Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ げんぎょ ばいそてい 梅素亭 玄魚浮世絵師名一覧
〔文化14年(1817) ~ 明治13年(1880)2月7日・64歳〕
 ※〔漆山年表〕:『日本木版挿絵本年代順目録』 〔東大〕:『【東京大学/所蔵】草雙紙目録』角書は省略    ☆ 嘉永年間(1848-1853)  ◯『一休禅師世の中百首』往来物 玄魚序 嘉永年間刊〔国書DB〕   (序文)〝千束邑の用水に住む 玄魚(おたまじやくし)述る〟〈原文のルビ〉  ☆ 安政元年(嘉永七年・1854)    ◯「合巻年表」〔東大〕(安政元年刊)    玄魚画(見返しの画工担当)    『遊仙沓春雨草紙』十三編 一寿斎国貞画 見返し 玄魚画 緑亭川柳作 山口屋藤兵衛板    『児雷也豪傑譚』二十五編 国輝画    見返し 玄魚画 種員作   和泉屋市兵衛板    ☆ 安政二年(1855)    ◯「合巻年表」〔東大〕(安政二年刊)    玄魚画(見返し・袋の画工担当)    『玉櫛笥箱根仇討』  三巻 歌川貞秀画  見返し 玄魚 笠亭仙果作    『児雷也豪傑譚』 二十八編 一雄斎国光画 見返し 玄魚 柳下亭種員作    『時代加賀見』    三編 一寿斎国貞画 見返し 玄魚 為永春水作    『風俗浅間嶽』    三編 一寿斎国貞画 袋   玄魚 柳水亭種清作    『白縫譚』     二十編 梅蝶楼国貞画 柳下亭種員 藤岡屋慶次郎板                  序「于楳素軒南窻試筆 宮城魚(玄魚)」    柳緑花紅画(袋の画工担当)    『仮名反古一休草紙』七編 一雄斎国光画 袋「柳緑花紅画」柳下亭種員作       (備考、袋画工の柳緑花紅は八編袋画工「玄魚」と同印で同一人とする)    ◯「百人一首年表」(本HP・Top)(安政二年刊)    玄魚画『俳人百家撰』色摺口絵・挿絵・肖像〔跡見248 異種〕    奥付「肖像 雄斎国輝」「(口絵)真写 楓園玄魚」緑亭川柳編 甘泉堂和泉屋一兵衛板    改名主二印〔村松・福島〕嘉永八乙(安政二年)卯歳次孟春発行    ◯『吉原細見年表』(安政二年刊)   『新吉原仮宅便覧』安政二年十二月 一枚刷(色刷)玉屋山三郎板    署名「応需 玄魚」改印「卯十二」「玉山」    ☆ 安政三年(1856)改印「改・辰月」    ◯「絵本年表」〔漆山年表〕(安政三年刊)    宮城玄魚画『太平纏一覧』一冊 宮城玄魚図〔樗室〕印 錦昇堂板     ◯「合巻年表」〔東大〕(安政三年刊)    玄魚画(口絵・見返し・袋の画工担当)    『仮名反古一休草紙』八編 一雄斎国光画 袋 玄魚画 柳下亭種員作    『雑談雨夜質庫』初編 一陽斎豊国・一曜斎国郷画 口絵 玄魚 為永春水作    『時代加賀見』六編 一寿斎国貞画 見返し 玄魚 為永春水作    『咲替蕣日記』九編 一雄斎国輝画 見返し 玄魚 笠亭仙果作    梅素(玄魚)画    『夢結蝶鳥追』初編 芳幾画 袋 梅素画 種清作     (備考「袋画工の梅素は記名に付く印より玄魚と同一人と知られる」)    ◯「おもちゃ絵年表」〔本HP・Top〕    玄魚画「しんばんまとゐづくし」「玄魚画」辻安「改・辰十」 ①     ☆ 安政四年(1857)(改印:改・巳月)    ◯「合巻年表」〔東大〕(安政四年刊)    玄魚画(見返し・袋の画工担当)    『新増補西国奇談』三編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 袋 玄魚画 為永春水作             四編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 袋 玄魚画 為永春水作    『雲龍九郎偸盗伝』初編 歌川国貞画  表紙口絵 豊国 見返し 玄魚画 三馬遺稿             二編 一寿斎国貞画 表紙口絵 豊国 見返し・袋 玄魚画 楽亭西馬作    『蔦紅葉宇津谷峠』初編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 