「早期警告からの遅ればせの教訓:予防原則 1896-2000」 欧州環境庁編
5章 アスベスト:魔法の鉱物から悪魔の鉱物へ
デーヴィッド・ギー、モーリス・グリーンバーグ著
European Environment Agency
Late lessons from early warnings: the precautionary principle 1896-2000
http://reports.eea.eu.int/environmental_issue_report_2001_22/en
5. Asbestos: from 'magic' to malevolent mineral
By David Gee and Morris Greenberg
http://reports.eea.eu.int/environmental_issue_report_2001_22/en/issue-22-part-05.pdf

訳:安間 武 (化学物質問題市民研究会
掲載日:2004年3月26日
更新日:2004年9月21日
このページへのリンク:
http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/precautionary/late_lessons/5_asbestos.html

「早期警告からの遅ればせの教訓:予防原則 1896-2000」 欧州環境庁編の第5章を
著者の快諾を得て翻訳・掲載するものです


尚、この欧州環境庁編報告書の完全日本語訳版は、
レイト・レッスンズ −14の事例から学ぶ予防原則 』として、
七つ森書館より出版されていますので是非お読みください。


”現在の知識に照らして過去を振り返ると、アスベスト関連疾患の
発見と防止の機会をみすみす逃したとつくづく感じざるをえない”

トーマス・レッジ 元主席産業医療監督官 1934年

5.1 はじめに

 2000年5月20日、英国のある病院外科医の家族は、彼が47歳でアスベストによるがんの中皮腫で死亡したことの賠償金として115万ポンド〔約2億3,000万円〕を受けとった。この病気は、この外科医が学生、研修医として1966?73年の4年間働いていた、ロンドン、ミドルセックス病院の地下にある通信用トンネルの破損したパイプ断熱材から出ていた"青"アスベストの粉塵に曝露したことが原因で起こった(British Medical Journal, 2000)。中皮腫の主な原因はアスベストである。発症後1年以内に死亡するのが普通の中皮腫患者は、今後35年間にEU内で、約25万人発生すると推定されている(Peto, 1999)。アスベストはまた肺がんの原因でもあるので、最初に見つかったアスベスト肺〔慢性肺繊維症〕を含むアスベスト関連疾患による死亡総数は25万?40万になるだろう。図 5.1は英国のアスベスト輸入量のピークとその50?60年後に現れると推定される中皮腫死亡数のピークを示している。

図 5.1 英国のアスベスト輸入と予想される中皮腫死亡者数(出展:Peto, 1999)数

 ロンドンの病院で起きたこの環境曝露より90年前の1879年にカナダのセットフォードでクリソタイル("白"アスベスト)の採鉱が始まって、新たに地球規模で一般大衆の健康被害が生まれた。数年後、他の2種類のアスベスト、"青"アスベスト(クロシドライト)と"茶"アスベスト(アモサイト)がオーストラリア、ロシア、南アフリカ、その他の国々で採鉱されるようになり、全種類合わせたアスベストの世界の年間生産量は、1998年には200万tに達した。EUへの輸入量は1970年代中頃がピークで、1980年まで年間80万tを超えていたが、1993年には10万tまで落ちた。
 今日、健康と汚染コストという大きな負の遺産が産出国と使用国の双方に残されており、現在もアスベストは発展途上国において大々的に使われ続けている。
 本章では、主に英国について記述するが、アスベストの歴史は主要産出国であるオーストラリア、カナダ、ロシア、南アフリカとともに、フランス、ドイツ、イタリア、スカンジナビア諸国、米国(Castleman, 1996)でもほぼ同様である。このような歴史は、多少の違いはあるものの、現在、アジア、アフリカ、南アメリカで繰り返されている。


