「こんなところで寝たらいけませんよ、銀次クン」
ふっ、と顔を上げると、目の前に、真紅の瞳があった。新宿の宝石店のショーウィンドウで、一番大きなルビーのような、幼く澄んだ、大きな瞳であった。
「……んぁ?」
状況が飲み込めず、ぼんやり見返す。
「ちょうどよかった、さがしていたんです」
ルビーの持ち主はためらう様子もなく、銀次の隣に座って、ショートパンツからすらりと伸びた膝を抱えた。
「……捜してたって……オレを?」
「はい」
「どうして?」
「どうしてって……いっしょに遊んでほしかったからですよ」
幼い瞳を、「そんなこともわからないなんて何て鈍い男だろう」と言いたげに、非難でいっぱいにして見上げたその視線を見た瞬間。
まさしく、彼の操る雷鳴のように、銀次の脳裏にひとつの名前がひらめいた。
ぽつり、つぶやく。
「……赤屍さん」
「はい?」
不思議そうに、そして当たり前のように――目の前の童子は、返事をした。
「ねえ銀次クン」
茫然と黙ったままの銀次の腕に、童子は小さくもやわい両手を添えて、我侭な仕草で揺さぶる。
「……な……なに?」
「読んで下さい」
押しつけられた本を、ほとんど無意識のうちに受け取りながら、改めて目の前の童子を見つめる。
古き良き時代の西欧の、良家の子息のような――銀次に言わせれば「ひらひらした服」の一言で終わってしまうような――身奇麗な格好。肩をわずかに越す髪を、ひとつのおさげにしているのが非常に愛らしい。何より、ひんやりと冷たそうな、まさしく大理石のような白さの――脚。ショートパンツから伸びた……そう。いわゆる「ナマアシ」。
「……あの……赤屍……さん」
「何ですか?」
体育座りをして、すっかりお話を聞く体勢の童子は、やはり、当然のように返事をする。
「なんで、そんな、」
「何がですか?」
「……何がって……あれ?」
頭の中が、夢の中のように頼りない。何か違和感を感じているのに、それを指摘することができないのだ。
「おなかでもすきましたか?」
ポケットをごそごそ探っていたかと思うと、童子は「はい、どうぞ」と、キスチョコをぱらぱら手に落としてくれた。
「……あ、うん……ありがとう」
「食べないんですか?」
淡く紅い珊瑚色の唇が、への字に曲がったのを見て慌てて銀紙を剥く。
「た、食べるよ、ほら」
口に放り込むと、まぎれもないチョコレートの甘さが広がった。
これは現実だ。目の前には「赤屍さん」もいる。「いつものように」遊んでくれとせがんできて、本を読んでやると、お礼のつもりかポケットの菓子を得意げに分けてくれる、そんな、愛らしい彼の童子。
「なら、読んで下さい」
「え?」
「本ですよ。銀次クン今日はどうしたんですか?」
「ご……ごめんね。なんだかオレ、疲れてるみたいで……頭がぼんやりして」
違和感の正体が掴めぬままに、とにかく、機嫌を直してもらおうと頭を下げる。
「疲れているのですか、なら仕方がありませんね」
あっさりと納得した童子は、本を銀次から取り上げ、自分の膝の上でぱらぱらと開いた。
「赤屍……さん?」
「今日は、私が読んであげましょう」
いとも気軽に、床に座った銀次の膝の上に、自分も座る。
「あ、赤屍さん」
「だめですよ、おとなしくしてないと」
膝の上のやわらかい重みに驚いて、とっさに腰のあたりに手を回して抱き支えた。膝の上での抱っこに機嫌を良くしたか、にっこりと笑いかけてから、童子は本に視線を落とす。
「昨日はここまで読んでもらいましたから、今日はつづきですよ」
「うん……」
「『「なにがしあわせかわからないです。ほんとうにどんなつらいことでもそれがただしいみちを進む中でのできごとなら峠(とうげ)の上りも下りもみんなほんとうの幸福に近づく一あしずつですから。」』」
童子は幼い声をやわらかく張り上げて、ややたどたどしく、朗読を始めた。
がらくたの城の、光が弱々しく射し込む一室で。膝に愛しい童子を抱いて、その幼い声を聞いている。口の中には、先程のチョコレートの甘さが残っていて。何となく手を置いた白く細い膝の冷たさに、ベストを脱いでかけてやると、やはり寒かったのだろうか、脚を引っ込めてベストの中で縮こまる。朗読の声がやむ。
時間が止まったかのような、しあわせなその時間。昨日もそうだったし、明日もそうであろう、けれど、永遠に退屈することのない、優しさに満ちたかなしい時間。
「……そろそろ、代わろうか?」
朗読に疲れたのだろうかと、声をかけてみると、うつむいたまま童子はふるふると、その小さな頭を振った。
「どうしたの?」
「ねぇ、銀次クン」
「なぁに?」
「嘘のしあわせってあるんですか?」
「……え?」
「『ほんとうのさいわいは一体何だろう』って。……しあわせだったら、本当でも嘘でもいいと思いませんか?」
銀次の膝の上で、自分の膝を抱え。童子は小さく唇を噛んだ。
「赤屍、さん」
「うそのしあわせは――」
言いかけて童子は声を飲む。
何かものいいたげに、それでも落とされたままの視線。
ひろげられたままの本の文面は、頭の悪い銀次でも読めるように、びっしりとルビが振られている子供用の童話。
優しい――暖かいこの部屋の、すべては自分の為にあるもので。
でも――
「……ほんとうのしあわせは、」
そっと黒絹の髪を撫でてやり、
「出会ってしまったら――それ以外のものをほんとうと、思えなくなってしまうんだよ、きっと」
そっと膝から降ろしてやり、
「そうだね、……それこそ、『ほんとうのたった一人の神さま』のように――」
「銀次クン……!」
立ち上がった――銀次を。細く脆い童子は、その大きな真紅の瞳いっぱいに怒りを浮かべて見上げる。
「ごめんね、赤屍さん」
「私が――私が、」
ばん、と音を立てて本を放り出し、だが、童子は立ち上がらない。
ただ怒りに震える幼い声が、
「私が、にせものだから――ほんもののところに行くのですね!?」
立ち上がっても共に行けぬことを知るかのように、絶望に震えた。
「……赤屍さんは、赤屍さんだよ」
「うそですっ」
「うそじゃない。キミは赤屍さんだよ。ほんとうもうそもない。
……けど、」
――カムパネルラ、また僕たち二人きりになったねえ、どこまでもどこまでも一緒に行こう。
僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない――
「『オレの』ほんとうは――たぶん、きっと、ここにはないんだ……」
傷つくだけの毎日もあった。
生死の境をさまよった夜もあった。
けれども隣には意地っ張りで意地悪で意固地な相棒がいて。
そして、決して心の通うことのない黒衣の麗人は、彼より10cmの高みから、見下ろして彼を冷笑する。
その「未来」だけを得る為に。
それだけが「本当」と知るがゆえに。
このがらくたの城を出て――彼はひとつの過去を捨てたのだ。
「こんなところで寝たらいけませんよ、銀次クン」
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