レイチェル・ニュース #786
2004年3月4日
ヨーロッパからの報告
−広まる予防原則−

サンドラ・スタイングラバー博士(*)
Rachel's Environment & Health News
#786 - Report From Europe: Precaution Ascending, March 04, 2004
Sandra Steingraber, Ph.D.*
http://www.rachel.org/?q=en/node/6467

訳:安間 武 (化学物質問題市民研究会
掲載日:2004年3月9日
このページへのリンク:
http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/rachel/rachel_04/rehw_786.html

(2004年3月4日発行)
サンドラ・スタイングラバー博士 (*)

 予防原則−この短い言葉が大西洋のこちら側の会議室の議論を熱くする−は、マーストリヒト条約として知られている1994年の EC 条約で謳われている。

 たとえ危害の強い証拠がそろう前であっても不可逆的な環境災害を防ぐために行動しなければならないとする考え方は、ヨーロッパ大陸では長い、豊かな歴史を持っている。
 ドイツが1970年代に初めてこの概念を提起したが、それは、ドイツの森林が枯れる原因として疑わしい大気中の汚染物質の役割の全容が判明する前に、それを止めようとした時のことであった。
 それに引き続き、予防原則は、動物学者が、いかに低レベルの残留性汚染物質が内分泌系をかく乱し、免疫系を抑制することがあり得るかについて理解する以前の当時、北海の海洋哺乳類の汚染を防ぐ取り組みの中で引用された。[1]

 その後、驚くべきことではないが、欧州議会内で最近開催された化学物質規制に関する会議で、予防原則は華やかな役割を演じた。その聴衆は議会のメンバー自身であった。2003年12月11−12日に開かれ、 「化学物質:浄化しよう」 と簡潔なタイトルをもったこの会議は、欧州議会内で4番目の勢力を持ち、ユーロピアン・ユナイテド・レフト/ノルディック・グリーン・レフト(GUE/NGL)として知られる議員連合によって主催された。

 この会議の背景にあるものは、欧州連合(EU) (加盟国は現在15カ国であるが、今年の夏にさらに10カ国が加盟予定) 内での化学物質規制のための革命的な新たな政策提案である。この提案は REACH と呼ばれ、その最終的目標は、人々の健康と環境を守る化学物質政策を作り出すことである。
 REACH の種が蒔かれたのは、1998年、EU 加盟国の政府が集まって、従来の化学物質政策が、40もある様々な法のパッチワークであることから、人々と環境を有害な化学物質の影響から十分に守ることができないので、これを刷新すると表明した時である。[2]
 EUの行政機関である欧州委員会は、全く新たな法的枠組みを提案するよう要請され、2001年にそれを実施した。[3]

 GUE/NGL による会議が行われたのは、 REACH 提案の修正版が欧州委員会により提出された直後であり、GUE/NGL グループのメンバーが恐れていたように、REACH オリジナル提案に含まれていた予防原則の要素の多くがごっそりと抜き取られていた。したがって、「化学物質:浄化しよう」 の会議では、中身が半減した修正提案を検証し、修正提案を回復する方法を討議し、それらの変更を実現するための戦略を立てることこととなった。
 GUE/NGL グループは、「この新たな法は予防原則に基づかなくてはならず、健康と環境に対する懸念を第一としなければならない」 と信じている。[4]

 欧州連合は世界第2の経済圏であり、 REACH の影響は大きい。REACH は今後15〜20年間、世界の化学物質政策の規範となるであろうことを参加者のほとんどが合意した。

