「わからない」
拗ねたような声を出す目の前の黒瞳を覗き込んで、十兵衛はふ、と溜息をついた。
「――誰にだってわかりはせんよ。あの切り裂き魔のどこが良いのか、など」
「あんな傷だらけにされて。ほとんど歯牙にもかけてないって素振りじゃないか、ジャッカルの方は。どうして銀次さんは、あんな人が良いんだろう?」
「……」
十兵衛は沈黙した。彼には、ジャッカルが銀次を「歯牙にもかけていない」とは思えなかった。むしろ、銀次の背中につけられたらしい無数の切り傷は、あの優美で惨酷な獣の、追いつめられた抵抗のように思えてならなかった。確たる理由はないにせよ。
「――十兵衛?」
声に一瞬の不安が混じったことに気づいて、顔を上げる。
「どうした、花月」
「いや……うんざりしたかな、と思って」
「――馬鹿な」
小さく、ほんのわずかに、笑いかけると、ほっとしたように花月も笑い返す。オレにそんな気を遣うな、と言っても無駄なのだろうな――と思うと、それは少し十兵衛には淋しかった。
「――『黒き胡蝶』なのかもな」
「え?」
唐突な話題転換にとまどいつつも、花月は歌を口に乗せる。
「もしかして……のろひ歌かきかさねたる反古とりて――黒き胡蝶をおさへぬるかな――っていう、あれ? 与謝野晶子の……」
「呪わしい想いを重ね綴った書き損じを手にとって、飛んできた黒い蝶をわたしは押さえたのです。――そう、それだ」
「それが、……なに?」
問われたが十兵衛は、しばし、言葉を選ぶような沈黙を保った。彼の性格を知る花月もまた、うながさずに言葉を待つ。
ややあって十兵衛は、ぽつり、ぽつり……とつぶやいた。
「書き連ねられた呪い歌に、惹かれて舞い込んだ美しく不吉な蝶が……誰も捕らえることのできなかった、ひらひらと身をかわす黒い胡蝶が。
呪い歌を武器に使われて、囚われて押さえられた……と」
「黒き胡蝶」が何を指すか、気づいたのだろう。花月は眉を寄せた。
「……晶子にとっては、黒き胡蝶は、自分の呪いや負の一面をかきたてる存在でしかなかったんだ。だから押さえた――殺した」
過去の負の感情である「呪い歌」――雷帝に、惹かれる美しい魔性を。
窓からふらふらと舞い込んだなら、雷帝の怒れる力もて殺してしまえと。
そう言いきる花月に、ややふしめがちに苦笑して十兵衛は首を振る。
「銀次さんは、黒き胡蝶を殺したいんじゃない。黒き胡蝶がほしいんだよ、花月……
だから、呪わしい過去に引き寄せられた胡蝶を、その過去を餌に縛って、捕らえて――」
雷帝をちらつかせ。いつかそれを殺し合うことを夢見る死神に、己への攻撃をためらわせて。
傷つけられても殺されかけても、決してその手を離すことなく。
「――いつかは――」
「……きっと、黒き胡蝶は、呪わしい想いを叩きつけられて、つぶれて死んでしまうんだろうが……」
「早く死ねばいい」
根本的に健やかな人格を持つ花月が、それでも、くるしげに眉をひそめてまで、敢えて、そう吐き捨てる。
「……そうだな」
そうすればあの人形のような死神も、楽になれるだろうに、と、花月とは正反対のことを考えて同意しながら。
――オレも、所詮は同じ穴のムジナか。
光を失った自分を、捨て置けずこうして、無限城の内外で会ってくれる花月。
それは即ち、おのれが光を失ったという事実を、花月を縛りつけるだしにしているに過ぎない。
「……かわいそうに」
あの憐れな死神に投げた言葉を、もう一度、今度は花月に向けて囁く。
「え? ……なにか言った?」
「いや。気にするな」
傷の痛みに耐えつづける、あの優しく惨酷な雷帝が。
いつか、こうして想い人と静かに語る日を迎えることができれば良いと――願いつつ。
十兵衛は黙って、手探りに花月の髪を捕らえると万感の愛しさを込め、優しく握り締めた。
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