見返し 玄魚画 柳水亭種清作             二編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 袋 玄魚画 柳水亭種清作    『児雷也豪傑譚』三十編 一龍斎国盛画 表紙 豊国 見返し 玄魚画 柳水亭種清作           三十一編 国盛画    表紙 豊国 見返し 玄魚画 柳水亭種清作    『黄金水大尽盃』 六編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 見返し「水仙子画(印)」為永春水作                 〈「水仙子」は(印)から玄魚とする〉    『童謡妙々車』四編 国貞画 表紙口絵 豊国 見返し・袋 玄魚画 種員作    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕    楳素亭玄魚画    「五十四帖源氏寿語六」「楳素亭戯墨」大国屋金次郎 改印「改・巳二」②⑩    〈明治16年の山本板「五十四帖源氏寿古禄」はこれの流用〉    「辻うら寿ご六」   「玄魚戯画」 遠州屋彦兵衛 改印「改・巳九」②  ◯「【諸芸】大都会無双(おほえどにふたつないもの)」(番付・安政四~五年刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝似顔 こヽんむるいで二つない   一陽斎豊国〟〈古今無類、肖像画の第一人者〉   〝傭書 きやうなふでさき二つない  宮城玄魚〟 〈器用な筆先、筆耕の第一人者〉   〝武者 ぐわさいのいきぐみ二つない 一勇斎国芳〟〈勢いのある絵を画く能力の第一人者〉   〝古風 しばゐのかんばん二つない  鳥居清満〟 〈芝居看板の第一人者〉    ☆ 安政五年(1858)(改印:午月)    ◯「合巻年表」〔東大〕(安政五年刊)    玄魚画(見返し・袋の画工担当)    『雲龍九郎偸盗伝』三編 梅蝶楼国貞画 表紙口絵 豊国 見返し・袋 玄魚 楽亭西馬作             四編 一寿斎国貞画 表紙口絵 豊国 見返し 玄魚   楽亭西馬作    『十勇士尼子柱礎』三編 歌川国貞画  表紙口絵 豊国 見返し 玄魚 為永春水作    『黄金水大尽盃』 七編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 袋 玄魚 為永春水作    『時代加賀見』 十一編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 袋 玄魚 為永春水作            十三編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 見返し・袋 玄魚 為永春水作    『童謡妙々車』  六編 一寿斎国貞画 表紙口絵 豊国 袋 玄魚 柳下亭種員作             七編 国貞画    表紙口絵 豊国 見返し 玄魚画 種員作    『濡衣女鳴神』  三編 歌川国貞画  表紙 豊国 袋 玄魚 為永千章作    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕    玄魚画    「千社参詣出世双六」「梅素亭玄魚画」和泉屋市兵衛 改印「午九」②⑨    「仁義五常振分双六」「豊国・国芳・広重・玄魚画」山本平吉 改印「午九」②⑨  ◯「三幅対衢占語葉(さんぷくつゐつじうらことば)」(番付・安政五年夏刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝叮嚀         柳下亭種員〈合巻作者。