是ヲモシラヌハ、職分ニ恥ヅベキ事ナリ、ソノウヘ、此画ハ遊女ノ体ニアラズ、武家風ノ髪    ノ結ヤウ也、又師宣ガ高尾薄雲ノ外ハ、画カズト云タリシ事ハ、余ハ未ダ聞ザル事也、菱川ガ画キタル、    何ゾソレニカギランヤ、傾城ハオロカ夜タカ迄モ画キタリ、作者ノ馬鹿メ、ミダリニ口ヲキクガオカシ〟  ◯「本朝近世画工鑑」(番付 刊年未詳)〔番付集成 上〕   (世話人)   〝享保 西川祐信 同  菱川師宣  寛文 懐月堂  享保 宮川長春    享和 竹原信繁 天保 長谷川雪旦〟  ◯「【中興/近代】流行名人鏡」(番付 一夢庵小蝶筆 板元未詳 刊年未詳)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   (上段 西)   〝絵師 元禄 菱川師信(ママ)  儒学 宝暦 福内鬼外〟〈平賀源内の浄瑠璃作者名〉  ◯「今昔名家奇人競」(番付 快楽堂 刊年未詳)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝歌林文苑    浮世画 菱川師信(ママ)/大津絵 浮世又平〟  ☆ 明治以前  ◯「川柳・雑俳上の浮世絵」(【雑】は『雑俳語辞典』鈴木勝忠編・注は編者の注)   1 色好めとや菱川が筆       「あるが中」元禄6【雑】   2 此やうに・菱川が絵の生ほしや  「塗笠」  元禄10【雑】   3 からぞめき・菱川が絵を見る清僧 「大花笠」 享保中【雑】(春画)   4 菱川西川湯具のさらし場     「ちへ袋」 寛政8【雑】(師宣に初る浮世絵)     〈1 菱川絵は色好みになれと勧めているのではないかと      2 菱川の絵が本当に欲しいというのだが、句意は不明      3 品行方正な僧たちに師宣画を見せたらさぞ大騒ぎになるだろうといううがち      4 師宣や祐信の春画はまるで腰巻きの曝し場のようだと〉    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)  ◯『新増補浮世絵類考』〔大成Ⅱ〕⑪180(竜田舎秋錦編・慶応四年成立)
   (「菱川氏系譜」)
   「菱川師宣系譜」  〝菱川吉兵衛師宣剃髪して友竹と号す。房州平群郡保田町の産、若年の時江戸に移り居す。始めは縫箔を    以て業とし、上絵と云ものより画を書きならひて後一家をなせり。英一蝶と時を同ふすといへども、十    とせばかり前立て世に行る。按るに、師宣は土佐流の画風を好み。浮世又兵衛の筆意を傚て一家をなせ    り。一蝶は狩野家の筆意を学び、師宣の画風によりて時世の粧を画て一家をなせり。共に近世の名画な    り。一蝶若かりし時師宣の画風を慕ひし事、四季の画跋〔割注 一蝶の部に出せり〕と云ものに、岩佐    菱川が上にたゝん事を思ひてと自ら書けるを以て証とすべし。師宣自ら印本の板下と云物を画て板刻の    絵本甚多し。他国の人江戸絵と称して、板刻の絵を翫ぶは此人に起れり。みなし栗に      山城の吉弥むすびも松にこそ  其角 菱川やうの吾妻俤       嵐雪    みなし栗は天和三年板なり。此頃さかりに行れたるを見るべし。居処を考るに、貞享四年板江戸鹿子に    村松町二丁目元禄二年板江戸図鑑及同五年板買物調方三合収覧に橘町とあり。一説堺町横町、又大伝馬    町二丁目と云。是等転宅の処なるべし。     房州保田村林海山別願院境内に在る所        周回七尺厚二寸五分  寄進施主     洪鐘一口 口弐尺二寸五分 鐫字如此 菱川吉兵衛尉藤原師宣入道友竹          長サ三尺五寸        元禄七甲戌年五月吉日    和国百女〔割注 三冊元禄八年板〕 大和の大寄 壱冊  月次遊ぎ〔割注 一冊元禄四年板〕    恋のみなかみ 壱冊  画本大和墨 三冊  絵本勇士力艸 貞享二年板    香貝大全 天和四年板 倭名所絵尽 三冊  訓蒙図彙〔割注 再板師宣画、貞享原板は吉田半兵衛画〕    江戸雀  ◯床礼儀  艶書規範  旅葛籠  色双子  近世大全 以上五部共師宣画なりと云。然るや否やしらず。    其外天和、貞享の頃の板本多し。    貞享四年の江戸鹿子に、 浮世絵師  村松町二丁目菱川吉兵衛  堺町横町同吉衛門 元禄二年板江戸図鑑綱目に     浮世絵師  橘町菱川吉兵衛師宣  同吉左衛門師房    長谷川町古山太郎兵衛師重       浅草石川伊左衛門俊之 通油町杉村次兵衛正高 橘町菱川作之丞師永    元禄五年板買物調方三合集覧横切本一冊     江戸浮世絵師  菱川吉兵衛  同吉左衛門  同太郎兵衛    元禄十年板国家万葉記 七ノ下二     菱川吉兵衛、同作之丞、同吉左衛門、村松町二丁目     按るに、井沢幡竜長秀の俗説弁に国史を引て、大和画師は倭画師にて、みだりに称すべからずと述た     り。俗説弁に云、画師みだりに倭画師とかく者あり。画師忍(オシ)勝姓を改て為倭画師とあるをみるべ     し〟    ☆ 明治十三年(1881)    ◯「観古美術会」(第一回 4月1日~5月30日 上野公園)   1『観古美術会出品目録』第1-9号 竜池会編 有隣堂 明治14年刊(国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第二号(明治十三年四月序)   〝菱川師宣 画巻    一巻(出品者)松沢千歳門〟   ◇第四号(明治十三年四月序)    菱川師宣 看花之図  二巻(出品者)青木信寅   ◇第八号(明治十三年五月序)    菱川師宣 扇面舗之図 一幅(出品者)矢代於菟   2『観古美術会聚英』博物局 明治13年刊(国立国会図書館デジタルコレクション)   〝菱川師宣筆 看花之図画巻 青木信寅蔵     一巻 絹本 著色     評ニ曰ク、著色鮮麗ニシテ、能ク其人物ノ艶態ヲ描ク、実ニ当時ノ風俗ヲ見ルニ足レリ〟     〈『観古美術会出品目録』第4号「看花之図 菱川師宣筆 二巻(出品者)青木信寅」〉   〝菱川師宣筆 劇場遊里之図画巻 松沢千歳門蔵     一巻 絹本 著色     評ニ曰ク、毎段筆意ヲ異ニシテ、能ク青楼劇場ノ情態を写シ、精密實ニ入ル尤モ奇ナリ〟     〈『観古美術会出品目録』第2号「画巻 菱川師宣筆 一巻(出品者)松沢千歳門」〉  ☆ 明治十四年(1881)  ◯『第二回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治14年刊)   (第二回 観古美術会 5月1日~6月30日 浅草海禅寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十四年五月序)   〝菱川師宣 劇場遊郭図 一巻(出品者)宮内省〟   ◇第二号(明治十四年五月序)   〝菱川師宣 遊女図 一幅(出品者)杉山雞児〟   ◇第三号(明治十四年五月序)   〝菱川師宣 遊郭図 一幅(出品者)関根七兵衛〟  ◯『明治十四年八月 博物館列品目録 