5.2 最初のアスベストの"早期警告"と反応

 アスベスト採鉱が始まってから20年以内に、この"魔法の鉱物"から100を超える製品が開発されたが、深刻な疾患の報告も出始めた。
 アスベスト作業による健康被害の最初の報告は、英国における最初の女性工場監督官の一人であるルーシー・ディーン(Lucy Deane)によってなされた。1898年にディーンは、「労働者の健康に危険であることが容易に実証でき、気管支や肺の障害は患者の雇用に原因があると医学的に示される確かな症例があるので」、その年監視することになっていた四つの粉塵のひどい職業の一つにアスベスト作業を含めることにした。
 彼女は観察を続け、次のような結論を得た。「アスベスト粉塵の悪魔のような影響は、医学監督官による顕微鏡観察をせかせることにもなった。アスベストの粒は鋭いガラスのように突き刺さる性質をもっていることが判明し、量にかかわらず室内の空気中に舞い上がり、浮遊し続けるのだった。その影響は想像されていたように健康に害を与えるものであった」(Deane, 1898)。
 1909年と1910年に二つの同様な観察が女性監督官によってなされた。それらは、英国主席工場監督官の年次報告に掲載され、広く政策立案者や政治家の間に回覧された。
 これら専門家ではない女性の観察は、"専門的意見"とは見なされないかもしれないが、彼女らは有能な観察者であり、職業病についての彼女らの話は医学者を信用させるはずであった。しかし、彼女らの報告書は反駁もされず、ただ無視されただけであった。
 ルーシー・ディーンの報告書が出た1年後、ロンドンにあるチャリング・クロス病院のモンターギュ・マレー(Montague Murray)博士は、33歳の男性が吸い込んだアスベスト粉塵が原因の肺疾患の最初の症例を診て報告した。マレーの言葉によれば、「彼は約14年間その職場で働いたが、最初の10年間は、彼が言うには最も危険な作業工程である"毛羽立て室"での作業に従事していた。彼がその作業室で働くようになった時、そこで働いていた10人のうち、生き残っているのは自分ただ一人であると進んで言った。彼の言葉以外に私にはそれについての証拠がない。彼らは全員30歳代でどこかで死んでしまった」(Murray, 1906)。
 この観察によって、1906年、英国政府は職業病の賠償に関する調査に関心を向けることとなった。同年、一人のフランスの工場監督官がアスベスト織物工場の女子作業員のうち約50人が死亡したと報告した(Auribault, 1906)。この報告書は、アスベストの特性、紡糸・織布作業でのその処理と使用、安全性と健康に対する危険性、発生源での粉塵捕集装置の設計などを記していた。この報告書もまたほとんど無視されたが、それから約90年後になってフランスはアスベストを禁止し、後述する1999年の世界貿易機関(World Trade Organization, WTO)交渉において鮮明な態度を表明した。
 このフランスの報告書は、先の英国女性監督官の観察内容を確認するものであった。しかし、1906年の時点で、英国政府の調査はアスベストを職業病の原因として認めなかった。マレー博士は次のように証言している。「一般的に、粉塵の吸入を防ぐために現在では多大な労力が払われているので、このような疾患は以前ほどには起きないだろうと言われている」(Murray, 1906)
 このことは調査委員会に影響を与えたかもしれない。しかし、マレー博士の患者が主張する9人の同僚の死についての真実に関しては、何ら調査がなされなかった。また、ルーシー・ディーンから死亡率の統計的調査を実施するよう提案があり、それを実施していれば役に立ったであろうに、生き残った工場労働者に対する調査すら行われなかった。
 マレー博士の"被害の証拠がない"ことは"被害がないことの証拠"であるとする見解は初期の誤った考え方の典型であり、そのような考えが、当初は無害であると考えられた多くの危険な物質を、危険なものとして認識することを妨げた(否定したことが偽りだった"誤った否定"の例)。
 1910年に、アスベストの有害性についてその他の証拠が労働者の中から出て(Collis, 1911)、1911年にはラットを使った、先覚者的な粉塵実験が行われた(Merewether and Price, 1930)。このことが後に、"大量にアスベスト粉塵を吸入すると、ある程度有害であると疑うに足る合理的な根拠"となり、英国の工場省は、粉塵を出す作業場に排気装置を設置するように圧力をかけることとなった(Merewether, 1933)。しかし、その後、1912年と1917年に工場省は調査を実施し、それ以上の措置の必要性を正当化する十分な証拠はないとした。一方、米国とカナダでは、保険会社が1918年までにアスベスト疾患の証拠は十分あると見なし、「この産業には有害な条件が想定される」として保険料率を引き上げた(Hoffman, 1918)。残念ながら、この初期の予防的措置はその後忘れ去られ、1990年代にアスベストによるコストが米国の保険業界に大打撃を与えることとなる。
 1924年、ロッチデール〔イングランド北西部の町〕にある、1880年創立のターナー兄弟社のアスベスト工場の本拠地において、はじめて現場検証とアスベスト労働者の病理学的検診が行われた。ネリー・カーショウは、地元の医師ジョス博士によってアスベストの毒性で死亡したと診断された。ジョス博士はそのような症例を年に10?12例ほど見ていた。彼の見解は、病理学者W・コーク博士によって追認され、博士はその症例を医学論文に記載した(Cooke, 1924 and 1927)。ターナー兄弟社の別の工場があるリーズ〔イングランド北部の町〕で、一人の地元医師が博士論文を書き上げるのに十分なほどのアスベストの症例を発見した(Grieve, 1927)。1930年までに、この二つの工場の労働者のうち、少なくとも12人がアスベスト肺が原因で、あるいは原因の一部で、死亡した(Tweedale, 2000)。ある場合には、結核、心臓疾患、肺炎が診断を複雑にし、さらに20?30年間、その状態が続いた。
 しかし、上の少なくともいくつかの証拠と、1928年の医学論文に掲載された南アフリカの4症例を含む他の二つの報告書(Simpson, 1928; Seiler, 1928)は、アスベストの影響に対する政府の大々的な調査を引き出すのに十分であった。その調査は工場医療監督官ミアウェザー(Merewether)博士と、工場監督官で粉塵測定と制御のパイオニアであったC・W・プライス(C. W. Price)によって行われた。それは最初のアスベスト労働者の健康調査で、20年以上雇用されていた労働者の66%がアスベストの被害を受けていたが、4年以下の労働者に被害者はおらず、調査対象労働者363人のうち被害を受けていた労働者は平均25%であった(Merewether and Price, 1930)。これはおそらく過少評価であり、現在働いている労働者だけが調査対象で、すでに病気で職場を去った人々は調査対象から外されていた。しかし、これらの結果は、1931年に最初のアスベスト粉塵規制法の制定、医学調査、および賠償調整を世界ではじめてをもたらす役を果たした。これらは、1969年までほとんど修正されることなく(強制力もなかったが)使われてきて、その年、新たなアスベスト規制法が英国に導入された。


5.3 アスベストがんについての早期警告

 1932年、英国労働組合会議(Trade Union Congress, TUC)への報告書の中で、独立系の研究者ロナルド・テージ(Ronald Tage)は、ロンドン、バーキングのケープ・アスベスト社で発生したアスベスト肺の3症例が、がんを併発していることに注意を喚起した(Greenberg, 1993)。アスベストに伴う肺がんに関する報告は、1930年代と40年代に米国、ドイツ、英国の医学論文に見られ(Lynch and Smith, 1935; Gloyne, 1935; Wedler, 1943; Heuper, 1942)、また、1938年の「主席工場監督官報告書」(Report of the Chief Inspector of Factories)にも見られる。1938年、肺がんが一般的にはまだそれほど多くはなかった頃に、ドイツ当局はこの相関を因果関係と認め、1943年にアスベスト肺がんは職業病として賠償の対象となった(何十年か後に、喫煙による肺がんが出てきて、アスベストとの結びつきを証明することが難しくなった)。
 1949年の「主席工場監督官年次報告書」で、アスベスト肺で死亡した患者の検死解剖において肺がんが高率で見出されることが報告され、また、産業側は米国の未発表報告書を手に入れて、マウス実験によって呼吸器系がんの多発が示されていることを知った(Scheper, 1995)。ロッチデール地区でがん死亡率に関する三つの内部調査が行われ、アスベスト労働者に肺がんの証拠は見出されなかったが(Knox, 1952 and 1964)、調査を担当した会社側の医師は自分が統計学についての知識が"皆無"であることを告白した(Tweedale, 2000, p.148)。1953年、ターナー兄弟社は独立系の疫学者リチャード・ドール(Richard Doll)に、ロッチデールのアスベスト労働者死亡率を調査するよう依頼した。彼は、20年以上アスベストに曝露した人々は通常の集団の人々よりも肺がんリスクが10倍高いことを見出した。ターナー兄弟社幹部はこれらの新知見を隠そうと試みたが、ドールの知見は医学雑誌に公表された(Doll, 1955)。それでも、政府が、アスベストによる肺がんを賠償対象の職業病として認めるまでにさらに30年を要したが、それもアスベスト肺を伴う場合のみであった。このような結果となったのは、部分的には、喫煙に起因する肺がんが増加したことによって、その後の研究がますます複雑にならざるをえなかったためであった。ドールもまた1955年の英国の医師の研究にその事実を見出している。
 後のアスベスト労働者の研究で、二つの発がん要因である喫煙とアスベストの組合わせが肺がんのリスクを相乗的に高めることがわかった。アスベストだけでは肺がんリスクは5倍、喫煙だけでは10倍に増大するが、二つの組合わせのリスクは15倍(相加効果)ではなく、50倍のリスク、すなわち相乗効果となった(Hammond, 1979)。喫煙とウランその他の採鉱から受ける放射能も、放射線被曝労働者に同様の相乗効果を与える(Archer, 1973)。
 人のアスベスト曝露に関する他のすべての研究を見ると、肺がんが現れるまでの20?25年間を粉塵が少なくなった"新しい労働条件下"で働いた労働者は比較的少数だったため、そのリスクが1955年にどのくらいあったかは、さらに多くの年月が経過するまで言えなかった。その時点で再び職場環境が改善されていれば、リスクがどうこう言うことは不可能である。この問題は"潜伏期間の陥穽"と言われ、技術の変化が存在する条件下で起こる、長い潜伏期間をもつ被害に共通の特性である。これが、予防措置の実施がしばしば非常に遅れる主な理由である。