この年、安政5年8月、コロリ(コレラ)で亡くなる〉    器用 ちようほうだヨ 宮城玄魚    自由         竹沢弥七〟〈義太夫節の三味線方の名跡、これは五代目か〉    〈梅素亭として絵も画き、筆耕もこなし、発句・狂歌も良くした玄魚、「器用で重宝」の評はぴったりだ〉    ☆ 安政六年(1859)    ◯「合巻年表」〔東大〕(安政六年刊)    玄魚画(見返し・袋の画工担当)    『児雷也豪傑譚』三十四編 国貞画 表紙 豊国 見返し 玄魚画 柳下亭種員作            三十五編 国貞画 表紙 豊国 袋   玄魚画 柳下亭種員作    『新増補西国奇談』八編 国貞画 表紙 豊国 見返し 玄魚画 為永春水補綴    『頼三升曽我神垣』三編 国貞画 見返し 玄魚画 種清作    『黄金水大尽盃』 九編 国貞画 表紙 豊国 見返し 玄魚画 為永春水作    『時代加賀見』 十七編 国貞画 表紙 豊国 見返し 玄魚画 為永春水作    『童謡妙々車』  八編 国貞画 表紙口絵 豊国 袋 玄魚画 種員作    『白縫譚』  二十七編 国貞画 表紙口絵 豊国 見返し・袋 玄魚画 柳下亭種員作           二十八編 国貞画 表紙口絵 豊国 見返し 玄魚画   柳下亭種員作      ◯「【十目視所/十指々所】花王競十種咲分」(番付・安政五~六年春刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝筆頭十才子    狂歌        梅屋鶴子  〈梅屋鶴寿。国芳画とは狂歌の賛を寄せるなど親密な関係があった〉    画家        山形素真  〈谷文晁門人〉    画工        一勇斎国芳    戯作 花の雲    笠亭仙果  〈二世柳亭種彦〉    仏画 鐘はうへのか 神田宗貞  〈未詳〉    傭書 浅くさ歟   宮城玄魚  〈筆耕〉    向座        深川永機  〈俳人二世穂積永機か、向座との関係がよく分からない〉    狂言作       河竹其水  〈河竹黙阿弥、其水は俳号〉    土佐        花所隣春  〈土佐派の福島隣春〉    柳風        佃ノこまめ〟〈「柳風式法」を定めた五世川柳・水谷緑亭(安政5年没)の長子・醒斎ごまめ。佃島住〉    〈これも芭蕉の句、当代の「筆頭十才子」を咲き誇る江戸の桜に見立てた。国芳は豊国に次ぐ別格。玄魚は「傭書」     とあるから筆耕としての評価の方が高いのであろう〉     〈この番付には安政六年三月逝去の、寿海老人(七世市川団十郎)の名が見える。また、常磐津三味線の五世岸沢式佐    が実子に六世を襲名させ、代わりに五世古式部を名乗ったのがこの安政六年である。すると、この番付は安政六年春    の出版とみてよいのだろう〉    ☆ 万延元年(安政七年・1860)     ◯「合巻年表」〔東大〕(安政七年刊)    玄魚画(見返し・袋の画工担当)    『新増補西国奇談』九編 国貞画 表紙 豊国 見返し 玄魚写 為永春水補綴             十編 国貞画 表紙 豊国 見返し 玄魚写 為永春水補綴    『時代加賀見』 十八編 国貞画 表紙 豊国 袋 玄魚画 為永春水作    『風俗浅間嶽』  九編 国貞画 表紙 国芳画 芳房補助 袋 玄魚 柳水亭種清作        ◯『吉原細見年表』(安政七年刊)   『新吉原細見記』安政七年春 縦中本 序「安政七庚申新春 梅素亭玄魚記」    袋(図柄は遊女の立姿図)「申の春新刻」「花柳園板」「玄魚画」    「【新吉原/仲之町/五十間道】玉楼蔵板 讃岐屋幸助 蔦屋松蔵」     ☆ 文久元年(万延二年・1861)     ◯「合巻年表」〔東大〕   ◇合巻(万延二年刊)    玄魚画(見返し・袋の画工担当)    『仮名反古一休草紙』十三編 一勇斎国芳・一恵斎芳幾画 見返し 玄魚画 柳煙亭種久    『十勇士尼子柱礎』四編 歌川国貞画  表紙口絵 豊国 袋 玄魚画 為永春水作    『雲龍九郎偸盗伝』五編 一寿斎国貞画 表紙口絵 豊国 見返し 玄魚画 楽亭西馬作    『黄金水大尽盃』十一編 一勇斎国芳画 見返し 玄魚画 袋 附斎画 為永春水作    『時代加賀見』二十二編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 見返し 玄魚画 