「――わかった。……わかったよ。花月」
「十兵衛、」
「ただし」
花月の礼の言葉を押し留めるために挙げられた手に、白銀の飛針が挟み持たれている。
「一昼夜。それが限度だ。明日のこの時間、お前の姿がこの部屋になく、加えて何の連絡もなかった場合」
ゆっくりと、飛針が十兵衛の左胸に滑り込むのを見て、花月が蒼ざめて立ち上がりかける。
「動くな!」
息だけの囁きで叱咤し、十兵衛は飛針をすべて、服越しに身に収めると瞳を閉じた。
しばし呼吸を整え、ゆっくりと気を吐く。
「……わかるな、花月」
「十兵衛、やめて」
「おまえが戻ってこなかったら。オレは速やかにこの飛針を、溜めた気で折るだろう。折れた飛針は当然、今は避けているこの心臓を――」
「十兵衛!」
「――別に驚くことでもないだろう。どのみち、」
黒曜石のさざなみが大きく揺れ、不安と激情に水滴がぽろぽろ転がり落ちるのを見て、ごく当たり前のように顔を近づけ、す、と目尻を吸ってやる。
怯えるようにすくめられた肩に、もう一度やわらかく手を置いて。目尻に唇を寄せたまま、
「――おまえが喪われれば、どのみちオレは生きてはいないのだから――」
囁くと、一拍の間を置いて、ぎゅっとつぶられた瞼の縁からいっそう涙が零れ落ちていった。
「……どうして君は、いつもいつもそうやって……」
ベッドからずるずる、と腰を落として床に座りこんだ花月は、はたはたとジーンズの膝に雫を落としながら、大きく目をみはって抗議するように十兵衛を見上げる。
「すまん」
「卑怯だ」
「わかってる」
琴絃に妙の音と鋼の強さとを与える指先が、震えて十兵衛の左胸に置かれた。
涙声のせいで幼く舌足らずに聞こえる言葉。
「抱き着いたら……中で刺さったりする?」
「……フ」
思わず苦笑すると、その苦笑と同時に抱き寄せ、きつく抱きしめる。
おずおずと手を背に回す花月に、「力いっぱい締めたとて、刺さりやせんよ」と背を叩いてやった。
途端、息が詰まるほどの力で抱きしめ返される。
「……戻ってくるから」
「ああ」
「必ず、戻って――くる、から」
「わかってる」
「だから、死なないで」
「……大丈夫だ」
絹糸の黒髪に頬を埋める。海原で溺れる子がしがみつくように、抱きついてくる花月。本当は、「後は任せろ」と笑って送り出してやるべきなのだろう。こんなことを口に出して、一層の不安を与えるべきではないのだろう。引き留めることができないのなら。
けれど、
「……心配するな、オレだって別に死にたいわけじゃない」
「……うん」
「どんなに無様ななりを晒しても良い。無事に戻れ。命を惜しめ」
「うん……うん」
「おまえなら……きっと大丈夫だから」
教えに生き意地に死ぬ生き方は、花月には似合わない。
この命そのもので、がんじがらめに縛りつけてでも、生き延びていてほしいから。
針を呑みなお健やかに打たれる鼓動に聞き入り、じっと、しがみつく花月の。その髪を背を、時を忘れて撫でつづけながら、
――このまま花月が、泣きつかれて眠ってしまえばいい。
起きた時には、『上』のことなどすべて忘れてしまっていればいい――
言葉には決して出さぬまま。
十兵衛はそう、頑なに祈りつづけた。
Fin