平成18年11月28日 (火)
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俗に秋祭りともいい、古くは新嘗の2字を「にいなめ」「にひなめ」「にひなへ」「にはなひ」「にふなみ」などと呼びました。その意味は「ニヒ(新穀)ノ(助詞)アヘ(饗)の約」(岩波『古語辞典』)で、誰も手に触れていない新穀を神に供え、また自分たちも食べ、その年の収穫に感謝を捧げる祭儀です。 古くは毎年11月の下卯日(三卯あれば中卯日)に定められていました。明治6年の新暦採用から毎年11月23日となり、戦後この日は「勤労感謝の日」と改称され、勤労を尊び、生産を祝い、国民が互いに感謝しあう日として国民の祝日となりましたが単なる勤労や生産に対する感謝の日と意味が違うことはその起源からも明らかです。 新嘗祭の起源は『日本書記』神代巻で天照皇大神が「吾が高天原にきこしめす斎庭の稲穂(ゆにわのいなほ)を以て、また吾が児(みこ)にまかせまつるべし」と仰せになり、皇御孫命(すめみまのみこと)の降臨に際して、斎庭の稲穂をお授けになったことに遡ることができます。 高天原の穀物の種が天孫降臨により初めて葦原中津国(あしはらのなかつくに・日本)でも栽培され、これが我が国における農業の事始めとなりました。この御神恩に対する感謝の祭りとして、天皇陛下(皇御孫命)御自ら、五穀豊穣を神々に報告されるのが新嘗祭であり、これに倣って全国の神社においても新嘗祭が執り行われるのです。 ちなみに新嘗祭は日本の祭祀で最も重要な大嘗祭と関係の深い祭りです。 |
別天神
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平成15年3月12日 (水)
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始めは天と地との区別が無く、ただもやもやとしていました。 やがてこのもやもやとしたものが二つに分かれて、清く澄んだものが天に、にごってドロドロしたものが地となりました。 この頃、高天原に天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、神御産巣日神(かみむすびのかみ)がつづいて現れました。 これが造化の三神といわれ、この世に初めて出現した神様です。 次に生成された神様は、宇麻志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこじのかみ)、天之常立神(あめのとこたちのかみ)です。まだ、大地が固まらずに、ドロドロの状態の時、芦の新芽が萌え上がるような生気によって産まれたとされています。 この5柱の神様は、高天原でも特別に貴い神様であるとしてこの後に続く神々と区別して、別天神(ことあまつかみ)と呼んでいます。 ここまでの神代を天地創造時代といわれています。 |
神々の住む世界
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平成15年2月23日 (日)
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神話の中では神々の住む世界を上から順に高天原(たかまがはら)、中国(なかつくに)と、黄泉(よみのくに)の国とに分けています。 最初に現れた神の住む高天原は、光り輝く光明の世界です。中国(なかつくに)は、高天原と黄泉の国に挟まれた地上のことで、昼有り夜有り、吉凶、善悪が交錯する人間の住む世界です。黄泉の国は地下にあり、怪奇、悪霊が住む暗黒の世界です。 高天原に住む神様を天神(あまつかみ)、中国(なかつくに)に住む神様を地祇神(くにつかみ)と云いますが、地祇神(くにつかみ)といえども系図を遡ると何らかの形で高天原に連なっています。黄泉の国の悪霊は、ときとして地上の平和を乱しますが、しょせんは光の威光には抗しがたいものです。 