芸術部』(内務省博物局 明治十五年刊)    (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第四区 舶載品(18コマ/71)    菱川師宣画 遊女図 一幅〟  ☆ 明治十五年(1882)  ◯『第三回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治15年4月序)   (第三回 観古美術会 4月1日~5月31日 浅草本願寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十五年四月)    菱川師宣 遊女図    一幅(田沢静雲献品)         遊女図    一幅(出品者)中村弥輔         夫人采蓮花図 一幅(出品者)武川荷汀         遊女図    一幅(出品者)山口市太郎〟   ◇第二号(明治十五年四月序)   〝菱川師宣 遊女図   一幅(出品者)清水晴風         美人逍遥図 一幅(出品者)関根七兵衛         遊女図   一幅(出品者)野村高明         遊女図   一幅(出品者)磯部太郎兵衛〟   ◇第三号(明治十五年四月序)   〝菱川師宣 師宣画系図蜀山人書 一巻(出品者)桑山圭叟       佐々木盛綱図    一幅(出品者)河鍋暁斎〟  ◯『内国絵画共進会 古画出品目録』(農商務省版・明治十五年刊)   (内国絵画共進会(第一回)10月1日~11月20日 上野公園)    (国立国会図書館デジタルコレクション)    菱川師宣筆      美人之図 一幅(出品者)博物局     萬歳   一幅(出品者)内藤弥三郎     古代倡婦 一幅(出品者)松浦詮      同書(新増浮世絵類考)云、菱川吉兵衛師宣、剃髪シテ友竹ト称ス。房州平群郡保田町ノ産、若年ノ      時江戸ニ移リ居ス、初メハ縫箔ヲ以テ業トシ、上絵ト云フ者ヨリ画ヲ書キ習ヒテ後一家ヲ為シ、英      一蝶ト時ヲ同フスト雖モ、十歳バカリ先立テ世ニ行ハル〟  ☆ 明治十六年(1883)  ◯『明治画家略伝』(渡辺祥霞編 美術新報鴻盟社 明治十六年十一月版権免許)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝祖宗略象 第四区 菱川・宮川派之類    菱川師宣     名ハ吉兵衛友竹ト号ス、上総ノ人縫箔及染布ヲ業トス、江戸ニ来リ土佐画ヲ学ビ、後一家     ヲ成ス、正徳中ニ死ス、年七十余、東錦絵ノ祖ナリ〟    ☆ 明治十七年(1884)  ◯「第二回 内国絵画共進会」(4月11日~5月30日 上野公園)   1『第二回絵画共進会古画出品目録』(農商務省版・明治17年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝菱川師宣 納涼 一幅(出品者)蘆田順三郎〟   2『(第二回)内国絵画共進会会場独案内』(村上奉一編 明治十七年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝菱川師宣 通称長兵衛ト云フ。菱川派ノ祖ニシテ元禄年ノ人ナリ〟    〈通称の長兵衛は何に拠るのであろうか〉  ◯『第五回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治17年刊)   (第五回 観古美術会 11月1日~11月21日 日比谷門内神宮教院)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第一号(明治十七年十一月序)   〝菱川師宣 美少年図 一幅(出品者)神田孝平〟  ◯『扶桑画人伝』巻之四(古筆了仲編 阪昌員・明治十七年八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝師宣    菱川氏、名ハ師宣、友竹ト号ス、通称吉兵衛ト云フ、房州保田町在ニテ、菱川吉左衛門道茂入道光竹ノ    男ナリ、世々縫箔師ヲ業トス。若年ノ頃江戸ニ移住ス。初メ縫箔ノ上絵ノ画ヨリ始リテ、土佐ノ画風ヲ    好ミ、又岩佐又兵衛ノ図、遊戯ヲ写スニ妙ナリ。又兵衛ニ続キテ日本絵ノ名手ナリ。因画名ニモ日本絵    菱川師宣ト記ス。然リトイヘドモ此ノ際ニ当リテ、狩野常信、英一蝶ナド世ニ盛ナリ、自ラ狩野ノ筆意    アリテ、狩野流ト謂テ可ナランカ、画ヲ観ルモノソレ是レヲタヾセ。明治十六年迄凡二百二年。       現今遺蹟著名之品     一 花見之図    一 演劇之図     一 花街之図    一 四季遊山之図     一 船遊之図    一 春宵秘戯之図    右ハ屏風巻物掛物等ニアリ。又板本ノ雑画数巻ヲ著ス。共に人口ニ膾炙スル所ナリ〟  ☆ 明治十八年(1885)  ◯『第六回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治18年刊)   (第六回 観古美術会 10月1日~10月23日 築地本願寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第二号(明治十八年十月序)   〝菱川師宣 観花図 一幅(出品者)松浦詮〟   ◇第三号(明治十八年十月序)   〝菱川師宣 美人図 一幅(出品者)九鬼隆義〟  ☆ 明治十九年(1886)  ◯『第七回観古美術会出品目録』(竜池会編 有隣堂 明治19年刊)   (第七回 観古美術会 5月1日~5月31日 築地本願寺)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇第三号(明治十九年五月序)   〝菱川師宣 十二ヶ月遊戯 一巻(出品者)小松彰〟  ☆ 明治二十一年(1888)  ◯『古今名家書画景況一覧』番付 大阪(広瀬藤助編 真部武助出版 明治二十一年一月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループを代表する絵師。