2010年12月4日
NGO国際水銀シンポジウムの記録
水俣から学ぶ−50年の歴史から
原田正純先生(元熊本学園大学教授)

文責:化学物質問題市民研究会
掲載:2010年12月25日
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http://www.ne.jp/asahi/kagaku/pico/mercury/INC2_CACP/101204/101204_Harada_Kouen.html


 水俣病は公害の原点と言われますが、うちの大学の学生に何が原点なのかと聞いても、なかなかうまく答えられない。被害が深刻であった、被害が広範であった、あるいはまだ解決していないとか、それは全部当たっている。けれども、公害の原点と言われている最大の問題は、人類史上初めて環境汚染によって集団食中毒が起こったということです。これは案外知られていない。人類は火を焚き始めた時から一酸化炭素中毒のように、中毒とはつきあってきたのですが、環境汚染、しかも食物連鎖を通した中毒というのは、人類史上初めてなのです。そういう意味で水俣病はすごい意味があるのです。 それから、胎盤が赤ちゃんを守ってくれたから、その種は生き延びてきたわけです。ところがそのルールが無視された。胎盤をすいすい通って毒物が行ってしまった、ということが特徴です。少なくともこの二つの点において、水俣病というのは公害の原点といわれる重大な事件なのです。

■水俣病は突然起きたわけではない
 水俣病は、ある日突然起こるわけではない。その前に、様々な自然界の異変はあったわけです。例えば魚がいなくなったという時に、あの高度成長の時代、魚と人間とどっちが大事か、鳥と人間とどっちが大事かという議論が50年前にはあったのですが、鳥がいない、あるいは魚が住めないような環境に人間が生きているというつながりがあるわけです。
 水俣病でも、正式に発見される2年半前に猫が死んでしまったということが新聞記事になっています。しかし、新聞記者は面白おかしく書いているわけです。もしこの時、この記者が現地に入っていたら、もしかしたら水俣病の発見者になったかもしれない。

■自然の中で生きる人たちが被害者
 これが、正式発見第一号の患者さんの家です。現在もあります。これで分かるように、当たり前のことですが、環境汚染によって被害を受けるのは、自然の中で自然とともに生きている人たち、そういう人たちが真っ先に影響を受ける。そういうことを、ひじょうに具体的に私たちに示してくれているわけです。この家は、満ち潮の時は縁側から魚が釣れるくらいに、自然の中にぴったりと住んでいた人たちです。
 3歳と5歳の子どもさんが発病したのですが、5歳で発病したお姉さんの方はもう亡くなりましたが、3歳で発病したこの子は現在も生きています。しかし、この前総理大臣が来ましたが、家の前を車で通ったのでしょうが、その家の中に50何年も言葉を失って、自分のことはなにもできずに、オムツをしたままの小児水俣病の患者がいるなんて、思いもしなかったでしょうね。国道のちょっと奥にこの子はいるわけです。
 もう危ないと言われたことが何遍もあります。だけどその度にこの子は命を盛り返す。生命力が強いのでしょう。私は、少なくともこの子が生きている限り、水俣病に終わりはないと思っています。そういう意味では、この子は一日でも長く生きていてもらいたいと思っています。

■1956年5月1日は正式発見日
 この子たちも含めて、水俣病が正式に発見されたのは、1956年の5月1日です。なぜこの日かというと、医者は伝染病の疑いがある時には、保健所に届け出なければなりません。皮肉なことに、チッソの付属病院の小児科と院長が伝染病を疑って保健所に届け出た。この日が5月1日なのです。
 私たちも昔、5月1日を水俣デーにしようと提案したこともあったのですが、そのころは無視されていました。何年か前から5月1日が水俣デーになった。しかし、私は1回も参加したことはない。それは当時の患者さんたちが、この会には参加しないからです。患者さんたちが参加しない以上、私は参加しません。今年は初めて総理大臣が来ましたが、マスコミばかりで大変だった。
 子どもたちが次々発病したので、5月1日に発見されたわけです。そして、熊本大学の医学部が研究を始めるのは少し遅れます。最初は現地の医師会、あるいは私立病院、チッソの付属病院、保健所がいっしょになって調査を始めて、これは大変な事件だということで熊大に要請したのが、その年の8月くらいになります。そういうことで水俣病がだんだん広がっていきます。

