京大合演特集 最終更新 
00/8/23
1978年合演
22年前の合同演奏会・金沢市観光会館
ムソルグスキー「展覧会の絵」指揮・

8月6日野々市フォルテへ!

 8月6日に松任市(野々市フォルテ)にて、京都大学音楽部交響楽団と金大フィルの合同演奏会が開催されました。78年、85年に引き続いて、第1回目から数えて実に22年ぶりの第3回目の合演となります。京大との合演には、この金大フィルHPを間借りしている鹿島屋旅館にとっても、因縁浅からぬ歴史があるのです。

合演履歴
1回目
1978/7/14
観光会館 指揮:藤島秀敏、大杉和彦(金大)、児島弘明(京大)
ベートーヴェン/コリオラン序曲
シューマン/交響曲第3番 変ホ長調 「ライン」 金大
チャイコフスキー/交響曲第5番 ホ短調     京大
 アンコール:
 ムソルグスキー・ラベル/展覧会の絵 バーバ・ヤーガの小屋キエフの大門 合演(桶谷)
2回目
1985/7/26
金沢市文化ホール 指揮:柿元生也(京大) 松浦正純(金大)
ベートーヴェン/交響曲第5番 ハ短調 作品67「運命」  金大
シューマン/交響曲第1番 変ロ長調 作品38「春」    京大
シベリウス/交響詩「フィンランディア」作品26       合演(松浦)
 アンコール:白鳥の湖 ワルツ                合演
3回目
2000/8/6
野々市文化会館フォルテ 指揮:野田秀一郎(京大) 黒田文人、宮川謙次(金大)
ドヴォルザーク/交響曲第8番  ト長調 作品88 金大(黒田)
ベートーヴェン/交響曲第5番 ハ短調「運命」(ベーレンライター版)  京大
ワーグナー/ニュルンベルクのマイスタージンガー前奏曲  合演 (宮川)
 アンコール:レスピーギ  ローマの松から アッピア街道の松  (野田)


金大フィルと京大オケ、そして鹿島屋旅館


 
  このHPをごらんいただ居ている方々は、おそらく大部分が金大フィルのOBしかも、何らかの形で駅前の「鹿島屋旅館」さんにお世話に成っている方々なのではないかと思います。HP制作者としては、これだけが本意でなく、すべての金大フィルOBの皆さん、しかもより幅広い年代の方に見ていただきたいのが、心からの希望です。
 しかし、一方で、なんで金大フィルのOBのHPが旅館のHPの中に間借りしているか?について不思議に思っている方もいらっしゃるかもしれません。現役団員の皆さんの中にも、何で?鹿島屋旅館?・・・・という方も居るかもしれません。
 ここで、この3者をつなぐ点と線を語ってみたいと思います。実は、京都大学音楽部交響楽団と第1回目の合演をきっかけとして、金大フィルと鹿島屋旅館の関係が始まったのです。


夫婦でラッパ
おしどりラッパ
 今を去ること22年前、京都大学音楽部交響楽団(以下、京大オケ)と金大フィルの第1回目の合同演奏会が観光会館で、開かれました。この時、京大オケの皆さんの宿舎の1つが何をなにをかくそう、「鹿島屋旅館」だったのです。これは、特に、驚くべき偶然というほどのことではありません。しかし、旅館の御主人と女将さんが学生オケで「おしどりトラペット奏者」だったところから、この3者の長い付き合いが始まったのです。旅館の御主人と女将さん(奥様)は、学生紛争がたけなわの70年代初頭に立教大学交響楽団でTp奏者であったのです。いまでも、昔のラッパの話をよく、聞かされますが(田園のCの音をあてた、とか、ハイドンのコンチェルトを高校のときに吹いた、とか・・・)、実際、金大フィルの定演にもバンダ奏者として出演されたことがあります。



 このような経緯から、金大フィルの伊代田氏他が旅館の手伝いバイトをするようになり、やがて、多くの金大フィルの団員が専属バイトとして、旅館のお手伝いをするとともに、学生は、バイト代とビール付き夕食、朝の牛乳(牛乳とコーヒー牛乳を割ったもの)とパン、風呂付き、夜中にこっそり厨房で入手する夜食つき!・・・破格の好待遇条件で関係を深めていったのです。
 当時は、鹿島屋旅館も、3代目として御主人が経営改革?を進めて、近代化経営を図っていた頃だったようです。少し前までは、女中さんたちが住み込みで働いていたそうですが、ちょうど、学生バイトを導入されていた頃で、金大フィルとの関係は鹿島屋さんにとっても渡りに船といったところだったのでしょう。しかし、もちろん鹿島屋さんが単に経済的なパートナーとしてだけ金大フィルを見ていたのではないことは、何方もご存知でしょう。