中国(なかつくに)には我々人間が生まれて、それぞれ3つの世界に住む神々、悪霊等が交錯するなかでかかわりをもちつつ、生まれ、死んでゆく人間生活を継続しているのです。 ○ 高天原(たかまがはら) 天上にある神々の住む世界で、そこは科学的にいうところの宇宙や、天空ではなく、永遠の神の存在する(理念上の)広大無辺の空間をさしています。 ○ 中国(なかつくに) 高天原と黄泉の国の上下の間にあるという意味で、陸と海とからなっています。現在の日本をさし、古くは豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)・豊葦原瑞穂国(とよあしはらのみずほのくに)とも呼んでいました。総称して大八島とも云います。 ○ 黄泉の国(よみのくに) 地下にある国で、闇黒の世界とされ、死者の霊や悪霊が住むところです。夜見の国とも書きます。 すべてにおいて高天原と相反する国で、人間社会に及ぼす影響も禍悪のみ、凶悪の根源とされています。 同じく地下にあるという根の堅洲国(ねのかたすくに)は、黄泉の国とは自ずから別です。 黄泉の国は伊弉冉尊(いざなみのみこと)の国、根の国は素戔鳴尊(すさのおのみこと)の住む世界です。 |
春の神事
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平成15年1月25日 (土)
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平成になりすでに15年目を迎えました。 今の暦では1月1日が新年ですが、旧暦で考えますと2月の立春をもって新年としてきましたので、まだ初詣をされていない方は間に合いますね。 さて、新年を迎えその神の降誕、示顕などのあった日をご縁の日として縁日と呼ばれ祭典がおこなわれます。 先ず1月5日は初水天宮です。 水天宮は数え御とし8歳で、平家一門と壇之浦で御入水の安徳天皇を、水神としてお祀りしたものです。水神にも降雨や止雨に関するもの、飲料水や灌漑用水をつかさどるもの、火災予防するもの、水難や航海の安全を願うのもなどさまざまですが、水を生命の根源としてもっぱら“羊水(ようすい)”を守る安産の神となっておられます。 初天神1月25日はどこの天神様も時期からいって、合格祈願の参詣者で賑わいます。受験生のいる家庭ではいよいよ本番、周りの人も落ち着かないことでしょう。 道真が平安時代の文学者として、漢詩、漢文、和歌、和文をよくし、清和、陽成、光孝三天皇時代の事を記して、六国史のうちに数えられる「三代実録」以下多くの貴重な著作を残し、政治家としてもすぐれていたのは説明する必要は無いくらいです。その母も我が子の勉学を激励するなど、教育ママの走りであったそうです。しかし、学問の神にまつり上げられたのは、それだけの理由によってではありません。なによりもその心がけにあったのであって、神と尊ばれるにはも誠をもって人々を感動させるところにあったのです。 しかし、醍醐天皇のとき右大臣に信任されますが右大臣藤原時平に讒(ざん)ぜられ九州の太宰府に流され無念のうちに没しました。 |
正月飾りについて
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平成14年12月30日
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お正月には、各家々において年神さまをお迎えします。年神さまは、正月さま・歳徳(としとく)さま・若年さまなどとも呼ばれ、その年の言方である恵方(えはう)より訪れ、一年問の家族の健康と幸福を授けてくださる神として信仰されてきました。 この神を御先祖さまの神霊であるとする説や、農耕をつかさどる田の神であるとする説もあり、私たち日本人は古来、正月行事として年神さまを迎へ、お祀りすることをおこなってきました。 玄関の注連飾りも年神さまをお迎えするためのもので、年末に家内の大掃除を終えた後、お飾りするのが一般的です。但し、一夜飾りとなる31日は避けます。