ミナス・ティリスの塔の先端に、白と金の若木が影をまとってすらりと佇んでいた。
陽光はきらりとその髪を愛でて滑り落ち、塔の下層よりそれを見た者は、塔の物見櫓の壁の上に、新たな彫像が立てられたのではないかと目を疑った。
人の子の葬送の礼儀に基づいて、その常磐緑の若木は、黒い長衣に身を包んでいた。
常の、活動的なチュニックをまとっていたならば、彼は、活動的な、ほがらかな一個の狩人であった。だが、今の彼は、気を沈ませる黒衣に覆われ、ものしずかに、暁の光を眼に宿す、悲しみのもやをまとった美しい、喪われゆく民のひとりであった。本当に、悲しみの衣をまとえば更にエルフらしい、影のように朧な存在に見える常磐緑の……今の彼は、糸杉の樹のような緑葉であった。
弔いの鐘が鳴る。
暁の、血のように紅い陽が、エルフの瞳を射抜きつづける。
どれほどの時が、あれからたったのか。想いに沈む常磐緑の――緑葉のレゴラスは、ゆるやかに時を溯り、あの陽気な、勇敢な小さい人たちとの出会いの日を思い出した。


人見知りする性質なのか、ホビットたちは、レゴラスに近づこうとはしなかった。近づかぬものを無理に呼び寄せても何かと、レゴラスも、ホビットたちを放っておいて、アラゴルンの元へ歩み寄った。
アラゴルンは、何やら赤い表紙の分厚い本を、生真面目な表情で読んでいたところだった。歩み寄ってきたレゴラスを不思議そうに見上げ、ホビットたちと見比べる。
「どうしたレゴラス、小さい人たちと話をしてきたらどうだ?」
「だって向こうがもじもじしていて、わたしに近づこうとしないんですよ」
「それは、君は彼らにとって怖い存在だろう。何せあの闇の森のエルフだ」
「なぜ闇の森のエルフが怖いんです?」
「ビルボに会ったかね?」
「会いましたよ、というか、見かけました。まだ話はしていないのだけど」
「彼があの冒険について、いろいろと書き記しているのだよ」
「へぇ……あとで読ませてもらおうかな?」
アラゴルンは「それがいい」と頷きながら、口元に思わず笑みをはいた。エルフは普通、エルフ以外の種族の書物に興味を示しなどはしない。だがこの北の森の王子は、通常のエルフの範疇に入らない、柔軟な感性を持っている。アラゴルンは、この王子のそんな明るい、伸びやかな一面を愛していた。
「あのう、馳夫さん!」
おずおずとかけられた声に、レゴラスとアラゴルンは、同時に視線を落とす。
レゴラスには正直に言って見分けがつかない、小さいごちゃごちゃ固まった4人のホビットが、レゴラスとアラゴルンを取り囲んでいた。
「馳夫?」
誰のことです、と聞く前にアラゴルンが返事をする。
「どうしたね諸君、噂の闇の森のエルフを見物に来たのかね」
「わたしを?」
「見物だなんてとんでもねえですだ!」
「ぼくたち、あなたとお話がしたくって!」
「ビルボが首飾りを上げた王様の、息子さんなんですよね?」
「ああもう、皆一緒に話し出してはいけないよ、ほら、レゴラスさんが困ってらっしゃるじゃないか」
真っ赤になって、訛りのきつい言葉でしどろもどろに話しているホビット、うきうきとたのしげに跳ね回る、子供そのもののように活発なホビット、その隣で、そのホビットを形ばかり制しながら我も我もと飛びつくホビット、騒ぎを慌てて止めている、少しだけ年上に思える――だが本当は一番話を聞きたくて仕方がないらしいホビット。
ホビットだらけだ。
レゴラスは思わず、声を立てて笑いはじめた。ホビットが驚いて言葉を止め、アラゴルンは傍らで苦笑する。ある意味ではホビットとそう変わりもせぬほどに陽気な、この緑葉のエルフの興味を、ホビットたちがしっかり射止めたと知ったからである。
「ああ、ああ、なんて忙しくて騒がしくて、そして愉快な人たちなんだろうねぇ、小さい人というものは! ホビットは退屈だなんて、いったい誰が言ったものだろう?」
いっせいに赤くなって押し黙った4人のホビットを、順々に頭を撫で、一斉に「ぼくたちは子供じゃないんです、子供に見えますけど!」という抗議の言葉を受けてまた笑う。
「わたしにとっては、ここのドゥナダンだって子供のようなものだもの、君たちなんてまだ赤ん坊ですよ。ほら話を聞きたいのなら、ひとりずつ質問してくれないと。定命の子っていうのはそんなに時間がないのかい?」
「……なんだか、この人は裂け谷のエルフとはまた、一風変わってますだよ、馳夫さん!」
サムが袖を引くのに耐え切れず、アラゴルンも笑い出す。
「闇の森のエルフは、たしかに一風変わってはいるがね、彼はその中でもとびっきりだよ。それも、人間やホビットにとっては、嬉しい方向に変わっているのさ」
「ひどいな、アラゴルン!? それはいったいどういう意味です? こら待ちなさい」
笑いながら逃げ出すアラゴルンを追いかけ、「また北の森のつむじ風が」と周囲にクスクス笑われながら廊下を風のように走りぬける。
「待って、レゴラスさん、馳夫さん!」
ぱたぱたと軽い足音が追って来るのを感じ、アラゴルンの襟首を掴みながらレゴラスは彼らを振り返り、とびきりの笑顔で笑いかけた。


