Top浮世絵文献資料館浮世絵師総覧
 
☆ 千社札(いろふだ 色札)〔未定稿〕浮世絵事典
 ※千社札には大別して二種類あり。一つは名前・住所・屋号・模様を墨刷にした貼札(はりふだ)と呼ばれるもの。もう一つは   錦絵のような絵柄やカラフルなデザインを楽しむ色札(いろふだ)と呼ばれるもの。実際に寺社に貼るのが貼札。色札は専ら   鑑賞用で、愛好家同士制作し交換し合うところから交換納札(おさめふだ)とも呼ばれる。大きさは大錦判(奉書)の十六分割   でかたちは短冊形。ここでは色札の制作に関わった浮世絵師のみ扱う〉  <色札の画工>  ◯『千社札』(国立国会図書館デジタルコレクション)(寄別3-3-2-4)      ◇[1]上(札の年紀 画工の署名)    安政六未年(1859)    一英斎芳艶 一光斎芳盛 一恵斎芳幾 一勇斎国芳 万字斎(墨念人・卍斎)田蝶 重宣改二代目広重    芳綱 芳盛 芳虎 艶豊 艶政  歌綱 国貞(二代) 国麿 重清 玄魚 福新 呑青 徳斎 綱長    明治廿七年十月〈他にどの札が明治27年のものか分からない〉    彫工板常 彫竹 ホリ富 彫徳 摺工江銀 スリ錦好   ◇[2]中(札の年紀 画工の署名)    安政六未年(1859)    一梅斎芳春 万字 玄魚 歌重 よし盛    明治卅二年 神田伊世万    〈絵札は皆無、紋様と町名と名前のみ〉    彫辰 摺物師錦好斎   ◇[3]下    安政六未年(1859)    一英斎芳艶 一嶺斎芳雪 一登斎歌川芳綱 芳盛 呑青 重清 広重(二代)    彫工萩原京春 不落斎稲令製 摺江銀   ◯『千社札』続集(国立国会図書館デジタルコレクション)(寄別3-3-2-1)   (江戸後期の色刷千社札の貼交帖)   ◇一巻(札の年紀 画工の署名)    午の春(3/17コマ) 安政五年(1858)か    一嶺斎芳雪「東名所の内」    一英斎芳艶「吉原五節句之内」「赤城義雄揃」     万字斎田蝶「十二ヶ月の内」    一蕙斎芳幾 広重(初代) 歌重 艶長 艶豊 艶政 玄魚 歌広 光斎(芳盛) 福新 咲太    彫佐七 摺錦好 摺江銀   ◇二巻(札の年紀 画工の署名)    午正(17/19コマ)安政五年(1858)か    文久元年(1861)十月大会    小杉斎福新 ひさこ 田蝶(万字斎) 一恵斎芳幾 芳綱 玄魚    彫板常 彫芳 摺江銀 スリいづる   ◇三巻(札の年紀 画工の署名)    安政六年    文久元年~同二年(1861-62)    一寿斎芳員「尼子十勇士」     一英斎芳艶「水滸伝豪傑百八人」     一恵斎芳幾「七福人連中之内」    一光斎芳盛 一電斎芳辰 万字斎(田蝶・卍斎) 小杉斎福新    市場 歌綱 重清 寿楽 芳綱 綾岡 狂斎 国麿 雲塘斎 玄魚 天宗    彫小金 彫兼 ホリトミ 佐七 摺江銀 摺錦好斎 摺江鉄  ◯『千社札』 [江戸後期-明治](国立国会図書館デジタルコレクション)(寄別3-3-1-1)   ◇[1](札の年紀 画工の署名)    文政二年(1819) 文政六年(1823)    玉渓 おうむ板    〈殆どが図柄のない名前札で墨一色〉   ◇[2](札の年紀 画工の署名)    文政六年(1823)    光斎 中ばし竹三画    〈殆どが模様と住所と名前からなる墨一色あるいは数色のものもある〉   ◇[3](札の年紀 画工の署名)    天保十年(1839)    安政六未年(1858)    万延元申年(1860)    一梅斎芳春 小杉斎福新 芳幾 高橋 玄魚 鶴竹 凸凹 田喜三 丁栄〔卍〕 春川豊吉 里光    一嶺斎芳雪「東名所」〈日本橋・浅草等の十景に美人の今様姿を配した色摺の千社札〉    一英斎芳艶「稲葉幸蔵」〈稲葉幸蔵こと鼠小僧の芝居は『鼠小紋東君新形』で初演は安政四年正月〉    耕漁「翁面」柳蛙「東の花巴の納札」〈明治期のもの〉    「安政六未 御札錦好斎」札〈錦好斎は摺師。