5.4 中皮腫についての痛烈な早期警告

 胸膜や腹部を包む腹膜にできる、通常は非常に珍しいがんである中皮腫の症例が1940年代と50年代にアスベスト曝露と関連して観察されていたが、南アフリカの地元医師スレグス(Sleggs)博士がアスベスト鉱山の中心地でこれらの珍しいがんの多発を発見し、患者の幾人かを病理学者ワグナー(Wagner)博士のもとに送り込んだのは1955年になってからであった。アスベストとの関連性は明確にされたが、博士らは、亡くなった人たちのアスベスト曝露の歴史を再現するために鉱山地帯を調べてまわり、仲間や家族の話を聞いた。中皮腫の47症例中、2例を除くすべては以前にアスベストに曝露しており、多くは環境からの曝露であった。廃棄物の上で遊んだ子どもたちも含まれていた。彼らはこれらの事実を1960年に発表した(Wagner et al., 1960)。
 これは、中皮腫を起こすのに必要な曝露はわずか数か月で十分だということで、衝撃的なニュースとなった。これとは対照的に、ほとんどの肺がんとアスベスト肺は、アスベスト粉塵に10年以上曝露した場合に起きるように見える。最初の曝露から中皮腫の発症までの平均潜伏期間は約40年で、肺がんの20?25年とは大きく異なる。
 ワグナー博士の論文はアスベストと中皮腫の非常に強い関係を示す証拠となったが、1964年までに、ほとんどの専門家たちは、主に米国のセリコフ(Selikoff)博士と英国のニューハウス(Newhouse)博士の研究に基づいて、その因果関係を認めた。二人は業界とは独立に研究し、労働組合と病院の記録のデータをそれぞれ解析した。
 セリコフは、同一アスベスト工場からの患者17人中15人がアスベスト関連疾患をもっていることを観察したが、彼は会社の記録を調べることを拒否されたので、労働組合の記録を使用した。データは、断熱工事労働者のようなアスベスト使用者のリスクのほうが、アスベスト製造労働者よりも高いことを示しており、調査対象とした20年以上アスベストに曝露した労働者392人中339人がアスベスト肺であった。肺がん発症率は通常より7倍高く、中皮腫も多くあった(Selikoff et al., 1964)。この肺がんが多いということは労働者を25年間追跡した後にはじめて統計的に明らかとなったが、それは、いわゆる「後ろ向き」がん研究の深刻な限界を表している。つまり、潜伏期間の長いがんを検出するこのような研究の証明力は、もし20?30年間の追跡調査ができなければ、ほとんど無に近いのである。
 セリコフは、"揉めごとを起こす厄介者"とアスベスト繊維研究所から出た工業界代表者から言われた(Tweedale, 2000, p.183, 脚注17)。それに似た感情の表明が、元主席工場医学監督官レゲ(Legge)博士から出たことがあった。1932年当時TUC(英国労働組合会議)の医学アドバイザーだったレゲは、その立場からロナルド・テージについて書いた中で、TUCはテージに金を少々払って「首にする」ことができるのにと言ったのである(Greenberg, 1993)。
 被害のニュース提供者を攻撃するやり方はイプセンの演劇『人民の敵』(An Enemy of the People, 1882)によく描かれている。地方の医師が健康被害に気づいたが、もしそれが完全に認知されるとその地方都市の経済が脅かされることになる。彼が観察したことの経済的意味を、市長、メディア、多くの市民が認識するようになると、彼は人々の英雄から人々の敵に引きずり下ろされたのである。
 ニューハウス博士は、1917年から64年までのロンドン病院が収集した長期間の病理学的記録を利用して、中皮腫76症例のうち50%以上が職場または家庭(アスベスト労働者と同居)内での曝露によるもので、それ以外に3分の1がケープ・アスベスト社工場から半マイル〔約800m〕以内に住んでいたことを明らかにした(Newhouse and Thompson, 1965)。子ども時代に工場周辺でアスベストに曝露し後に中皮腫になった人々が、環境曝露訴訟で英国のターナー兄弟社にはじめて勝訴したのは、それから30年後のことであった(Tweedale, 2000, p.272)。
 ニューハウスとセリコフの二人はともに、彼らが見出した事実を1964年10月にニューヨーク科学アカデミーが主催した会議で発表した。ロッチデール工場の管理区域内の労働者たちに関するドールの調査も発表されて、「生命に対する職業上の特定の被害は完全に除去されてきたと言えよう」という見方を支持する事例とされていたが、たぶん、これももう一つの"潜伏期間の陥穽"にはまった事例であろう(Knox et al., 1965)。しかし、セリコフも英国工場省も発症率が減少していることを示すこのような証拠は見つけることができなかった。発症率は、アスベスト製造工程の労働者だけでなく、粉塵曝露が著しく悪い使用現場の労働者も含んでいることがその主な理由であった。製造工程では粉塵は比較的良好で、少なくとも管理された製造区域内では良好だったのである。
 アスベスト曝露シナリオ中の"最悪のケース"と言えるアスベスト使用現場の労働者の実態を認識していなかったことが、アスベストへの対応が遅れて不適切であった理由の一部である。アスベストがんの研究者であるジュリアン・ピート(Julian Peto)は、アスベストがんの研究が使用者よりも製造工場についてばかり絞られてきたことを、「愚かな過ち」と書いている(Peto, 1998)。
 世界最大のアスベスト会社ジョーンズ・マンビル社の元重役も、同様の見方をした。1982年に、まだ利益を上げているのに、アスベスト汚染訴訟への措置としてなぜ破産宣告することになるのかを検討した際のことである。彼は、医学調査、たゆまぬコミュニケーション、一貫した警告、および、厳格な粉塵削減プログラムを実施すれば、「生命を救うことができ、また多分、株主、工業界、そして製品をも救うことになる」と主張した(Sells, 1994)。


