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菱川師宣画譜 宮武外骨編(明治四十二年刊)
 ◯『菱川師宣画譜』(宮武外骨編 雅俗文庫 明治四十二年七月刊)   (『浮世絵鑑』第一巻所収・国立国会図書館デジタルコレクション)    △は他書の引用文 ◯は不明文字 全角(~)は原文のもの 半角(~)は本HPの注記    菱川師宣   (梅風子著『浮世絵師系伝』引用)(36/50コマ)   〝△国へ退き閑居の時よめる歌に      先立し故郷人にくらべてもおとらじと思ふ老の歎かな    ある人師宣に教へとなるべき画賛を乞ければ即座に筆を採て沸子を画きてその賛に曰    「人よき家に住んことをほつす 甲を似せて穴ほる事を悟れ 身によき衣を着んことをほつす 寒を     防けばたること悟れ 色欲心の侭ならん事をほつす 身の養生をさとれ 此悟りなき者は人のもの     を取んことを欲す」とかきて与へけるとなん〟    〈梅風子著『浮世絵師系伝』とは、井上和雄著『浮世絵師伝』(昭和六年刊)の自序にいう「文学博士藤井乙男氏所蔵     の『浮世絵師系伝』(写本八冊)を借覧して(云々)」の『浮世絵師系伝』と同じなのであろうか〉   (梅風子著『浮世絵師系伝』引用)(36/50コマ)   〝△(保田町林海山別願院)同寺に善道円光両大師 画像 師宣画 二幅     元名村大福山日本寺(山号鋸山)に堀川夜討 絵馬 師宣画 一枚     同寺に中寿老人・左大黒・右恵美須三幅対 掛物 師宣画     元名村亀福山存林寺に髪毛にて縫たる阿弥陀三尊 師宣縫      右は寛政五六年の頃 寺焼失の節 共に亡びたり     隣村吉浜村神明社前 夜討曽我 絵馬 師宣画 一枚     当国(安房)長狭郡高倉山方山寺明王院と云ふ修験寺に 富士絵 横物一幅 日本絵師 菱川師宣図     同寺に牡丹に獅子縫物にて掛物 右保田町菱川吉左衛門と縫有り     上総国天羽郡百首村松翁院と申(す)浄土宗の寺に髪毛にて縫し涅槃像 草鳥蟲魚にいたる迄髪毛に      して縫施主(菱川吉左衛門)書付等縫候て精鮮に見ゆ     其外長狭郡大山寺本尊不動堂鏡天井之龍の画幷に壁板等師宣画色々有しが 本堂破壊せしに付寛政      九年再び建たりしが此時よりなし     右菱川の家に墨画龍有之候処破れ廃失なし 外に縫物にて人麿像 机に倚り筆を持たる形 ほのほ      のゝ歌 慶安二年正月 房州保田村 菱川吉左衛門縫とあり    元禄十六年癸未十一月廿三日夜 大地震大津浪にて保田村内にても三百十九人没死なし 然のみなら    ず家屋器財も流失なし 諸家にて古代より所持のものも流失なし 殊更菱川氏の居宅は海辺に有し故    第一番に流失なしけるが 其際は未だ残りしものも有之し 佐次兵衛師寿と申す者の代には家系幷に    画手本様のものも有たり 其後寛政四年九月四日 又々安房上総下総海辺大浪にて 其頃儀助(師寿    の二男)存命中にてありしが 家財残らず流失して 先祖の位牌も無くして不明となりしは惜しむ事    なり〟   (『浮世絵派画集』所収の大村西崖記事引用)(37/50コマ)   〝△元禄七年没す。享年詳かならず。或は曰ふ正徳四年八月二日没す。歳七十七と。未だ何れか是なるを    知らずと雖も、元禄八年版行の師宣筆『姿絵百人一首』の序に「かの菱川が故人に成し記念なれば」    と云へるに徴すれば、元禄七年に没せりと云ふ説、恐らくは正しからんか、されば房州保田の林海山    別願院に師宣寄進の洪鐘ありて「寄進施主菱川吉兵衛尉藤原師宣入道友竹 元禄七甲戌歳五月吉日」    と識せるもの、或は其の没年月に近きものなるやも知るべからず。『名人忌辰録』は正徳四年の説を    取りて「寺は日蓮宗にて谷中と聞けり」と註したれども、其の寺尋ね難し、『古画備考』には其の墓    の小梅常泉寺に在る事を記せるに依り、同寺に就いて調べたけども明かならず。唯々其の過去帳に    「ヌイハクヤ吉兵衛」の名あれども、其の没したるは宝永四年にして前の二説の何れにも合はざれば、    師宣ならんとは思はれず。尚ほ後考を俟つ〟    〈没年の正徳四年説は『増訂武江年表』の関根只誠の補注「八月二日画家菱川師宣卒す(七十七歳)」によるか。『武     江年表』の著者斎藤月岑は「正徳中七十余歳にして終れり」とする。この正徳死亡説は明治にまで及んだ。一方、     嘉永年間編輯の『古画備考』は『姿絵百人一首』の序に拠って元禄七年とした。これに大村西崖や宮武外骨が加わ     って、元禄七年説が有力となったようだ〉   (編者(宮武外骨)曰く)(38/50コマ)   〝其生年は如何と云ふに、予は正保前の出生と見ざる可らずとするなり、其理由は明暦四年刊行、即ち    万治元年刊行の『鴨長明方丈記抄』の画者は其署名なしと雖も、予の鑑定にては師宣の筆に相違なき    ものと断ぜざるを得ざるもの、又同万治二年には師宣の挿画と認むべき『絵入鎌倉物語』小本五冊及    び『志田物語』大本二冊の刊行かり、寛文十一年刊行の『絵入しかたばなし』四冊は中川喜雲の著に    して師宣の挿画たること確なりとすれば、其中川喜雲が二十四歳たる万治二年の著作『絵入鎌倉物語』    に同じく師宣が挿画を加へしと見るはあり得べき事たるのみならず、其筆意の師宣たること疑ふ可ら    ざる所あるに於ては、予の鑑定或は誤なかるべし、今仮りに之を誤なきものとせんか、師宣は正保三    年生れなりとすれば、万治元年は僅に十三歳の時なり、師宣如何に秀才なりしとは云へ、さる若年に    して壮者を凌ぐべき刊本の挿画を描きしとは見るべからず〟    〈外骨は師宣の生年を正保以前と推定する〉   (『大阪滑稽新聞』引用)(45/50コマ)(改竄本)   〝△古本書肆の如きも頗るイカサマをやる、それは上巻とか中巻とかの端本の巻名を削り去つて「全」    の字を記入したり、又は其著書者の名を妄に変更する等である、現に記者が先頃京都で実見したもの    ゝ如きは、春川師宣筆とある絵本の「春」の字を削つて之を「菱」に改め菱川師宣筆としてあつた。    菱川師宣は天和頃の人、春川師宣は宝暦の大阪人であつて、其筆意は固より年代も大に相違して居る、    それを春川では高く売れないと云ふので、菱川と改めるなど、実にイカサマも甚だしい〟