ナノテク研究プロジェクト
ナノ人間強化 安間 武(化学物質問題市民研究会) http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/ 掲載日:2010年1月6日 このページへのリンク: http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/nano/project/nano_human_enhancement.html 1.人間強化は夢物語か? 人間の身体的機能と知的能力を人間という生物種が持つ限界を越えて向上させ、不老不死を実現したいという"人間強化"願望は昔から多くの人々により"夢物語"として語られました。また、"サイボーグ"としてSF小説/コミックなどでも取り上げられました。しかし、”夢物語"である限り、とりあえず人畜無害であり、倫理的な問題も生じませんでした。 ところが、近年、ナノ技術、バイオ技術、情報技術、認知科学などの科学技術の進歩が極めて早く、このような夢物語の少なくとも一部が"現実"となり始めました。まだ人間強化というより医療の範囲ですが、心臓ペースメーカーや人工心臓、脳への電極差し込みなどが実用化されています。今後、急速に”人間強化”の技術が進展すると思われます。 しかし、科学技術の進歩の速度に比べて、"人間強化"の定義、社会的な影響、倫理的な側面などを含む人間強化の本格的な研究や組織的な議論は、ようやく始まったばかりです。 本稿では、最近発表されたいくつかの記事や報告書から、"人間強化"の議論の入り口の部分を紹介します。入り口での考察ではありますが、運動や食事、学習などの自然な方法ではなく、先端技術を駆使して生物学的に人間を改造する人間強化、一部の大金持ちだけが享受できる人間強化、社会的格差を生み出す人間強化、医療とはかけ離れた人間強化には倫理的に容認できません。 2.大金持は別人種になるか? 最近のUKテレグラフの二つの記事が人間強化の話題を紹介しています。 ▼2009年10月25日の記事(アメリカの未来学者ポール・サフォー)[1]
3.新たな技術がもたらす新たな問題の提起 3.1 社会的な格差 新しい技術が出現すると常に社会に新たな格差を生じる可能性があります。 1990年代にはコンピュータやインターネット、通信技術などいわゆる情報技術(IT)が急激に進歩した結果、IT技術を持つことができるかできないかで個人/集団/国家の間に生ずる様々な格差(ディジタルディバイド)が問題になりました。 また、バイオ技術の進歩により、例えば遺伝子組み換え種子を開発して特許等で市場を独占できる国際企業が世界の農業や食料生産を支配する構図が出来上がりました。 同様にナノ技術についてもナノ先進企業が特許により世界の経済と文化を支配することが危惧されます。 人間強化もそれを享受できる大金持ちとそれを享受できない普通の人との間に格差を生じます。人間強化を実現しようとすると個人がIT環境を整える金額とは比較にならないほど莫大な金がかかるからです。またディジタルディバイドは"IT教育"などで埋めることが出来ますが、人間強化の格差は本質的に教育では埋めること出来ません。 したがって最終的には遺伝的に強化された金持ち人間が新たな"人種"として出現する可能性があるのです。 3.2 倫理的な側面 人間強化の問題には、遺伝子組み換え人間やクローン人間と重複する主に生物学的観点からの倫理の議論があります。そして人間強化技術(HET)の開発とその倫理的な側面を議論する上で、そもそも医療と人間強化の境界は何なのか、人間強化の定義は何なのかということが最初に議論される必要があります。 そして人間強化技術が運動や食物摂取などの自然な方法ではなく、ナノやバイオ、情報、認知などの技術を利用して生物学的に強化するということの倫理的な側面の議論となります。 人間強化の倫理の議論にはさらに、人間強化された兵士を作り出して軍事的に利用すること[3]なども含めて、その目的や社会に及ぼす影響など社会倫理の側面も含まれなくてはなりません。 一方、このような倫理的な視点よりもむしろ、”新しい科学技術を用いて、人間の身体と認知能力を進化させ、人間の状況を前例の無い形で向上させる”ことを求めようとするトランスヒューマニズムという思想があります[4]。前述のUKテレグラフ2009年9月22日の記事で紹介したレイ・カーツワイルは典型的なトランスヒューマニストの一人であるとみなされています。 4.人間能力改善のための収斂技術 ナノが可能とする超人間の予言は新しいことではありません。2001年12月に、米国立科学基金(NSF)と米商務省(DOC)後援によるワークショップが開催され、2002年6月に報告書『人間能力改善のための収斂技術』が発表されました[5]。 同報告書によれば、収斂技術(convergent technologies)とは科学と技術の4つの主要な領域NBIC(Nano, Bio, Info, Cogno(認識))に関連し、現在急速に進展している(a)ナノ科学とナノ技術、(b)遺伝子工学を含むバイオ技術とバイオ医学、(c)先進的コンピュータと通信技術を含む情報技術、(d)認識脳科学を含む認識科学の4つの科学・技術を統合するものであるとしています。 同報告書は、これらの科学技術の統合の結果、得られる成果は下記のようなものかもしれないとしています。
5.人間強化の定義 米国立科学基金(NSF)の委託により2009年8月に発表された人間強化に関する報告書[6]は、25のQ/Aという形式で人間強化の倫理について解説しています。その1番目のQ/Aが「1.人間強化とは何か」であり、次のように述べています。 "厳密には、'人間強化'は、それにより我々の身体、精神、又は能力を改善するどのような活動をも含み、我々の幸福を強化することである。したがって、本を読むこと、野菜を食べること、宿題をすること、そして運動をすることは我々自身を強化するものとみなされる。これらのいわゆる"自然な"人間強化は、食物、教育、身体訓練、などを通じて我々自身を改善することが許されないはずはないので倫理的には問題とならない。しかし、新たに出現している技術的な人間強化に問題がないかどうかはまだ答えのない疑問である"。 "むしろ当面は、'人間強化'とは、生物種としての典型的なレベル又は統計的に正常である個人の機能の範囲を超えて我々の能力を高めること(Norm Daniels, 2000)であると定義することができる"。 "'人間強化'は、'医療'とは異なるものである。医療は健康を危うくする、又は機能のレベルを典型的な種のレベル又は統計的に正常なレベルより下げる病理に向けられた治療に関することである(Eric Juengst, 1997)"。 "人間強化技術についてのもう一つの考え方は、医療とは反対で、身体の構造と機能を変更することである(Greely, 2005)"。 "これらの定義のどれに対しても反対意見が出ないものはないが、人間強化技術の特質について考えるときの出発点として有用である"。 