◎は判読できなかった文字   (番付冒頭に「無論時代 不判優劣」とあり)   〝大日本絵師     (西川祐信)勝川春章 菱川師房  西村重長 鈴木春信  勝川春好 竹原春朝 菱川友房 古山師重     宮川春水 勝川薪水 石川豊信  窪俊満    (葛飾北斎 川枝豊信 角田国貞  歌川豊広 五渡亭国政 菱川師永 古山師政 倉橋豊国 北川歌麿     勝川春水 宮川長春 磯田湖龍斎 富川房信    (菱川師宣)〟  ◯『明治廿一年美術展覧会出品目録』1-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治21年4~6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 4月10日~5月31日 上野公園列品館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「古製品 第一~四号」   〝菱川師宣 画扇 遊女 一本(出品者)林次郎八〟    ☆ 明治二十二年(1889)   ◯『古今名家新撰書画一覧』番付 大阪(吉川重俊編集・出版 明治二十二年二月刊)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   ※( )はグループの左右筆頭   〝日本絵師    (葛飾北斎)西川祐信 勝川春章 菱川師房 西村重長 鈴木春信 川枝豊信  角田国貞 勝川春好     竹原春朝 歌川豊広 倉橋豊国 石川豊信 勝川薪水 古山師重 五渡亭国政 菱川師永(菱川師宣)〟  ◯『明治廿二年美術展覧会出品目録』1-6号 追加(松井忠兵衛編 明治22年4・5月刊)   (日本美術協会美術展覧会 4月1日~5月15日 上野公園桜ヶ岡)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝菱川師宣 浮世人物 一巻(出品者)博物局〟  ◯『明治廿二年臨時美術展覧会出品目録』1-2号(松井忠兵衛・志村政則編 明治22年11月刊)   (日本美術協会美術展覧会 11月3日~ 日本美術協会)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝菱川師宣 花鳥絵巻物 一幅(出品者)斎藤穆〟  ◯『近古浮世絵師小伝便覧』(谷口正太郎著・明治二十二年刊)   〝元禄 菱川師宣    通称吉兵衛、房州の人、始め縫箔の上絵を画き、後又兵衛の筆意に倣て遂に一家をなす。名声、時に聞    へ、世に是を菱川風と称す〟  ☆ 明治二十三年(1890)    ◯『明治廿三年美術展覧会出品目録』3-5号(松井忠兵衛・志村政則編 明治23年4-6月刊)   (日本美術協会美術展覧会 3月25日~5月31日 日本美術協会)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝菱川師宣 十二ヶ月画 絹本 二巻(出品者)小松精一〟  ◯「【新撰古今】書画家競」(奈良嘉十郎編 天真堂 江川仙太郎 明治23年6月刊)    (『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊)
   浮世絵師 歴代大家番付〝浮世派諸大家 元禄 菱川 師宣〟  ☆ 明治二十四年(1891)  ◯『古今博識一覧』番付 大坂(樋口正三朗編集・出版 明治二十四年六月)   (東京文化財研究所・明治大正期書画家番付データベース)   〝日本画人名一覧系譜及略小伝     寛永 京都 岩佐又兵衛 (小伝不鮮明)     享保 大津 又平    (小伝不鮮明)     元禄 東京 菱川師宣  (小伝不鮮明)     享保 東京 宮川長春  (小伝不鮮明)    ◯『近世画史』巻二(細川潤次郎著・出版 明治二十四年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (原文は返り点のみの漢文。書き下し文は本HPのもの。(文字)は本HPの訓みや意味)   〝菱川師宣 師房 師永 政信 友房 古山師重 師政    菱川師宣、宣、一は信に作る。友竹と号す。吉兵衛と称す。一つは長兵衛と曰ふ。房州小湊の人なり。    江都に移居して、家世刺繍を業とす。因りて画を学ぶ。土佐氏に傚ひ、叉岩佐又兵衛風を喜(この)み、    風俗を描写して遂に一家を成す。自称して日本絵師と曰ふ。日本絵の一派此より始めて盛んになる。元    禄八年没。    長子師房、父に画を学び、後ち染坊と為る。次子師永、亦た父に学び、設色に工(たくみ)なり。    其の門人に菱川政信・菱川友房有り。而して古山師重尤も著(あら)はる。師重の子師政、又其の風に傚    ふ。然れども菱川氏の画風、此に至りて衰ふ〟  ☆ 明治二十五年(1892)  ◯『日本美術画家人名詳伝』下p504(樋口文山編・赤志忠雅堂・明治二十五年刊)   〝菱川師宣    大和絵ノ名手ナリ、友竹ト号ス、通称ハ吉兵衛、房州保田町在ノ人、菱川吉左衛門ノ男ナリ、世々縫箔    師ヲ業トス、若年ノ頃江戸ニ移住ス、初メ縫箔ノ上絵ノ画ヨリ始メテ、土佐ノ画風ヲ好ミ、又岩佐又兵    衛ノ図ヲ慕ヒ、又兵衛ニ続キテ絵ノ巧手ト称セラル、因テ画名ニ日本画菱川師宣ト記ス、或ハ謂フ、当    時狩野常信・英一蝶等世ニ盛ンナリシカバ、師宣モ之ニ薫染シタルト見ユ、自ラ狩野派ノ筆意アリト、    正徳年間歿ス、年七十、現今遺蹟著名ノ品ハ花見ノ図、演劇図、花街之図、四季遊山ノ図、舩遊ノズ、    春宵秘戯ノズ【以上ハ屏風巻物掛物等ニアリ】又板木ノ雑書数巻トス、英一蝶ガ四季絵跋ニ房州ノ菱川    師宣トイフ者江府ニ出テ梓ニヲコシ、コゾツテ風流ノ目ヲ悦バシム、此道予ガ学ブ所ニアラズト雖モ、    若カリシトキ云々、岩佐菱川ガ上ニタヽンコトヲ思ヒテ、ハシナキ浮名ノネザシ残リテハヅカシノ森ノ    シゲキコトグサトモナレリト(嬉遊笑覧・画乗要略・鑑定便覧)〟  ☆ 明治二十六年(1893)  ◯『明治廿六年秋季美術展覧会出品目録』上下(志村政則編 明治26年10月刊)   (日本美術協会美術展覧会 10月1日~10月31日 上野公園桜ヶ岡)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝菱川師宣     東游興図 二巻(出品者)黒田長成     美人図  一幅(出品者)小林文七〟  ◯『古代浮世絵買入必携』(酒井松之助編・明治二十六年刊)   ◇「菱川師宣」の項 p18   〝菱川師宣    本名 吉兵衛   号 友竹    師匠の名〔空欄〕   年代 凡二百年前より二百三十年迄    女絵髪の結ひ方 第二図・第三図 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリー)    絵の種類 丹絵、墨絵、絵本、肉筆    備考 師宣にて彩色摺のものあれども偽物又は師宣の古図を写したるものに付、買入れざるを良しとす〟   ◇「図柄」p21    〝墨絵にて豊広、豊丸等、凡て百年以後のものは買い入れざるを良しとす。最も菱川師宣、奥村政信、鳥    居清信等の百四五十年前後のものは墨摺にても高価なり〟    ◯『浮世絵師便覧』p238(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年刊)   〝師宣(モロノブ)    菱川氏、俗称吉兵衛、剃髪して、友竹と号す、安房の人、板刻画の祖なり、正徳四年死、七十七、一説    に元禄七年に死せりと〟  ☆ 明治二十七年(1894)  ◯『明治節用大全』(博文館編輯局 明治二十七年四月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)※(かな)は原文の読み仮名   「近世三十六家伝」(627/644コマ)   〝菱川師宣    友竹と号す、通称は吉兵衛、安房の人。