瞳を開いたままエルフの意識はゆるやかに、思い出の小道をさまよう。
眼に痛い暁の光を見つめたまま。
喪に服す黒衣をまとったまま。
『待って、レゴラスさん!』
明るいはしゃぎ声がこだまする。
あの声は他の時にも聞いた、とレゴラスは思い出に耳を傾ける。数百年、数千年と、エルフの耳にはまるで現実の如く、思い出がこだましつづけるのだ。
――ああ、あれは。
暁に射られたままの瞳に、昨日のことのように、浮かぶ風景、浮かぶ後ろ姿。
まだ指輪の仲間が9人揃っていた頃。森の中なら決してキミたちに捕まりなどしないよ、と豪語したレゴラスを、ホビットたちが――それどころか人間ふたりまでが加わって、躍起になって追い回し、探し回ったことがあった。
『あなたがそう得意がっていられるのも今の内ですよ、レゴラス!』
ピピンの張り上げる若々しい声。
『あなたは森のエルフだからそう言うけど、普通の、石造りの建物の中でのかくれんぼだったら、絶対に、体の小さいぼくたちの方が得意なんですからね!』
その言葉に自分は、何と言っただろうか?
――石造りの建物の中に閉じ込められること自体、わたしはごめんだよ、と。
心の深いところから、そう、答えが返って来る。
『10数えるんですよ、それから大きな声で「もういいかい」って尋ねるんです!』
『懐かしいな、小さな頃はビルボがそうやって、わたしと遊んでくれたもんですよ、遊んでいる内に、ビルボの方がすっかり夢中になってしまって!』
『おらもよくやりましただ、夢中になって庭に隠れてたらまぁ、とっつぁんの大事にしていたさざんかを全部だめにしちまって、怒られたこと怒られたこと!』


――かくれんぼなんて。
長衣の上に羽織ったケープ、その下で、白い手がぎりりと拳を作る。
――かくれんぼなんて、いくらでも、してあげたんだ。
傷つき疲れたフロドは、知らず灰色港から行方を断ち。
幸福な家庭を築いてなお、サムは余生を西方に委ね。
……そして今。レゴラスの黒き長衣は、相次いで息を引き取ったふたりの老ホビットに捧げられている。
かくれんぼは結局、することがなく。
見る見るうちに、立派な大人になってしまった彼らは、「もう、今はそんなことしませんよ」と笑って首を振るだけで。レゴラスだけが変わりなく、年老いていく子供たちを、かくれんぼに誘うこともなく、ただ、見守り、見送っていく。
――ああどうして、あんなに子供のままなのに、急いで去っていってしまうのだろう。
はじけたと見る間に消えてしまう花火のように。
羽根を広げたその日に息絶えるかげろうのように。
なんてせわしない、元気いっぱいの、強く素朴な民であったことか。
『わたしたちの村でやったならば、きっと負けやしませんとも!』
『いつかやりたいもんですねぇ、フロドはもう分別のある大人だからやらないって言うでしょうけど!』
太陽に向いたまま、レゴラスは瞳を閉じる。
――眼をつぶって、10数えて、……