 REACH の取り組みに関する歴史的展望について、国際化学物質事務局 (International Chemical Secretariat) のパー・ロザンダーが発表した。スウェーデンに本拠を置く彼の組織の役割は、REACH の立法化プロセスを市民として監視することである。
 ロザンダーが述べた通り、オリジナル REACH 提案はいくつかの明確な(予防原則の)特徴を備えていた。そのひとつは、立証責任を当局から産業側に移行したことである。この概念に対するヨーロッパ人の表現は、 ”データのないものは市場に出すな no data, no market” である。
 すなわち、全ての化学物質の製造者と輸入者は、彼らの化学物質の安全性について十分なデータを持たなくてはならないとしている。製品を販売するためには、そのデータを示さなくてはならない (REACH の R は登録 registration を示す) 。このデータは製造者と使用者が共有することとなっている。そして、同じルールが既存化学物質と新規化学物質に適用される。[5]

 大量に販売される化学物質及び、 ”高懸念性” の化学物質については、全てのデータが加盟国の専門家によって評価されなくてはならず、評価者は、例えば、ある化学物質の使用を制限することを選択するかもしれない (E は評価 evaluation) 。ある化学物質に対して、評価者は認可手続きを要求するかもしれない。その手続きでは、会社は彼らが製造し、使用し、輸入し、販売しようとする物質に対する、より安全な代替物が存在しないことを証明しなくてはならない。この ”代替原則” は、危険物質をブラック・リストに載せるものとして、オリジナル REACH を特徴付けるものであった。 (A は認可 authorization。REACHはこのように、化学物質の登録、評価、認可を表す。Registration, Evaluation and Authorization of CHemicals)

(訳注:ここで言うオリジナル REACH とは、2003年5月にインターネット・コンサルテーション時に発表された REACH ではなく、2001年2月に発表された 『将来の化学物質政策に関する白書 2001年 (The White Paper on a strategy for a future chemicals policy COM(2001))』 を指すと考えられる。この白書の中で、すでに REACH の概念が述べられている)

 ロザンダーのプレゼンテーションの多くは、この2年間に REACH に加えられた無数の小さな抜け穴や免除について、さらに、いくつかの重要な条項が希釈されて無意味なものにされたことについての説明に費やされた。
 たとえば、ブラックリストに掲載された化学物質に対する、より有毒性の低い代替物による代替要求の条項は全て削除された。
 ロザンダーは、メディアが報じるように産業界がこぞって REACH に反対したわけではないことを強調した。事実、いくつかの会社は REACH 提案の支持を表明し、特に建設産業界にとっては、 PCBs やその他の有毒化学物質は信頼性と作業者の安全に対する悪夢であったとしている。
 しかし、ある産業界は頑強に REACH 提案に反対し、アメリカ政府と一緒になって積極的に REACH 反対のロビーイング活動を展開した。[6]
 ロザンダーは、 「現在の REACH は頑丈な基礎の上に立つ家であるが、今、泥棒に入られた。家から盗まれた家具は取り戻さなくてはならない」 と述べた。ロザンダーは楽観的であり、そのような取り返しはまだ可能であるとしている。

 もう一人の、会議のスピーカーは欧州環境局 (European Environment Agency) のデービッド・ギーであり、彼の任務は、人々の意思決定に必要な予防原則に関する情報を提供することである。
 ギーは、 ”予防原則はそうではない (Precautionary Principle is NOT)” と題する、非常に有用なプレゼンテーションを行った。

 最も広まっている誤解の一つは、たとえば、予防原則が経済的コストを無視するということである。ギーは、そうではないとして、それは外部化されたコストに含まれる要素であり、不活性な最終コスト(eventual costs of inaction)であると述べている。(例:テスト未実施の化学物質のスクリーニングに少なくとも16億ドル(約1,900億円)かかる。しかし、消費者製品から有毒物質を除去することにより、今後30年間で医療コストだけについても、少なくとも200億ドル(約2兆4,000億円)のコストセービングになるとしている。[7]

 予防(Precaution)は、防止(prevention)とは同じではないとギーは主張する。防止は、危害の実在証拠が入手可能である時にとられる行動である。予防は実在証拠が入手可能でない時に用いられる政策決定のプロセスである。自転車のヘルメットは頭を怪我から防止する。フッ素化合物(CFCs)の使用中止はオゾン層破壊の予防である。ギーはフッ素化合物(CFCs)のオゾン層破壊効果についての最初の警告が1974年に発表された時には、それを公然とあざ笑う理論的議論が展開されたが、3年後にはアメリカでスプレー缶での CFCs の使用を禁止するベースとなった。それは実際にオゾンホールが発見された1985年よりも前のことであった。

