『それでも空は青かった』 Shortprogram S-1
〜愛こそ全て〜

司城 千紗の場合

 机の隅に置かれた携帯が、突然音楽を奏でた。
 小さな液晶のディスプレイに表示されている名前と番号を見て、千紗は心の中で呻く。どうしてこう、間の悪いときに。
 目の前のイラストボードを眺めながら、数秒間迷った後、ため息を一つついて携帯を手に取った。無視しても良かったが、後々のことを考えると、そういうわけにはいかなかった。
「はい」
『あ、オレ。元気だった』
 聞こえてきたのは、どこか間が抜けた、妙に明るい男の声だった。昨夜一緒に食事をした相手に尋ねることじゃないよな。そう思いつつも、とりあえず千紗は
「うん。どうしたの」
『いや、大したことじゃないんだけれどさ。あのさ、今なにしてた?』
 大したことじゃないのなら、早めに切り上げても大丈夫だな。千紗はそう決めると、
「仕事」
 と短く言い放つ。それが本職の設計の仕事なのか、趣味の同人の方なのかは、相手に任せることにする。どちらも千紗にとっては、同じだけ大切で重要なものなのだから。
『あ、そうなんだ。ご免な、忙しいのに』
 案の定、聞こえてきた声は落胆した、寂しげなものだった。ほんの少しだけ、千紗の良心が痛む。
「うん、気にしないで。ちょうど一休みしようと思ってたところだから」
 大嘘つき。とりあえず、このイラストボードを今週中に仕上げないと、来週のイベント合わせのポストカードまで手が回らない。同類である友人の朱音と美汐は、今週も来週も用事があるらしく、手伝ってもらえそうもないのだ。自力でなんとかするしかない。そういうわけで、実のところ千紗はかなり切羽詰まっていた。
 しかし彼女の気持ちとは逆に、相手の声は弾んだ調子になる。
『そうなんだ。いや大したことじゃないんだけどさ、小野村、知ってるだろ』
「ええと、高校ンときの、後輩だっけ」
 千紗はそう応じつつ、懸命に“小野村”という人物の顔を思い出そうとする。しかしどうやっても、浮かんではこなかった。大体、相手は高校時代サッカーをやっていて、先輩や後輩はもちろん、チームメイトから同級生に至るまで、友人知人が以上に多い男なのだ。とりあえず千紗がここ五年間に学んだことは、名字を呼び捨てにする場合は、後輩である確率が一番高いということだ。サッカー部の飲み会には、何度か連れて行ってもらったことがあるが、どうにも人数が多すぎる。最低でも十人は人が集まるし、それぞれが彼女だの職場の同僚だのを連れてくるのだから、その場にいても誰が誰だか解らないことの方が多い。正直、ああいう体育会系のノリは、千紗は苦手なのだが、断ってばかりもいられないのが苦しいところだった。
 「そう、あの小野村がさ、結婚するんだってよ。さっき電話がかかってきて、びっくりした」
「へぇ、そうなんだ。おめでとう」
 そう言いながら、千紗は慌ててパソコンデスクに飛びつき、画面にスケジュールを呼び出した。まさか、招待されたりしないでしょうね。数合わせなのか、それともそれが習慣となっているのかはよく知らないが、彼女もご一緒に、ということがしばしばあるのだ。二次会だけならまだしも、披露宴になんて招待されたら、出費も時間も大変なことになる。とりあえずイベントの日だけは避けて欲しいし、入稿前も絶対にやめてもらいたい。千紗は左手で携帯を持ちながら、右手でマウスをクリックする。半年先の週末はもちろん、祝日すら空いてる日などほとんどない。
「でさぁ、オレも考えたんだぁ。オレたち、付き合い始めてもう五年だろ。そろそろじゃないかな、と思って」
「え、なに。なにが」
 全く違うことを考えていたため、千紗は相手がなにを言っているのか、さっぱり解らなかった。“小野村”さんの結婚の話じゃなかったの。彼女は、そのままメールチェックをしようと、マウスを動かしていた。
「だから、なんていうのかな。つまり、その、オレたちの結婚」
「はいっ!?」
 千紗の声が驚きのあまり、一オクターヴ高くなる。と同時に、右手が条件反射のように動いていた。なにをどう、動かしクリックしたのか、彼女自身にもよく解っていない。
 しかし次の瞬間には、千紗もパソコンも完全にフリーズしていたのだった。

