闇は果てなく続くかと思われた。血の臭いにはすでに麻痺していた。返り血が点々と、鎧にはねて闇の腐臭を放っていた。
鼓膜が怒号と叫喚と、金属音に叩かれつづけておかしくなっているらしい。呑んだ唾にも鉄の味が混じる。
突き立つ雷光と共に地を震わせる雷鳴。漂白された視界の中、目の前に小山、考える暇もなく剣を振るう。手に伝わる、敵の骨が砕け神経がちぎれる嫌な感触。黒い血が顔にべしゃりと跳ねた。
倒れ伏した眼前の敵、なだらかなはずだった大地はすでに、歩行さえ困難なほどの小山に覆われている。それはかつては人間だったもの、かつてはオークだったもの、かつては馬だったもの。
どこかで勝ち誇ったオークの醜い笑い声が聞こえた。
「……アンドゥリィーーーールッ!」
怒りが喉を裂いて絶叫となる。応える声はない。突出しすぎたか。それとも味方がすべて死に絶えたのか。
ただ手の中の剣だけが彼に応えた。
更なるオークの首を一気に跳ね飛ばし、しばらくは言葉もなく、肩で息をする。
エオメルの姿がない。
闇だ。
永劫の闇だ。
「レゴラァスッ! ギムリィッ!」
返答はない。
血と泥濘と、敵と死体だけが眼前にある。アラゴルンは息を詰まらせ、一瞬のち、血を吐くような声で叫んだ。
「……わたしのエルフ! 返事をしろォォッ!」
我が友よ。
我がエルフよ――
我が――


ひゅん、と飛来した矢が、アラゴルンの頬をかすめて遠く飛び、オークの絶叫を生み出した。
「アラゴルン、叫んでないで早くお戻りなさい、城門の傍らまで!」
叱咤する若々しい声。――本当は恐ろしいほどの年上なのに。
そこらの馬を捕らえて乗ってきたのだろう、荒々しい裸馬の首筋を励ますように叩きながら、馳せて来たのはレゴラスだった。
「レゴラス…」
「後ろに!」
「すまない」
ひらり、と一息に飛び乗ると同時、馬ははじかれたように走り出す。しっかりとレゴラスの腰に手を回してしがみついたまま、シンダールの言葉で短く会話を交わす。
「わたしはこのまま城門の中に駆け込みます。あなたは?」
「城門の脇で下ろしてくれ。逃げてくる味方を助けなければ」
「わかりました。ご武運を!」
一瞬馬がスピードをがくんと落とす。アラゴルンは馬から飛び降り受身をとった。弓兵であるレゴラスはそのまま、城内へと駆け込んでいく。
鍔元まで血に濡れた剣をマントで拭き、新たな敵に備えた時、ふわり、と何かが身体を包む。血臭に底まで染め抜かれたその肺を、洗い、癒していったのは……
彼の体香そのものとも言える、緑の、森の香だった。