 ギーのすばらしい報告書 『早い警告からの遅い教訓:予防原則 1896-2000 / Late Lessons from Early Warnings: The Precautionary Principle 1896-2000』 ではさらに、1965年頃実施された従来手法によるリスクアセスメントでは、自信をもって CFCs は完全に安全であると結論付けていたとしている。それらは不活性ガスであり、非可燃性であり、非毒性である。それらは30年間以上大気に放出されたが目に見える危害はなかった。大気のプロセスに対する知識がほとんどなかったために、現在ではこの知識の空白は部分的には埋められてきたが、当時の CFC 評価者は危害を正確に予測し事前に手を打つことができなかった。[8]

 3番目のスピーカー、アンナ・リッツは、ベルギーの活動家団体 ケミカル・リアクションの仕事について述べ、 REACH に予防を再び取り戻す最良の方法は世論を喚起することであるとして、その計画に専念している。ケミカル・リアクションは彼らのウェブサイト(http://www.chemicalreaction.org)で、立法プロセスにおける歪曲と変節を監視し加盟国の市民に対し、必要がある時にはいつでも行動をとるよう呼びかけている。(ウェブサイトは6カ国語で用意されている)
 この団体はまた、欧州議会、欧州委員会、さらには、近々 EU に加盟予定の東欧諸国に対してもロビーイング活動を展開している。

 リッツのメッセージは、デンマークの消費者協議会のメッテ・ボヤの演説でさらに強調された。ボヤは、日用品に含まれる有毒化学物質から消費者を守ることができなかった事例として毛染めに焦点をあてた。
 典型的に企業秘密とされるのは製品中の成分はだけでなく、有毒成分の許容レベルが時には許可された値を超えていることも秘密とされている。
 皮肉にも REACH 合意を妨げてきた最大の障害のひとつが、 ”REACH のような保護措置はすでに存在している” と広く信じられていることであるとボヤは述べた。デンマークの多くの人々は、市場にある化学物質はすでにテストされ安全性が証明されていると思っているが、実際にはそれらのうち95%はテストが行われていない。

 ヨーロッパ各地からのスピーカーたちが予防に関する体験を語った。
 オデッサ(ウクライナ黒海沿いの都市)のスビトラーナ・スレサレンコは、マーマ86 というおばあさんたちのグループの話をした。このグループは、ウクライナにある猛毒化学物質プラントを封鎖と訴訟という手段で閉鎖に追い込み、地域の新たな規制システムを作り出した。

 技師ロベルト・カララはイタリアの PVC 製造会社に対する訴訟について語った。判決は原告が望んだ内容ではなかったが、公判を通じて公表された事実は人々にビニル製品の危険性について伝え、また司法の調査でそれまで隠されていた発がん性に関するデータが曝露された。

 後半の議論は、政治的戦略について行われた。欧州議会の議員らは、REACH 提案を再度書き直す機会がまだ来るとして、REACH を強化する機会うかがっている。しかし、今年の6月に予定される欧州議会と欧州委員会の選挙に加え、ほとんど同時期に新たに10カ国が EU に加盟するいう状況の下で、 REACH をこのまま直ちに成立させる方が良いのか、あるいは、しばらく待つほうが良いのか、議論がなされた。(現状では、直ぐに承認を得るという選択肢はあり得ない。昨年の12月以来 REACH をめぐる小競り合いが激化し、2005年までだらだら引き延ばされる恐れがある。[9]

