第43回定期演奏会のこと


         
 1984年卒業 Cb.    嶋崎浩一氏



0.はじめに

 
このページの存在は、つい最近(01年2月末)、当時、私と二人だけだった北海道出身者で、現在も同じオケに籍を置く豊川さん(Vc79入団)に教えてもらいました。来てみてその充実ぶりに感心しながら、方々回ってたところ、MP3のコーナーに「巨人」の3楽章の冒頭部分があるじゃありませんか。何もそんなもの載せなくていいのにと、管理人の中西君に文句のメールを出したら、なんか書けと逆襲されました。まあ、藪をつついて蛇を出しちゃったわけです。
 そんなわけで、久しぶりに昔のことを思い出してみました。


1.マーラーのソロに至る様々な事情

 
「巨人」の3楽章冒頭のソロといえば、日頃日陰者扱いされるコントラバス奏者にとっては、夢の舞台と申せましょう。
 金大フィルに入るまで楽器経験の一切なかった私が、栄えある第1号奏者(つい最近までは「唯一」だったのに・・・ちょっと残念)となったのは、ひとえに様々な事情が偶然積み重なった結果としか言いようがありません。


団の事情
 詳しくは「二人の巨人」を見てもらえればわかると思いますが、当時の金大フィルは爆発的ともいえる団員増が続いており、全員参加を団是としていた当時においてはプログラムの大編成化が避けられなかったことがあります。「巨人」は前年の候補にもあがっていて、「悲愴」に敗れたように記憶しています。
 つまり、私は金大フィルのメンバーとしてそういう時期に籍をおいていたという「幸運」がまずありました。


Cbパートの事情
 その一方で、Cbパートはこの年、危機的状況を迎えていました。
 通常、アマチュアオケではCb奏者の確保が大問題というところも多いのですが、私の入団前後の時期、金大フィルは必要な数を自前で確保できていました。
 ところが、たまたま、この年だけは諸先輩の学業の都合等もあって、サマコンでは、当初4人しか確保できず、一度はエキストラを呼ぼうというところまで追い込まれたのです。トラについては特殊楽器だけしか認められなかった当時、パート内で大問題になった覚えがありますが、結局、忙しい中、曲を絞って出演してくれた先輩方のおかげで、なんとかトラなしでサマコンを乗り切ることができました。

 さて、そこで定演対策としてとられたのが「一回生の大量補強」でした。Cbで一度に4人の新人(ブラバン経験者はいましたが、全員初心者)が入ったなんてのは、多分、この年が最初で最後なんじゃないでしょうか。
 Cbは他の弦楽器と異なり、初心者でも一回生の定演からメインまで出る慣習にはなっていましたが、彼らは最初から即戦力化が義務づけられており、サマコンのオープニングである「威風堂々」にも出てもらいました。

 彼らのレベルアップに力を尽くしてくれたのが、私の同期であり、前年には二回生でPLを勤めた桶川君でした。強化策の一環としてパート内で「おさらい会」というソロ発表会を企画してくれたのも彼で、毎回終了後の打ち上げとしてチェロの鞍田君宅で行う「焼肉の集い」はCbパートの名物行事でした。
 桶川君は、音研でCbを専攻しており、金大フィル史上でも有数のCbの名手だと思います。前年にも「巨人」がメインの候補にあがっていたことや、三回生がPLをするのが通例であり、2年続けてのPLもできないわけではなかったことを考えると、ひょっとすると彼がソロ奏者第一号になっていたかもしれません。

 さて、今まで書いたような事情を踏まえた上での定演の曲決めです。CbのPLとして、私は「巨人」を推しました。それは、もちろんソロが弾きたいから・・・ではなく、「ロマンティック」と比べて、一回生主体のCbパートにとって負担が格段に少なくなるからです。つまり、Cbパートとして「巨人」以外の選択は望ましくなかったわけです。あのとき「ロマンティック」になっていたら、きっとソロを弾く以上の地獄を見たことでしょう。
 幸い、総会ではメインとしてめでたく「巨人」が選ばれ、栄えあるソロ奏者第1号の座が私に転がり込んできたというわけです。
 ソロに関しては、短いし、まあ、なんとかなるだろう程度にしかそのときは思っていませんでした。

その顛末
 結果として定演には、桶川君が指のけがで出られなくなるというアクシデントもありましたが、四回生1、三回生1、二回生1、一回生4の計7名で臨むことができました。(ちなみに「未完成」は三回生以下の6名でやりました。)
 演奏の方は、「未完成」、「巨人」ともにパートとしては満足のいくものだったと自負しています。頑張ってくれた一回生のみなさんには今でも感謝の言葉がありません。

 えっ、肝心のソロですか?
 実は完全にあがっていてどうだったかあんまり覚えていないんです。まあ、それは実際の演奏が聴けることですし、それを聴いてみてください。
堤氏のサイン ここで私が犯したあるミスについては、良く知られていると思うので、あえてコメントしません。予定よりちょっと大きい音が出てしまっただけですので・・・。
(演奏会終了後に本因寺で堤さんに楽譜に記念のサインをお願いしたらこんなのをいただきました。)