■ハンター=ラッセル症候群の症状
 医学的なことでは、よくハンター=ラッセルという言葉が出てきます。イギリスの医者が有機水銀中毒の報告をしているのです。その報告を見つけたことが、水俣病の原因を明らかにする糸口になりました。
 ハンター、ラッセルさんは、有機水銀農薬を作っている工場の労働者が有機水銀中毒になった、その時の症状を報告した。その症状が水俣病の症状と一致することに気がつくことによって、水俣病の原因が明らかになっていったという経過です。これは臨床症状だけではなくて、亡くなった方の脳の症状も含めてハンター=ラッセル症候群と私たちは呼んでいるわけです。感覚を司る中枢神経と、運動のバランスを司る中枢神経と、視覚、聴覚を司る中枢神経が特徴的にやられるということです。

■毒は薄めれば毒ではなくなる?
 チッソの水俣工場で流した水銀が海に流れたわけです。当時の企業の考え方は、工場の中は自分のところだけれど、外はよそのうちと考えていたと思うのですが、水俣病から見れば、ここ(排水口)からが始まりです。チッソから見ればここからは外ですが。 今も水俣に行けばこの排水溝を見ることができます。それは水俣湾を汚染して、さらにその外の不知火海を汚染していったのです。
 私も学生時代に、希釈放流法というのを習いました。毒は薄めて流しなさい。毒は薄めれば毒ではなくなるという理屈です。これは一面では事実です。しかし自然界というのは必ず両面あるわけです。薄めるという働きもある代わりに、薄いものを濃縮するという働きも同時に持っているのです。ところが、私たちは近代化の過程で、人間にとって都合のいい方だけを優先してきた。これは水俣病が人類に向けて発信している教訓の一つです。
 海は広いな大きいなということで、毒は薄めて捨てなさい、毒は薄めれば毒ではなくなる。確かに不知火海は広いですから、薄まったわけです。しかし、海にはたくさんの人たちが生活の拠点として暮らしていたのです。

■50年前の漁村の暮らしを理解しない役人
 最近環境省のお役人たちと話をしていたら、そんなにみんな魚を食べたろうかと言うんですね。50年前に、ここの人たちが魚以外に何を食べたでしょうか。お店もコンビニもなかった。それを分からずに、みんなが魚を食べて、みんな同じ症状を訴えている、それは疑問だと言うんですよ。みんな同じものを食ったら同じ症状を訴えるというのはあたり前じゃないですか。50年前の暮らし、ここは典型的な漁村ですから、田んぼがない。当時は芋畑だったのです。芋を食べて魚を食べるしかなかったのです。そういう暮らしがあって水俣病があったということを理解しないと、ワッと車で来て、みんな魚を食ったろうか、魚が嫌いな人はいなかったのか、という変なことを言う。これは、学生を連れて行ったある日の食卓ですが、この中で海からとれていないのは、キュウリとビールくらいです。要するに海のものしか食べていなかった。

■原因と原因物質を一緒くたにしてしまう
 有機水銀中毒であることを明らかにするために、ヘドロの中から水銀が出てきたとか、魚から水銀が出てきた、猫に与えると水俣病になるとか、人間のからだからも髪の毛や血液、あるいは亡くなった方の臓器からも水銀が高く出てきたということで、完璧なくらいに熊本大学の医学部が、水俣病は水銀中毒であるということを証明したわけです。ここで問題なのが、原因と原因物質(病因)を一緒くたにしたことです。
 当時の医学部の先生は騙されたわけです。原因が分からないじゃないかと、一生懸命動物実験をしたのですが、原因は魚だと分かっていたわけです。分からなかったのは、魚の中の原因物質なのです。
 例えば、疫学者の津田敏秀先生がよく言うのですが、仕出し弁当で食中毒になったら、原因はといったら仕出し弁当です。しかし仕出し弁当の中の刺身なのかてんぷらなのかは分からないといって仕出し弁当を売り続けることはあり得ないです。それと同じようなことを水俣ではやってしまった。だから、原因が分からないということで熊大の医学班は必死になって水俣病が有機水銀中毒であることを追いかけた。そのために2年半以上かかった。この2年半というのはひじょうに大きかったのです。

■入口に"来るな"と張り紙
 50年前にもなりますが、そのころ私が水俣に行くと、入口に"来るな"という張り紙がしてあるのです。新聞記者も、熊大の先生も来るなと。要するに調査を拒否された。あるいは診察を拒否された。最初は理解できなかったのです。大学病院にいると、患者さんは頭を下げて来る。そして何時間も待たされて、最後はありがとうございましたと言って帰る。だから、こちらから出かけてやるのだから、感謝くらいされるんじゃないかと思っているわけです。
 当時私たちは何も知らないし、背景が分からない。それにはいろいろな理由があったのです。一つはマスコミが来てまた新聞に出たり、ニュースになったりしたら、また魚が売れなくなる、みんなに迷惑がかかるから来るなと言うわけです。しかし、この人たちはもう魚を獲れる状態じゃない。周りの人たちだって、魚を獲っても誰も買ってくれない状況です。その中でそれがどういうことか、大学を出たばかりの私には理解できなかった。

