レイチェル・ニュース #755
2002年10月31日 パラケルススの法則に立ち戻る−その2 (安全性の立証責任を化学物質製造者に求める) ピーター・モンターギュ #755 - Paracelsus Revisited -- Part 2, October 31, 2002 By Peter Montague http://www.rachel.org/?q=en/node/5589 訳:安間 武 (化学物質問題市民研究会) 掲載日:2002年12月21日 このページへのリンク: http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/rachel/rachel_02/rehw_755.html 今までに、ホルモンかく乱化学物質に関して、アメリカ国立健康研究所(National Institutes of Health)の月刊誌『環境健康展望 ENVIRONMENTAL HEALTH PERSPECTIVES (EHP)』の過去2年間の記事をもとに5回連続で検証してきたが、今回が最後のものとなる。[参照レイチェル・ニュース#750-754] レイチェル・ニュース#754 で見たように、約20年前に産業化学物質のあるものが植物や動物や人間に対しホルモン作用をかく乱するという事実がわかって以来、毒物学は根本的に考え方が変わった。 450年以上にわたって、”毒は用量次第(The dose makes the poison.)”というパラケルススの言葉は、生物に影響を与えるような物質が環境中に放出されても、”毒は用量次第”なのだから大気や水や食物を通じて曝露しても低用量なら問題ないはず−ということを正当化する理由付けに使われてきた。しかし、我々が検証してきたように、低用量だからといっても、次のような理由から、決して安全とはいえない。
しかし、これはいつも正いというわけではなく、その逆のこともあるということを、我々はすでに知っている。場合によっては、高用量よりもむしろ低用量の方が作用が大きいということもある。例えば、レイチェル・ニュース#754で、ビスフェノールAは高用量よりも低用量の方が作用が大きいという事実を見てきた (EHP Vol. 109, No. 7 [July 2001], pgs. 675-680)。言い換えれば、ビスフェノールAの”用量特性曲線”は逆U字型を描くということである。低用量の領域では用量が増加すると作用も大きくなるが、ある用量以上になると作用の増大は止まりその後は用量が増えると作用は小さくなり、ゼロに近づいていく。 現在では、多くのホルモンかく乱物質がこの逆U字型の特性を持つということがよく知られている。これらの化学物質は低用量ではホルモンをかく乱するが、高用量ではそのようなことは起きない。この事実はパラケルススの首をひねらせることとなる。 上述のビスフェノールAについての研究に加えて、最近、逆U字型特性曲線の事例を示す2つの研究がEHPに発表された。 ひとつは、フィトエストロゲン(大豆などの植物に含まれる植物女性ホルモン)は低用量では女性ホルモンの生成を抑制するが、高用量になるとそのような作用は消えてしまい、フィトエストロゲンは自然の女性ホルモンとともに、女性ホルモンの作用をするようになる。その用量特性曲線は逆U字型である。このことが、低用量のフィトエストロゲンが乳がんを防ぐということの説明になっているとこの研究の著者は述べている(参照:HP Vol. 110, No. 8 [August 2002], pgs. 743-748.)。 もうひとつは、オスの成魚グッピーに関する研究であり、えさに含まれたある種の農薬(男性ホルモンをかく乱することが知られているビンクロゾリンとDDT)に曝されると精巣が縮小し、精子の数が激減し、”オスの求愛行為”がなくなるという現象が見られた。ある作用は低用量で顕著であり、逆U字型特性曲線を示した(EHP Vol. 109, No. 10 [October 2001], pgs. 1063-1070)。 グッピー研究の著者は文献調査を行い、逆U字型特性曲線を報告している研究事例が100件以上あることを発見した。