注達飾りは正月注連(じめ)、正月飾り、年絶とも呼ばれ、不浄が清められ、家内が年神さまを迎えるにふさはしい清浄な場であることを示すほか、外から災厄が侵入するのを防ぐ意味もあります。 その形態もさまざまですが、一般的な形としては藁で編んだ注連蝿に白色や紅白の紙垂(しで)を垂らして、清浄かつ神聖であることを表し、その上に裏白(うらじろ)などの山草、ゆづり葉、橙(だいだい)、神馬藻(ほんだはら)などの海藻や海老が添えられます。裏白は長命・潔白を、ゆづり葉は家系を後の世代までゆづり絶やさないこと、橙は家系が代々栄えること、海老は腰が曲がるまで長寿であることを意味するなど、それぞれが縁起物であるとともに、橙、海藻、海老などの食物は年神さまを祀るためにお供えされる神饌の意味があるとも思われます。 このはか、玄関や門柱の左石に立てる門松は年神さまをお招きするための依り代(よりしろ)であるともいわれ、家内に年神さまを祀るため、正月の間のみ祭壇を設ける地域もあります。 正月飾りは、正月七日の七草までお飾りし、小正月(一月十五日)におこなわれるどんど焼きや左義長(さぎちょう)と呼ばれる火祭りにおいてお焚き上げされることが多いのですが、地方によっては年間を通してお飾りする場合もあります。 |
知っておきたい祭用語「幣帛」 | |
ミテグラまたは音読でヘイハクと読みます。元々は神に供える布帛の類の事で、後に神に奉献する物の総称となりました。布帛から衣服類、神類、玉、武器、銭貨、器物、神馬をはじめとする鳥獣までが幣帛でした。幣帛は祭りの上で重要な物ですので、現在でも伊勢神宮をはじめとする14勅祭社に天皇陛下より幣帛が奉られています。その他元の官国弊社の本殿遷座祭、式年祭には今でも陛下より幣帛が奉られています。 戦前は、全国の神社に国家或いは地方公共機関から奉幣(ほうべい)がありましたが、戦後GHQの指令により廃止になりましたので、全国神社の包括団体である神社本庁が幣帛料を供進しています。これは幣帛供進という古儀伝統を重んじているからなのです。 |
知っておきたい祭用語「神饌」
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古くはミケといい御食のことで、神様に奉る食物の総称です。大きく2つに分けることができます。 1つは水、酒でこのうち後者の酒は白酒(しろき)・黒酒(くろき)・清酒・濁酒などの別があります。2つは食物で、海川山野のあらゆる産物が供えられます。 現在は、米(和稲(にごしね)・荒稲(あらしね))次に、酒・餅・魚(海魚・川魚)、鳥(野鳥・水鳥)、海菜・野菜・果物・菓子、塩・水が供えられます。 祭りの大小によってこの種類は増減しますが家庭の神棚にお供えする神饌は、洗米・酒・塩・水を基本とし、時に応じて餅・魚・野菜・果物・菓子などを供えます。これに対して、伊勢神宮をはじめとする特定の神社では、煮炊きして調理したものを供える(熟饌(じゅくせん))例があります。 生饌のうち荒稲は籾のままのものですが、これは古くは稲の初穂を抜いて奉ったもので、これを懸税(かけじから)といいます。 神宮ではこの懸税を10月17日斎行の神嘗祭に、正殿前の瑞垣御門両側の瑞垣にかけ並べ、天皇陛下におかせられては宮中でおつくりななられた稲穂をこの神嘗祭に捧げられ、瑞垣に懸げられます。稲は、いつの時代も生命の糧の象徴として神に供えられます。 |
知っておきたい祭用語「修祓」
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祭典に当たり祓(はらえ)を行うことです。修祓の具は、大麻(おおぬさ)・切麻(きりぬさ)・散米・塩・塩水などが用いられます。今日普通には大麻と塩湯(えんとう)による祓いです。大麻は左右左と振り、その他の物は左右左と撒く作法にて祓います。 |
お盆
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お盆については、多くの方が仏教の行事と考へているようですが、元来は仏教と関係の無い日本固有の先祖祀りがもとになっています。ところが、江戸時代に入り、幕府が檀家制度により、庶民の先祖供養を仏式によるやう強制したため、お盆も仏教のみの行事と誤解されて、現在に至ってゐるのです。 |