5.5 規制当局などが実施したこととしなかったこと

 1931年のアスベスト規制は部分的に実施されただけだったので、1931年から1968年の間の起訴はわずか2件だけであった(Dalton, 1979)。規制者は、アスベスト製造工程の一部に着目するだけで、もっとリスクの高い使用者の作業は無視された。しかし、危険なアスベストの問題そのものは無視されなかった。
 1964年から75年まで、米国と英国のメディアはアスベストを重要な政治的課題として位置づけていた(Sunday Times, 1965)。1971年のITV番組『行動する世界』(The World in Action)、および1975年のBBCテレビ番組『ホライゾン』(Horizon)が、英国ヨークシャー州のケープ・エーカー製作所のアスベスト工場の状況について放映したことは当局の取組みを促すのに役立った。たとえば工場にアスベスト規制を導入するよう答申した「議会オンブズマン報告書」はその一つである。この報告書は、1931年のアスベスト規制が実施されていないことに対して公式の苦情を付託した地方議会議員マックス・マッデン(Max Madden)によって作成された。この報告書は、工場監督官を非常に厳しく批判するもので、政府は、1976年にシンプソン委員会を政府の調査委員会として設立することでこれに対応した。一方、1931年のアスベスト規制法は1961年に改正され、工場のアスベスト粉塵曝露の制限値として、空気中200万アスベスト繊維/m3が徐々に導入され始めた。
 残念ながら、この"衛生基準"には肺がんまたは中皮腫の危険性に対する考慮は含まれていなかった。これは後に、ジュリアン・ピートがシンプソン委員会に提出した証拠の中で強く批判され、アスベスト肺の高発症率(労働者10人中一人がアスベスト肺)と関連づけられた(Peto, 1978)。
 1979年にシンプソン委員会は次のような勧告を出した。
  • "青"アスベストの禁止。これはすでに産業側が自主的に中止していた。
  • 吹きつけ断熱材の使用禁止。これもすでに広く廃止されていた。
  • アスベスト除去業者に対する認可制度の適用。
  • 曝露上限値を、"白"アスベストについては1980年までに100万繊維/m3(または1繊維/ml)に下げる。"白"アスベストより危険であると考えられる"茶"アスベストについては50万繊維/m3(または0.5繊維/ml)を目標値とする。
 目視できるアスベスト繊維は、人間の髪の毛の直径と同程度の約40ミクロンであるが、剥離や体内の生理学的プロセスによって生まれる約200万の(微細な)繊維束からなっている(Selikoff and Lee, 1978)。そのような小繊維が空気中や体内組織内に存在するのを正確に観測するには電子顕微鏡が必要である。
 かつては、そして現在でも、がんおよびアスベスト肺を引き起こす3種のアスベストの相対的能力については科学的な論争があり、しばしば、白アスベストは青または茶アスベストより有害性が低いとされている。1986年までに、世界保健機関(World Health Organization, WHO)傘下の国際がん研究機関(International Agency for Research on Cancer, IARC)は、三つのタイプすべてが発がん性物質であり、他の発がん性物質と同様にそれらへの曝露に対する既知の安全レベルというものは存在しないと結論した。
 大気中の浮遊アスベスト粉塵から人の健康を守るための同様の衛生規準は、1980年代後半に英国安全衛生執行局により当時普及していた粉塵監視法としての光学顕微鏡の検出下限界(10万繊維/m3または0.1繊維/ml)が勧告されるまでなかった。
 1982年、ヨークシャーTVは2時間のドキュメンタリー番組をゴールデンアワーに放映した。ケープ・エーカー製作所のアスベスト工場で数か月間働いた時に中皮腫に罹ったアリス・ジェファーソン(47歳)を特集した番組であった。『アリス、命の闘い』(Alice, a Fight for Life)はただちに反響を巻き起こしたが、リチャード・ドール卿などのように、非科学的で感情的であると批判する人々もいた。この番組に応えて政府はシンプソン委員会の勧告を実施すると発表し、1984年にアスベスト認可規制を導入し、曝露上限値を白アスベストについては50万繊維/m3(0.5繊維/ml)、茶アスベストについては20万繊維/m3(0.2繊維/ml)とした。また、いくつかの用途については自主的な表示法が導入された。
 地方議会議員、労働組合、アスベストで夫を亡くしたナンシー・テイトのような犠牲者の代表者らから、さらに改善を進めるよう圧力がかけられた。ナンシーはターナー兄弟社のアスベスト賠償の問題点、たとえば、労働者の未亡人の週1ポンド〔約200円〕という賠償金が1930年代からほとんど変わっていないことなどを暴いた。彼女の働きでターナー兄弟社は賠償金額を改善した。
 新たな規制が1987年に導入され、さらに1989年に強化された。1998年、政府によりすべてのタイプのアスベスト禁止が採択され、翌年、EUの禁止に合わせて実施に移された。EUの禁止令はすべての加盟国が2005年までに実施しなければならないものであった。カナダは貿易障壁であるとしてフランスとEUをWTOに提訴したが、これはWTOの紛争委員会(パネル)によって却下された。カナダはこれを不服としてWTOの上告委員会に控訴したが、上告委員会はフランスおよび EUを支持した(*1参照)。