すなわち、この現象はすでによく実証されているということである。 このことは、高用量で行う従来の毒性学的テスト方法では低用量のみで発現する重要な作用を見逃すということを意味している。したがって、低用量でのテストも行わなくてはならないのである。 そこでパラケルススの”毒は用量次第”という言葉は、”毒は混合物の用量次第。しかし、固体差があり、生育や発達の時機による。(低用量の方が高用量の場合より毒性が強いこともあり得るということを常に考えなくてはならない)”と置き換える必要がある。 パラケルススの言葉に対するこの新しい解釈にも基づいて適切なテストを行おうとすれば、それはわずか10年前と比べて非常に複雑で金のかかるテストとなる。 しかし、新しい毒物学的科学の難しさはそれだけにとどまらない。我々がレイチェル・ニュース#754を発行した後に、MCS Referral & Resources (http://www.mcsrr.org/) のアルバート・ドネイは、どのような毒性物質や有害物質への曝露に関する研究も、遺伝的個体差や曝露の時機、あるいは過去の曝露履歴に依存する”個体毎の毒性への適応の度合い”を考慮しない限り、意味がない−と指摘した。 環境適応、慣れ、耐性などを意味する”耐毒性”が身に付くということは人間や他の動物において一般的な現象である。 我々は経験的に、例えば喫煙などでこのことを知っている。生まれて初めてたばこを一服吸った時には、軽いめまいや心臓の動悸、吐き気のようなものを感じることであろう。しかし、そのままたばこを吸い続けるとこのような感じに慣れてくる。すなわち”適応”である。そのうちに、喫煙により、ある種の”高揚感”を得るようになる。そうなると、”高揚感”を求めて、たばこをもっと吸いたくなる。 我々は、日常生活における喫煙、飲酒、薬などの経験から”適応”について理解している。このことは職場でも経験する。作業者は、例えばドライクリーニングの職場で、最初は化学物質の強い臭気を感じても、そのうちにそれを感じなくなる。これが適応である。 適応は、化学物質だけでなく、騒音や、光、接触感、寒暖感、高所感についても起こる。フランク.A ゲルダードはその著書である医学書『人間の感覚』の中で次のように述べている。「刺激が継続するとそのことに対する感覚が減少するという現象は、感覚精神生理学では非常に一般的なことであり、日常的に全ての場合にも経験することである[1, pg. 299]』。 味覚への適応について彼は次のように述べている。「味覚器官は、連続的に同じ刺激を与えられると、嗅覚器官の臭いに対するのと同様に、その感覚に鈍感となる。実際、味覚の適応を加えることで、感覚百貨店の総合カタログは完結する。味覚の適応は感覚の世界では一般的にみられることである」[1, pg. 513] 。 ”適応”に関し、コインの裏側の関係にあるのは”非適応”または”過敏”である。喫煙者がある一定期間、喫煙をやめると、他人が吸っているたばこの煙(2次喫煙)に過敏となる。2次喫煙に関しては、以前よりも低レベルで感じ、反応するようになり、それは喫煙経験のない人以上のものがある。過敏は感覚の世界においては適応の正反対に位置付けられる。 人間も実験動物も、適応の度合いは個体毎に有する過去の履歴によって異なる。例えば、ある有毒化学物質の刺激に対しても、その刺激を過去に受けたことのない動物、すでに適応している動物、あるいは過敏となっている動物によって、それぞれ反応が異なる。 一酸化炭素に関する古典的な研究事例で、”適応の度合い”の重要性が示されている。一酸化炭素は無臭、無味、無色なガスで炭素系燃料の不完全燃焼時に生成される。車のエンジンやガスストーブから一酸化炭素が出ている。一酸化炭素は赤血球やヘム(訳注:ヘモグロビンの色素成分)の中の酸素を自身と置き換えるので、その量が多くなると死に至る。 1940年にエステル.M・キリックは一酸化炭素について詳細に研究し、その結果を発表した[2] 。キリックは密閉したケージにモルモットを入れ、一定量の一酸化炭素を導入した。数週間かけて一酸化炭素の濃度を徐々に上げていくと、モルモットは赤血球中の一酸化炭素の濃度が45%になるまで、特に異常もなく適応した。