古来、日本では先の「大祓神事」と同じ様に、七日の夜から神様の来臨を待ち過ごし、翌日に神様が帰るに際して村の人々は「禊」を行い、或いは神様に託して「穢」を持ち去ってもらう「祓い」の行事でした。 |
歳旦祭は1月1日に行われる祭儀で、年の始め、月の始め、日の始め、即ち1月元旦に行われるのでそう名付けられている。宮中に於いては、小祭式を以て三殿に祭儀を執行、天皇陛下は四方拝を行われ御玉串を皇祖の御前にて奉奠される。この日、神宮、全国神社に於いても中祭式を以て祭祀を奉仕する。 |
「としごいのまつり」とも云い、律令国家の恒例祭祀の1つで6月12月の月次祭や11月の新嘗祭とともに最も重んじられ、幣帛を班することに比重の置かれた班幣祭祀。毎年2月4日を祭日とし、その年の五穀豊豊饒、皇室の御安泰、国家の安泰を祈願した。『古語拾遺』には、大地主神が御歳神の祟りを懼れて年穀の豊饒を祈った伝説があり、それを似て祈年祭の始まりの如く述べている。『公事根源』などは、天武天皇の4年に始まると説いている。とにかく、神を祭って五穀の豊饒を祈り、国民の疾病を除き国家の安泰を祈願するのは、我が国古来の思想である。 |
旧暦(太陰暦)は太陽の運行とは無関係であり、季節の変化を反映しない。これを補う為に太陽の黄経を24当分し、季節と対応させたのが24節気である。 節分とは、季節の変わり目である立春・立夏・立秋・立冬の前日を指す。その中で、立春の前日は24節気の起点即ち年の始めであるので重要視された。今日では専ら立春の前日のみを節分と称している。太陽暦では2月3日または4日が節分となっている。 節分の行事には追儺(ついな・おにやらい)や豆まきがある。追儺は「おにやらい」と呼び、「鬼をやらう」、即ち「疫鬼を追拂う」の意味で、また「なやらひ」とも云う。「な」は儺で即ち追儺である。追儺は祭文(「さいもん」・「さいぶん」と呼び、神祭にときに神霊に告げる読文のことで、古くは宣命をも祭文と称した)を奏して鬼に扮した人を桃の弓や矢、棒などで追って悪疫邪気を退けようとするもので、本来は大晦日に行われていた。豆まきは炒った大豆を打って鬼を拂うもので、古くは漢土文化の傳来風俗で室町時代に始まったとされる。大晦日の追儺と節分の豆まきは朝廷などでは区別されていたが、民間では両者を区別しないところが少なくない。節分行事は節分祭と呼ばれ、多くの場合追儺と豆まきのいずれかが行われているが、その具体的形態は神社によってさまざまである。 節分は一年を春、夏、秋、冬の季節に四等分して立春、立夏、立秋、立冬と次の季節に移るときのことをいうのですが、いまは立春の前夜だけに名が残っているのは、やはり春を待つ気持が強いからでしょう。毎年二月二、三日ごろにあたり、多くの行事がありますが、なかでも知られているのは追儺(ついな)です。追儺の儺は鬼に扮した人のことで、鬼遺(おにやらい)ともいい、鬼を払って福を呼びこもうとするものです。起こりは中国で、『論語』郷党篇には孔子が、 郷人の儺(な)には、朝服して昨階(そがい)に立つ (郷人儺、朝服而立・・・) すなわち、土地の人がする儺のようなことにも、わざわざ大夫の正服を着て、階段に立って応じたとあって、立つのは礼儀です。 わが国には文武天皇の時代に入ったとされ、神事としておこなわれて、その祝詞は ″儺の祭の詞″の題で『延書式』 にも伝えられています。 ・・・穢悪(けがら)わしき疫(えやみ)の鬼の、処々村々に蔵(こも)り隠らうるをば、千里のほか、四方(よも)の堺(ほとり)、東の方は陸奥(みちのく)、西の方は遠つ値嘉(長崎県の五島)、南の方は土佐、北の方は佐渡より彼方(おち)の処を、汝等(なむたち)疫の鬼の住処と定めたまい・・・ 鬼は、『和名抄』によると隠(おぬ)のなまりだという、と辞典にあったりしていますが、『易経』繋辞伝の鬼神をあてはめたものなのでしょう。 