(*1) WTOはアスベスト問題でフランスとEUの禁止を支持
 1997年、フランスは労働者と消費者の健康を守るためにすべてのタイプのアスベスト繊維とその製品を禁止した。既存の"白"アスベスト製品は、もし、取り扱う労働者に対し健康リスクがより低い有効な代替物質が入手できないならば、例外的に、暫定的に、そして毎年見直しを行うという前提で、免除された。カナダはWTOでこの禁止に反対したが、WTOは2000年9月にフランスを支持した(WTO, 2000)。カナダはWTOの上告委員会に上訴した。EUもまた、紛争委員会の主要な見解を支持するとともにそこでの解釈と結論の中にあったいくつかの"誤り"を修正するよう求めて上訴した。米国も、グラスファイバーにアスベストと同様に発がん性があるとする紛争委員会の判断に反対して上訴した。上告委員会は2001年初頭に報告書を出したが(WTO, 2001)、そこから多くの主要な論点が生まれ、それらは他の有害物質に対しても影響をもつ内容だった。
  • べての種類のアスベスト("白"、"茶"、"青")には発がん性がある。
  • この発がん性物質の安全性に関する閾値は知られていない。
  • 製品中の白アスベストのリスクは、リスクがないとする証拠ではなく、"リスクを示している傾向の"証拠に基づいている。
  • WTOは各国に定量的なリスク評価データを求めてはいない。定性的データで十分である。
  • 各国は、少数派の科学者によってのみ支持されている適切で尊重されるべき科学的意見に基づき、健康/環境/動物愛護の措置をとることができる。「加盟国は、ある時点で多数派となる可能性のある科学的意見に自動的に従って健康政策を決定しなくてはならないという義務を負わされることはない」(p.117参照)。このことは、WTOの紛争委員会は必ずしも、"証拠の重みが優勢な"科学的証拠に基づいて結論に達する必要はなく、もっと低いレベルの証明でもいいということを意味する。
  • アスベスト製品を"管理しながら使用する"ことの有効性は示されず、管理しきれない部分の労働者へのリスクはやはり顕著である。このリスク管理という選択肢は労働者の健康を守る意味において信頼を置くことはできず、したがって、アスベスト禁止に対する合理的な代替措置ではない。
  • グラスファイバーのようなアスベスト代替物が"好ましい"製品かどうかを決定するに際し、WTOは四つの判定基準を設定した。物質の特性と最終用途、消費者の嗜好と習慣である。これらの基準に基づき、上告委員会は紛争委員会がグラスファイバーの判断において誤っていたと判定した。紛争委員会はグラスファイバー製品を"好ましく"ないと見なしたがそれは誤りで、主な理由は発がん性がないからである。
 〔グラスファイバーは2001年10月にIARCの発がん性分類でグループ2B(ヒトに対して発ガン性を示す可能性がある)から、グループ3(ヒトに対する発がん性については分類できない)に変わった。発がん性がないという意味ではない。〕

 アスベストや他の健康と環境への有害性などに関わる科学的、技術的な複雑性を取り扱うためのWTO手法は、WTOのアスベスト紛争に関わっていた一人の科学的アドバイザーから批判されている(Castleman, 2001)。
 一方、アスベストに起因する中皮腫と肺がんで死ぬ英国の年間がん死亡率は、健康安全委員会によって(Health and Safety Commission, 1994-95)、約3,000人/年で増えつつあると推定された(図5.1参照)。膨大な量の研究はあるが、生物学的メカニズムと用量?反応関係が不明確であり、疾患研究の限界をうかがわせる。


5.6 措置をとった場合ととらない場合の損失と利益

 アスベストに関する詳細な損失と利益の評価を行うことは、この事例研究の範囲を超える(Castleman, 1996, p.8-9を参照)。しかし、いくつかの説明的な数字があるので、それを評価の概要としよう。会社レベルでは、1994年にターナー兄弟社はアスベスト賠償金として10億ポンド〔約2,000億円〕を支払った。ロンドンの保険会社ロイドは1990年代初頭に米国からのアスベスト汚染保険請求(その多くが医療保障とアスベスト除去費用)により破産の危機に直面した。
 もし、人の命の値段を輸送研究でよく使われる100万ユーロ〔約1億3,000万円〕とするならば、今後、数十年間に欧州で予想されるアスベストがんによる死亡者40万人の命の値は、4,000億ユーロ〔約52兆円〕ということになる。死亡ではなく被害を受けたという意味での人的コストは計算不可能である。建物の寿命が尽きた時にアスベストを安全に除去する費用はさらに数十億ユーロ〔数千億円〕かかるであろう。アスベスト曝露を削減するために早く措置をとっていれば、このようなコストの多くはかからずにすんだはずだ。
 オランダでもっと早くリスク削減措置がとられていれば節減されたであろうと予想されるコストは、次のように計算されている。すなわち、1993年ではなく、中皮腫との因果関係が広く認められるようになった1965年にアスベストが禁止されていた場合、オランダでは3万4,000人の犠牲者が助かり、建物と人的賠償で410億オランダギルダー〔約2兆5,000億円〕の節減になったと算定された。これは、オランダ保健社会安全省が見積もった、1969年から2030年における5万2,600人の犠牲者と670億ギルダー〔約4兆円〕のコストに匹敵する(Heerings, 1999)。米国では、アスベスト賠償金額は200億ドル〔約2兆2,000億円〕に達し、その約半分はロイド・シンジケートが支払った。
 一方、アスベストは雇用創出などを含むいくらかの利益をもたらした。1919年の見積もりによれば、1870年代と80年代において世界の劇場における火災で2,216人の犠牲者を出したが、アスベストによる延焼防止が行われていれば、その95%が助かったであろうとされている(Summers, 1919)。アスベスト断熱材によるボイラー保温はエネルギーを節減し、アスベストによるブレーキ・ライニングは人の命を救うが、もっとも、それにより車のスピードを上げることができるので事態は複雑になる。英国の医学誌『ランセット』(Lancet)は1967年に、「アスベストは、命を危険にさらすより以上の命を救うことができるので、貴重であり、代替不可能な場合が多いこの物質を禁止するのはまったくばかげている」と主張した(Lancet, 1967)。医師らは少なくとも彼らの専門性に関連するアスベストの健康に与える影響について過小評価したのだが、それはともかく、アスベストの代替可能性は経済的、技術的な課題であり、医師たちに判定を下す力量があるとは思われない。アスベストが"代替不可能"であると主張する根拠はほとんど提示されなかった。
 ほとんどの用途でアスベストの代替は1970年代までに可能となり、ある場合にはもっと早くから可能であった。米国の多くの石油精製プラントでは、1940年代と50年代にミネラル・ウールを断熱材として使用していた(Castleman, 1996, pp.456-457)。アスベスト代替物の普及が遅れた原因は、一部にはアスベスト企業カルテルがその普及を抑え込んだこと(Castleman, 1996, pp.34-38)、そして一部には、アスベストの市場価格が、その総生産、健康、および、環境コストに比べてあまりに安すぎたことにある。健康と環境の全コストを市場価格に反映させていないことが、危険物質の代替を遅らせる共通の原因である。
 多くの雇用、多くの利益、多額の配当金がアスベストから生み出された。ターナー兄弟社の利益は1947年以降、急速に増大し、1965年のピーク時には900万ポンド〔約18億円〕に達した(Tweedale, 2000, p.9)。彼らの利益は、アスベストが引き起こす健康被害と環境汚染で損なわれることなく、そのコストは"外部化"され、病気になった労働者、彼らの家族、医療機関、保険会社、および、建物所有者に押し付けられた。
 しばしば、見落とされがちであるが、アスベスト賠償裁判の貴重な非金銭的利益は、会社がアスベストについて語っている言葉とその害を減らすための行為との間に存在する多くの矛盾を暴き出したことである(Castleman, 1996)。


