ただしい飼い主のしつけ方――1



薄暗い部屋の一室で、裸の女を前に据えて。絵師はくわえ煙草で絵筆を走らせていた。
不意に、画架にぶらさげた携帯が、ベートーヴェンの「月光」を遠慮がちに奏ではじめる。
「休憩しなァ」
女に毛布を放ってやると、携帯の画面にちらりと目を走らせ。
「おまえさんかィ。絵のモデルにでもなッてくれンすてェお話なら、嬉しいンだがねェ」
漏れ聞こえる声は、ものやわらかなテノール。服と毛布を羽織りながら、女が興味の視線を向ける。
「――ふゥン? そいつァひでェこッたねェ。おめェサンみたいな美人をさァ」
相槌を打ちながら聞いてやっているその口調からすると、どうやら相手は愚痴を言いたくて電話をかけて来たようである。
「よしよし、わかったよゥ。あたしが一肌脱いでやッサ。そのかぁり――モデルの件、わかっちゃァいますね?」


この小さな物語の発端は、そんな、一件の電話から始まっていたのだった。


億劫げに肩を回すと、ごきり、と痛そうな音が鳴って馬車は溜息をついた。トラックの運転は慣れているつもりだが、それでも、これだけ続くとさすがに肩が凝る。
だが気が重いのは肩の重さのせいだけではない。
――まぁた拗ねよるだろうなぁ、あいつは。
最近の馬車の悩みの種は、気まぐれに家に住みついた、一匹の黒猫――ならぬ、一匹(?)の死神のことであった。
猫より図体がでかく知能が高い分、始末におえないあの死神は、近頃、馬車が忙しさにかまけてかまってくれないことに、いたくご不興のご様子なのである。
夕飯が手抜きだったり、浴槽が洗ってなかったり、話しかけても生返事しかしてくれなかったりテレビを一緒に見てくれなかったり。そんな、裏業界の人間が聞けば度肝を抜かれるような阿呆くさい理由で、彼はほとんど殺気を放つほどに不機嫌におなりあそばしているのであった。
……泣く子も黙るどころかひきつけを起こして呼吸困難に陥るであろう、ドクター・ジャッカルさまが。
――勘弁してくれぃ。
こっちは連日連夜、大型長距離の依頼で西へ東へ振り回され。家に帰れば寝台に倒れて泥のように眠れると、それだけを希望に帰ってくるというのに、帰ってくれば帰ってきたで、でかい黒猫のかまって攻撃にさらされるなど。
いっそ仕事に連れて行きたいぐらいなのだが、あっちはあっちで、小型近距離ながら危険度抜群の仕事をぽつりぽつりと受けているらしく。
帰って見れば風呂場が洗い落とした返り血で真赤だった――などという、そりゃもう他人が聞いただけで疲労するような、そんな事態を招いているのだから。


だからと言って家に帰らないわけにはいかない。ホテルにでも退散しろ、と言う人間もいよう。だが、自分がいない間にこの家と死神がどうなってしまうかと思うと、貧乏性というか、世話好きというか、これほど疲れても帰って来ずにはいられないのだ、馬車は。
もう一度深深と溜息をついて。
「――今ぁ、帰ったき」
ぼそ、とつぶやいてドアを開け、
「ああ、おかえりなさい、馬車」
の返答に――その場に立ち尽くした。


「……どうしました?」
不思議そうに覗き込んでくる赤屍に、別段、常と変わった様子はない。――その服装以外は。
「……おまえ、」
「はい?」
「そんな服、持っとったか?」
本来なら、そんな、驚くほどの服装ではない。ただ、普段と色が違うだけだ。
「ああ、買ってもらったんです」
気のせいかかなり上機嫌な赤屍は、似合いますか、などと冗談めいた口調でくるりと背を向けてみせた。
「……あ……ああ」
袖をまくりあげたデニムシャツも、棒のような細い細いスリムジーンズも。似合っている。確かに似合ってはいるが。
色が――白いのだ。
そしてその髪型。いい加減に伸ばした黒髪を、ほつれる横や前髪をほつれるままに、くくれる後ろ髪だけ、白い細身のリボンでしばっている。
「……どういう風の吹き回しじゃ、尻尾までつくって」
「尻尾ですか。おもしろい言い草ですね」
「それもその……」
「してもらいました」
「……誰に」
発した声は不必要に不機嫌だったのかもしれない。きょとん、と振り返った赤屍は、ややあって「ああ、」と納得したようにその赫の瞳を細めた。
「今日もどうせ疲れているんでしょう。話は明日で良いのではありませんか」
「――別に――さほども疲れとりゃせんが」
「声が低くなっていますよ。無理にかまおうとしなくていいですから、さっさと寝なさい」
あっさりと――至極あっさりと。
赤屍はもう一度背を向けて、すべるような綺麗な足取りで、居間へと消えていった。