 声を上げて笑いながら、朱音は千紗に
「で、どうしたの」
「速攻で電話切ったわよ。パソコンは再起動しなくちゃならないし、イラストボードは上げなきゃならないわ。アレでポストカードのデータが壊れてたら、あたし、絶交したわね」
「村瀬さん、カワイソー。いい人なのに」
 朱音は目の前にある山盛りのポテトサラダをつまみながら、適当な相槌をうつ。すかさず台所から、
「朱音っ、つまみ食いしない」
 美汐の声が飛んできた。朱音はおどけたように、首をすくめる。
「全く、少しぐらい待てないの。千紗も、飯の前のビールはやめて」
 美汐が、ほうれん草のごま和えの入った小鉢をテーブルに並べる。
 月二回、朱音の部屋で行われる食事会。料理を担当するのは、もちろん美汐の役目である。
「なに、今日和食なの」
 目の前の器の中身を見て、千紗は台所へと戻っていった美汐に尋ねる。主食は米でなくビールと言われている彼女は、どちらかといえば洋食の方が好みなのだ。和食も嫌いではないのだが、つまみにするにはいささか物足りなかった。
「そうよ。カレイの煮付け。子持ちカレイのいいのをね、実家からパクって来たのよん」
 美汐の嬉しそうな声が返ってくる。彼女の実家は、小料理屋なのだ。家族との折り合いが悪く、滅多に家に帰らないと聞いたことがある。しかしたまに帰ると、店や家の冷蔵庫や鍋から、食材や料理を持ち帰ってくる。それでまた親ともめないのかと千紗などは心配になるのだが、よくご相伴に預かっているだけに口にはできなかった。“美味い”と評判の店だけに、どれもこれも文句のつけようがないのだ。なによりも、美汐は三人の胃袋を一手に引き受けている。逆らわないに越したことはない。彼女にへそを曲げられては、千紗と朱音の食生活は、レベルダウンすること間違いなかった。
 「で、なに。村瀬さん、千紗と結婚するって。“おべんとパン”一つ、きちんと作れない奴と。度胸」
 美汐はお新香とみそ汁を運んでくる。千紗はむっとして、
「それぐらいは作れるわよ」
「あ、そ」
 その返事から、美汐が千紗の言葉を信用していないのは明らかだった。朱音はというと並べられていく料理を、黙って眺めているだけだ。参加すれば、ヤブヘビになりかねないとでも思っているのだろう。
「じゃあ、明日の朝食、よろしくね」
 笑い混じりの美汐の言葉に、千紗は絶句した。
 “おべんとパン”とは、SSのゲームソフト『プリンセスクラウン』に出てくる、体力回復のアイテムである。このゲーム、変わっていると言うべきか、面白いと言うべきか、それらの回復アイテムが全て料理で、しかもどれもこれも食欲をそそる表現で紹介されるのだ。たとえば、
 “うみたて「どーどーの卵」を使った「おべんとパン」。卵は両面焼いてあるから食べやすいし、とうもろこしを使ったパンはふんわりサクサク。じゅわっとしみた手作りバターが何ともいえないおいしさなのよね”
 とか、
“目の前の海からとれたイキのいい「さかな」をじゅわっと焼きあげました。ピリリときいたスパイスが食欲をそそりますよ。ライムをしぼってめしあがってください”
などなど。夜中、千紗と朱音でプレイしていて、どうしても“おべんとパン”が食べたくなったが、その日に限って美汐はおらず、仕方なく千紗が調理することとなったのだ。しかしその結果は、悲惨なものだった。既にワインを一本空けていたせいだと、千紗は主張したが、翌日“おべんとパン”を届けに来た美汐に一笑に付されてしまった。
 食卓にカレイの煮付けと、白米が揃う。料理雑誌や家庭科の教科書にでも載っていそうな、完璧な日本の夕食だった。とうてい千紗には作れそうもない。ため息をついた彼女の前に、缶ビールが置かれる。向かい側に、くわえタバコの美汐が座っていた。
「まぁ、あたしも毎日きちんとこれをやれって言われたら、真っ平ご免だけれどね」
「へぇ、そうなの。美汐、ストレス解消じゃなかったっけ、料理」
 朱音が両手を合わせて“いただきます”をすると、さっさと一人で食べ始めてしまう。千紗は缶ビールを開けて、料理よりも先にそれを口にする。
「そうよ。自分が好きなときに、好きなように作れるから、ストレス解消。毎日しなくちゃならないことじゃあ、ストレスの素」
 美汐の言葉に、千紗は妙に納得してしまう。確かに、楽しめるうちは気晴らしになるが、義務や仕事となってしまうと、負担にしかならない。
「嘘ばっかり。ピー様やピーのためなら、尽くしまくるクセに」
 朱音はすかさず茶々を入れる。美汐はタバコを灰皿に押しつけて、