 REACH の最終的な運命がどうなろうと、ヨーロッパにおいて予防原則が上向きに伸びているということは明らかである。すでに欧州議会議員候補の選挙キャンペーンにおけるホットな政策課題(hot potato issue)になっていると、会議の参加者の一人は観察している。
 さらに予防原則は、その数日後に開催されたもうひとつの国際会議で大いに引き合いに出された。この会議には、欧州諸国の環境及び健康大臣、世界貿易機関(WTO)担当官、欧州パブリック・ヘルス・アライアンスの所属団体メンバーらが参加した。
 この会議は、2004年6月にブダペストで開催される第4回環境・健康大臣会議の計画を練るためにベルギーの健康省で開催された。ブダペスト会議のタイトルは、 ”我々の子供たちの未来” であり、この会議が環境における予防原則の事例となることは間違いない。


(*)サンドラ・スタイングラバー博士は生物学者であり、著者(レイチェル・ニュース #565, #658, #776, #777, #784, #785参照)である。彼女は現在、ニューヨーク州イサカのイサカ大学複合領域研究プログラムの著名な客員学者である。

有用なウェブサイト
NOTES

[1] European Environment Agency, Late Lessons from Early Warnings: the Precautionary Principle 1896-2000 (Luxembourg: Office for Official Publications of the European Communities, 2001). Available at
http://www.rachel.org/library/getfile.cfm?ID=301

[2] International Chemical Secretariat, New Chemicals Policy in the EU: Good or Bad for Companies (Goteborg, Sweden, Report 1:03, May 2003), p. 3.

[3] Read the proposed legislation at
http://europa.eu.int/comm/environment/chemicals/whitepaper.htm

[4] MEPs and GUE/NGL members Pernille Frahm of Denmark and Jonas Sjostedt of Sweden in an Aug. 28, 2003 letter to the author.

[5] 新規化学物質と既存科学部質を同一の基準で扱うという点が、新EU化学物質規制案と現在のアメリカの化学物質政策の大きな違いのひとつである。アメリカでは1976年の有毒物質規制法(Toxic Substances Control Act)によるテスト要求以前に上市された約30,000種のテスト未実施の化学物質の使用を認めている。
Holding new and old chemicals to the same standard marks one of the biggest points of departure between the proposed EU policy and the current U.S. one. The United States permits the use of some 30,000 untested chemicals that came on the market before the testing requirements under the 1976 Toxic Substances Control Act. For an excellent overview of the differences between U.S. and EU chemical policies, see T. Herrick et al., "U.S. Opposes EU Effort to Test Chemicals for Health Hazards," Wall Street Journal, 9 Sept. 2003.
http://www.transnationale.org/offsite.asp?URL=http://www.mindfu lly.org/WTO/2003/US-Opposes-EU-Chemicals9sep03.htm

[6] ジョセフ・ディギャンギ博士(エンバイロンメンタル・ヘルス・ファンド)の調査が、パウエル国務長官を含むアメリカ政府の REACH を弱体化するための深く広範なキャンペーンを暴きだしている。 Investigative work by Joseph diGangi, Ph.D. of the Environmental Health Fund has revealed the depth and extent of the U.S. government's campaign to undermine REACH, including the efforts of Secretary of State Colin Powell. Read diGangi's full report on the website of Clean Production Action:
http://www.cleanproduction.org/library/USIntervention.pdf

(訳注:アメリカのEU化学物質政策(REACH)への干渉 当研究会訳をご覧ください)

For a summary, see R. Weisman, "Politics of Chemistry 101," Multinational Monitor vol. 24, no. 10 (Oct. 2003), pg. 6 --
http://multinationalmonitor.org/mm2003/03october/october03front.html or Herrick, 2003 (see note 5 above).

[7] Herrick, 2003 (see note 5 above).

[8] EEC, Late Lessons (see note 1).

[9] P. Reynolds, "EU Council Review Could Drag on for Up to Two Years," Chemical News & Intelligence, 8 Jan. 2004.

[10] For more information on the upcoming Budapest Conference,
http://www.epha.org/a/903 and http://www.euro.who.int/budapest2004



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