多くの納札の製作に係わるほか自ら作画も行う〉    彫徳 ホリ佐七 彫兼吉 彫富 彫鈴木辰五郎 摺江銀 スリ錦好    ◇[4](札の年紀 画工の署名)    安政六未年(1859)六月大会(会場光景)「一登斎歌川芳綱画 彫工萩原京春 不落斎稲令製」(札八枚)    元治元子年(1864)    元治二丑年(1865)    万字(卍)斎田蝶(町火消た組の勢揃い 札八枚)    月岡(一魁斎・玉桜)芳年 鳥居清満 晃明 広重(二代) 芳綱(仏像頭部の煤払い 札六枚)     芳虎 一光斎芳盛 一恵斎芳幾 芳艶 歌綱 一梅斎芳春 玄魚 国直 国繁 小杉斎福新    芳辰 二代広近 魯文自画賛    彫徳 彫常 彫佐七 ほり牛 ホリ友 彫辰 摺錦好 摺江銀   ◇[5]    〈安政~文久年間のもの。模様と住所と名前からなる絵柄のない千社札がほとんど。浮世絵関係者の札〉    彫辰 一耀斎艶豊 彫長 二代目国重 芳艶 彫長 錦好斎 一英斎芳艶 芳兼 板木常   ◇[6]    文久元年(1861)十月大会(会場光景)広重(二代)画    〈紋様と住所と名前からなる絵柄のない千社札がほとんど。浮世絵関係者と思われる札〉    摺物師錦好斎 墨念人田蝶 彫安 彫長 板木常 芳富   ◇[7]    安政六年(1859)    慶応元年(1486)    田蝶(墨念人・万字斎)〔卍斎〕恵斎芳幾 一登斎芳綱 天宗 小杉斎福新 玄魚 一光斎芳盛     ひさこ 京水 歌つな 呑青 一英斎芳艶    道化連 田蝶  彫政 彫長 江銀    彫工板常 彫政 板木常 彫徳 彫長 摺錦好斎 江ぎん   ◇[8]    安政五~六年    慶応元年    明治三年    一英斎芳艶「赤城義雄揃」(組物)    豊斎「歌舞伎十八番の内」(組物)    玉渓「五十三次連」(組物)    歌重「無題(橋場の渡し)」(四丁)    一恵斎芳幾  梅蝶楼国貞 哥つな(歌綱) 一光斎芳盛 綾岡 徳斎 一登斎芳綱    ひさこ 芳辰 国鶴 寿楽 狂斎 田蝶 玄魚     彫佐七 ホリ翁安 彫徳 彫芳 彫兼(カ子) 摺錦好斎 摺江銀 摺工松   ◯『明治時代千社札』寄別3-4-3-1   ◇[1]    明治三十八~三十九年    暁亭(子供合わせ・札十四枚)    梅堂(鉢植え朝顔に名前 札三十四枚)    豊斎「廿四孝」(札二十四枚)「女暫」「忠臣蔵一~十二段目」(札十二枚)    周◎(仮名手本忠臣蔵・登場人物)〈周延か〉    清忠「助六」    高橋 清忠 国峰    ◇[2]    「明治廿二丑年三月一日 駒形鈴木亭ニおゐて」巴連 石井新    明治二十三~三十二年    広重(三代)「東京名所之内」    南園 さわた 梅花櫛朝 㐂遊 ◎英 国周筆(五人男)光玉 鳥居清貞(勧進帳)    香斎    彫源 摺竹内 スリ錦芳斎    「巴連の号は文政年中始めて札印を同ふし連札と云者起る 其時より始り 後安政の年に新栄と云者     大ひに此連を弘む 其後中絶せしを明治の廿一年五月 又々五六の人集り連名を起す それに次ひで     で続々入連なす者大ひに多く 実に納札連中の一二を下らざる盛連となりしも 他連ニ倍し連員一同     信心厚く我国の団結心強きより 今日の大盛を見る事しかり        明治三十年七月  石井新誌」    〈これは巴連の沿革であるが、納札の制作ブームと重なり合っているように思う。まず、文政期(1818-29)に連札(横幅     が二枚分の二丁札)ブームが起こり、安政(1854-59)の頃の隆盛を経て、明治二十年代の最盛期に至ると。