為永春水作           二十三編 歌川国貞画  表紙 豊国 見返し・袋 玄魚画 為永春水作            二十四編 歌川国貞画  表紙 豊国 見返し・袋 玄魚画 為永春水作    『風俗浅間嶽』  十編 一勇斎芳幾画 見返し 玄魚画 柳水亭種清作            十一編 一勇斎芳幾画 見返し 玄魚画 袋「楳素(玄魚)」柳水亭種清作    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕  ◯「からみ鳳巾(たこ)魁すごろく」「一恵斎芳幾画」近江屋久次郎 文久1年11月 ②                  「菱川玄魚筆」(凧の絵達磨)   「新撰銘酒寿語禄」「梅素亭玄魚摹」広岡屋幸助 文久1年12月 ②    ◯「【芸園通家】三是相流行合性(さんぜそうときにあいしやう)」    (番付・文久元年春刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝新図 流行は  山形素真 〈絵師、谷文晁の門人〉    新案 やらず  梅素亭玄魚    新幕 のがさず 市川米舛〟〈四代目市川小団次か〉    〈三者に「新」が付いているから、常に新しい試みを行うという評価なのであろう〉     ◯「東都自慢華競(えどじまんはなくらべ)」(番付・文久元年八月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝傭書 名代の  宮城玄魚    口画 つはもの 綾岡輝松〟〈傭書は筆耕、口画は口絵か〉    ☆ 文久二年(1862)    ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(1862年)   ⑤「玄魚」(犬張り子・千歳飴の袋図)袋「文久二年」8/24     狂歌賛〈賛に大の月を組み込む〉    ◯「合巻年表」〔東大〕(文久二年刊)    玄魚画(見返し・袋の画工担当)    『新増補西国奇談』十三編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 見返し 玄魚画 為永春水作    『黄金水大尽盃』 十三編 一恵斎芳幾画 見返し・袋 玄魚画 為永春水作    『時代加賀見』 二十五編 歌川国貞画 表紙 豊国 見返し・袋 玄魚画 為永春水作            二十六編 歌川国貞画 表紙 豊国 見返し 玄魚画 為永春水作     ☆ 文久三年(1863)  ◯「絵暦年表」(本HP・Top)(文久三年)   ⑧「玄魚画賛」「獅子舞」(太鼓を敲く獅子舞と「亥」の字凧をもった子供の図)Ⅰ-12     句賛〈獅子頭の描線に大の月、句賛に小の月を詠み込む〉     ◯「合巻年表」〔東大〕(文久三年刊)    玄魚画(見返し・袋の画工担当)    『時代加賀見』     二十七編 歌川国貞画  表紙 豊国 見返し・袋 玄魚画 為永春水作     二十八編 歌川国貞画  表紙 豊国 見返し 玄魚画   為永春水作     二十九編 梅蝶楼国貞画 表紙 豊国 袋   玄魚画   為永春水作    『白縫譚』     三十七編 芳幾画    表紙 芳幾 見返し・袋 玄魚画 種員作・種彦校     三十八編 一恵斎芳幾画 見返し 玄魚画 柳下亭種員稿・柳亭種彦補述     三十九編 恵さいよし幾画 袋 玄魚 柳亭種彦作  ☆ 文久年間(1861~63)  ◯「文久年間 三題咄作者評判」(『読売新聞』明治30年(1897)2月1日附録)   (当時の戯作者の評判番付)   〝立役之部    至上上吉 一蕙斎芳幾 此頃はめつきり油の乗た 家鴨〟   〝実悪之部    至上上吉 梅素玄魚  お穿ちは聞えてあれど 茶の薄い小倉の庵温泉    至上上吉 仮名垣魯文 時に寄て出来不出来のある 一筋染の手拭〟  ☆ 元治元年(文久四年・1864)     ◯「合巻年表」〔東大〕(元治元年刊)    梅素玄魚画(袋の画工担当)    『昔噺誉れの達贔屓』二編 上冊 一恵斎芳幾画 下冊 一蘭斎国綱画 