『それでも空は青かった』 Shortprogram S-1
〜愛こそ全て〜

神宮司 美汐の場合

 ため息と一緒に、美汐は椅子に腰を下ろした。
 つまんないなぁ。カクテルを飲みながら、無意識のうちに右手が服のあちこちを探っていた。タバコをコートの中に入れっぱなしだったと気付いたのは、その数秒後だった。
 サイアク。美汐は鬱陶しげにね伸びた前髪をかき上げた。
 薄暗い店内。耳が痛くなるほどのボリュームのカラオケ。ほんの数センチだけ高くなったステージの上には、完全にできあがった男が三人、マイクを手に盛り上がっている。歌っているのか、ただ大声を張り上げているだけなのか、恐らくは本人たちにも解っていないだろう。そのステージの前の大きなテーブルの周りには、大勢の男女が料理や飲み物を片手に、談笑していた。スペースを広くとるためか、余計なものは全て隅の方に追いやられている。壁際に一列に並んだ椅子に座っているのは、美汐ただ一人きりだ。
 ぼんやりと店の中を眺めながら、美汐は、残り少ないグラスの中身を飲み干した。
 コートはレジで預けてしまった。店員にわざわざ声をかけるのは、面倒だった。どうせそれをするのなら、そのまま帰ってしまう方がずっと楽だ。そうだ、そう決めた。彼女が決意して立ち上がろうとした、まさにそのときだった。
「美汐っ、どうしたのよ。一人でこんな所にいて」
「そうよぉっ、あっちでみんなと盛り上がろ」
 まるで彼女の心を見透かしたかのようなタイミングで、着飾った二人の女性が前に立ちはだかった。美汐は少しだけ浮かした腰を、また元に戻す。
「ご免。あたし、今どきの歌って、あんまり知らないから」
「えーっ、美汐、今レンタル屋にいるんでしょ」
「毎日、お店で聞いてるじゃない」
 甲高い二人の言葉に、苦笑しながら、
「だから、もううんざりしてるの。わざわざ聞く気にもなれないから、覚えないし。そんなことより、今日の主役は」
「もう、ラブラブよぉ。見せつけられてるの、あたしたち」
「旦那さんの方の友達が、面白い人ばかりなの。だから、めちゃめちゃ楽しくって」
 美汐は気のない相槌を打ちながら、再びステージへと視線を向けた。今度は女性二人が、マイクとタンバリンを手にして、はしゃいでいる。
 今、何時だろう。美汐は、結局大テーブルの方に戻らず、自分の両隣に腰を落ち着けたらしい友人たちの会話を聞き流しながら、頭の中で計算していた。
 式が一一時からで、披露宴が一時から。二次会が五時からだから、今は大体六時くらいだろうか。ここは地下で、窓も時計もない。美汐には腕時計をする習慣がないので、こういうときが一番困る。確認してみれば、思ったより時間が経っていたということが、往々にしてあるものだ。自分は一番アテにならない。美汐は、そのことをよく知っていた。仕方なく彼女は携帯で時間を確認しようと、背中の後ろに回したバッグへと手を伸ばした。
「彼女たち、あっちで盛り上がらないの?」
 さっきと同様に頭上から降ってきた声に、美汐は行動を遮られる。今度は、グラスを手にした見知らぬ男が三人、目の前に立っていた。テンションの高い声といい、その赤くなった顔といい、明らかに酔いが回っているようだった。
「そういう訳じゃなくて、この子がねぇ」
「そうそう、こっちにいたから呼びに来ただけなの」
「へぇ。なんだ、退屈してるのかと思ったんだ。奥さんの方の友達でしょ」
「オレたち、旦那の方の友人一同。高校ンときの同級生なんだ」
 彼らはそう自己紹介しながら、各自椅子を持ってくると、美汐たちと向き合うような形で腰を下ろしてしまう。
「結構みんな集まったなぁ。もっと少ないかと思ってた。あ、そうそう。彼女たち、みんな独身?」
「なにチェックしてるんですか」
「いやさぁ、オレたちも独身なんだって。こういうチャンスは大切にしないとさ。出会いが少なくて」
 盛り上がる彼らに囲まれて、美汐は気付かれないように、ため息を一つついた。どうやら完全に帰るタイミングを逸してしまったらしい。
 客商売をしているせいか、美汐はよく、人付き合いのいい社交的な人間だと思われているが、実はその逆なのだ。極力人と関わらずに、人間関係の輪は務めて小さく、というのが彼女の信条だった。最初に勤めた会社を退職したのをきっかけに、次々と友人たちと連絡を絶ち、付き合いを断っていった。それでもどうしても切れない関係といういうものは、存在するのだ。今日の結婚式などは、そのいい例だった。本当は二次会は欠席しようと思っていたのだが、いい断りの理由が思いつけず、ずるずると友人たちに連れられて来てしまったのだ。
 「ねぇ、そっちの彼女は。彼氏いるの?」
 美汐は驚いたように顔を上げる。その質問が自分に向けられたものだと気付かず、数秒、間が空いた。しかし美汐はすぐに営業用の笑顔を作ると、
「あたし、今、年下の男にメロメロなの」