6.欧州議会委員会の人間強化研究 欧州議会の科学技術選択評価委員会(STOA)は2009年5月に『人間強化研究』と題する報告書を発表しました[7]。200頁を超えるこの報告書は、人間強化の広範な側面を詳細に議論しています。したがって人間強化研究の詳細についてはこの報告書原文を参照していただくこととし、本稿では少し長くなりますが、同報告書のエグゼクティブ・サマリーから概要と提案を抜粋して紹介します。 "包括的な用語である '人間強化'は、次のものを含む広範な既存の、新たに出現している、そして空想的な技術を指す。視力やその他を人工的感覚に取替える神経埋め込み、脳の力を強化する薬剤、ヒト生殖細胞系の操作と既存の生殖技術、栄養サプリメント、苦痛を和らげ気分をコントロールするための新たな脳刺激技術、スポーツにおける遺伝子ドーピング、美容整形、低身長児のための成長ホルモン、抗加齢医療、特別の知覚入力又は機械的出力を提供するかもしれない複雑な義肢技術"。 "これらの技術の全ては元気を回復させる医療とそのような医療を超えた改善をもたらすことを目的とする措置との間の境界をあいまいなものにする。それらのほとんどは医学の領域から生じるので、非病理学的状況に対応するための使用が増大しており、医学的方法を適用する社会の傾向が促進されている"。 "本研究では、一般に普及した概念的な'医療'と'強化'の区別に頼ることはせず、その代わり、いくつかの医療手段とともに非医療を含む人間強化の考えを採用している"。 "人間強化を定義するときに、試行錯誤的にそして政治的に実際的な理由のために、"個人の人間能力を改善することを目的とし、科学ベース又は技術ベースの人体内における措置によってもたらされる改造 "として、我々は次の3点を区別する。 (1)病気を治す又は予防的な非強化措置(preventive, non-enhancing interventions) (2)医療的強化(therapeutic enhancements) (3)非医療的強化(non-therapeutic enhancements) "人間強化技術(HET)の効果は、長期的又は(遺伝子強化のように)永久的、又は(薬剤によってもたらされる集中力の向上のような)一時的なものがある。その目的は、(例えば我々を強くする又は幸福にすることによって)我々の自然の能力を改善すること、又は、暗闇での視覚又は特別の感覚等、かつて人類が持ったことのない特性又は能力を与えることである"。 "現在、EUは人間強化の問題を監視し議論するための場を持っていない。規範的論点を政治的に討議し、広範な公衆の必要と懸念と開業医及び専門家の間のギャップを埋めるための舞台が欠如している。我々はそのような場は人間強化の現象の重要なビジョンに基づき作られるべきであると信じる"。 "我々の提案の本質は、この分野でEU政策の形成を導く人間強化のための規範的な開発のためのヨーロッパの組織を立ち上げることである"。 "規範的枠組みは以下のことに役立つであろう"。
参照 [1] Rich 'may evolve into separate species By Amy Willis Telegraph.co.uk, 25 Oct 2009 http://www.telegraph.co.uk/science/evolution/6432628/Rich-may-evolve-into-separate-species.html [2] Immortality only 20 years away says scientist By Amy Willis Telegraph.co.uk, 22 Sep 2009 http://www.telegraph.co.uk/science/science-news/6217676/Immortality-only-20-years-away-says-scientist.html [3] Be All You Can Be: The Nano-Enhanced Army by Daniel Moore, Scientist at IBM http://www.nanoethics.org/nanomagazine_1209.pdf [4] トランスヒューマニズム:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%92%E 3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0 [5] Converging Technologies for Improving Human Performance NANOTECHNOLOGY, BIOTECHNOLOGY, INFORMATION TECHNOLOGY AND COGNITIVE SCIENCE NSF/DOC-sponsored report http://www.wtec.org/ConvergingTechnologies/Report/NBIC_report.pdf [6] Ethics of Human Enhancement: 25 Questions & Answers for US National Science Foundation Prepared August 31, 2009 http://www.humanenhance.com/NSF_report.pdf [7] EUROPEAN PARLIAMENT Science and Technology Options Assessment Human Enhencement Study, May 2009 http://www.europarl.europa.eu/stoa/publications/studies/stoa2007-13_en.pdf 欧州議会 科学技術選択評価委員会(STOA)2009年5月 人間強化研究/目次、エグゼクティブ・サマリー 、はじめに http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/nano/eu/STOA_May_2009_Human_Enhancement.html その他の関連情報 Nanotechnology's role in the ethics debate on human enhancement http://www.nanowerk.com/spotlight/spotid=12433.php Nanotechnology, transhumanism and the bionic man http://www.nanowerk.com/spotlight/spotid=5848.php The debate about converging technologies http://www.nanowerk.com/spotlight/spotid=6569.php |