本来は山野の精霊か、すさぶる神の代表で見えないはずだったのが、いつか額に角を生やし、虎の皮のふんどしをつけたりして、邪悪の具体化となっていたのです。これを追い払うのに、大豆が使われるようになったのは、室町時代のおとぎ草子などからだそうです。 大豆は畑の肉といわれる栄養豊富なタンパク質のたべ物のうえ、化学製品の材料としても魔の豆とされるほど用途が多く、昔の人もその内在する特別の力を認識していたのでしょう。 しかし、この豆まきの神事も、昔はともかく今日では、福は内、鬼は外はエゴの公言として、「福は内、鬼も内」といって、外の鬼より恐ろしいのは心の鬼とし、すべて世は共存の時代としているとかんがえられています。 |
大祓(おおはらえ、おおばらい)、名越(なごし)、六月祓(みなつきはらい)、荒和の祓(あらにごのはらい)ともいい、旧暦六月晦日におこなわれる。古代律令体制以来、6月、12月の晦日に宮中で大祓が行われ、また民間の神社においても6月、12月の大祓は盛んにおこなわれた。しかし、時代は下がりいつの頃からか12月の大祓はすたれ、もっぱら6月の祓いだけが盛んになりこれを夏越の祓と呼ぶようになった。この夏越神事では茅輪(ちのわ)くぐりが一般的で、神社の鳥居の下や拝殿の前などに茅(ちがや)を束ねて大きな輪を作ったものを設けて、宮司に続き一般参拝者もくぐり罪穢れや災疫いを祓う。『公事根源』などには、輪をくぐるときに「みな月の夏越の祓する人はちとせの命のぶといふなり」という歌を唱えると伝えている。 茅の輪については、『備後風土記』にみららる、蘇民将来が小さい茅の輪を腰に付けて疫病・悪疫除去のしるしとした伝承に由来し、古くは腰に付けたり、首にかけたりした。茅輪くぐりのほかにも、人形に穢れを託して川に流したり、海で清めたりするところもある。いずれにしても夏季に流行する悪疫を除去し心身一新する意味がある。(神道辞典・國學院大學日本文化研究所偏より抜粋) |
男女3歳を髪置、男児5歳を袴著、女児7歳を帯解といい、これらの年齢に相當する男女児が盛装して、11月15日に神社へ参拝し、神の御加護によりこれまで成育したことを感謝し、併せて神と人との分離(男女とも7歳までは神である)を報告し、家庭人としてさらに社会人としての教養をなす事を誓うのである。この儀式は、大昔には日取りも一定していなかったが、現在のごとく11月15日となったのは、天和元年に徳川将軍綱吉の子徳松君を、この日に祝ったのが例となったと伝えられている。 |
夜修養会
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夜修養会
講演秘伝なので公開出来ないが、下記―例文を参考に・・・。 解説
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神棚(かみだな)
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日本人にとって神さまとは、決してかけ離れた存在ではなく、私たちの日常生活の中にすみずみまで溶け込んでいる、身近で親しい存在です。家庭に神さまをおまつりすることで 、我々は神さまのおかげに感謝する心を養いやさしさや思いやりの心を育んできました。 たとえば、田舎の旧家などに、台所や門口、竈(かまど)には竈神(荒神・こうじん)さま、井戸には井戸神さま、納戸(なんど)には納戸神さま、トイレ・厠(かわや・お手洗い)には厠神さまというふうに いろいろなお神札(ふだ)が貼ってあったり、お供えものがしてあったりするのを見かけたことのある方も多いでしょう。 このように、日本人は昔から家のいろんな場所に、さまざまな神さまをごく自然にまつってきたのですが、それは、いずれも私たちの生活に欠かすことのできない、大切な場所であったからです。 日本人にとって、神さまとともに生活を営む中で、いつも家に災いがなく、家族がみんな元気で暮らせるように祈り、日々のお恵みに感謝することが日本人の暮らしぶり生活そのものだからです。 |