師宣、世々縫箔師を業とす。早歳にして江戸に移住す。初め縫    箔の上絵を画き、是よりして土佐家の画風を好み、又岩佐又兵衛の図を慕ひ、又兵衛に続きて浮世絵の    巧手と称せらる。或ひは謂ふ、当時狩野常信【探幽の弟を尚信と曰ひ、尚信の長子を常信と曰ふ】英一    蝶等の名、世に盛なりしかば、師宣も之に薫染したると見え、自ら狩野派の筆意あり、故に狩野派と云    ひて可ならん。其の画の今日に伝はる者に花見之図・演劇之図・花街之図・四季遊山之図・船遊之図等    あり。師宣正徳年中を以て卒す。年七十〟  ◯『名人忌辰録』下巻p35(関根只誠著・明治二十七年刊)   〝菱川師宣 友竹    吉左衞門の男、保田町に生れ、後江戸に出で村松町に住す、縫箔の上絵を業とす、後土佐の画を学び、    後浮世絵の一派を開きて大に行はる。正徳四午年八月二日歿す、歳七十七(寺は日蓮宗にて谷中と聞け    り)〟  ☆ 明治二十八年(1895)  ◯『時代品展覧会出品目録』第一~六 京都版(大沢敬之編 村上勘兵衛 明治二十八年六~九月)   (時代品展覧会 3月25日~7月17日 御苑内博覧会館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝【徳川時代】浮世絵画派(49/310コマ)    一 二人美人図 菱川師宣筆 上野光君蔵 東京市麹町区〟    ◯『明治廿八年秋季美術展覧会出品目録』下(梯重行・長嶋景福編 明治28年11月刊)   (日本美術協会美術展覧会 10月1日~11月5日 上野公園桜ヶ岡)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝菱川師宣 都遊楽図 一巻(出品者)キヨソネ〟  ◯『新古美術展覧会出品目録』(藤井孫兵衛編 合資商法会社 明治28年10月刊)   (京郵美術協会 新古美術品展覧会 10月15日~11月25日 元勧業博覧会場内美術館)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   「古物品之部」   〝菱川師宣 浮世人物図 狂歌帖一冊添 一巻(出品者)帝室博物館  ☆ 明治二十九年(1896)  ◯『名家画譜』上中下(金港堂 12月)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝上巻 目録 故菱川師宣「元禄年間娼婦」〟  ☆ 明治三十年(1897)  ◯『読売新聞』記事(小林文七主催「浮世絵歴史展覧会」1月18日-2月10日)   ◇1月20日記事   〝陳列中優逸にして 一幅百円以上三百余円の品    (第七番)菱川師宣筆 双美図〟〈「番」は陳列番号〉   ◇1月23日記事   〝浮世絵歴史展覧会(三)巨浪生    師宣の筆合せて四点 就中(なかんづく)双美図、楓林弾絃図、殊に佳作と見受けられぬ〟   ◇1月26日記事   〝浮世絵歴史展覧会の外人の評    仏人ヂユンー氏    岩佐又兵衛の画は世に稀なるを以て暫く措いて評せず 菱川師宣の筆は柔にして験簡 其人物は態容優    饒 能く心意の寛裕を現はし 人をして当時盛満の風を慕はしむ〟  ☆ 明治三十一年(1898)  ◯『浮世絵備考』(梅山塵山編・東陽堂・明治三十一年刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(19/103コマ)   〝菱川師宣【天和元~三年 1681-1683】    通称吉兵衛、剃髪して友竹と称せり、安房国平群郡保田町に産れ、若年の時、江戸に出でゝ縫箔をもて    家業とし、上絵といふものより絵を画きならひて、後遂に浮世絵の一家をなせり、大和絵師、また日本    絵師と称し、専ら板刻の版下を画けりと云ふ、江戸絵と呼びて他国の人の弄ぶことは、此の師宣の絵よ    り起れり、師宣しば/\居を転じ、はじめ村松町二丁目に住みしが、更に橘町に移り、次に堺町、大伝    馬町二丁目等に転じたりと名人忌辰録いへり、正徳年中、江戸に於て歿す、享年七十余歳(本伝は『浮    世絵類考』『同追考』等に拠る)     師宣の画ける板本の主なるものは左の如し    『和国百女』  『大和の大寄』『月次遊び』『画本大和墨』『恋のみなかみ』    『絵本勇士力草』『倭名所絵尽』『香具大全』『訓蒙図彙』 『江戸雀』〟  ☆ 明治三十二年(1899)  ◯『新撰日本書画人名辞書』下 画家門(青蓋居士編 松栄堂 明治三十二年三月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(203/218コマ)   〝菱川師宣    通称吉兵衛といふ 友竹と号す 房州の人なり 壮年にして江戸に来り 土佐の画風を慕ひ 又岩佐又    兵衛の筆意を喜ぶ 爾来研磋して 其の技絶妙に至り 遂に名声を海内に轟かし 又兵衛に亞(つ)ぐの    妙手と称せらる 当時狩野常信 英一蝶等 名を芸林に顓(もつぱら)にす 故に師宣も亦其の風に化せ    られ 頗る狩野派の筆意を帯ぶるに至れり 此の人の落款に 日本絵菱川師宣と書せり 遺蹟の著名な    るものは 春宵秘戯の図 船遊の図 四季遊山の図 花街の図 演劇の図 花見の図等なりとす 正徳    年中没す 年七十(嬉遊笑覧 画乗要略 扶桑画人伝 鑑定便覧 名家全書)〟  ◯『浮世画人伝』p8(関根黙庵著・明治三十二年五月刊)   〝菱川師宣(ルビひしかわもろのぶ)    菱川師宣は安房国平群郡の保田の里に生る。俗称吉兵衛、晩年剃髪して、友竹と号せり。父は吉左衞門    道茂とて、縫箔刺繍を業とせしが、師宣幼時、そが上絵といふことせんために、画を学びしが、生来絵    事に巧みなれば、遂に家業を改めて江戸に来り、土佐の画法に入り、岩佐又兵衛の筆意に倣ひて、別に    一家をなし、名声一時籍甚(セキジン)たりき。されば天和貞享の頃より、版刻の画本数十部を著して、専    ら世上に行はれぬ。その名は『浮世絵づくし』『続うき世づくし』『和国百女月次のあそび』『やまと    の大寄』『恋のみなかみ』の類是なり。他邦(タホウ)の人、江戸絵と称して、印刻の画を賞美すること、    菱川より起れりとぞ。師宣の江戸に在るや、始め村松町に住し、又橘町に移れるなど、所々に転居せし    ものと見えたり。師宣、橘町に住せし頃、家に性いと疎忽なる小童を召仕へり。常に事を過つこと多か    りしが、ある年七月十三日の夕かげに、彼の小童に命じて、門口に迎火(ムカイビ)を焼かせけるに、あわ    たゞしく走入りて、精霊様御出といふに、吉兵衛ほゝえみて、又例のおろかしきことな言ひそ。さるも    の来べき様(ヨウ)なし。驚くことなかれと諭しけれども、いな白衣きて、みづから精霊軒幽霊と、名のり    給へるものをとて、聞かざれば、師宣いとゞ笑ひて、軒号のある幽霊こそ、めづらしけれとて、出でゝ    見るに、兼ねて魄あへる友なる俳人高井立志が子の松葉軒立栄といへる者、白地の浴衣にて、訪らひ来    ける也けり。