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乳首米。
全員がイタリア人のようですから、さぞかし、あちこちでカンタービレが聴こえてくるのだろうと思って聴き始めたら、予想に反してとてもかっちりしたアンサンブルだったのにはちょっと驚きました。とは言っても、個人のスタンドプレーこそありませんが、その緊密なアンサンブル自体が、すでにその中に「歌心」を秘めているようでした。 基本的なスタンスは、サクサクとしたキレの良い音楽の進め方でした。そして、それぞれのパート間のバランスが絶妙でしたね。同じテーマをやり取りするようなところでも、そのテイストが見事に合致しています。 かと思うと、ずっと陰の存在で表には出てこなかったホルンが、いきなり存在を主張し始めたりして、やはり彼らは「出たがり屋」の集団なのだな、と思ったりします。 それと、やはり最低音はコントラバスにしたのは正解ですね。特に、ピチカートによるグルーヴは、コントラファゴットではちょっと難しいだろうな、と思ってしまいます。 このセレナードは、モーツァルトの作品の中でもかなり有名ですが、実際に何のためにいつ作られたのかは、はっきりしていないそうですね。以前は1780年から1781年の間にミュンヘンで作られた、と言われていましたが、最新の研究では、どうやら1783年から1784年ごろにかけてウィーンで作られた、という説が最も支持されているのだそうです。 この曲は7つの楽章で出来ていますが、その6番目の楽章では、主題の後に6つの変奏が演奏されるという変奏曲の形をとっています。そして、それは、ハ長調のフルート四重奏曲の第2楽章とほぼ同じものなのだ、というのは有名な話です。そして、それはどちらが先に作られていたのか、という議論も、長年続いているようです。それが、今までは最初にセレナードが出来ていたという説が優勢だったのですが、最近の研究ではどうやらフルート四重奏曲は1781年頃に出来ていたようなので、その逆の場合の可能性が強くなっているようですね。 私見ですが、そのような年代的な考察の他に、曲そのものの細かい相違も、判断の材料になるはずです。このフルート四重奏曲は実際に演奏したこともあるのですが、今回のアルバムを聴いていると、その第3変奏の中に、全く吹いたことのないフレーズの部分があることに気づきました。そこで、双方の楽譜を詳しく比較してみると、フルート四重奏では、前半の8小節と後半の12小節にそれぞれリピートの指示があって、その通りに演奏すると全部で40小節になります。ところが、セレナードの場合は、その繰り返しがありません。そして、9小節目から、全く新しい音楽が20小節挿入され、その後に後半の12小節となっているのです。ですから、こちらも全部演奏するのは40小節となり、時間的には全く同じ長さになっています。 ただ、この挿入された部分が、ソロの楽器も伴奏の楽器も、とても細かい音符で書いてあって、技巧的にかなり難しいものになっているのです。このセレナードは、アントン・シュタドラーのクラリネットを想定して作られたという説もあるそうですから、そんな名手のためにこの部分を加えたのだ、ということもありうるのではないでしょうか。 たしかに、その部分のクラリネットは、まさに超絶技巧のテクニックで、とても煌びやかでゴージャスな演奏を披露していましたね。 ですから、見方を変えれば、こんなフレーズをフルートと弦楽器で演奏するのはとても無理だと思って、先に出来ていたセレナードの難しい部分をカットしてフルート四重奏にしたのだ、という逆の発想も成り立つのかもしれませんね。 結局、「真相」なんて、もう誰も知ることは出来ないのでしょうね。 CD Artwork © Brilliant Classics |