 当時は、ご主人も若々しくて、自転車で、城内の練習場までやってきて、「バイトせんか?」と人買いに来れられていたのを思い出します。もちろん、そのような時は手ぶらであるはずがなく、何がしかの練習後の学生達の食料を携えて、練習場を訪れてくれたのです。ご主人は、通常の金大フィル演奏会は、商売上、お客さんに夕食を出す時間で、聴きに行けない場合が多かったらしいのですが、それでも夜のコンパには必ず参加されていました、ビールケースと一緒なのは言うまでもありません。金大フィルの新歓や各パートのコンパを鹿島屋旅館で行なうことも数多くあり、あるパートのコンパを別のパートの学生バイトが準備して、ゲロの始末までしていたことを思い出します。



広間で労働 学生達といえば、鹿島屋にほとんど住み込み状態で働いていたバイト人も数多く、伝説と化しています。「鹿島屋バイト」はどちらかといえば、ガテン系の仕事が多く、←食事の準備、布団の上げ下ろし、客室の掃除、便所、風呂そうじ、シーツ交換、駐車場案内まで、多岐にわたっております。お客さんの様々な人間模様を見ながら、肉体労働にいそしむと言うような、学生達にとっては、一種社会勉強の場であったように思います。それだけに、旅館の仕事から学ぶことも多く、さらにもっと重要なのは、ご主人を女将さんに色々とお世話をしていただいたことが、学生達の心に深く残っていることなのです。それは、金沢に立ち寄った時には、必ず、鹿島屋旅館に顔を出すOBは数知れないということがそれを証明しています。鹿島屋バイトの休憩施設兼、寝場所だった部屋の名前が、このHPのサブタイトル、「高砂」 なのです。この「高砂」で、数知れぬOBたちが、集い、語り、マージャンもし、こっそり厨房から失敬したビールをあおり・・・・・。金大フィルOBにとっても、青春の一こまをすごした場所の一つであるのです。いまでも、多くのOBたちから届けられた葉書、手紙が、この高砂の間の壁に貼り付けてあるのをみることができます。



 第1回目の合演時(1978年)は、まだ、日本がまだ右肩上がりの経済成長を信じていた時代で、金沢の観光客数も増加の一途を辿り、旅館としてもダイナミックな時代をすごしていました。このときに鹿島屋旅館に泊まった京大オケの皆さんも、もう40代を迎えているですね。その後、第2回目の合演(1985年)でも、京大オケの皆さんは鹿島屋に泊まられました。さらに時は流れ、バブル時代を通り過ぎて、今では金沢の観光ビジネスも残念ながら芳しい状況ではないようです。それでも鹿島屋旅館は、なんら変わることなく、しっかりとここにたっているのです。そして、22年を経た2000年夏、再び、同じ京大オケの皆さんをお迎えできるのは、鹿島屋さんとしても感慨深いものがあるのではないでしょうか。

 さらに、旅館ご主人の娘さんが、京大オケに在籍しチェロを弾いていたことも有り(最近、卒業された)、京大オケと鹿島屋旅館の関係も続いていったのです。京大オケの定演には、旅館を閉めて、京都まで聴きにいかれていると聞きます。従って、京大オケからもいろんな方々が、観光に金沢を訪れ、鹿島屋旅館に泊まっていくという関係が続いているのですね。
京大の人 京大の人々 京大の人々 京大オケの皆さん
鹿島屋にて






グロート氏と鹿島屋主人
グロート氏と鹿島屋主人
 鹿島屋さんご主人は、金大フィルのバックアップだけに止まらず、金沢のトランペットに関連したバックアップ活動に尽力されているようです。昨年には、ベルリン・フィルの元主席Tp奏者のコンラーディン・グロート氏の金沢演奏会を企画されたり、今年設立された石川県トランペット協会(ITS)の発足世話人として、地元音楽活動に参加されています。最近では、NHK交響楽団元主席Tp奏者、北村源三氏が鹿島屋を訪れられたのも、楽しい話題でした。ラッパ収集もされているようで、京大オケの皆さんも、鹿島屋旅館に着かれたら、是非、御主人と女将さんとコミュニケーションをされること、お薦めします。楽しい会話のキャッチボールを楽しめるに違いありません。決してきれいで便利な旅館ではないですが、京大オケの多くのOBの方々が20年来、訪れ続けている旅館だということも、知っていて損はないとおもいます。




 20年を越える、3者の関係 ---- 一つの演奏会がとりもった、縁が、たくさんの人を結び付けていることに----不思議な感慨にとらわれるのは、私だけではないと思います。今年の、3度目の合演も多くの人を結びつけるものであってほしいと願わないではいられません。  (85年卒Tp、中西記)