■胎児性水俣病の子たちに出会う
 そうしてうろちょろしている時に、あるお母さんに、二人のお子さんがいて縁側で遊んでいた。同じ症状があったから、お母さんに、「二人とも水俣病ですね」と言ったら、「お兄ちゃんは水俣病だけれど、下の子は違う」と言うのです。私は「えっ、どうして?」と聞いたところ、「お兄ちゃんは魚を食べたから水俣病だ。下の子は魚を食べていないから水俣病ではない」と言うのです。私が納得すると、お母さんは「私は納得しているわけじゃない。先生がそう言っているんじゃないか」と言って、ずいぶん怒られた。
 ご主人も水俣病で亡くなっておられたし、お兄ちゃんは小児水俣病。お母さんは魚を食べたけれど、「私が症状が軽いのは、この子がお腹の中で水銀を吸い取ってくれて、それで私は軽いんです」と言った。当時の医学の教科書には、胎盤は赤ちゃんを守ってくれている、だからお母さんが大病で倒れても、お腹の中の赤ちゃんは、そんなに大きな影響は受けないと書かれていたのです。また、それは事実でした。胎盤が赤ちゃんを守ってくれたからこそ、生き物はこの地球上に存在し続けているのでしょう。もし胎盤が毒物をすいすいと通していたら、その種は絶えていたはずです。
 私は、お母さんの言ったことに気がつかなかったのです。ところがお母さんは、体感として、経験として、私が食べた水銀がこの子に行ったに違いない、と言えるわけです。
 最初は、素人が何を言っているかと思ったけれど、お母さんがあまりに熱心に隣の村に行ってみなさいと言うので行ったら、これは1962年くらいの写真ですが、こんな小さな集落に、10人の小児水俣病と7人の魚を食べないけれど発症した人たちがいたのです。
 若いから、もしこの問題を解決したら手柄になると思いました。けれど、大学に帰って、意気揚々と、こういうのを発見したと言ったら、みんな知っていたのです。私が発見したわけじゃない。ただ、どうやって、人類史上初めて、胎盤を通る中毒が起こったかということを証明するか、みんな攻めあぐねていた。なぜ失敗したかというと、みんな動物実験で証明しようとした。ところが、まず妊娠している猫を捕まえるのが大変です。捕まえて水銀をやっても、赤ちゃんにいくのは至難の業です。

■"みんな同じ症状"がヒントに
 私は動物実験では成功しないと思って、現地に行って患者さんを診て、何かいい知恵がないかと通った。何か目処があって行ったのではなく、ただ行ったのです。
 その時また怒られた。怒られるのはいいことです。「先生、何をもたもたしているんだ」と。魚も売れなくて貧しいから、お母さんたちは日当が二百何十円の日雇いに行っていた。ところが私が呼び出すと、お母さんがついてこなければならない。1日分の日当がふいになる。「しょっちゅう呼び出されて今度は行くまいと思うけれど、ひょっとしたら今度は結論が出るかもしれないと思って毎回連れてくるけど、先生は、患者を診るだけで何も結論を出してくれない」と言って、こっぴどく怒られた。
 実は、世界に例がないので迷っているという話をしたら、「何考えているんですか。みんな同じでしょうが」と言われた。この"みんな同じ"というのがヒントになったのです。足の動きまでが同じ形、同じ症状だと言うのです。
 当時の患者さんの家、漁師が魚を獲っても誰も買ってくれなくなったら、どうなるかということです。今から50年以上前だから、あくる日から大変なんです。ふすまはボロボロです。こんなボロボロの家に人が住んでいるとは思えなかった。そうしたら、こういう重症な患者さんがいた。この子はもう亡くなったのですが。そういうショックの連続です。