さは例の小童がと、互に語らひ興じて師宣たはぶれよむ。      何といふれい麁相(ソサウ)が又いでゝしやうれうけんのなきうつけもの     世に名高き、英一蝶は、師宣とやゝ同時代の後輩なりしが、若き頃、頻りに菱川が上にたらむことを     願ひて、勉めきといふ。絵画韻事の天縦ある一蝶すら、師宣の画風を、仰慕したる事想ふべし。また     俳書『実なし栗』中にも      山城の吉屋むすびも松にこそ 其角      菱川やうの吾妻おもかげ   嵐雪    とあり。されば菱川流の吾妻絵こそ、後世東錦絵の、濫觴(ランショウ)とは謂ひつべけれ。    師宣は、正徳四年八月二日、享年七十七才にして歿し、谷中の某寺に埋葬せり。    師宣が子、師房、師永、および門流の画工たち、連綿として丹青に従事せしが、六世に至りて、家絶え    ぬ。左に山東菴京伝が、はる/\房州なる菱川が家に就きて、取調べしといふ系統を掲ぐべし。
   「菱川師宣系譜」    菱川の血統、六世にして絶えたり。七世某は、養子にて、其女は他家に嫁し、近き頃まで、その裔(エイ)    存せりきといふ〟    ☆ 明治三十四年(1901)  ◯『日本帝国美術略史稿』(帝国博物館編 農商務省 明治三十四年(1901)七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝第三章 徳川氏幕政時代 第三節 絵画 浮世絵派(166/225コマ)    菱川師宣    友竹と号し、吉兵衛と称す。房州の人、家世々縫箔を以て業となす。年少うして江戸に移り、初め専ら    縫箔の図を画けり。其の師承する所詳ならざれども、或は岩佐又兵衛の画風を慕ひ、或は土佐狩野の筆    意に傚ひて、遂に一家を成し、善く当時の邦俗美人を写し、艶体柔情、一見能く人心を動かせり。能画    を以て名を江湖に馳す。夫の観花の図、演劇の図、花街の図、遊山舟遊等、其の写す所少なからず。又    師宣の筆に成る絵本多し。異郷の人江戸と称して印本の画を翫ぶは此の人に起因すといふ。正徳年中没    す。年七十余。其の子師房、師永等、父に学びて其の風を画けり     劇場画巻 帝国博物館蔵     此の画巻は数年間に画きし大作にして、遊廓劇場等の図十数段あり。こゝに出だしゝは演劇の図なり〟  ☆ 明治三十八年(1905)  ◯「集古会」第五十三回 明治三十八年五月 於青柳亭(『集古会誌』乙巳巻之四 明治38年9月刊)   〝朝倉亀三(出品者)古板赤本『初春のいわひ』延宝六年正月板 菱川師宣画 一冊〟  ☆ 明治四十一年(1908)  ◯「集古会」第七十回 明治四十一年十一月 於青柳亭(『集古会誌』己酉巻一 明治42年6月刊)   〝林若樹(出品者)    菱川師宣画『正直はなし』半紙本五冊 作者石川流舟 日本絵師菱川師宣 元禄七甲戌年九月日    江戸日本橋万町 万屋清兵衛板  ☆ 明治四十二年(1909)    菱川師宣画譜(宮武外骨編 雅俗文庫 明治四十二年七月刊)    (『浮世絵鑑』第一巻所収・国立国会図書館デジタルコレクション)  ☆ 大正年刊(1912~1925)  ◯『近世文雅伝』三村竹清著(『三村竹清集六』日本書誌学大系23-(6)・青裳堂・昭和59年刊)   ◇「人物小話(一) 菱川師宣寄進の鐘」p315(「浮世絵」2・大正四年七月)   〝(房州保田 別願院 鐘銘)    南無阿弥施(ママ)仏     寄進施主 菱川吉兵衛尉藤原 師宣 入道友行(ママ)    南無阿弥施(ママ)仏     為 三界万霊七世父母      菱川七右衛門       家来 カメ 宗心 市助 道蓮 マツ 妙仲      嫡同 吉左衛門道茂居士      岩崎甚左衛門法清      嫡同 徳兵衛法円      次女ヲタマ寿栄大姉道茂室      次男同 伝左衛門法清     道茂子アマ千代清空西影      オリク 妙心      ヲタマ      友竹--子------- 吉兵衛同妻妙永      正之助          ヲイヌ      ヲカマ ◎部村藤吉室   ヲヘン知法      左次兵衛         妙林                   沖之丞    元禄七甲戌歳 五月吉日 西ノ宮大和寺 藤原吉奥作    房州保田村 林海山別願院 時住持欣入    (中略)    これを保田の医師渋田元竜【捜奇録の葆真斎同人なるべし】に問ひて記すといふ系図と対比すれば、師    宣の弟正之助は正之丞とあり。吉兵衛は師房にして沖之丞は師永なる事分明なり。猶師房の子に佐次兵    衛重嘉といふがあるは、大叔父の名を継ぎたるにや(以下略)〟  ◯『墓所一覧表』(山口豊山編 成立年未詳)※(収録の最終没年は大正五年)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝菱川師宣 元禄七年八月二日 谷中 瑞林(ママ)寺〟    〈関根只誠の『名人忌辰録』には「正徳四午年八月二日歿す、歳七十七(寺は日蓮宗にて谷中と聞けり)」とある。     谷中の瑞輪寺は日蓮宗であるから、関根只誠のいう寺は瑞輪寺としてよいのだろう。しかし、山口豊山が見たも     のは没年が異なるし、享年と思しきものも確認できなかったようだ〉  ◯「集古会」第百三十五回 大正十一年(1922)一月(『集古』壬戌第二号 大正11年2月刊)   〝林若吉(出品者)赤小本 師宣筆 大橋長者富貴物語 一冊 延宝板 後年の花咲爺〟  ◯『芸苑一夕話』上巻(市島春城著 早稲田大学出版部 大正十一年(1922)五月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(248/253コマ)   ◇六二 菱川師宣     例の粗相が     浮世絵師菱川師宣は、晩年、その家に年若い僕を置いた。これが性来粗忽もので、往々事を誤つて主    人に迷惑をかけ、或ひは遣り損なひが滑稽で、人を笑はせたりすることが度々あつた。     ある年の中元の夕がた、恒例により、僕に言ひつけて、門口に迎へ火を焚かせた。すると、間もなく    あわたゞしく走込むで来て、精霊様がお出になりましたと云ふ。師宣は笑ひながら、又例のそゝかし屋、    何を言ふことだ。精霊様が来るものか。驚くもので無いと制するを、僕は、いや全くお出になりました。    白の衣服を着け、自らは精霊軒幽霊なりと名乗られましたと云ふに、師宣も軒号のある幽霊は珍しいと、    門口に出て見れば、平素懇意の俳友高井立志が子の松葉軒立栄が、白地の浴衣を着て尋ねて来たので、    僕は、其の名の音がよく似て居るので、間違つたと知れ、師宣も吹き出して、一首の狂歌を詠じた。     