「そりゃそうよ。あたし、愛を捧げているもの」
「へぇへぇ」
 朱音は投げやりな返事をする。
 美汐のそれは、強さなのだろうか。現実にいないものを思い続けられていられるというのは。少なくとも、千紗にはできない。いやそれよりも、そんなにまでも強く激しい思いは、千紗の中には存在していないのだ。
 村瀬久次と、いわゆる“お付き合い”と呼ばれるものをして、今年で五年になる。いい人だ、とは思う。優しいし、人付き合いもいいし、陽気で友人も多い。面倒見が良すぎて、余計なことを背負い込むこともあるが、欠点というほどのことでもない。結婚相手とするには、理想的なのだろう。次男だし、そこそこの会社に勤めてもいるし。しかし、好きかと訊かれると、千紗は言葉に詰まってしまう。美汐のようなそれを、“愛”とか“恋”と呼ぶのなら、千紗は“恋”などしていない。村瀬を“愛”してなどいない。ただ、彼の気持ちを受け止めているだけだ。
 付き合おうと言ったのも、好きだと言ったのも、村瀬の方で、千紗はただ頷いただけ。
 「今更だけどさぁ、千紗。あんたどうして、村瀬さんと付き合ってるの」
 訊きにくいことをこうもあっさりぶつけてくるのは、美汐の長所なのか短所なのか。千紗は訴えかけるかのように、彼女の顔を見つめた。
「結婚を前提にお付き合い、ってヤツだったの」
 朱音はみそ汁を飲み干すと、美汐に無言のままお椀を差し出した。彼女はそれを受け取って立ち上がり、カーテン一枚で仕切られた台所へと姿を消す。
「そういう訳じゃあ、ないわよ。そんなこと言ったつもりもないし」
「村瀬さん、今年で二八でしょ。まぁ、向こうは考えるわよね、結婚」
 戻ってきた美汐は、朱音の前に器を置くとそう告げる。そのことは解っているだけに、千紗も頭が痛い。千紗の両親は、村瀬のことを気に入っているし、なによりも結婚することこそ女の幸せだと信じている。村瀬が千紗に結婚のことをほのめかした、と聞けば、手を叩いて喜び、話を進めるに違いない。彼女の気持ちなど全くお構いなしに。
 千紗の気持ち。それは、どこにあるのだろう。
 「結婚なんて、リスクの方が大きいしねぇ」
 美汐がぼそりと呟いた。朱音がけらけらと笑う。
「リスクねぇ。普通逆じゃない。働かなくていい、とか、三食昼寝つき、とかで結婚するんじゃないの」
「そりゃ極端。でも、仕事して家事やって、子供なんていたら、いつ絵を描くのよ、字を書くのよ。本読むのよっ」
「ごもっとも」
 朱音が大きく頷く。千紗はそれほどでもないが、朱音や美汐は自分の周囲にバリアを張るタイプなのだ。特に美汐は、煮詰まると三日や四日、家にこもることが間々あるのだ。それ故彼女は、未だにフリーターという身分のままでいるのだ。正社員になってしまうと、そう休むことができなくなるからだった。病弱だから正社員にはなれないのよ、と言って回っているらしいが、返品のダンボール箱を軽々運んでいるヤツの言うことを、周りがどれだけ信じているかは謎だ。
 「そうなのよねぇ。あたし、絵、描けなくなったらどうなるんだろ」
 千紗は頬杖をついて、ビールを飲み干した。
 気が付いたら、絵を描いていた。油絵、水彩、アクリル。ありとあらゆるものに手を出して、結局イラストを描いている。それも、アニメやマンガ、ゲームのものばかりだ。お金にはならない。あくまでも“趣味”だ。でもそれをなくしたら、きっと千紗は千紗でなくなってしまうに違いない。だから今まで捨てることができなかった。
 「でさぁ、千紗。美汐じゃないけれど、なんていうの、村瀬さんのどこがダメなの。“好き”って言いきれない理由、あるんでしょ」
 朱音は一人でさっさと食事を終えると、お茶をすする。とことんマイペースな人間であった。
 千紗は両手で空き缶を握り潰しながら、
「筋肉が」
 アルミ缶が、間の抜けた音を立ててつぶれていく。
「へ」
 朱音が思わず聞き返す。
「筋肉が足りないのよっ。こう、肩とか腕とか、胸とか腹とかっ。しっかりとした筋肉がないのよぉっ。違うのよ、男は渋くて親父で、声がピーさんみたいじゃなきゃダメなのよぉーっ!!」
 缶を握りしめたまま力説する千紗に、冷ややかに美汐が言い放った。
「あたしと、変わらないじゃん」

 その夜、久しぶりに千紗は一升瓶を二本、空けたのだった。
 その2 島尾 朱音の場合
その3 神宮司 美汐の場合

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