5.7アスベストの教訓は何か?
 アスベストは、長期的に有害な影響を与える他の数多くの物質や活動に関連する教訓を多数提供している。

  1. 犠牲者、専門家ではない人々、および、工場監督官や家庭医などの"有能な観察者"の経験は、政府その他の当局者によってもっと真剣に扱われ、適切な調査によって確認されるべきである。時には、彼らは科学的専門家の観点より何年も先行している。

  2. 英国とフランスで1896?1906年に早期警告が出ても、その当時、実施しようと思えば可能であったのに労働者の長期的医療、粉塵曝露調査などが行われなかった。もしそれらが実施されていれば、粉塵レベルの規制強化に役立ったはずである。今日でも、指導的アスベスト疫学者は次のように結論づけている。「不幸なことに、アスベストに起因する中皮腫の蔓延を適切に監視することはできない。アスベストの中皮腫は、既知の職業上の発がん性全物質を組み合わせた効果をはるかに超えている」(Peto, 1999)。
     長期にわたる環境、健康の監視は、短期の解決を求める人々のニーズにはまず合致しない。だから、もしそれが社会の長期的なニーズに合致するなら、特別な制度的仕組みを作る必要がある。

  3. 1931?32年に英国に導入された未然防止と賠償に関する法律は効果的に実施されず、アスベストの長い歴史で典型的なことであるが、強制力もあまりなかった。

  4. もし、早期警告が留意され、主席工場医療監督官レゲ博士ら(Greenberg, 1994; Bartrip, 1931)が指摘した1930年以前に、あるいは、新たながんの被害が顕在化し、経済的環境が良好であった1950年代および60年代に、より良い規制措置がとられていたならば、悲劇的な犠牲者の多くが避けられたはずである。アスベストを抑制する措置ががんの発見より前に行われていれば、少なくとも、これら後世の"驚き"の衝撃を最小にしたであろう。
     もっと戦略的には、アスベスト規制を強化することによって、製造と使用に関わるコストにそれを反映させてアスベストの市場価格を高めれば、そのことで、遅ればせながら、より安全で、より安価な代替物質をもたらす技術開発を促すとともに、エンジンと建物の設計改善につながり、熱源での廃熱発生を少なくすることができる。

  5. 労働者、公衆、および環境への危害に関する他の事例と同様に、経済的要素が重要な役割を果たす。経済的要素として雇用者には利益の必要性、労働者には雇用の必要性があって、双方の連携を生むことがあり得るが、それは労働者や社会の長期的観点からの利益にはならない場合がある。被害の"外部"費用(会社が負わない損害コスト)が大きくなればなるほど、さまざまな個人的・社会的コストが予防的措置を抑制する可能性が大きくなる。健康維持、建物保守、土壌汚染にかかるコストなどを含む全損害コストが、"汚染者負担"原則に則り、また、法的責任、規制、税金などを通じて汚染者によって支払われる時にのみ、経済活動の個人的コストと社会的コストがもっと近づき、そうしてはじめて、市場をより効率的に機能させることができる。雇用者の違反に対する罰則もまた、もし、個人的・社会的な損失と利益をもっと近づけようとすれば、雇用者が他者に負わせた損害に釣り合わせる必要がある。しかし、このことは簡単ではない。政府が、ほとんどの政治家たちと同様に普段は短い時間スケールで動いている強力な経済的利益集団に打ち勝つことは非常に難しいし、社会にとって最善で長期的利益にかなった決定を行うことは、それが強力な経済的集団に短期的な負担を強いると受け取られれば、非常に困難である。社会の長期的利益に適合させるためには、やはり、適切な制度的仕組みが必要である。政府の"統治"に関する議論は本書の最終章で取り上げる。

  6. 規制措置の実施に失敗した主な理由の一つは、「現在のアスベスト粉塵への曝露はかつての曝露に比べればはるかに低いので、安全なはずである」という見解であり、このような見解が1906年にマレー博士によって英国職業病賠償審査委員会に提出され、それ以来、繰り返し多くの人々によって述べられてきた。アスベスト曝露と発症の間には10?40年の潜伏期間があるので、"今日の"曝露リスクの証拠が手に入るまでの長い年月の間に、一般的には粉塵レベルは低減されており、その時点で再び"今日の"リスクは過去のそれよりさらに低減されているか、あるいは実在しないということになるかもしれない。この点は、どちらにしても、さらに20?40年経過するまで決定的には証明できない。長期潜伏期間を有するすべての危険に共通なこの"潜伏期間の陥穽"は、"被害の証拠がないこと"は、"被害がないことの証拠"を意味すると仮定してしまう、よくなされる誤りを説明している。それは間違っているのだ。
     発がん性物質への今日の曝露が安全であるという良い証拠が存在しない場合には、予防原則を適用し、それらは安全ではないと仮定することが賢明である。このことは特に、高レベルの曝露で引き起こされる疾患(あるいは生態系影響)が、あるレベル以下の曝露なら作用がないという閾値が知られていない場合に言える。
     これは、長い潜伏期間を有するすべての危険性に共通な重要な教訓である。その時に求められる個々の予防措置は、釣合いの原則、すなわち、予防措置から期待される利益は"二次的利益"も含んで、その措置を講じるために発生する費用に釣り合う必要があるとする原則に依存するだろう。
     不確実性と無知に対応して、このようなより進んだ予防的アプローチをとれば、正規の科学に内在している今の偏向を切り替えさせることにもつながるだろう。すなわち、現在の科学では"誤った肯定"(false positive)を犯すまいとする姿勢が強い(このため逆に"誤った否定"〈false negative〉を犯すことが多くなる)が、この傾向から離れて、2種類の誤りがバランス良く生じる方向に転換させることにつながるだろう。
     このことにより、後で安全だとわかるかもしれない物質または行為を制限するコストが発生する機会が増大するであろう。しかしながら、アスベストの例は、"誤った肯定"の発生〔たとえばグラスファイバーを発がん性ありとした判断〕と"誤った否定"の発生〔たとえばアスベスト疾患を否定したこと〕との間に、倫理的に受入れ可能で経済効率的なバランスがあれば、社会が全体として利益を得るということを強く示唆している。