何といふれい(例)の粗相が又いでゝしやう(性)れうけん(了簡)のなきうつけ者〟  ◯『罹災美術品目録』(大正十二年九月一日の関東大地震に滅亡したる美術品の記録)   (国華倶楽部遍 吉川忠志 昭和八年八月刊)    菱川師宣画(◇は所蔵者)   ◇村松万三郞「西王母図」   ◇松木平吉 「花見宴図」/「盆踊図」大横物   ◇菊池長四郎「風俗図鑑」絹本着色 立一尺余   ◇説田彦助 「束帯天神」/「浄瑠璃姫図」   ◇小林亮一(小林文七嗣子)    「年中行事図巻」(千秋万歳に起り歳末に終る総て街上の図)    「伽羅留図」  (美人男子の頭髪に香を薫するの図 日本房国菱川師宣云々の款)    「美人立姿図」米化菴田社賛    「あみかさおどり図」(かん三郞、しつま、富三郞の舞台姿 菱川の瓢印)    「若衆美人図」双幅    「遊女弾三絃図」伝師宣(無款 人物等身大の珍らしき大柄の図)  ☆ 昭和年間(1926~1987)    ◯『狂歌人名辞書』p234(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)〟   〝菱川師宣、通称吉兵衛、元と安房保田の産、江戸に出て土佐の画風を学び、遂に一家を為す、当時版刻    の絵本を著し名声大に揚る、之を江戸絵と称する事師宣に始まると云ふ、師宣度々居を転じ、始め村松    町に住み次で橘町に移り、又堺町、大伝馬町に転す、正徳四年八月二日歿す、年七十七〟  ◯「古野の若菜」山崎麓著(『江戸文化』第三巻六号 昭和四年(1929)六月刊)    古野の若菜(菱川師宣版本)    (国立国会図書館デジタルコレクション)  ◯『浮世絵師伝』p197(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝師宣    【生】元和四年(1618)? 【歿】元禄七年(1694)-七十七?    【画系】         【作画期】万治~元禄    藤原姓、菱川氏、俗称吉兵衛、晩年薙髪して友竹と号す。祖父は七右衛門と称し、京都に住せしものゝ    如く、其子即ち師宣の父吉左衛門(道茂入道光竹といひ、寛文二年二月十五日歿す)の代に、安房国平    群郡保田村に移住し、縫箔刺繍を業としたりき。師宣も亦幼時より家業に従事し、上絵などを画きしが、    素より画技に志す所深かりしかば、青年期に暫く京都に上りて、彼地の無名の絵師に就て修業せしもの    ならむ。(田中喜作氏の説に従ふ)。斯くて彼は、万治年間に江戸に出で、新興の市民を対象として、    或は吉原の遊女を画き、或は芝居狂言の有様を写すなど、専ら時俗の風を描くことにカを注ぎしなり。    謂はゞ機運に乗ぜし彼は、其が作品の世評よかりしを以て、益々画技に熱中し、殆ど版下絵を画くこと    を専業とするに至れり。これ今日より観れば、彼が始めて江戸に於ける浮世絵派の端緒を開きしものに    して、所謂浮世絵は版画を主とし、肉筆画を従とするものなる事を、彼はよく自己の実技によりて世に    示したりき。蓋し、浮世絵なるものは大衆を相手として、或る作品を成るべく平易に、且つ多数に普及    せしむることを目的とせり、こゝを以て木版を利用することの捷径なるは寧ろ当然と謂ふべし。     彼が作品は、挿絵・絵本・一枚絵及び、肉筆の屏風・掛物・巻物などありて、壯年期(寛文)より初老    期(延宝)に亘りては、筆力甚だ雄勁にして、土佐、狩野の特長を巧みに融合し、正に一派の画格を創    成せし跡を見るべし。而して、老年期(天和-貞享)より晩年期(元禄初)に至りては、最も円熟せる    流暢なる筆致を示し、美人画の如き優婉を特長とする作品は、却つて此期に見るべきものあり、殊に肉    筆画に於ては、一層深く斯かる感じを与ふるものゝ如し。例へば、一人立の美人を画きし掛物などに、    描線の繊細にして彩色の綿密なるものあるは、多く老年期の作に見る所なり。これに由りても、彼が終    生作画に努力し、芸術的手腕に於ては、遂に老衰する所無かりしを想ふべきなり。以下、彼が挿画本及    び絵本等の概目を示さむ。(△印は挿画本、◯印は絵本)     △吉原枕(万治三年版)   △吉原鑑(同上)     △剥野老(寛文二)     △薄雪物語(同四)     △奴はいかい(同八)   ◯枕屏風(同九)     △しかた咄(同十一)    △ぬれぼとけ(寛文年間) △高屏風くだ物語(同上)     △讃嘲記時の太鼓(同上)  ◯業平たはれ草(同上)  ◯うはもり草(同上)     ◯伽羅枕(寛文末期?開版、菱河吉兵衛と署名す)    △西行一代記(延宝元)     △吉原大雑書(同三)    △江戸雀(延宝五年版、絵師菱川吉兵衛と署名す)     ◯小むらさき(同上、大和絵菱川吉兵衛と署名す)    ◯恋のいきうつし(延宝五)     ◯当世ひいな形(同上)   △八重桜(同六)     ◯吉原恋の道引(同上)     ◯古今役者物語(同上)   ◯和合同塵(同上)    ◯絵本雜書枕(同上)     ◯恋の睦言四十八手(同七) △伊勢物語頭書抄(同上) △和歌註撰抄(同八)     ◯人間不礼考(同上)    ◯侍農絵尽(同上)    ◯余景作り庭の図(同上)     ◯大和絵づくし(同上)   ◯恋のうつし絵(延宝年間)△自賛歌註(同上)     △卜養狂歌集(天和元)   △貞徳狂歌集(同二)   ◯岩木絵づくし(同二、口絵第二図参照)     ◯枕大全(同二)      ◯小袖模様枕絵(同上)  ◯恋の水上(同三)      ◯大和の大寄(同上)    ◯美人絵づくし(同上)  ◯於左那奈志美(同上)     ◯月次遊(同上、元禄四年に再摺せり)         ◯歌仙枕(天和年間)     ◯情のうはもり(同上)   ◯浮世続(貞享元)    ◯団扇絵尽(同上)     ◯当世早流雛形(同上)   ◯和国諸職絵尽(同二)  ◯源氏大和絵鑑(同上)     ◯きやしや男情の遊女(同上)◯おもひのてつけ(同三) △和歌の手引(同上)     〇三世相性枕(同四)    △好色一代男(同四、江戸版)◯今様枕屏風(貞享年間)     ◯今様吉原枕(同上)    ◯みやぎの(同上)    ◯花の木がくれ(同上)     ◯東海道分間絵図(元禄三) △江戸惣鹿子名所大全(同上)     ◯菱川築山庭づくし(元禄四年再刻、原題「余景作庭図」)     ◯月次のあそび(元禄四年再摺、天和三年原版)     ◯絵本大和墨(同七)     ◯和国百女(同八)     ◯姿絵百人一首(同上)  ◯五れいこう(同上)     ×豆州熱海絵図(天和元)  ×江戸昌平坂 聖堂之絵図(元禄四)    右の内、絵本には秘戯図を画きしもの可なり多く、しかも其等に堂々と署名して、「大和絵師」或は    「日本画師」などの肩書を用ゐしことは、仮令当時の法規に触れざりし爲めとは云へ、彼が秘戯図に対    する自信の深かりし事を知るに足るべし。但し右の肩書は、彼が肉筆画にも往々見受くる所にして、後    の浮世絵師中にも亦、彼の例に倣ひて、同様の肩書を用ゐし者尠からず。     