新宿の雑踏の片隅にあるとは思えない、それはそれは閑静な――言ってしまえば客の入らない――喫茶店、「HonkyTonk」。今日も今日とて閑古鳥、奪還屋ふたりがツケで珈琲片手にだべる以外には、人の声も聞こえない。好意的な見方をすれば、裏業界の商談にも使用されるこの店なら、客がいない方が好都合なのだろう。しかし。くわえ煙草でぼんやり外を眺める店主・波児は思う。いくらなんでも、午前中にひとりぐらい、金を払ってくれる客が来てもいいではないか、と――
「――おや」
窓を眺めたまま、思わず声を漏らした波児に、相変わらず蛮にいじめられてへにょん、とたれていた銀次が、そのつぶらすぎる瞳を向ける。
「どしたの?」
「珍しいお客さんだな」
「へ? ――ああっ赤屍さん!」
「げー」
もちろん、椅子の上でびよん、と跳ねてうきうき飛び降りた銀次の台詞が前者で、様々な理由からげんなりと天井を仰いだ蛮の台詞が、後者である。
彼らの視線の前で、ゆら、ゆら、と帽子とコートをひらめかせて、黒衣の死神ははめ込みガラスの扉の前に立った。
カラン、と取りつけられた鈴が鳴って扉が開く。
「あかばねさぁんっ♪」
「こんにちは、マスター。ああ、美堂クンも」
「いらっしゃい」
「……何しに来たんだよ」
同時に発された、局地的ににこやかな挨拶は、のっけからかなりすれ違っていたが、何せたれる銀次は、赤屍の視界に入る大きさではない。それゆえに、優雅にふわり、と歩を進めて、弾力性に富んだ感触を脚に感じた赤屍は、視線を下に向けてにっこりと微笑んだ。
「おや、銀次クンいたんですか」
「……」
赤屍の脚の下でつぶれているたれ銀次が、めそめそと泣いているのに気づかぬ振りで、波児が注文を尋ねる。
「何でも良いです。食べるものと飲むものを」
殺しと仕事以外のすべてにおいて無頓着な愛すべき死神は、鷹揚にそう答えた。そんな、もはやアバウトの範疇にすら入らない注文にも、さすがは波児、動じる様子はない。「じゃあランチセットにしておくか。かけな」とスツールを顎で無造作に差した。
「波児、そんないーもん出すこたねーぞ。どーせジャッカルだ、屍肉でも出してぼったくれ」
「キミは動物を生きたまま食べる趣味が?」
皮肉なのか天然なのか、生真面目にそう返した赤屍に、蛮は不覚にも一瞬絶句した。何と返してやろうか、と考えて視線をさまよわせ――
「……銀次。みっともねー真似してんじゃねーぞ」
脱力しつつも一応、そう声をかける。
「えーだってお腹すいたんだもん」
「おや銀次クン、朝ご飯はまだなんですか?」
「まだなんです〜〜〜」
文字どおり踏まれてもめげない銀次が、蛮の視線の先で、ぽてぽてと赤屍の座るスツールに向かっていたのだ。
それはもう見事にたれたまま、じぃ、と赤屍を見上げる銀次に。何を思ったか、赤屍は、目を離さないまま、自分の前に置かれたサンドイッチに手を伸ばす。店中の視線が集中する中、おごそかな表情で、たれ銀次には微妙にとどかない高さに――サンドイッチを掲げた。
口を開けたまま、視線はサンドイッチに釘付けのたれ銀次は、明らかに、餌を狙うことしか考えていない。黒いビーズ玉のような、つぶらな眼が「きゅぴーん♪」と、獲物を狙う猛禽類のそれと種を同じくし――
「――ちぇえいっ!」
予備動作もなく、いきなり垂直に飛び上がった――というか跳ねたたれ生物が、ぱくっ! といるかの曲芸よろしくサンドイッチに食いつく。
奪われたサンドイッチと自分の手を、さすがに少し驚いた様子で見比べていた赤屍は、心から満足げかつ得意げな銀次の顔を見て、とりあえず、手袋をはめた手でぱちぱちと拍手した。
「えへへー」
二口でサンドイッチを食い尽くした銀次が、口の端にマヨネーズをつけたまま照れ笑いを返す。
何だかもう誰にも理解できないふたりのコミュニケーションを、見ると石になりそうで、波児は背を向けて黙々とカップを拭きつづけた。
曲芸に満足したらしく、それきり席に向き直ってサンドイッチを優雅につまむ赤屍を、たれ銀次は相変わらずじぃ、と見上げている。
さすがにその視線に気づいた黒衣の死神が、店内だというのに帽子をかぶったままの頭を、ん? と傾げて銀次を見下ろす。
「どうしました、銀次クン」
「え? ……えーと、赤屍さん見てました」
「まだお腹が空いてるんですか? たしかに、あれだけでは足りなかったでしょうけど」
「あ、いえ、それもあるんですけどうーんオレどっちかってと赤屍さんに見惚れ――――あああ赤屍さんっ?」
何やらはにかんでいた銀次が、突然ばたばたと手脚を振り回す。それもそのはず。ナプキンで手を拭いた赤屍が、いきなり無造作に銀次の襟を掴み、軽々と自分の目の高さまで持ち上げたのだ。
ぶらーんぶらーん、と釣り下げられたまま真っ赤になっているたれ銀次を、しばらく観察していた赤屍は、ややあってやはり無造作に、膝の上にぽんとそれを置いた。
かちこちに固まっている銀次に、サンドイッチをひとつ手にとって「はい」と持たせてやる。違う違うんです赤屍さん! と、たれなりに必死で言いかけた銀次は、しかし、目の前のサンドイッチにあっさり主張を引っ込めた。
「いただきまぁす」
「どうぞ。出世払いですから」
「出世払って何ですか? 何払ったらいいんですかね?」
「……………………クスv」
そのハートマーク付の「クス」は、背中で聞いていた波児の心を凍らせたが、幸いというか不幸というか、サンドイッチに夢中の銀次の耳にはまったく入っていなかった。
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