Scene 1------Sなる死神とふたりの忠臣




「ドクタージャッカル」


声をかけられて振り返った黒衣の死神が見たものは、思いつめたように、じっと視線を自分に据えた青年であった。
「――なんでしょう、花月クン」
漂う緊張感には気づかぬ振りをして、ものやわらかく尋ねる。
「銀次さんのことで――お話が」
「どうぞ?」
隣の席を勧めると、くるん、とスツールを回して放胆に背を向ける。
「何か飲みますか?」
「いいえ」
「マスターに嫌われますよ? ここはHonkyTonkではないのだから」
「すぐ、すみますから」
良家の子息らしく慇懃ではあるが、話を手短にすませたいという感情は見え見えである。隠そうともしていない。
いつものことではあるが、あまりよい感情は持たれていないようだ。まぁどうでも良いことですがね、と、さほど興味もなく心の中で肩をすくめるにとどめ、赤屍はそれ以上席を勧めることなく、自分のグラスを傾けた。
「それで、お話とは?」
花月はすぐには答えず、黙々とグラスを磨くバーテンに、ちらりと視線を向ける。振り返らぬまま、黒衣の死神はもの静かに指摘した。
「あまり人の眼を気にするのはどうかと思いますが」
「――……わかりました。お話します」
「どうぞ」
背後を取られてなお興味なさげに、グラス――ストレートのドライジンだが、花月が知るはずもない――を傾ける赤屍の、そのほっそりした背に花月は言葉を投げつけた。


「銀次さんとどういうおつきあいをしているかは知りませんが、あの人を傷つけるのはやめてください」


「――」
覗き込んだグラスの中にわずかに映る赤い色彩――己の瞳にひっそりと笑いかけ、その色の名を持つ魔性は答えない。
「先日偶然、銀次さんが着替えているところに出くわしたのですが」
「……それで?」
「深い切り傷で背中がずたずたでした。――あなたのメスだ」
グラスを覗きこみ、しばらく自分の瞳の色が淡く踊るのを楽しんでいた彼は、飽きたのか、ことん、とグラスをカウンターに置いて、ゆっくりとスツールを回した。
やや斜に向かい合い、含み笑うと面白そうに、黒目がちの綺麗な瞳を見つめる。
「たしかに私のメスですが。――それが、なにか?」
「やめてください」
「は?」
「あの人をこれ以上、傷つけないでください」
「――キミにはたしか恋人がいたはずですが?」
暗に、「銀次クンに惚れてるんですか?」という揶揄を込めた、薄く紅い唇に、しかし、花月は動じない。
「十兵衛とはそんな関係じゃない。もしそうだったとしても関係ない。僕にとってあの人は特別だから。――傷つける者は許さない」
私は十兵衛クンとやらを名指ししたつもりはありませんがね――とは、口の中でつぶやくにとどめ。口に出しては黒衣の死神はこう言った。
「忠臣を持ったことだ、銀次クンも。――キミもね」


「……?」
細く尖った顎が指した先を振り返り、潤んで見えるほどの光沢を持つ黒の瞳は、驚きに見開かれた。
「――十兵衛?」
「花月」
名を呼ぶ穏やかな低声の語尾に、溜息が混じる。閉ざされたままの目蓋の上、眉がたしなめるようにひそめられた。
「……銀次さんは外だ。おまえが先に来ているだろうと言うから、ついてきた」
今日このバーで想い人と待ち合わせていると、銀次に聞いて、花月は先回りしたのだ。
ここに来ることはばれてはいるだろうが、まさか十兵衛が追ってくるとは思わなかっただけに、花月の頬に、言いようのない羞恥が朱をのぼらせる。
「――人の恋路にまで、口を挟むな。悪い癖だぞ」
「わかってるよ」
ふい、と顔を背け。「クス」と例の耳障りな笑声をたてた男を見ることなく、一歩踏み出す。
愛しい主君が先に通るのを待って、その斜め後ろを護るようについて歩き出したサムライは、ふと、足を止めた。
「ドクタージャッカル」
盲目のゆえか、振り返ることなく声をかけ。
「なんでしょう?」
向けられた完璧な微笑に眉一つ動かさずに。


「……気の毒に」


その一言にふ、と凍った微笑を見届けることなく、そして見ることかなわず。十兵衛は遅れた分だけ歩を早め、鈴の音を追ってドアの向こうに消えた。


「あ……カヅッちゃん、」
外で手持ちぶさたに佇んでいた銀次が、ぱっ、と振り返って困ったように笑う。
「――すみません銀次さん」
「ううん、心配してくれてありがと」
うつむいてしまった花月に、安心させるように笑いかけ、
「でも、悪いのはオレだから、これ以上赤屍さんに色々言うのは、だめだよ?」
きまり悪そうに、「ね?」と首を傾げた銀次に、顔を上げ、唇を噛む。
「……どうして彼を……そんなにかばうんですか?」
「かばってるとかじゃなくてさ」
ほんとにね、オレが悪いの。
あっけらかん、とそう言う銀次に、なお納得いかず、花月は声を高めようとした。
その手にそ、と、皮の指なし手袋をはめた手が置かれる。
「花月」
「黙ってて」
「――聞き分けろ。おまえが一番銀次さんを困らせてるぞ」
「十兵衛は、銀次さんの背中を見てないからそんなことが言えるんだ」
「あのね、カヅッちゃん」
じぃ、と同じ高さにある瞳を覗き込んで、銀次はにこ、と笑う。
「カヅッちゃんだって、いつかはそういう傷を、十兵衛につけることになるんだよ」
「……どういう、ことですか?」
「銀次さん――」
はじめて焦りの含まれた十兵衛の声に、いたずらっぽく笑い返し。
「後は十兵衛が説明してね。オレ、これ以上赤屍さん待たせてたら、もう二度と逢ってもらえなくなっちゃうし」


まさしくうきうきと扉の向こうに消えた銀次を、茫然と見送った花月が、茫然とした顔のまま十兵衛を見上げる。
「――まさか……『そういう』傷なのか? アレが? あのすっごい切り傷が!? ひっかき傷なんていうレベルのものじゃなかったって!」
「たぶんな」
つけるか? と、昼食のメニューを尋ねるかのような声で問われ、花月は青ざめて首を振った。
「オレはつけてもらって一向に構わんがね」
「ば――ばかを言うな! なんで僕が十兵衛とそんなことっ」
「すまない、冗談だ」
「……そんなすぐに謝るなんて、卑怯だ」
「すま――いや。気をつけよう」
とりあえず、言葉の意味は理解してもらえたらしい。房事の意味も知らなかった頃に比べれば大した進歩だ。恋仲にもなれぬ自分の不甲斐なさを嘆くのは後にして、とりあえずその一事を以って瞑すべし――そう十兵衛は心の中で納得すると、花月をうながして歩き出した。