 



 
2.仰天!幻のコンバス配置計画

 
さて、43回演奏会のプログラムの堤さんのインタビューページを見ていて、あることを思い出しました。私のソロの話なんかより、こっちの方が「金大フィル秘史」っぽくてエピソードとしてふさわしいのではないかと思いますので、書き残しておきたいと思います。
 まずは、プログラムの該当部分から・・・。
 
>「堤氏」:「あのね、まず、あの厚生年金会館のホールの音響はひどいよ。日本
>全国で悪いほうから数えて何番目と言うホールだよ。これは是非書いてほしいな。
>金大フィルはさあ、ずっと使っているんだろう、それにね、やっぱり金沢市民が
>みんなでね、あのホールの音響を改善させることくらいの運動をしなくちゃ。」
>(今回はこの話もあって、堤さんの指導により楽器の配置を変えました)

 問題は、「堤さんの指導による楽器の配置」ですが、当時の演奏会本番の写真やビデオしか見ていない方は、何がどう変わったのか全然わからないと思います。
 そうでしょう、これは結果的に幻に終わったのですから。
 答えはこうです。

 ウィーン・フィルばりの「Cb後方一列配置」
 
 
どうでしょう?
 堤さんが考えたのは、ウィーン・フィルばりの「Cb後方一列配置」だったのです。(私の勝手な命名ですけど)
 写真はゲネプロ時のもので、自分でも確証がなかったので実家で探してみたら出てきたものです。(楽器編成から「未完成」のものとわかります。)
 堤さんが何を思ってこのような配置を考えられたのかは、もう覚えてはいないのですが、楽器を正面に配置することによって響かない低音を出そうとされたのだと思います。
 最初にいつ言われたかも、もう思い出せませんが、「後ろに横一列」と言われたとき、びっくりすると同時に合図とかうまくだせるかと心配したような記憶があります。

話し合う、嶋崎氏と堤氏 練習でもマーラーには既に手狭だった旧大練ではこの配置でやった記憶がありませんし(定演直前の二上山合宿では試してみたかもしれません)、ゲネプロでもこの配置でやったのはごく短時間で、実際にやってみて大した効果が得られないと思われたのか、堤さんはすぐ見切りをつけ、ゲネプロの最中にはもう普通の場所に戻っていました。(本番での演奏場所が普通なのは、「桔梗の間」のホルンセクションの写真の下の方に頭が写ってるのを見るとわかります。)
 
 卒業後のオケ活動でも、オケピットに入ったり、Vnの対向配置でいつもと反対側に行ったりといろんな配置を経験しましたが、後ろ一列という機会はその後巡ってはきていません。当時はいやだなと思いましたが、今となっては是非やっておきたかった気がします。




3 おわりに

 
二回生まではあまりオケ活動に熱心とは言えなかった私が、PLに選ばれたときは、正直困ったなと思ったものです。でも、否応なく団に関わることとなったその1年は、結果的に私にとって掛け替えのない1年になりました。もし、PLをやっていなければ、今も楽器を続けていることはなかったでしょうし、今でも親しかった先輩と同じオケにいたり、昔の仲間とメールのやりとりができるのも、その経験があった故であり、すごく幸せなことと感謝しています。
 これも最近送ってもらったものですが、50周年記念誌の2000年の「巨人」の演奏写真に、前回はけがで出られなかった桶川君と一回生4人組のひとりであり豊精園仲間の金村君がプルトを組んでいる姿がありました。懐かしさと同時に、ちょっぴりうらやましさを感じました。
 さて、新しい「巨人」の演奏はどうだったのでしょう。こちらのほうのアップも期待しています。
 でも、3楽章冒頭部の聴き比べとかは勘弁してね。>管理人様








番外 豊精園のこと


 
豊精園は泉学寮に住んでいた私が、寮の先輩に連れていってもらった店であり、安くてうまいことから帰宅方向の同じ金村氏を誘い良く飲みに行った店である。一度など、二人で6時の開店直後から2時の閉店までいたことがあるが、それでも二人で8千円程度ですんだ記憶がある。
 私の現役当時、団に豊精園を知る者はそれほどおらず、それが本HPの「なつかしのB級グルメ」に取り上げられるくらい親しまれるようになったのは、私にとっては驚きなのであるが、金村氏が知己の多い金管関係者を連れていってくれたのが原因ではないだろうかと思っている。
 もし、そうであれば、きっかけをつくったものとしてこれに勝る喜びはない。

 卒業後、私にとって金沢に行くことは豊精園で萬歳楽を飲み「シロ・ニンタレ」を食べ、マスターの手品を見ることと同義であった。閉店はとても残念でならない。
 このマスター夫妻の写真は、98年夏、JAOの全国大会が金沢で開催された際に訪れたときのものであり、店はこの年の秋に閉められたと聞く。虫の知らせでもあったのであろうか、これが私にとって最後の豊精園行きとなった。ちなみに撮影者はこのときも同行してくれた金村氏である。






更新 2001/3/9