袋「玄魚」藤本吐蚊作    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕   「花暦遊山双六」玄魚 板元未詳 文久四年 ②    ☆ 慶応元年(元治二年・1865)(改印:丑月改)     ◯「合巻年表」〔東大〕(慶応元年刊)    梅素亭玄魚画(見返し・袋の画工担当)    『時代加賀見』三十四編 一寿斎国貞画 表紙 豊国 見返し「玄魚画」為永春水作           三十五編 歌川国貞画  表紙 豊国 袋「玄魚画」  為永春水作  ☆ 慶応二年(1866)    ◯「【一時雷鳴/流行批判】活模様浮世雛形(だてもよううきよひながた)」   (番付・慶応二年二月刊『日本庶民文化史集成』第八巻所収)   〝探索 うかちのおきを 花廼屋蛙麿〈『燕石十種』を編んだ岩本五一、号達磨屋、蛙麿は狂名〉    筆作 こへためとす  梅素亭玄魚    〈批評文の読みに不安あり、意味も分からない〉    ☆ 慶応三年(1867)     ◯「合巻年表」〔東大〕(慶応三年刊)    梅素亭玄魚画(見返し・袋の画工担当)    『時代加賀見』三十六編 梅蝶楼国貞作 見返し「玄魚画」袋「梅素画」為永春水作           三十七編 梅蝶楼国貞作 見返し「玄魚画」袋「梅素画」為永春水作    ☆ 明治元年(慶応四年・1868)     ◯「合巻年表」〔東大〕(元治元年刊)    梅素亭玄魚画(見返し・袋の画工担当)    『時代加賀見』三十八編 梅蝶楼国貞画 見返し・袋「玄魚画」為永春水作           三十九編 歌川国貞画  袋「玄魚画」為永春水作    『薄緑娘白浪』  初編 芳幾画 袋「梅素画」魯文作  ☆ 明治四年(1871)     ◯「合巻年表」〔東大〕(明治四年刊)    梅素亭玄魚画(見返しの画工担当)    『時代加賀見』四十一編 梅蝶楼国貞画 見返し「梅素画」為永春水作     ☆ 明治五年(1872)     ◯「合巻年表」〔東大〕(明治五年刊)    梅素亭玄魚画(見返しの画工担当)    『時代加賀見』四十二編 歌川豊国画 見返し「玄魚画」為永春水作     ☆ 明治六年(1873)     ◯「合巻年表」〔東大〕(明治六年刊)    梅素亭玄魚画(見返しの画工岩頭)    『時代加賀見』四十三編 歌川豊国画 見返し「玄魚画」為永春水作    ◯「高名三幅対」(東花堂 明治六年春改正)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝書画 三芳丁 梅素玄魚/商法 駒込 高崎屋長右エ門/浮世絵 松川丁 錦朝楼芳虎〟  ☆ 明治前期  ◯「【当時一品】名誉博覧会」明治前期刊(『美術番付集成』瀬木慎一著・異文出版・平成12年刊)   〝西洋造のシヤプ きようなこしらい    ◎ 梅素玄魚 ・杵屋勝三郎・二木家庄蔵・竹本勢見太夫・中村時蔵〟    〈この番付の刊年は明治七年と推定される。根拠は下掲本HP「浮世絵事典」の「浮世絵師番付」参照のこと。◎は判     読できなかった文字〉    浮世絵師番付「☆明治前期」参照  ☆ 明治八年(1874)  ◯「皇国名誉君方独案内」(日明社 明治八年刊)   (東京都立図書館デジタルアーカイブ 番付)   〝画家 有楽町 岡部永知/筆耕 浅草厩カシ 梅素玄魚〟  ☆ 明治十年(1877)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕   「宝山松開花双六」惺々暁斎・芳年・楊洲周延・梅素・広重・国周・誠一            ◯◯・素岳・宝丹 堺屋守田重兵衛版 明治十年頃 ⑤②⑩  ◯『明治十年内国勧業博覧会出品目録』1(内国勧業博覧会事務局)   (内国勧業博覧会 明治10年(1877)8月21日~11月30日・於上野公園)   (国立国会図書館デジタルコレクション)    〝第二区(製造物)第九類(衣服宝玉及装飾)      団扇 伊予奉書紙油引、画工 浅草三好町 梅素玄魚摺職 小梅村飛地 浦野亥之助         