しかし、一酸化炭素に曝露したことのないモルモットを突然、同じ環境に入れると数日間で死亡した。 このことは、一酸化炭素の毒性に関する研究は、被験動物が持つ適応の度合いによって全く異なる結果を導き出すということを示している。このことは他の毒物についてもいえることである。 これにより、パラケルススの”毒は用量次第”という言葉は、”毒は混合物の用量次第。しかし、固体差があり、生育や発達の時機による。(低用量の方が高用量の場合より毒性が強いこともあり得ると常に考えなくてはならない)。さらにその混合物に対する過去の曝露履歴、及びその履歴の結果としての適応(あるいは過敏)の度合いにより異なる”と置き換える必要がある。 現在では、環境と健康への影響に関する化学物質のテストにおける現実的な実験手法として、その化学物質に対し無垢な動物、適応している動物、及び過敏な動物のそれぞれについて検証する必要があるということは明らかである。さらに被験動物は個々の化学物質だけでなくその混合物に対する曝露テスト、さらには被験動物の発達と発育の決定的瞬間における曝露テストも必要である。(発達と発育の決定的瞬間を決定すること自体が難しい課題である。) 研究されるべき作用は単に被験動物の物理的(形状的)な変化だけでなく、行動の変化(例えばグッピーの求愛行動、人間の集中力、あるいは暴力的傾向)も対象とされるべきである。 また子孫への影響も研究されねばならない。なぜなら、ある場合には親が曝露しても結果は親には現れず、第二世代、あるいはさらにその先の子孫に悪影響が出るかもしれないからである。 このような、”毒は用量次第ではない”という考え方が化学物質の規制におけるベースとならなければならない。 結論として、”毒は用量次第”なのだから生体に作用する化学物質を職場や製品、さらには環境中に出しても良いという単純な文言(考え方)は死語であり過去のものである。それは間違いであり、誤解を与え、何も利益をもたらさない。 これと対照的な考え方として、”全ての化学物質に関し、もし十分な時間をかけて調べれば、全ての労働者、消費者、市民にとって安全な用量を化学物質毎に設定できる”という考え方もありうるが、これもまた間違いであり、誤解を与え、危険でさえある。 現在、約80,000種の化学物質が市場に出回っていると言われているが、それらの全てを調べ上げるだけの数の研究所はこの世にはないし、その研究結果を相互に検証するだけの数の研究者もいない。このような考え方は全く間違っている。同時に考慮しなくてはならない要素が余りにも多すぎるのである。すなわち、この方法では今後適切にテストできる化学物質の数はほんのわずかであろうということである。 もし、現在の化学物質の規制が誤った前提を基にしており、正すことができないということを認めざるをえないならば、”予防措置”の観点から、安全性の立証責任を化学物質製造者に求める行動を起すことを考えるべきである。 ある一定期限までに安全性を証明する適切な証拠が出せない化学物質については、市場から撤去するという目印をつけるようにする。このことにより企業経営者はどの化学物質を破棄すべきか選択せざるをえず、残したいものについては安全性検証のテストを大至急行うであろう。それ以外のものは最終的には製造を中止し、その結果、市場から消えていく。これにより産業化学物質の数は減少し、残ったものは特性がはっきりし理解される。 このような変化こそが誰にとっても望ましいことであろう。 ピーターモンターギュ ================== [1] Frank A. Geldard, THE HUMAN SENSES (N.Y.: John Wiley, 1972; second edition; ISBN 0471295701). [2] Esther M. Killick, "Carbon Monoxide Anoxemia," PHY-SIOLOGICAL REVIEWS Vol. 20, No. 3 (July 1940), pgs. 313- 344. Thanks to Albert Donnay for help with this issue.--P.M. アルバート・ドネイさん、本号の発行にあたってご支援いただき、ありがとう。P.M. |