これは上掲     納札帖の年紀と一致している〉   ◇[3]    明治三十八年六月二十日 鳥居清忠写(翁 平忠盛、油坊主)    明治三十八年七月 交換会 豊斎画    高橋 嘉年子 櫛朝 至楽      ◇[4]    明治三十八~三十九年    豊斎(歌舞伎十八番の内ほか)    江月 中村 鳥居清忠 暁亭 宮田  櫛朝 至楽    彫金 彫源  ◯『千社札貼込帖』寄別7-7-1-3   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇[2]    明治三十六年 巴連故員追福会 松下尚悦画    明治三十八年    大正元~九年    梅堂豊斎「故国周筆ヲ豊斎写」    国貞「近世水滸伝」樵舟「江戸玩具合」    蝸堂 是真    彫金 彫源 摺扇令  ◯『大正時代千社札』寄別3-4-1-1   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇[1]    大正二年    豊斎(梅堂)「東海道」    高橋 山畝 至楽 国芳 清忠 柳蛙 古城     彫源 彫金   ◇[2]    大正三年(毎月納札会)    梅堂 至楽 古城 櫛朝  ◯『江戸版画集』(早稲田大学・古典籍総合データベース)チ05 03720   (千社札のみ収録)    一寿斎芳員「尼子十勇士」    一英斎芳艶「水滸伝豪傑百八人」    哥綱 福新 芳綱 国光    ホリ板常 彫小金    〈『千社札』続集 三巻に芳員「尼子十勇士」あり。安政~文久年間と推定される〉  ◯『浮世絵』第二号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)七月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「千社札と浮世絵」扇のひろ麿(13/24コマ)   〝 この納札(千社札)は道歩札と交換札の二つに分れて居て、道歩といふのは、神社仏閣を貼つて歩く    墨摺一遍に限るもの、交換札は一定の席上へ寄つて各自意匠を凝らした札を互に交換するもので、これ    には彩色五六遍より、多きは廿余遍摺に至るものがある。     千社札に浮世絵を応用したのは、今云つた交換札に属するもので、先づ交換札の起りを云ふと、寛政    十一年己未四月五日京橋卅間堀三丁目長島(題名を銀市と云ふ)方で、始めて江戸中大寄合と云ふ名の    下に開いたのであつた。     この大寄合を文化十一年四月五日とする人があるが、これは何かの間違いであらう、寛政十一年と云    ふ確たる證は山中笑先生が珍蔵せらる、銀谷留自帖「寄合札貼込帳」の巻頭に「寛政十一年未四月五日    始めて江戸中大寄合引札のづ」として其時出した、ちらしの写しがあるのを見ても、文化とするのは誤    りである。     此交換会が浮世絵と接近する萌芽(めざし)となつて、今迄題名で意匠を凝して居たものが、絵を加え    て題名に応用する傾向が現はれて来た。     浮世絵として納札(千社札)に署名したのは、自分の見た所で古いと思つたのは、秋月等琳であつた。    これは文化~文政時代で、其頃玉渓と云ふ人が「東海道五十三次」を二丁札で五十五枚揃ひを描いた、    此玉渓は伝が詳(つまびら)かでないが、或は岡田玉山の門人ではあるまいか、姑(しばら)く疑ひを存し    て置く、天保となつて渓斎英泉と北斎門人の北僊が描き出した、この人は画桂老人、卍斎と云つて、画    風は師の北斎に極似(こくじ)して居る、別図に出した「笑ひ上戸」が即ちそれである。     