  7. 予防的措置の実施は、健康な生存者らの錯覚によっても妨げられた。これについては幅広く認識し合う必要がある。そして、喫煙の一般的な有害性に対して見られるように、安全を再保証するような誤った考えが一般に広まることは避けなければならない。このことは、ルーシー・ディーンによってはじめてアスベストと関連して述べられた。
      「悲劇的であることがたやすく立証できるほど、被害の度合いがひどくなった時でも……常に一定の割合で"年とった労働者"--同僚の中の生残り--はいるものだ。彼らはどのような不健康な産業にもいて……その不健康な職業を生きがいにしているように見える。不健康が見えにくい状況では、実際の被害を説明する説得力ある唯一の証拠、すなわち、死亡率の、あるいは健康基準の信頼性のある比較統計は、どんな工場の場合でも実際には得ることができない。あるいはどのみち、われわれの思いどおりの時と機会に、そのような統計を得ることはできない」(Deane, 1898)。
     このことはアスベストの歴史を通じて言われてきた。たとえば、英国のターナー兄弟社の会社側医師ノクス(Knox)博士が1952年にカナダのアスベスト鉱山を訪れて、「私は、多くの70歳以上の労働者がまだ雇用され、活発で元気に満ちているということを確信した」と述べた(Greenberg, 2000)。この見解は、この事例研究の執筆者の一人デーヴィッド・ギーにも、彼が1980年代に労働組合安全衛生アドバイザーとして英国のアスベスト工場を訪れた時に、示された。労働者たちは、20?30年間たいした被害もなく工場で働き、退職した後も、年金受給者の年次パーティに顔を出すことができる人たちのことを指摘した。このような年金受給者たちが、アスベストのリスクが低いか無いことの証拠として引合いに出された。被害を立証するのはパーティへやって来なかった労働者であるが、彼らは死亡か病気のために現在の労働者には見えないのだから、これは、"年金受給者パーティの誤謬"とでも呼ばれるべきものである。ディーンが観察したように、適切に分析された死亡率統計により、健康な生存者と非生存者との関係を明確にする必要がある。

  8. どんな有害効果でもわかったならばすぐに、合意された責務に基づき、迅速で、適切で、透明な賠償措置をとる必要があると考えられる。そうして、さらなる被害を防ぐという動機を高め、正確な曝露履歴を記録できるようにしなければならない。
     そのような先を見越した賠償措置の諸要素は、原子力産業においては早い時期に確立された。それは、多くの国の政府が核事故に対する将来の責務を、少なくともある限度まで受け入れることにしているからだ(たとえば、1965年の英国原子力設置法)。ユニークな例は、英国核燃料公社(British Nuclear Fuels, BNF)の労働者のための放射線起因がん賠償制度だろう(第3章「放射線」の章を参照)。

  9. 考察は広い範囲の関連分野から求め、"無知な専門家"は黙らせるべきである。一つの分野の専門家たち、たとえば、医学の専門家が、粉塵監視・管理(職業衛生および排気エンジニア)またはアスベスト代替物質の利用可能性など、他の分野について"専門家"としての意見を述べていた。これらの意見はしばしば間違っていたが、あまり非難されることもなく、見当違いな自己満足を生みだすだけであった(Greenberg, 2000)。

  10. "驚くようなこと"を予測し、代替物の手当をしておく必要がある。もし、アスベスト代替物が、アスベストと同じ物理的形状--細長くて吸入されやすく(直径3ミクロン以下)、丈夫な繊維--なら、英国の安全衛生執行局が1979年に予言したように、また、後に、合成ミネラル・ファイバーのある種のものについてIARC(国際がん研究機関)が確認したように、それらもまた発がん性物質であろう(Roller and Pott, 1998)。しかし、ミネラル・ウールとグラスファイバーは、アスベストに比べてはるかに害が少ないように見え、断熱材としては十分であるが、人の体内組織でがんを引き起こすほどには細かすぎず、丈夫すぎないものを製造できるであろう。職業的な曝露であろうと環境からくるものであろうと、"閉じたループ"とエコ効率的システムによって大気からの曝露を最小にする"クリーンな"製造法と使用技術の提供が、どんな材料・物質が使われていようとも重要である。このようにして、代替物質に起因する将来の"驚くようなこと"の衝撃の大きさを最小にすること、それこそが予防原則を適用することで得られる重要な利益である。

表 5.1 アスベスト:早期警告と措置 (出展:EEA)

1898英国の工場監督官ルーシー・ディーンがアスベスト粉塵の有害性と"悪魔のような"効果を警告。
1906フランス工場報告書が女性アスベスト繊維労働者50人の死亡を報告し、管理を勧告。
1911ラットの実験から、アスベスト粉塵が有害であるという、疑うに足る"合理的な根拠"が示される。”
1911 / 1917英国工場省はさらなる措置を正当化するための十分な証拠を発見できず。
1918米国の保険会社がアスベスト産業の危険な状況を勘案してアスベスト労働者の保険を拒否。
1930英国の「ミアウェザー報告書」がロッチデール工場の長期労働者の66%がアスベスト肺と報告。
1931英国のアスベスト規制法が製造工場のみの粉塵管理とアスベスト肺補償を規定。しかし、ほとんど実施されず。
1935〜1949アスベスト製造工場労働者中に肺がん症例が報告される。
1955ドールがロッチデールのアスベスト工場労働者の肺がんリスクが高いことを確認。
1959〜1960南アフリカの労働者と公衆に中皮腫を確認。
1962 / 64英国、米国、その他のアスベスト労働者、"無関係の"近隣者、近縁者中に中皮腫を確認。
1969英国のアスベスト規制法が管理を改善するも、使用従事者とがんは無視。
1982〜1989英国のメディア、労働組合、その他圧力団体が使用者および製造者に関するアスベスト規制強化に圧力をかけ、代替物質を促進させる。
1998〜1999EUおよびフランスがすべての型のアスベストを禁止。
2000〜2001WTOがカナダの提訴に対してEUおよびフランスの禁止を支持。



5.8 参 照


Acheson, E.D., and Gardner, M.J., 1983 'Asbestos: The Control Limit for Asbestos', Health & Safety Executive, HMSO, London.

Archer, V.E., et al, 1973, 'Uranium Mining and Cigarette Smoking Effects in Man', J.Occ.Med., 15, 204.

Auribault, M., 1906. 'Surl'hygiene et la securite des ouvriers dans la filature et tissage d'amiante', in Annual report of the French Labour Inspectorate for 1906.

Bartrip, P., 1931. 'Too little, too late? The Home Office and the asbestos industry regulations 1931' Medical History Vol. 42, October, pp. 421-438.

British Medical Journal, 2000. Vol. 320, 20 May, p. 1358, at http://bmj.com/cgi/full/320/7246/1358/a

Castleman, B., 2001. Draft paper to asbestos conference at London School of Hygiene and Tropical Medicine, 5 June.