■胎児性水俣病が認められる
 この子が一番重症で、亡くなってこの子が解剖されて、その時に胎盤を通った中毒だということが証明された。その時やっと私の研究が活かされた。私は患者さんしか診ていませんから、この子たちが同じ症状だから同じ原因だろう、という結論しか出せない。
 その子たちの一人が亡くなって、解剖で胎盤を通った有機水銀中毒だということが分かって、同じ症状だから同じ原因だというまとめが出されて、この年、私が発表して1カ月経たないうちに緊急の審査会が開かれて、この子たち当時16人が胎児性水俣病だとなったのです。
 呼び出されて、えらい先生がずらっととり囲んで、お前の意見を言えと言われて、かちかちかちに緊張して、言いたいことだけ言って帰ってきた。お陰でその時、胎児性水俣病が認められた。そのあと漁村に入ったら、お母さんたちから、「お陰さまで認定されました、補償金が出ました」と言われたんです。「よかったね、いくら?」と訊いたら、3万円と言うのです。
 私は月3万円とずっと思っていました。裁判が起こって世の中のことを少し知って、ようやく見舞金のことを知りました。年に3万円と知って、誰が決めたんだと怒ったけれど。大人が当時年10万円、お母さんたちは汽車賃を5万円くださいと要求したのに、チッソは3万円に値切ったのです。医者というのは、そんなもので、本当に知らないというのは怖いことです。
 その後、胎児性患者を探して、千葉にいると聞いたら飛んで行って、幸いなことに全国に支援の人がいて情報をくれる。関西では宇治や大阪、関東では千葉、旅費を自分で出して行くくらいの大切な人たちです。人類が未だ経験したことのない、胎盤を通った中毒の人たちです。
 どこの出身か集計したのがこの地図です。向こう岸の御所浦島、獅子島は一人だけですが、これは調べてないからです。外国で発表すると、こちらはなぜいないのか、魚を食べないのか、と聞かれます。誰も調べていない。本当に恥ずかしい話です。

■いくつも大きな間違いをした
 50年以上水俣に関わりましたが、いくつも大きな間違いをしている。臍の緒を集めて水銀を量りました。私は1ppm以上が胎児性水俣病の条件だと考えたのです。当時の胎児性の患者さんを診て、臍の緒を量るとだいたい1ppmあったわけです。環境省とやりあったけれど、意外とすんなり認められて、小児の臍の緒の水銀値が認定基準に入りました。しかし1.0 ppmだった。けれども、考えてみたらとんでもないことです。0でなければならない。胎盤の中にメチル水銀があること自体が問題じゃないですか。
 もう一つの間違いは、胎児性を重症患者に限って考えたことです。ハンター=ラッセル症候群を、胎児性にそのまま持ち込んでしまったということが過ちだった。その間違いを誰が指摘してくれるか。専門家はなかなか自分の間違いに気がつかない。私もこの時、無理やり基準に押し込んだ。
 水俣病であると、あの地域の中で診断されることは大変なことです。私は医者だから、診断をすることは、その地域の中でどういう意味をもつかということまであまり思いを巡らせないことが多かった。ところが、診断されるということ自体がひじょうな差別を伴ったのです。

■新潟水俣病
 新潟では、昭和電工が同じように水銀を流した。裁判で2回ほど聞きに行きました。昭和電工側が、同じ工場なのになぜチッソに調査に行かなかったのかと追及されていた。昭和電工は、「いや、行きました。サーキュレーターという水銀除去装置を見せられたが、あれは世論対策でつけているので、効果がないとチッソの幹部が言ったので、わが社は効果のないものはやりませんでした」と言うのです。そういうことをやって、新潟でも堂々と流していた。
 新潟は胎児性水俣病の子が生まれるというので、赤ちゃんを産ませないで、堕した。その時のリストに77人います。77人一人ひとりどうしたかは分かりません。5人だけ分かっている中では2人は堕した。1人は堕したうえに避妊手術までしている。あとの2人は産まないようにしたとか。そういうことで胎児性は1人しか生まれなかった。水俣と違って一人しかいないから診断がつかないというのです。だからわざわざ熊本まで、お父さんがおんぶして診断に連れて来られました。そこからまた私と新潟のつながりができる。この子ですが、今でも元気でメールをくれたりします。
 水俣病が公害の原点であると言われるのは、事件が大規模であった、悲惨であった、行政が怠慢であった、企業の対応とかいろいろあるでしょう。しかし、私たちの立場から公害の原点と一番言っているのは、こういう食物連鎖を通じて起こった中毒というのは、人類史上初めての体験だったという、この一点なのです。熊本でも、干潟はもったいない、埋め立てて宅地か農地にしたほうがいいと、じゃんじゃん埋め立ててしまったのですが、名もない、人間の役に立たないような生物しかいない干潟の生き物の命と私たちの命がつながっていたことを、水俣病は私たちに教えているわけです。

