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最終更新 00/8/23 |
![]() 22年前の合同演奏会・金沢市観光会館 ムソルグスキー「展覧会の絵」指揮・ |
![]() 8月6日に松任市(野々市フォルテ)にて、京都大学音楽部交響楽団と金大フィルの合同演奏会が開催されました。78年、85年に引き続いて、第1回目から数えて実に22年ぶりの第3回目の合演となります。京大との合演には、この金大フィルHPを間借りしている鹿島屋旅館にとっても、因縁浅からぬ歴史があるのです。 ![]() |
合演履歴
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このHPをごらんいただ居ている方々は、おそらく大部分が金大フィルのOBしかも、何らかの形で駅前の「鹿島屋旅館」さんにお世話に成っている方々なのではないかと思います。HP制作者としては、これだけが本意でなく、すべての金大フィルOBの皆さん、しかもより幅広い年代の方に見ていただきたいのが、心からの希望です。 しかし、一方で、なんで金大フィルのOBのHPが旅館のHPの中に間借りしているか?について不思議に思っている方もいらっしゃるかもしれません。現役団員の皆さんの中にも、何で?鹿島屋旅館?・・・・という方も居るかもしれません。 ここで、この3者をつなぐ点と線を語ってみたいと思います。実は、京都大学音楽部交響楽団と第1回目の合演をきっかけとして、金大フィルと鹿島屋旅館の関係が始まったのです。
このような経緯から、金大フィルの伊代田氏他が旅館の手伝いバイトをするようになり、やがて、多くの金大フィルの団員が専属バイトとして、旅館のお手伝いをするとともに、学生は、バイト代とビール付き夕食、朝の牛乳(牛乳とコーヒー牛乳を割ったもの)とパン、風呂付き、夜中にこっそり厨房で入手する夜食つき!・・・破格の好待遇条件で関係を深めていったのです。 当時は、鹿島屋旅館も、3代目として御主人が経営改革?を進めて、近代化経営を図っていた頃だったようです。少し前までは、女中さんたちが住み込みで働いていたそうですが、ちょうど、学生バイトを導入されていた頃で、金大フィルとの関係は鹿島屋さんにとっても渡りに船といったところだったのでしょう。しかし、もちろん鹿島屋さんが単に経済的なパートナーとしてだけ金大フィルを見ていたのではないことは、何方もご存知でしょう。 当時は、ご主人も若々しくて、自転車で、城内の練習場までやってきて、「バイトせんか?」と人買いに来れられていたのを思い出します。もちろん、そのような時は手ぶらであるはずがなく、何がしかの練習後の学生達の食料を携えて、練習場を訪れてくれたのです。ご主人は、通常の金大フィル演奏会は、商売上、お客さんに夕食を出す時間で、聴きに行けない場合が多かったらしいのですが、それでも夜のコンパには必ず参加されていました、ビールケースと一緒なのは言うまでもありません。金大フィルの新歓や各パートのコンパを鹿島屋旅館で行なうことも数多くあり、あるパートのコンパを別のパートの学生バイトが準備して、ゲロの始末までしていたことを思い出します。 ![]() 第1回目の合演時(1978年)は、まだ、日本がまだ右肩上がりの経済成長を信じていた時代で、金沢の観光客数も増加の一途を辿り、旅館としてもダイナミックな時代をすごしていました。このときに鹿島屋旅館に泊まった京大オケの皆さんも、もう40代を迎えているですね。その後、第2回目の合演(1985年)でも、京大オケの皆さんは鹿島屋に泊まられました。さらに時は流れ、バブル時代を通り過ぎて、今では金沢の観光ビジネスも残念ながら芳しい状況ではないようです。それでも鹿島屋旅館は、なんら変わることなく、しっかりとここにたっているのです。そして、22年を経た2000年夏、再び、同じ京大オケの皆さんをお迎えできるのは、鹿島屋さんとしても感慨深いものがあるのではないでしょうか。 さらに、旅館ご主人の娘さんが、京大オケに在籍しチェロを弾いていたことも有り(最近、卒業された)、京大オケと鹿島屋旅館の関係も続いていったのです。京大オケの定演には、旅館を閉めて、京都まで聴きにいかれていると聞きます。従って、京大オケからもいろんな方々が、観光に金沢を訪れ、鹿島屋旅館に泊まっていくという関係が続いているのですね。
20年を越える、3者の関係 ---- 一つの演奏会がとりもった、縁が、たくさんの人を結び付けていることに----不思議な感慨にとらわれるのは、私だけではないと思います。今年の、3度目の合演も多くの人を結びつけるものであってほしいと願わないではいられません。 (85年卒Tp、中西記) |
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