Castleman, B. I., 1996. Asbestos: Medical and legal aspects, 4th ed., Aspen Law & Business, Englewood Cliffs, NJ.

Collis, E., 1911. Annual Report of HM Chief Inspector of Factories for 1910, HMSO, London.

Cooke, W. E., 1924. 'Fibrosis of the lungs due to the inhalation of asbestos dust', British Medical Journal Vol. 2, 26 July, p. 147.

Cooke, W. E., 1927. 'Pulmonary asbestosis', British Medical Journal Vol. 2, 3 December, pp. 1024-1025.

Dalton, A., 1979. Asbestos: Killer dust, British Society for Social Responsibility in Science, London.

Deane, Lucy, 1898. 'Report on the health of workers in asbestos and other dusty trades' in HM Chief Inspector of Factories and Workshops, 1899, Annual Report for 1898, pp.171-172, HMSO London (see also the Annual Reports for 1899 and 1900, p502).

Doll, R., 1955. 'Mortality from lung cancer in asbestos workers', Brit. J. Industr. Med. Vol. 12, pp. 81-86.

Gloyne, S. R., 1935. 'Two cases of squamos carcinoma of the lung occurring in asbestosis', Tubercle Vol. 17, pp. 5-10.

Greenberg, M., 1993. 'Reginald Tage-a UK prophet: A postscript', Am. J. Ind. Med. Vol.24, pp. 521-524.

Greenberg, M., 1994. 'Knowledge of the health hazard of asbestos prior to the Merewether and Price Report of 1930', Social History of Medicine, 07/03/, pp. 493=516.

Greenberg, M., 2000. 'Re call for an international ban on asbestos: Trust me, I'm a doctor', Letter to the editor, Am. J. Ind. Med. Vol. 37, pp. 232-234.

Grieve, I. M. D., 1927. 'sbestosis', MD thesis, University of Edinburgh.

Hammond, E.C., Selikoff, I.J., Seidman, H.,'Asbestos Exposure, Cigarrette smoking and Death Rates,'Annals of New York Academy of Sciences, p 473-490.

Health and Safety Commission, 1994・5, Health and Safety Statistics Vol. 55, pp. 148-151.

Heerings, H., 1999. 'Asbestos - deep in the very fibres of society', Contrast Advise study for Greenpeace Netherlands, September, Amersfoort.

Heuper, W. C., 1942 ,'Occupational Tumours and Allied Diseases', Charles C. Thomas, Springfield, Illinois.

Hoffman, F. L., 1918. 'Mortality from respiratory diseases in dusty trades' Bulletin of the US Bureau of Labor Statistics Vol. 231, pp.176-180.

Knox, J. F., 1952. 'Visits to the Thetford Mines, Asbestos, Atlas Works, Keasbey & Mattison Works, Raybestos-Manhattan Works' Report to the management of Turner Brothers Asbestos, Frames 0000 0070 1950-54 in the Chase Manhattan microfilms.

Knox, J. F., 1964. 'Report of a visit to the Thetford Mines, Asbestos and Montreal', Report to the management at Turner Brothers Asbestos, Discovered documents marked 015039-015041.

Knox J. F. et al., (1965) 'Cohort analysis of changes in incidence of bronchial carcinoma in a textile asbestos factory' Annals of the NY Acad. of Sciences Vol. 132, December, pp. 527-535.

Lancet, 1967. 17 June, pp. 1311-1312. Legge, T., 1934, Industrial Maladies, Oxford University press, Oxford.

Lynch, K. M. and Smith, W. A., 1935. 'Pulmonary asbestosis 111: Carcinoma of lung in asbestosis-silicosis', Am. J. Cancer Vol.24, pp. 56-64.

Merewether, E. R. A., 1933. 'A memorandum on asbestosis', Tubercle Vol. 15, pp. 69-81.

Merewether, E. R. A. and Price, C. W., 1930. Report on effects of asbestos dust on the lungs and dust suppression in the asbestos industry, HMSO, London.

Murray, H. M., 1906. In Departmental Committee on Compensation for Industrial Diseases, 1907, Minutes of evidence, p. 127, paras 4076-4104, Cd 3496, HMSO, London.

Newhouse, M. and Thompson, H., 1965. 'Mesothelioma of pleara and pertitoneum following exposure to asbestos in the London area', Brit. J. Industr. Med. pp. 261-269.

Peto, J., 1978. 'The hygiene standard for chrysotile asbestos', Lancet 4 March, pp. 484-489.

Peto, J., 1998. 'Too little, too late', Interview with John Waite, BBC Radio 4, 15 October, London.

Peto, J., 1999. 'The European mesothelioma epidemic・ B. J. Cancer Vol. 79, February,pp. 666-672.

Roller, M. and Pott, F., 1998. 'Carcinogenicity of man-made fibres in experimental animals and its relevance for classification of insulation wools', Eur. J. Oncol. Vol. 3, No 3,pp. 231-239.

Scheper, G. W. H., 1995. 'Chronology of asbestos cancer discoveries: experimental studies at the Saranac Laboratory', Am. J. Ind. Med. Vol. 27, pp. 593-606.

Seiler, H. E., 1928. 'A case of pneumoconiosis', British Medical Journal Vol.2, p. 982.

Selikoff, I. J. et al., 1964. 'Asbestos exposure and neoplasia', J. Am. Med. Ass. Vol. 188, pp.22-26.

Selikoff, I. and Lee, D. H. K., 1978. Asbestos and disease, Academic Press, New York.

Sells, B., 1994. 'What asbestos taught me about managing risk', Harvard Business Review March/April, pp. 76-89.

Simpson, F. W., 1928. 'Pulmonary asbestosis in South Africa', British Medical Journal 1 May, pp. 885-887.

Summers, A. L., 1919. Asbestos and the asbestos industry' Cited in Tweedale, P5, fn 10.
Tweedale, G., 2000. Magic mineral to killer dust: Turner and Newall and the asbestos hazard, Oxford University Press, Oxford.

Sunday Times, 1965. 'Urgent probe into 'new' killer dust disease',31 October, London.

Wagner, J. C., Sleggs, C. A. and Marchand, P.,1960. 'Diffuse pleural mesothelioma and asbestos exposure in the North Western Cape Province', Brit. J. Indust. Med. Vol. 17, pp. 260-271.

Wedler, H. W., 1943. 'Uber den Lungenkrebs bei Asbesttos', Dtsch. Arch. Klin. Med. Vol. 191,pp. 189-209.

WTO, 2000. WT/DST35/R, 18 September.

WTO, 2001. WT/DS135/AB/R, 12 March.


化学物質問題市民研究会
トップページに戻る