城壁をのぼりつめると、そこにはすらりと柳の若木のような立姿があって、アラゴルンに眼を細めさせた。
とこしえに明けぬのではないかと思われる夜、絶望するしかないとくじけかける苦境、その中にあってどこまでもすずやかに、「まだ、希望があります」とかろやかに請け負う、彼のエルフ。それは今、城壁の際に立って外を眺め、じっと、闇の中に明るく輝く瞳をもって己の存在を――オークの恐れ憎むエルフと言う存在を、敵にしらしめているように思われた。
今、ローハンというこの広い国土には、たったひとりのエルフしか存在しない。
この先、オルサンクへ、ミナス・ティリスへ、バラド・ドゥアへ――あの数多の「塔」を攻略しに行く、その苦痛に満ちた行程を、レゴラスが共に来てくれるというならば。
彼は赴く先々での、「たったひとりのエルフ」ということになる。
たったひとりのエルフが、唯一のエルフが、……自分の傍らに常にある。
その感覚は何かに似ている、と思いかけて思い出せず、アラゴルンは、思い出したくてレゴラスへと近づいた。
「レゴラス、我が友、オークばかり映していては、せっかくの星宿る瞳が曇ってしまう。少し休んだらどうだ」
「ああ、アラゴルン……」
レゴラスは少し笑ったようだった。夜目にもぼんやりと白い顔。
「城壁の上の兵は皆休ませてしまったのだもの、わたしまで休むわけにはいきませんよ!
 それにギムリ旦那がもしかしたら、かの洞窟にも逃げ込まず、夜闇にまぎれてこの城門にたどりつくかもしれない」
「……そうか。そうだな」
こういう時に、エルフの強情さと強靭さを知るアラゴルンは、どうしてもレゴラスに甘くなる。彼の気のすむようにさせたらいい、そう思ってしまうのだ。
3人で旅をしたのは、10日間にも満たないと思っていたけれども。あのがらがらと脅すように響く声が、「疲れているかだって? とんでもない! ひさしぶりに樹の枝以外のものが斬れたからって、わたしもこの斧も、まだまだ満足には程遠いよ!」と、自慢げに言うその声を聞けないのは、思ったよりも、彼らの心を重くさせた。
死んだなどとは、決して思っていなくとも。
「……いつのまにか、あなたやギムリは、わたしの中の随分とたくさんを占めてしまったのだねぇ……」
レゴラスがぽつりと、城壁の向こうを見つめたまま言った。
胸が一杯になり、アラゴルンは手を伸ばしてレゴラスを抱き寄せる。「オークくさいよアラゴルン」と嫌がりながらも、レゴラスは決して、その体から逃げようとはしなかった。
手はオークの血の臭いが染みついて離れないから。アラゴルンはそっと、唇でレゴラスの編み髪を、その脇の耳朶を軽く噛む。そして首筋へ。獣が親愛の情を示すように、他愛なく。
「レゴラス、彼は無事だよ。明日にもきっと、こう言いながら戻って来る。
 『わたしの勝ちだよ、レゴラス旦那! 間違いないとも!』
 彼があんたの倒したオークの数を、上回っているかどうか、賭けようか」
「わたしは負けやしないよ、ドワーフになど!」
笑ったレゴラスの体から、ふわり、と緑の気配が立ち上った。
「あ、」
思わず声を上げたアラゴルンを、不思議そうに、レゴラスは首をよじるようにして見やる。
とりつくろうように笑ってから、アラゴルンはもう一度、しっかりとレゴラスを抱きしめて瞳を閉じた。
――森だ。
レゴラスの中にたしかに息づく森の力。
忘れていた。彼はまさしく、その浄化の力を持ってもわかる通り、人型の森そのものなのだ。
はるか東夷の地まで旅して知った、あの砂漠という恐ろしい存在――その中で、一輪の小さな花を見つけた時、それは花ではなく、小さくても、旅人を癒す森そのものであり……アラゴルンは、それを、わたしひとりの為に咲いてくれた森、と感じてひどく、ひどくいとしく離れがたく思ったことを、覚えていた。
そして今。
裂け谷を出てからずっと。一行が離散し、今、ギムリがはぐれてしまっても、なお、彼の傍らにある――
――わたしの森。
ああなんと心安らぐことだろう。
雪山を、草原を、泥濘を、石造りの都を、進み征きてなお、傍らに在りつづける豊かな緑。このローハンで、向かうオルサンクで、ミナス・ティリスで、彼が、彼だけが、傍らに置きつづける彼の森。
――エルロンド卿、あなたに感謝いたします。
わたしはエルフに育てられた者。……エルフの森が、傍らにある限り、くじけることはないのです。
スランドゥイルとエルロンド、ふたりの上古のエルフが、秘蔵っ子としてしまいこんでいたこのエルフの、同行を許してくれたことは何と大きなことだったのだろう。
「……アラゴルン、」
抱きしめられているせいで、くぐもった声のレゴラスが小さく名を呼ぶ。
「アラゴルン、わたしはね、生まれて初めて、人の子が『凍える』という気持ちが分かったような気がするよ。でも……
 あなたがこうしていてくれると、その気持ちが嘘のように収まってしまった。あなたは本当に、わたしという一本の樹をあたためてくれる、森の木漏れ日のようですね!」


この森を己があたためることができる。その事実はアラゴルンを有頂天にさせる。
思わず彼は低く声をあげて笑った。
「あたためてあげよう」
そっと背を撫でてやりながら耳元に囁く。
「だから、しょげていないで、その緑葉を広げ、わたしに新鮮な空気を与えてくれ」
「しょげてなど!」
「ギムリ、ギムリ、と泣きそうな顔をしていたのは一体誰だ?」
「そんな顔はしていないよ!」
離しなさい、とぷりぷり怒り出したレゴラスを腕と城壁に閉じ込めて、ふざけるようにくちづけをしかける。
「レゴラス、レゴラス、冗談だ、怒らないでくれ」
「あなたと言う人は!」
元気が出たのだろう。彼の内に豊かな緑が咲き萌える気配を感じて、アラゴルンはほっと微笑する。
これは彼の森。
彼を癒し彼に空気を与えてくれる、彼だけの森。
砂漠へも、草原へも、……とわの別れのその瞬間まで、彼を、愛しつづけてくれるであろう、


彼の、彼だけの、……最後の森。



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