彼は貞享の末頃まで江戸堺町横町に住し、元禄の初め頃橘町に移れり、又一説に村松町に居りしと云へ    り。元禄七年五月、彼は祖父、父母、其他の霊を弔はむが爲めに、梵鐘一口を郷里保田の林海山別願院    (浄土宗)に寄進したりき。然るに彼は其年の後半期中に江戸に於て長逝せしものゝ如く、彼が遺作と    して世に伝はれる『姿絵百人一首』は、元禄八年四月の発行にして、序文に「かの菱川が古人に成しか    たみなれば」云々とあり、されど、写本『浮世絵類考』には「正徳年中江戸に於て歿す、享年七十余な    り」とし、又『名人忌辰録』には「正徳四午年八月二日歿す歳七十七(寺は日蓮宗にて谷中と聞けり)」    と記したれど、如何なる根拠を有するか不明なり。既に前掲の如き序文の実証あり、又彼が宗旨の日蓮    宗に非ずして浄土宗なりし事は、かの梵鐘に「南無阿弥陀仏」の文字あるを見ても首肯せらる。最後に    『浮世絵師系伝』(写本)所載の要点を抄録すれば、「菱川代々の卵塔は保田町林海山別願院といふ浄    土宗の寺なるよし、然れども崩滅して今(註、明治二十四年当時)は知れざるよしなり、旦那寺は鄰村    元名村亀福山存林寺といふ禅宗の寺なり、師宣が命終の年月過去帳等に相見えず、師宣父の吉左衛門道    茂は歿年月あり。梅風(註、該書編者)按るに、師宣江戸にて歿したりといふは確なるべし、故郷にて    歿せしなれば其寺に歿せし月日過去帳にあるべき筈なり、然るに記してなき所を見れば江戸にて歿した    る一証なるべしと思はる」「佐次兵衛師寿と申す者の代には家系並に画手本様のものも有たり、其後寛    政四年九月四日又々安房上総下総海辺大浪にて其頃儀助(註、師寿の二男)存命中にてありしが、家財    残らず流失して先祖の位牌も無くして不明となりしは悼むべき事なり」「因に云、浮世絵類考(の編者)    は大竹新七とて師宣に由縁ありし人にて屋号は笹屋と申せしといふ」などゝあり、尚ほ左の如き系譜を    附載せり。
   菱川派系譜      右の系譜は、享和二年十月山東京伝の編著『浮世絵類考追考』に基きしものなるべし。これを要するに、    師宣の血統は六代目師寿に終り、七代目は養子を以て継がしめたりしなり。京伝は、師宣の伝記資料を、    房州保田町の医師渋谷元龍(菱川家の親族)より得たりしと云ふ。本項のうち、初めの部分と、挿画本    及び絵本の概目に就ては、田中喜作氏の研究に俟つ所最も多し。(『浮世絵之研究』第十五・十六号参    照)〟  ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「万治二年 己亥」(1659)p27   〝此年浄瑠璃本には『くらまかくれ文あらひ』『源氏のゆらひ』『道風額揃』『二たんの四郎』『四天王    武者執行』等あり。画工はいづれも菱川師宣なるべし〟   ◇「寛文二年 壬寅」(1662)p29   〝正月、菱川師宣の画とおもはるゝ『案内者』六冊。又曾我自休の作『為愚癡物語』八冊、又『親子物語』    二冊等出版。    三月、師宣の画の『水鳥記』三冊出版〟   ◇「寛文三年 癸卯」(1663)p30   〝五月、菱川師宣風の挿画にて『曾我物語』十二冊出版〟   ◇「寛文四年 癸卯」(1663)p30   〝十一月、師宣の挿画にて『義経記』八冊出版。    十二月、師宣の挿画にて『大和孝経』六冊、『ぶんしやうのさうし』二冊出版〟   ◇「寛文七年 丁未」(1667)p33   〝師宣の絵入本にて『吉原讃嘲記』は此年の刊行なるが、其の月をしらず〟   ◇「寛文八年 戊申」(1668)p34   〝此年師宣風の絵入本にて『身のかゞみ』三冊あり〟   ◇「寛文一〇年 甲戌」(1670) p36   〝四月、師宣の挿絵にて『義経記』八冊出版〟   ◇「寛文一二年 壬子」(1672)p37   〝師宣五十五歳、此年正月、師宣の挿絵にて『武家百人一首』出版。絵師菱川吉兵衛と署名せり。(此以    前にも師宣の絵入本数多あれども、署名のあるものは此武家百人一首を以て嚆矢とせるが如し〟)   〝四月、雛屋立圃の『幼源氏』を江戸にて再版して挿画は師宣なるが如し〟   ◇「延宝元年(九月二十一日改元)癸丑」(1673)p38   〝此年の絵入本には、師宣の『まんじゆの前』三冊。又浄瑠璃本には『午王の姫』『小倉百人一首』等あ    り〟   ◇「延宝三年 乙卯」(1675)p39   〝三月、師宣の画にて『源氏小鏡』出版    五月、吉田半兵衛の挿画にて『大日本王代記』。師宣の画にて『山茶やぶれ笠』出版。いづれも一冊の       小冊子なり〟     ◇「延宝五年 丁巳」(1677)p41   〝正月、師宣菱川吉兵衛と署名して『江戸雀』十二巻に画き出版せり。版元は鶴屋喜右衛門なり    二月、師宣画にて『義経記』八冊出版〟   ◇「延宝六年 戊午」(1678)p41   〝正月、菱川師宣画に『伊勢物語平詞』四冊。『絵本上々御の字』『古今役者物語』『吉原恋の道引』等       あり。    二月、師宣の挿画と覚しきものにて『女詩仙集』二巻。『奈良名所八重桜』十二巻等あり。    九月、師宣風の挿画にて『名所方角抄』三巻あり。    此年浄瑠璃本には『三社詫宣の由来』『しのだ妻』『善光寺堂供養』『頼朝三島詣』等ありて、いづれ    も菱川師宣の画なるが如し〟   ◇「延宝七年 己未」(1679)p42   〝正月、『一休品物語』三巻、『あふぎながし』三冊出版。いづれも師宣の画なりが如し。    三月、菱川吉兵衛と署名して『伊勢物語頭書抄』三巻あり。    十月、師宣風のものにて『新撰絵抄百人一首』出版。    此年菱河師宣筆と書名して『自讃歌註』三巻あり。蓋し此書菱河師宣と署名せるものゝ嚆矢か。此の以    前にはいづれも菱川吉兵衛と署せるものゝ如し〟   ◇「延宝八年 庚申」(1680)p43   〝正月、菱川吉兵衛画の『人間不礼考』出版。    二月、菱河師宣がの『和歌注撰抄』三冊出版。    三月、師宣挿画の『餘景作り庭の図』出版。    四月、師宣画の『小倉百人一首』出版〟    ◇「延宝年間」(1673~1681)p43   〝此頃菱川師宣、同じく師宣等の一枚絵流行せり。一枚絵は今の西の内位の判にて、丹緑などの手彩色せ    るもの多し〟     ◇「天和元年(九月二十五日改元)辛酉」(1681)p44   〝此年菱川師宣の画にて『卜養狂歌集』二巻。『難字訓蒙図彙』等出版〟   ◇「天和二年 壬戌」(1682)p45   〝正月、浮世草子の鼻祖と目せらるゝ井原西鶴の傑作『好色一代男』八冊出版。挿画は蒔絵師源三郎なり。       後年の江戸版は蓋し師宣の挿画なり。    同じき正月、菱川師宣の『屏風掛物絵鑑』三巻。同じく『四季模様諸礼絵鑑』三巻。『西行和歌修業』       三巻。『当世風流千代の友鶴』三冊等出版。    二月、師宣の挿画にて『諸国名所歌すゞめ』二冊出版。    