 「美汐、あんたまた男できたの?」
 千紗が、目を大きく見開いて身を乗り出した。美汐は、テーブルの上に広げられたスナックをつまみながら、
「なによその言い方。んなものいる訳ないでしょ。年下の男だってば」
「確かに、どっちも年下だし、メロメロだよね、あんたは」
 朱音の言葉に、呆気にとられた様子の千紗が美汐を見つめる。美汐はタバコをくわえ、それに火をつけると、
「うそは言ってないわよ」
「確かにね。はいはい。あー、びっくりした」
 千紗はグラスの中の日本酒を煽るように飲み干した。実は水なのではないかと疑いたくなるような飲みっぷりだ。それにしても、一升瓶を手酌でというのは、どうにも見た目が悪い。なにより、嫁入り前の二〇代の女性のすることではなかった。もっとも、日に二箱はタバコを吸う美汐が言えた立場ではないのだが。
「前からさぁ、美汐に一度聞いてみたかったんだけどさぁ」
 美汐は返事の代わりに煙を吐き出した。
「どうして現実にいない人を、好きでいられるの。なんていうかなぁ、寂しくないの」
「寂しいよぉ」
 美汐はあっさりと答える。
「じゃあ、どうして」
「あたしはね、バカなのよ」
 美汐は自分の傍らに置いてあった二リットルのペットボトルのお茶に、直接口を付けてから、
「好き、になっちゃったらダメなんだよね。現実にいるとかいないとか、そういうのは後からついてくるものでさ。それに、現実だと、親しくなっていくうちにギャップができたり、溝が生まれたりしてさ。冷めたり、逆にふられたりするんだろうけど。あっちとは知り合いようがないから、そういうのもないわけよ」
「永遠の片思いだけどねぇ」
 朱音が頬杖をついたまま、相変わらずの調子で茶々を入れる。
「そ。恋愛ってさ、片思いのときが一番幸せだと思わない。恋してるって、感じがして。誰かをひたすら思い続けているときが、一番幸せなの」
「不毛だなぁ」
「アラ、そういうもんじゃない。妥協できるうちが花だけど、あたし、自分が妥協できない人間だって気付いちゃったし」
「今までかなり低いラインで妥協し続けてきたものねぇ」
 美汐がついに朱音の頭を、軽くひっぱたく。いつものことなので、懲りた様子もなく、彼女は軽く舌を出して見せた。
「そんなものなの」
「そんなものよ。千紗、あんた、野郎に抱かれてる瞬間、違う男の顔が浮かんでごらんなさいよぉ、冷める冷める」
「どうして、美汐の話は生々しいかなぁ」
 そんな台詞とは反対に、朱音は声を上げて笑っている。千紗は返答のしようがないのか、眉間にしわを寄せ、手の中のグラスと睨み合っている。意外にこのテの話に免疫がないのだ、彼女は。
「で、結局それきりなの。その人たちとは」
 朱音のさりげない質問に、美汐は少しだけ考えるようなフリをしてから、
「一人だけしつこいのがいたなぁ。携帯の番号教えろとか、メル友になろうとか」
「どうしたのよ、それ」
 美汐は深くタバコを吸い込み、そして静かに煙を吐き出した。それから左手で髪の毛をかき混ぜながら、
「好きな人がいるから、ダメって言ったの」
「えらいっ、美汐。あんたってば、本当は純愛の人だったねっ」
 嬉しそうに両拳を握りしめて力説したのは、千紗だった。美汐はなにも言わず、ただタバコをふかしている。
「で、それから」
 朱音は一人盛り上がっている千紗に構わず、美汐に先を促した。
「ん、嘘だと思ったのか、言い訳だと思ったのか知んないけど、どんなヤツだって、しつこいしつこい。だから笑って、内緒、って誤魔化しといた」
「言えないわな、相手は二次元です、なんてさ」
 さんざん見合い話の一件で突っ込まれた仕返しか、朱音は妙に嬉しそうである。しかし美汐は、一向に動揺した気配など見せずにいた。
「違うわよ」
 あっさりとそう告げる。
「え」
「だってピー様も、ピーも、どっちも同じだけ愛してるんだもんっ。一人になんて決められるわけないじゃないっ」
 一瞬の間。
「はいはい。あー、聞いたあたしがバカだった」
「ホント。一瞬でも感心した自分が情けないわ」
 朱音と千紗がぶつぶつ呟きながら、どちらからともなくため息をついた。

 こうして、食事会の夜は、静かにふけていった。

                       〈Fin〉

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