シャツの襟に手をかけると、ものやわらかい声がその動きを遮った。
「気の毒に、と言われました」
「――誰が、誰のことをそう言ったんですか、それ?」
「十兵衛クンとやらが、私のことを」
するり、と敏捷な猫科の獣のように、細身の体は銀次の手を逃れ、シーツの海の上で心地よく寝返りを打つ。銀次の手にはネクタイだけが残された。
その身体を追って、自分も寝台の上に乗り上げようとして、
「脱いでください」
しどけなく枕にもたせた顔、その赫の瞳がじっとこちらを眺めているのに気づいた。
「……?」
これ? と、自分のTシャツを引っ張ってみると、白く尖った顎がこくんと引かれる。
「早く、脱いで」
「……わかりました」
背を向け、寝台に腰掛けるといさぎよくシャツを脱ぎ捨てる。
「……これでいい?」
振り返ろうとして、
「そのまま」
やわらかい――そして冷たいテノールは、存外近くから聞こえた。
すぐ――耳元に、冷たい息がかかる。
背中に、ほとんど物理的圧迫感を伴う、あの冷たくも灼けるような視線を感じた。
息や視線や声と同じように、冷たい指。傷痕に触れている。
手袋は外されている。彼の――素の、指の感覚だ。
痛みと、恐怖と、それに触発された悦楽が、たった一本、たわむれに触れただけのその指から注ぎ込まれて、銀次は息を飲んだ。
「痛みましたか?」
掌全体が、ひたり、と背に貼りついた。
耳元で囁く黒衣の死神に、忍び込む――爛れ落ちるような、濃密な気配、色香と間違えそうな――甘い殺気。
背中全体が、緊張する。その緊張を感じ取った掌が、満足げに、傷の上でそろりそろりとうごめいた。
「――かわいそうなのはキミの方だと思うんですよ、銀次クン」
さくり、と。
背中の傷の上を、メスが――正確にもう一度、浅く、たどる。
声をもらすまいと歯をくいしばり、天井を見上げる銀次の瞳に、飛び込む、逆さまの白と赫の美貌。
「キミが、自分の過去に、くすぶる雷帝に、ひきずられて――私を求めたりするから。こんな傷を無数に作る羽目になる」
銀次の後ろで、寝台の上に膝をついて立っているらしい。半ば覆い被さるように自分を覗き込んでいる、笑みの形に歪んだ赤い瞳を、銀次はまっすぐに見上げた。
「それともマゾヒストだったんですか、キミは? こうまでされて、それでも私を追いかけまわすなんてね」
「違うよ」
「――何が違うんです?」
「かわいそうなのは、赤屍さんなんだ」
「――オレに逢わなければ、赤屍さんはもっと自由で、もっと惨酷で、もっと綺麗でいられたのに。
オレがこうやって――赤屍さんを欲しがって。オレのやり方につなごうとしちゃうから――」
目の前の両頬をはさんで引き寄せ、薄く紅いその唇を、そ、とついばむ。
その狭間に、白くなだらかな喉仏の隆起を見つめて、優しく囁いた。
「――ごめんね、赤屍さん、オレなんかがこんなに惚れちゃって」
なんでこんなにこの人が欲しいのか――なんて、もう自分自身でもわからない。
無限城の過去の自分を思い出すから、叩き潰したいだけなのかもしれない。
共にいれば常に命の危険に晒されるという恐怖に、イカレてしまっただけなのかもしれない。
この虚ろな精神にふさわしい、冷たく白く細い身体だけが、目当てなのかもしれない。
ああでももうそんなことはどうでも良いのだ。
大事なのは、こうしてつきまとって、無理矢理約束とりつけて、仕事にかけつけてホテルにまで押しかけて。
嫌がるこの人を、脅してなだめて機嫌とって、襲って乗っかって――身体を好きにされることへの苛立ちから、この綺麗な白い手が背を裂いてきても。
そんなことどうでも良いから、とにかく、この人が欲しくて欲しくて。
顔を見たくて、傍にいたくて、ひたすら、自分のものにしたくて。
初めて会った時に、魂が震えるほどの嫌悪と憎悪を感じたのだけれども。
今思えば、その時既に――この執着ははじまっていたんじゃないか、そう思う。
何せこの人は、殺し以外のことにてんで興味がない分だけ――可愛いぐらい、人が情で行動することに、弱いのだ。
情に脆いとかそんな意味とは正反対で。
計算ずくで動く人だから、銀次のような「衝動の塊」が起こす行動が予測できなくて。至極あっさり――意表をつかれてひっかかる。
「――何を謝るんです? キミが私に惚れようが腫れようが、私には関係ありませんよ」
生意気言ってんじゃありません、との恫喝を込めて背中がすぱりと切り裂かれる。
「……だと、いいね?」
脳天に突き抜ける痛みさえ喉の奥に閉じ込めて、逆さまにくちづけたまま、銀次は深く、舌を差し込んだ。
手を伸ばしてぱちん、とテーブルライトをつけると、そのスイッチに赤い指紋が残る。
赤屍は横たわったまま、その象牙細工の手を、静かに眼の前に掲げた。
どす黒く乾いた血糊が、こびりついた白い手。
いつものように、自分にのしかかったまま力尽きて熟睡している銀次の背に、ぺたり、と手を押し当てる。
もう一度、銀次の肩越しに掲げてみた手は、鮮血をべったりとこびりつかせていた。
若僧どころか小僧のくせに、熱っぽく、取りつかれたように自分を煽るその仕草が憎くて、いつもつい背中を裂いてしまう。
今のところ殺さずにすんでいるが、いつか、ついうっかり致命傷を与えてしまう日が来るのは明白だと思う。
だが、銀次がそれについて文句を言ったことはない。
――いつか死にますよ。せめて私をうつ伏せにするとか、手を拘束するとか、そのぐらいの用心はしたらどうなんですか? それでもやることはやれるでしょう。
自分がやったくせに他人事のように忠告すると、この少年は嬉しそうに、白い胸に頬をすりよせてきて笑ったものだ。
――でも、裂いたついでにしがみついてくれるでしょう、赤屍さん。オレ、それがすっごく嬉しくて。
ふ、と赫の瞳が翳る。
そうだ。
あの瞬間。
あの言葉を聞いた瞬間だ。
それこそ彼の放つ落雷のように、唐突に、衝撃的に――
――負けた、と、なぜか痛烈に赤屍は思ったのだ。
きっと世の中にはそういう勝負もあるのだろう。
殺し合うわけではないのに、己をがりがりと削り合い傷つけ合わずにはいられない、そんな闘いが。
それを何と呼ぶか、赤屍は知らないし、知りたいとも思わない。
ただ――その勝負の土俵に自分を引きずり上げるこの少年が、憎らしくて。
「起きなさいよ、銀次クン。起きて私の上からどきなさい」
息を詰めて声をこらえ、ぐい、と銀次を押し離す。
身体の上の重みと暖かさが、失われていく感覚に身震いし、そしてそんな自分に腹を立てて、八つ当たり――とも一概に言えない――に、銀次を床に突き落とした。
しあわせそうに、全裸で床に落とされてなお、眠る銀次に、ますます腹を立て。
眉毛を片方メスで剃り落とすと、やっと気がすんだらしくシーツをひきかぶり、赤屍もまた、眠りについた。
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