1.正しい黒猫の寝かせ方



実に何年ぶりかに仕事に失敗した朝、痛む体を引きずって帰ってみれば、自宅にはでかい黒猫が一匹住みついていた。


「遅かったですね、馬車」
泥のように眠ってやろうと開けた寝室のベッドには、長長と気持ち良さそうに体を伸ばしているしなやかな痩身があって。
しばらく沈黙したままの馬車を不思議そうに、ごろーんごろーん、と寝返りを打ちつつその赤い瞳で眺めていたりする。
視線を転じて、床から点々とバスルームに続いている血の染みを、改めて眺め。バスルームから寝室まで点々と続く水の染みを眺めた。
ろくに体も拭かずに他人の部屋着を着込んでぬくまっている姿は、実に快適そうだ。
「馬車? ねぇ、馬車? 聞いているんですか?」
「……」
「朝食にはちょっと遅いですね。昼食は何にされるおつもりで?」
しかも飯まで食う気満々である。もちろん、自分で作るつもりは毛頭ない。
「……場所あけぇ。とりあえず寝る」
「食事抜きですか? また体に悪いことを――」
いっそこいつを食ってやろうか、と思いながら、馬車は不満気に毛布にくるまる体を、毛布ごとごろりと転がして地面に落とす。そして悠然とベッドを取り返して自分が寝転がった。
床にやわらかく両手両脚で着地した人型の黒猫は、すでに背を向けて熟睡体勢に入っている馬車に柳眉を逆立てた。
「痛いじゃないですか」
「俺のベッドに断りもなく寝とる方がいけん」
「だからと言って落とすことはないでしょう」
「……がぁがぁ言いな。落とさん限りおまえは降りんきに」
キングサイズとは言えシングルベッドだ。180cmを明らかに超える男性ふたりが寝られたものではない。
「もっとつめなさいよ。私だって寝るんですから」
巌のようにベッドに居座って動かない馬車を、細い両腕には意外な力でぐいぐい押しのけようとする。よほどベッドで寝たいのだろう。
「――だからな。なしてここで寝ゆうか」
「ソファよりベッドの方が寝心地がいいじゃないですか」
「んなこたぁわかっとる。――なして俺の家で寝るかえな」
「お金がないんですよ、私は」
「……?」
「まさか、レディ・ポイズンやミスター・ノーブレーキとご一緒する仕事に、失敗するとは思わなかったものですから。赤字なんです」
うらめしげに視線を投げられ、それはおまえが途中で仕事をすっぽかしたからだろう、と内心溜息をつく。
そういえば、馬車と違って身ひとつが商売道具のすべてであるこの「ドクター・ジャッカル」は、本拠地を持つデメリットを嫌い、ホテル住まいを続けている。そのホテルに泊まる余裕もなくなるまで、財布が逼迫したか――
そこまで切迫してはいまいな、と馬車は背中を押されながら肩をすくめた。どうせ、懐具合が淋しくなってきたなぁ、あ、馬車の家なら宿泊費も無料だ、ぐらいの思いつきでここに帰ってきたに違いない。
「馬車!」
「もうちいくと上じゃ」
「誰が指圧していると言いましたか」
「腹の上でなら寝てもかまわんが」
「そうします」
「――本気か?」
起き上がりかけたところに、目にも留まらぬ早業で馬乗りになられてさすがの馬車も一瞬固まった。
目の前に、普段なら血臭を漂わせているはずの端正な白皙が、まじまじと、自分を覗き込んでいる。ご丁寧に石鹸の香りつきだ。
「どうしました?」
「――いや……」
「大丈夫。あなたを殺しても、私には何のメリットもありませんから」
「――誰もそんな心配はしとらん」
どこまでも男心に――というか、そもそも感情の機微そのものに――疎い、膝の上の殺戮人形に、今日何度目かわからぬ溜息をついて、ぐいと抱き寄せ、場所を空けてやる。
「やっぱり狭いですねぇ。今度ダブルベッド買いませんか」
「――本格的に住み着くつもりかよ……」
それ以前にツインベッドにすべきだろう、と誰も突っ込むものがないままに、裏世界を代表する運び屋ふたりは、ひしめきあって、それでもなんとか眠りについた。