目を開けて「もういいかい」とエルフが言った時にはもう。
あの駆け足の、いとしい、小さな生き物たちは、だぁれもいない。


「もういいかい?」
やさしい、ふるえる声でレゴラスは囁いた。
「もう、いいかい……?」
どこに隠れてしまったの。
どこに行ってしまったの。
ほんのまたたきほどの間だったのに、あんなに髪が白くなって。
立ち尽くすエルフの足の下、白く、今は暁の光を受けて薔薇色に輝くミナス・ティリスの塔の中で。
いつかかくれんぼをしてみたかったのに。
命短い子供たちに、エルフの「いつか」はあまりに遠く。
……痛みを受けた9本指の、行ってしまったホビットだって、後を追ったホビットだって、今はもう、きっともう、……多分、もう。
「もう、いい、かい……」


「まだだよ」


振り返ればそこに、3人きりになってしまった、指輪の仲間。
人の王と、ドワーフの族長。だがなんとその姿の、年老いたことか。
「まだだよ、わたしの緑葉殿」
深い年輪を刻む王の声が、レゴラスを呼び、節くれた手が彼を手招く。
「まだ、もう少しつきあってくれないと。わたしもギムリも、ホビットたちよりは随分としぶといのだからね」
「そうとも、あんたはまさか、旅立っていったほかの美しい人たちのように、わたしらを置いて去っていく心積もりじゃなかろうね?」
レゴラスは黙って、逆光に黒く浮かび上がってじっと、照らされるふたりの仲間を見つめる。
ただひとり、いつまでも、いつまでも若く美しく。
見る見るうちに老いていく仲間を、ひとり、ふたり見送って今、目の前にある、たったふたり。
「……あの時と同じ、3人だけになってしまったね」
やわらかくレゴラスは言葉を継いだ。
「けど、もう、追いかけても、メリーとピピンはいない」
10数えても。
降参しても、出て来てはくれないかくれんぼ。
「レゴラス」
伸ばされる手。
いつか喪われる手。それでも、
「……君たちと、この時代に出会う定めだったわたしは、なんとしあわせなエルフだろう」
ゆるやかに笑って、レゴラスはふわりと、物見櫓の下に降り立った。
「わたしだってそうだよ、レゴラス、わたしのエルフ。……他の誰でもなく、わたしたちをひとりずつ、見送って、手を振ってくれる、それが君だと言うことはなんて、贅沢なことなんだろう」
「もっとも、わたしはあんたと出会ったせいで、びくびくしながらファンゴルンを通り抜けなきゃいけないはめになったがね!」
朴訥なドワーフが、下手な冗談を言って肩をすくめてみせる。
「その言葉は、ファンゴルンを燦光洞に替えて、そっくり君に返すよ、ギムリ旦那」
いやがらせのように、跪いてギムリを抱きしめ、もう黒より白の目立つ髭に音を立ててキスをして、レゴラスはそして立ち上がった。
「ねぇアラゴルン、ギムリ、かくれんぼをしよう」
「……なんだって!?」
「かくれんぼだよ! 知らないのかな、鬼が眼をつぶって10数えるんですよ!」
そんなことは知っている、と声を荒げかけてギムリは黙りこみ、ややあって、アラゴルンを見上げる。
ふたり顔を見合わせ、深く溜息をついて、それからレゴラスの顔を見た。
「まぁ、君の言うことの突拍子のなさには、いい加減慣れてきたよ」
「かくれんぼだろうが鬼ごっこだろうが、やってやろうじゃないか、あんたの気がすむまでね」
「じゃあギムリが鬼だ」
言い捨てるが早いが、レゴラスは黒き長衣を翻し、かろやかに塔の中へと駆け込んでいく。
「なんでわたしが鬼なんだ!」
「レゴラス、レゴラス! 日が暮れる前に出てくるんだぞ、この塔はかくれんぼには広すぎる! ……ということでギムリ、がんばってくれ、わたしも隠れる」
「一国の王のあんたまで何を言い出すんですか、アラゴルン!」
「失礼な、わたしはゴンドール・アルノール両国の王だぞ」
「そういう問題では――待ってくださいアラゴルン、……ええい待てというのに!」


ぶつぶつと文句を言いながらも、初老のドワーフは髭をしごき、はりきって塔の中へとレゴラスを追って来る。
「10数えるんだよ、ギムリ旦那!」
アラゴルンの手を引いて階段をゆるやかに踊り歩きながら、レゴラスは明るく声をかけた。


『待って、レゴラスさん!』


耳の奥にこだまする、明るい声と追いかけ合う。
あの日の続きの、かくれんぼを彼ら4人とも、するために。



2.僕の森   4.君の手のひらから