小判形黄金画(出品者)堀江町一丁目 石福己之助〟  ☆ 明治十二年(1879)  ◯『明治文雅姓名録』(清水信夫編 出版社不明 明治12年序)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝書画  梅素 宮城玄魚 浅草三好町二番地    詩文書 藍泉 高畠藍泉 南茅場町四十番地    画   楓湖 松本楓湖 浅草栄久町四十二番地    画   是真 柴田是真 浅草上平右衛門町十一番地〟  ☆ 明治十三年(1880)(二月七日没・六十四歳)     ◯「読売新聞」(明治13年2月10日)   〝浅草三好町の梅素亭玄魚翁ハ兼て病気で居られたが、去る七日に六十四を一期として死去されたハ惜し    い事でありました〟  ◯『本之話』(三村竹清著・昭和五年(1930)十月刊)   (出典『三村竹清集一』日本書誌学大系23-(2)・青裳堂・昭和57年刊)   「魯文の交友」(カッコ【~】は仮名垣魯文の文。地の文は竹清)   〝【傭書家宮城長三郞、明治十三年二月七日 両国広小路寓居に寂、六十四歳、号は整軒玄魚 別号蝌蚪、     玉杓子、楓阿弥、又梅素亭、神田石町経師の伜、浅草諏訪町茶器商 万屋吉兵衛雇丁稚たり、墓は谷     中天王寺墓地猫塚の北】    玄魚の事は「耄録」(魯文手帳、明治二十五六両年記)に在り〟    ☆ 没後資料  ◯『見ぬ世の友』巻十四(東都掃墓会 明治三十四年(1900)刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(巻14-21 7/76コマ)   〝明治十三年二月七日 宮城玄魚 号梅素 年六十四 葬于谷中天王寺〟  ◯『東京商人録』(横山錦柵編 大日本商人録社 明治十三年七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   (「め之部」「名家」の項 196コマ~/227)   〝詩 文 書  高畠藍泉 西鳥越町三番地    書 画 梅素 宮城玄魚 蛎殻町二丁目四番地 香楠居    画   是真 柴田順蔵 浅草上平右衛門町十一番地〟  ☆ 明治十四年(1881)  ◯『現今東京文雅人名録』(竹原得良編 橋本定吉 明治十四年六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   〝書 梅素薫(通称空欄)浜町三丁目五番地〟    ☆ 明治十六年(1883)    ◯「双六年表」〔本HP・Top〕   「五十四帖源氏寿古禄」「楳素亭戯墨」山本平吉 明治16年12月 ②    〈安政4年2月の「五十四帖源氏寿語六」(楳素亭玄魚画)の流用。梅素亭元魚は明治13年没〉   ☆ 明治十七年(1884)  ◯『東京案内』(児玉永成編 錦栄堂 明治十七年一月刊)   (「書画版原師」の項)   〝梅素亭薫 村松丁〟    ◯『浮世絵師便覧』p225(飯島半十郎(虚心)著・明治二十六年(1893)刊)   〝玄魚(ゲンキヨ)    宮城氏、俗称喜三郎、浮世絵専門にあらざれ共、挿画、奉灯の画多し、明治十二三年頃死〟    ◯『名人忌辰録』下巻p29(関根只誠著・明治二十七(1894)年刊)   〝宮城玄魚 梅素    通称三郎(ママ)、号玉杓子、器用なる質にして書画篆刻をもなし、戯文戯作をもしたり。明治十三年二月    七日歿す、歳六十四。谷中天王寺に葬る〟  ◯『浮世絵備考』(梅本塵山編 東陽堂 明治三十一年(1898)六月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)(82/103コマ)   〝梅素玄魚【万延一年間 1860】    宮城氏、通称喜三郞、一に梅素亭と号す、浮世絵師にあらざれども、書画の板下を善くし、燈籠の画を    かけり、頗る好劇の癖ありて、団十郎老爺と戯号し、六二連の幹事をなしたり、浅草黒船町に住みしが、    火災に遇ひて、両国吉川町に寓居せり、明治十三年二月病に罹りて没す、享年六十四、時世の狂歌に、      何時に迎が来てもこゝろよく 南無阿弥陀仏六時ごろなり〟  ☆ 大正年間(1912-1925)  ◯『此花』第十四号(朝倉亀三著 此花社 大正二年(1913)十一月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「江戸時代の広告法 ビラ広告」   〝(上略)絵の方では斯道の名手で、後世ビラ絵の元祖と称せらて居るのである。