■海外の水銀汚染被害例
 外国ではどうかというと、アメリカで起きた事件があります。水銀で消毒した種麦を豚の餌にして、それを食べた。だから環境汚染ではないが、食物連鎖ではある。現場に行ったのですが、近くに原爆実験場がいくつかあって、爆弾に注意と看板にあるような所を車で走って行くというすごい所でした。豚を食べたお母さんが妊娠していて、重症の胎児性が生まれた。 胎児性は、熊本以外は新潟、あとはイラクとスウェーデンに1例ずつ、アメリカに1例報告されている。だから、いかに水俣の胎児性のかたは人類の宝なのかということです。世界中でこれだけしかいない。他にいたとしても、報告されているのはこれだけなのです。
 カナダの汚染源は、パルプ工場に併設された苛性ソーダの工場から水銀が流れて、環境汚染をした。そこには先住民の人たちがいた。その人たちが水俣と同じように湖の魚をとって、あるいは獣を追いかけて、暮らしているのです。私はそこでは水俣病が発生していると思っています。カナダ政府は認めません。ところが、補償金は払っている。その基準は水俣病の基準なのです。認めているじゃないかと言っても、汚染は認める、健康障害がある人たちがいることも認める。彼らが生活に困っているから生活援助をしているのであって、補償しているのではないと言うのです。

■水俣病の基準が世界の基準とされる
 しかし、その基準は水俣病の基準そのものなのです。私は水俣のことをやって手一杯で、世界のことは関係ないと思っていたのですが、そうではない。私たちが水俣のことをきちんとできないから、それが悪い意味で輸出されている。
 これはブラジルのアマゾンです。この汚染源は、金を採る時に、水銀を飛ばして採っているものですから、労働者は水銀中毒になる。これは職業病で、水俣病ではない。ところが、飛んだ水銀は流れていって魚に蓄積する。すると、下流にはその魚をたくさん食べている人たちがいる。この人たちの髪の毛を測ったのですが、もう危険水域です。
 ブラジルのパラ大学から来てくれと言われて、自費で行きました。ブラジルも、もうすでに水俣病が出ていると信じています。最初は、水銀を扱っている人が水銀を吸うことで職業病になる。それが大気、水、土を汚染して、それが有機化して魚介類に蓄積される。魚介類を食べた人が水銀に汚染される。次は水俣病が発生するのです。

■何をもって水俣病とするか
 この時、水俣病は何かということが問題になるわけです。何をもって水俣病とするか。当時私たちが間違っていたように、これが水俣病だ、これが胎児性だと世界に公表したことは、水俣病の氷山の一角にでしかなかった。それが世界の水俣病の基準になったわけです。だから、カナダやブラジルで患者が出ても、それは水俣病ではないとされる。その罪は、その責任は、水俣病と関わった私たちの責任というのは大変大きい、重いと思っています。
 何を水俣病とするか、今環境省とやりあっているのは、感覚障害だけで水俣病というのかということが議論になっている。確かに大人に関しては、氷山のかなり下まできた。それはまだ世界では認知されていないで、氷山のもっと上を見ている。それは、日本がそうやったからです。
 しかし、日本において基準をもう少し下げようという動きはある。あるけれど、それを水俣病とは呼ばない。呼べば、世界中にいっぱい水俣病が出てきてしまう。だから、必死になって守っている部分があるわけです。それはそれで大変な問題です。しかし、最高裁からは何回も、この基準は理屈に合わないじゃないかと、医学は怒られている。

■佐藤さんたちが提起した胎児性の問題
 佐藤さんたちが提起した問題というのは、また別なのです。胎児性の問題は、まだ手がついていないのです。私たちはいくつか間違えた。見ればすぐに分かるような脳性まひ型の胎児性の患者さんを掲げて、環境を大事にしないとこういう胎児性が生まれますよとキャンペーンをした。それはひじょうに重い事実です。
 しかしそのことが世界中に広まったばかりに、第二世代で、胎内で汚染を受けた脳性まひ型ではない人たちは、長い間、半世紀も私たちは無視していたのです。その突破口の一つが、佐藤さんたちの裁判なのです。これこそまさに、胎児に及ぼす水銀の影響はこういうものだという異議申し立てをしているのです。だから、医学的にも大変意義があることなのです。 そういう意味で佐藤さんたちの裁判は、全体から見ればほんの一部ですが、そのもつ意味を理解していただきたい。そのことが、世界への大きな発信になるわけです。
 世界の水銀汚染のレベルは、我々がかつて言っていた胎児性のような症状が出てくるレベルだとは思いません。しかし、お腹の中でもっと微量での曝露、あるいは長期にわたる曝露でどういう影響を及ぼしたかということが問題になっている。佐藤さんたちは、見た目だけではなんでもなさそうに見えますが、実はそうではないのです。そういう意味で、どうか、この裁判に注目していただければありがたいと思います。(了)

化学物質問題市民研究会
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