天保~嘉永時代は色彩も二三遍乃至(ないし)五六遍位ひの淡彩だつた、安政二年大地震後から所謂世    直しと云つて 一般に金廻りが能くなつて 殊に此連中が八分職人が多かつたので、これへ落ちる金が    少なからぬものであつた為 随つて納札交換会の開催も盛んなる事、月に五六回の多きに達した。其度    毎(そのたびごと)に各自意匠を競つて出した札は、彩色十五六遍から廿余遍摺位ひまであつて、殆んど    千社札をして錦絵化したと云つても遜色のない程で、此時代の筆者は云ふまでもない歌川派を以て占め    て居るが、流石に御大名と云はれた三代豊国は御免を蒙つたか一枚も見当らぬ 随つて門下もあまり書    いて居ぬ、只二代目梅蝶楼国貞が深川の梅春連(主催梅の屋春吉)に委嘱されて 似顔絵を描いたのと、    豊国没後 慶応の末から明治初年にかけて、国周、国輝、国峰が少し斗り描いた丈(だけ)である。     そこへ行くと、べらんめえの国芳は、門下全部を引提げて倶利伽羅(くりから)もん/\の兄イの背中    へ張りつけたような、宋朝水滸伝や尼子十勇士、さては八犬士、四十七士等を連札として描き捲つて居    る、こゝいらは豊国と国芳の性格が、自ら知れて面白いと思ふ、今文化時代から慶応末年迄の筆者を並    べて見ると、      等琳  玉渓  北僊  英泉  広重 二世広重 三世広重 ◯玄魚 ◯福新  国芳      芳艶  芳綱  芳幾 ◯芳兼  芳藤   芳盛   芳年  芳員  芳宗  芳雪      芳虎  芳春  芳景  芳辰  芳富  ◯芳豊   艶長  艶政  国貞  国周      国輝  国峰  歌綱  是真  狂斎   綾岡   光峨     右の内、◯印の、玄魚、福新、芳兼、艶豊の四人は筆耕を兼ねたので、玄魚は傭書家として名をなし    た梅素亭玄魚、福新は両国の扇子(あふぎ)屋で小杉斎と云つた、芳兼は竹内梅月、万字斎田てうと云つ    て 現今彫刻家の名手竹内久一翁の厳父である。艶豊は元多町の八百屋だつたので 通称市場豊と云つ    た、ちから文字とかぬり文字とか云ふ所謂撥鬢的の字は、玄魚(前名田キサ)と田てうの二人が殊に勝れ    て居た。     次にこれに携さはつた彫師と摺師とを挙げると、頭彫の名人たる、横川の彫竹・松島町の彫政、筆耕    彫の名手たる浅草の彫安を始め 彫辰・彫常・彫徳・彫富・佐七・兼吉、片田の彫長等で、此内彫政と    彫安は文久時代で腕はすばらしかつたが、懶(なま)けるのが疵だつた。摺師としては、中橋の不落斎、    堀田原の江ぎん(江崎屋銀蔵)・駒形の錦好斎・本定(ほんさだ)等であつた〟    〈納札(おさめふだ)とは、千社札のうち錦絵のような色摺のものをいう。文化頃から興って幕末まで盛んに製作された     らしい。作画はおもに国芳門流が請け負って、同じ歌川でも三代豊国の系統では総帥の豊国はじめあまり積極的でな     かったようだ〉  ◯『浮世絵』第三号 (酒井庄吉編 浮世絵社 大正四年(1915)八月刊)   (国立国会図書館デジタルコレクション)   ◇「千社札と浮世絵(下)」扇のひろ麿   〝いろは壁(ママたとへ)神仏名勝双六 一立斎広重画    千社詣出世双六  梅素亭玄魚図    額面相稲荷双六  仮名垣魯文案 一惠斎芳幾画    (千社札を)合巻ものゝ外題画に応用したのは 文政頃から豊国等が用ひて居たが、包袋(ふくろ)や見    返しに烈しくこれを利用したのは、納札第二次全盛期たる 安政から文久にわたつて、時代鏡・倭文庫    ・犬の艸紙・しらぬい等で 滑稽富士詣【魯文作/芳虎画 万延元年版】の見返しには五月蠅(うるさい)    程応用してある、これは其時代 包紙や表帋、扉に筆を取つたのが、納札書師の梅素玄魚であつたのと、    且つ画工の芳幾、芳虎、作者の魯文、種員、応賀なぞも一つ仲間であつた為、この方へ図案が落ちたも    のと思はれた〟