続いて芳艶・芳兼・玄    魚等は何れもビラ絵を能くしたものだが(下略)〟  ◯「集古会」第九十六回 大正三年(1914)一月(『集古会志』甲寅二 大正4年10月刊)   〝竹内久一(出品者)玄魚画 凧尽し双六〟  ◯『浮世絵』第二号(酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「千社札と浮世絵」扇のひろ麿(13/24コマ)   〝(文化時代から慶応末年にかけて浮世絵の納札(おさめふだ・千社札)を画いた画工)    玄魚 福新 国芳 芳艶(以下の画工名略)    玄魚は筆耕を兼ね(中略)傭書家として名をなした〟    〈本HP「浮世絵事典」【せ】「千社札・色札」参照〉  ◯『浮世絵』第三号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「千社札と浮世絵(下)」扇のひろ麿   〝いろは壁(ママたとへ)神仏名勝双六 一立斎広重画    千社詣出世双六  梅素亭玄魚図    額面相稲荷双六  仮名垣魯文案 一惠斎芳幾画    (千社札を)合巻ものゝ外題画に応用したのは 文政頃から豊国等が用ひて居たが、包袋(ふくろ)や見    返しに烈しくこれを利用したのは、納札第二次全盛期たる 安政から文久にわたつて、時代鏡・倭文庫    ・犬の艸紙・しらぬい等で 滑稽富士詣【魯文作/芳虎画 万延元年版】の見返しには五月蠅(うるさい)    程応用してある、これは其時代 包紙や表帋、扉に筆を取つたのが、納札書師の梅素玄魚であつたのと、    且つ画工の芳幾、芳虎、作者の魯文、種員、応賀なぞも一つ仲間であつた為、この方へ図案が落ちたも    のと思はれた〟   〈本HP「浮世絵事典」【い】「色札」参照〉    色札 納札(本HP「浮世絵事典」【せ】「千社札・色札」)  ◯『浮世絵』第十五号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正五年(1916)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「偽の菱川氏」宮武外骨(18/26)   〝菱川玄魚    宮城玄魚と云つちやァ、明治維新の前後、意匠家の名を博した江戸ッ子であるに、此子も亦イカサマ者    の仲間と見ねばならぬ証拠物がある、それは文久元年発行の「からみ鳳巾(たこ)さきがけ双六」に達磨    の絵を描いて「菱川玄魚筆(呂茂)」と署してある〟  ◯「明治十年前後」(淡島寒月著『早稲田文学』第二二九号 大正十四年三月)   (『梵雲庵雑話』岩浪文庫本 p37)   〝劇評では二六連の富田砂燕という人がいた。この人の前には梅素玄魚という人がいた。後にこの人は楽    屋白粉というものをつくって売り出すような事をしたものである〟  ☆ 昭和以降(1926~)    ◯『狂歌人名辞書』p72(狩野快庵編・昭和三年(1828)刊)   〝梅索(ママ)玄魚、樗堂、又、呂成と号す、通称宮城喜三郎、東京浅草三好町の傭書家にして画、俳句、狂    歌を善くす、明治十三年二月七日歿す、年六十四、谷中天王寺に葬る〟    ◯「日本小説作家人名辞書」p739(山崎麓編『日本小説書目年表』所収、昭和四年(1929)刊)   〝玄魚    通称宮城喜三郎、梅素玄魚、樗堂、呂成、整軒、楓園蝌蚪子、水仙子、小井居、楓阿弥と号す。江戸浅    草三好町の筆耕、俳諧を児島大梅及守村抱儀に学ぶ。師匠なしでびら画の名人と称せられた。明治十三    年(1879)二月七日歿、年六十四。谷中天王寺に葬る。