七月、菱川師宣『狂歌旅枕』二冊、及び『貞徳狂歌集』三冊に画きて出版〟   ◇「天和三年 癸亥」(1683)p46   〝正月、師宣の挿画にて『定家藤川百首』出版。    二月、菱川師宣の挿画にて『日蓮聖人註画讃』二巻出版。    五月、師宣画の『花鳥絵つくし』『美人絵つくし』出版。    七月、師宣の画にて『岩木絵つくし』三冊。『百人一首像讃抄』出版〟   ◇「貞享元年(二月二十一日改元)甲子」(1684)p47   〝正月、師宣の画にて『浮世続』『団扇絵つくし』『大和侍農絵つくし』出版〟   ◇「貞享二年 乙丑」(1685)p47   〝正月、師宣筆にて『古今武士道絵つくし』『名古屋山三郎婲男情の遊女』出版。    二月、師宣画の『諸職絵本かゞみ』三巻出版。    四月、師宣の画にて『源氏大和絵鑑』出版〟   ◇「貞享三年 丙寅」(1686)p48   〝九月、師宣の画にて『和歌の手引』五巻。『二十四孝諺解』出版。又此月『能訓蒙図彙』『諸国名所和       歌百人一首』等の絵入本あり〟   ◇「貞享四年 丁卯」(1687)p49   〝此年菱川師宣、其角の『吉原五十四君』及び西鶴の『好色一代男』江戸版に画く〟   ◇「元禄二年 己巳」(1689)p51   〝正月、菱川師宣の『異形仙人絵本』三冊〟   ◇「元禄三年 庚午」(1690)p51   〝正月、師宣の図に成れる『東海道分間絵図』五帖、    三月、菱川師宣図するところの『江戸惣鹿子名所大全』六冊出版。    此年師宣の挿画にて土佐少椽の正本『義経記』あり〟   ◇「元禄四年 辛未」(1691)p52   〝五月、師宣の挿画に成る『餘景作り庭の図』再版。又『十二月の品定』出版。又吉田半兵衛の挿画に成       る『なぐさみ草』。海田相保の画に成れる『西行四季物語』出版〟   ◇「元禄六年 癸酉」(1693)p54   〝十月、原図掃部助久国の『真如堂縁起』を友竹之を写して出版せり。友竹は蓋し菱川師宣なるべし〟   ◇「元禄八年 乙亥」(1695)p56   〝正月、菱川師宣の遺書『和国百女』三冊。他に『本朝貞女物語』五冊出版。    四月、菱川師宣の遺書『風流姿絵百人一首』三冊出版〟   ◇「元禄九年 丙子」(1695)p56   〝正月、菱川師宣の『倭国名所鑑』再版。    四月、師宣風の挿画にて『光悦歌仙やまと抄』二冊出版。蓋し光悦の二字は角書なり〟    ◇「正徳四年 甲午」(1714)p70   〝増訂武江年表に八月二日画家菱川師宣卒七十七歳とあり。信じ難けれども参考までに暫く爰に載す〟  ◯「看書随録(九)」木村捨三著(『集古』乙亥第五号 昭和十年(1935)十月刊)   〝青山堂本大和名所鑑    例の丹表紙に方形の外題、蜀山人の筆にて『大和名所鑑』と書せり、奥付に「絵師菱河師宣、正月吉日    万屋清兵衛」とあり、識語は      明治三年庚午二月求之  斎藤月岑子     此書二部を蔵せり 嚮年弃る所は松蘿館西原梭江君の蔵本也 今此書は南畝翁の蔵にして 丹表紙     黄の外題紙へ翁の自筆にて記されし所也 小石川伝通院門前書肆青山堂雁金やより 友人鎌倉や豊     芥子のあかなひしをはからず 今日求得たり    とみゆ、三冊物合本なれど、その伝来こそゆかしけれ、さるにても愛度 他の一本、松蘿館蔵のもの    果たしていづくにあるやしりたきものなり〟〈弃は棄の旧字〉  ◯『改訂日本小説書目年表』p37(山崎麓編・昭和52年(1977)刊)   ◇仮名草子   『水鳥記』    菱川師宣画  地黄坊樽次作  寛文二年刊(頭注「明暦元年初板」)   『伊勢物語平詞』 菱川吉兵衛画 紀暫計作    延宝七年刊 一名「業平昔物語」 柏原与市郎開板   『下り竹斎』   菱川師宣画          天和三年刊 寛永整版本の再刻本 鱗形屋板   『千代の友鶴』  菱川師宣画          天和二年刊   『名古屋菊女之誉』菱川師宣画          刊年未詳      ◇浮世草子   『吉原大豆俵』  菱川師宣画          天和二年刊   『好色一代男』  菱川師宣画  西鶴作     貞享四年刊            (注記「天和二年大坂版本を江戸にて復刻せしもの」)   『吉原五十四君』 菱川師宣画  東国太郎作   同上            (注記「東国太郎とは俳諧師其角の匿名である」)   『江戸貞女小夜衣』菱川師宣画 城坤散人茅屋子作 元禄二年刊            (注記「天和三年版『小夜衣』の改題再版で、巻末に菱川師宣と入木してゐる」)   『好色法のともづな』菱川師宣画 磯貝捨若作   同上  ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔菱川師宣画版本〕    作品数:163点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致しません)    画号他:菱河・吉兵衛・師宣・菱川師宣・菱河師宣・菱川吉兵衛・菱河吉兵衛    分 類:絵本59・艶本42・絵画19・評判記(遊女)7・仮名草子5・地誌6・浮世草子4        咄本4・狂歌3・風俗3・染色図案2・古典注釈2・和歌(百人一首)2・浄瑠璃2        歌舞伎1・俳諧1・教訓1・演劇1・歌謡1・地図1    成立年:万治2~3年(4点)           寛文7年  (1点) (寛文年間合計6点)        延宝2~9年(30点)(延宝年間合計36点)         天和1~4年(26点)(天和年間合計36点)        貞享1~4年(14点)(貞享年間合計21点)        元禄2~5・7~8・11・15年(17点)(元禄年間合計21点)        宝暦9年  (1点)     〈宝暦九年の一点『絵本列仙画典』について、『浮世絵師伝』(昭和六年刊)の井上和雄は「大阪の人、春川氏、      宝暦九年版『絵本列仙画伝』三冊に「春川師宣図」とあれど、実は菱川師宣の『異行仙人絵本』(元禄二年版)      の図を剽窃したるものなり。春川師宣とは、或は仮設の人ならんか」とする。また『浮世絵年表』(昭和九年)      の漆山天童も「正月、江戸の書肆辻村五兵衛、元禄二年出版の菱川師宣の画ける『異形仙人絵つくし』を再版      して『絵本列仙画典』と題し、画工春川師宣と署せしより、世人は此当時春川師宣なる画工あるものと信じて、      飯島虚心氏の其著『浮世絵師便覧』には師宣、春川氏、大阪の人、宝暦年間と記せり」としている〉   (菱川吉兵衛名の作品)    作品数:4点    画号他:菱川吉兵衛    分 類:注釈2・仮名草子1・風俗1    成立年:延宝6~8年(3点)   (菱河吉兵衛名の作品)    作品数:1点    画号他:菱河師宣    分 類:狂歌1    成立年:天和2年   (菱河師宣名の作品)    作品数:2点    画号他:菱川師宣    分 類:絵本1・艶本    成立年:貞享2年(1点)