「浪輝黄金鯱」三編(慶応三年刊)の合作者の    一人〟    ◯『浮世絵師伝』p65(井上和雄著・昭和六年(1931)刊)   〝玄魚    【生】文化十四年(1817) 【歿】明治十三年(1880)二月七日-六十四    【画系】         【作画期】弘化~慶応    宮城氏、俗称喜三郎、整軒・風園。蝌蚪(カト)子・水仙子・小井居・梅素亭などの数号あり。父は喜斎    玄魚、名は貞雄、俗称喜三郎といひて本石町四丁目に住し大経師を以て業とす、国学を岸本由豆流に学    び、詠歌に秀逸多しといふ、梅素玄魚は即ち其が長子にして十五歳の時浅草諏訪町の書画骨董舗金子吉    兵衛方に雇はれ二十歳の時之れを辞して家に帰る、後ち摺物の図案及び草双紙の袋絵などに独特の意匠    を凝らし書画共に能くしたりき、又、安政二年十月江戸大地震ありし時彼の考案にて鯰の樣々に扮装し    たる戯画を出版せしに意外に好評を博し、都下の各絵双紙店にて数万枚を売尽せしかば、重ねて版下を    講ふ者陸続として彼が家に集まりしと云ふ、純粋の浮世絵師にはあらざれども、浮世絵と関係深きを以    て姑くこゝに載す。墓所、谷中天王寺〟    ◯『浮世絵年表』(漆山天童著・昭和九年(1934)刊)   ◇「文化一四年 丁丑」(1817)p190   〝宮城玄魚生る。(梅素・玉(*一字不明)子等の号あり、浮世絵を画き、草草紙の見返しに多く画けり。    明治十三年二月七日歿す。行年六十四歳)〟     ◇「安政二年 乙卯」(1855)p235   〝正月、雄斎国輝と宮城玄魚の画ける『俳人百家撰』出版〟     ◇「慶応元年(四月十八日)乙丑」(1865)p242   〝此頃より、絵合流行し、此年芳幾・是真・京水・幾丸・鳥居清満(六代歟)鄰春・玄魚等の合作『花吹    雪』二冊出版、蓋し絵合なり〟    ◯『東京掃苔録』(藤波和子著・昭和十五年(1840)四月序 八木書店 昭和48年版)   〝下谷区 谷中墓地(谷中天王寺町)    宮城玄魚(画家)名喜三郞、梅素、玉杓子と号す。書を巻掖山に学び、戯作戯文、篆刻をよくす。明治    十三年二月七日没、年六十四(甲種甲第四号三側)〟    ◯『明治世相百話』(山本笑月著・第一書房・昭和十一年(1936)刊   ◇「魯文時代の引札類 新世相を語る風俗資料」p44   〝〈明治初期の引札〉添画の方は、芳幾、輝松、玄魚、月耕など初期に属する〟   ◇「劇評の元祖『評判記』」   〝六二連といえば見巧者の随一、幹事の高須砂燕、梅素亭玄魚の三名が黒表紙の『評判記』を出したのは    明治十一年から二十年まで。これが劇評の始まりで、役者の位付も載せ、旧式ながら権威のあったもの。    この連中の平土間で総見、いつも小一近くにいる高須翁の白髪頭が目に立った。玄魚は是真風の絵をか    き、初めて引幕に上品な花鳥の画面を現した率先者、つづいて永井素岳氏も得意の彩筆を揮った〟    ◯「幕末明治の浮世絵師伝」『幕末明治の浮世絵師集成』p88(樋口弘著・昭和37年改訂増補版)   〝玄魚(げんぎよ)    宮城喜三郎、梅素亭、整軒、楓園、水仙子、小井居などの数号がある。経師屋の息子として、少年の頃    から骨董商に傭われその後これを辞し、摺物の図案、草双子の袋絵等に独特の意匠をこらしていた。安    政二年の大地震には、絵を主題とした各種の戯画を出して、頗る売れたという。その後も各種の諷刺画    を描いている。純粋の浮世絵師ではないが、非常の関係密接な人である。文化十四年生れ、明治十三年、    六十四才で歿している〟    ◯「日本古典籍総合目録」(国文学研究資料館)   〔梅素亭玄魚画版本〕    作品数:10点(「作品数」は必ずしも「分類」や「成立年」の点数合計と一致するとは限りません)    画号他:宮城・呂成・整軒・梅素玄魚・宮城呂成・玄魚・整軒玄魚・宮城玄魚・梅素亭        梅素亭玄魚    分 類:歌謡(都々逸等)3・地図2・合巻1・往来物1・風俗(吉原細見)1・建築1・消防1    成立年:嘉永5年  (1点)        安政3・7年(3点)        慶応3年  (1点)