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その時に驚いたのが、歌っていた「ウィンズバッハ少年合唱団」という少年合唱団のレベルがあまりにも高かったことでした。まるでコンピューター(それは「ウィンドウズ」)。その合唱団は、1946年にハンス・タムという人が創設したものですが、1978年に、このカール=フリードリヒ・ベリンガーが音楽監督に就任すると、そのレベルが飛躍的に向上することになりました。 そして、彼らは、世界的な指揮者やオーケストラとの共演の機会も増えて、さらには全世界へのツアーなども行うようになったのです。なんでも、合唱団員は広大な敷地の中に立つ寮で生活していて、音楽だけではなく、一般科目の教育も受けているのだそうですね。日本人のメンバーもいるそうですよ。 ですから、日本にも来ていたようですね。それこそ、「ウィーン少年合唱団」みたいなノリで、名曲集のようなアルバムも出していたようですが、このようにモーツァルトやバッハのきちんとした作品も数多く録音しています。 ですから、この「レクイエム」では、この後も別の録音がされたりしているのでしょう。 そして、今回のアルバムを聴いてみると、彼らの声は、その頃からしっかり完成されていたことが分かって、とても安心しています。少年合唱にありがちないい加減なところが全くない、素晴らしい声と表現力でした。例えば、それこそバッハの時代からの伝統を持っているはずのライプツィヒの聖トマス教会の合唱団の凋落ぶりを見ているので、その思いはひとしおです。 2008年盤でのオーケストラは、ベルリン・ドイツ交響楽団でしたが、今回は、当時はおそらくこの合唱団とは一緒に活動を行っていたであろう、「ミュンヘン・バッハ・ソロイスツ」という団体です。もちろん、カール・リヒターの「ミュンヘン・バッハ管弦楽団」とは異なりますが、演奏は確かです。さらに、普通はまず名前が明らかにされることはないトロンボーンのソリストまではしっかりクレジットされています。確かに「Tuba mirum」でのこの方のソロは、ちょっと他では聴けないほどの素晴らしいものでしたね。 そして、ベリンガーの指揮も、この20年の間にはかなり変わっていることが分かります。こちらの方が、全体的に遅めのテンポ、曲によっては、4分から5分ほどの曲で1分ぐらい演奏時間が長いというほどの大きな変化が見られます。つまり、年を取るほどテンポが速くなる、という珍しい現象が起きているのですね。 有名な「Lacrimosa」も、2008年では3分6秒だったものが、この1988年のものは4分6秒という遅いテンポです。ですから、冒頭の弦楽器からは、すすり泣くような情感が伝わってきますね。これは、年齢というよりは、世の中全体の趣味の変化が反映された結果なのではないでしょうかね。 「Benedictus」のような、ソリストだけの曲だと、やはりそれぞれの歌手の趣味が変わって速くなっていたのでしょうね。今回のソリストたちは、とても素晴らしい声ですが、やはりちょっとまだ「臭い」歌い方が残っていたのでしょうか。 どうでもいいことですが、最後の「Communio」の後半のフーガ、音楽的には「Kyrie」と同じものですが、そのテキストの「Cum sanctis tuis aeternum」の2つ目の単語は、普通は「サンクティス」と発音されていますが、ここではいずれの録音でも「ザンクティス」と発音されていますね。「Sanctus」は「サンクトゥス」なのに そして、この曲の最後は、2008年では、オーケストラはディミヌエンドをかけていくのに、合唱はそのまま伸ばし続けるという衝撃的なエンディングでしたが、1988年の頃は、まだ、普通に伸ばしたままで終わるというノーマルな形でした。 CD Artwork © Bayer Records |
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ということで、同じWARNERと言っても、EMIに起源をもつアルバムですから、今回の指揮者、ラハフ・シャニも、過去の歴史をたどればカラヤンやクレンペラーといった大指揮者の流れをくむレーベルからアルバムを出している、ということなのですよ。 イスラエルのテルアビブで1989年に生まれたシャニは、テルアビブの音楽学校で学んだ後、ドイツに渡り、ハンス・アイスラー音楽大学ベルリンで、指揮者、そしてピアニストになるべく教育を受けます。 卒業後は、2010年にイスラエル・フィルで、ズビン・メータの副指揮者となり、2018年にはロッテルダム・フィルの首席指揮者、2020年にはイスラエル・フィルの音楽監督に就任します。さらに、現在はゲルギエフがロシアのウクライナ略奪のためにクビになって空席となっているミュンヘン・フィルの首席指揮者にも、2026年に就任することが決定しています。 もちろん、ピアニストとしてもしっかり活躍していますよ。 シャニとロッテルダム・フィルがWARNERからリリースしたアルバムは、ブルックナーの「7番」、ヴァイルの「2番」とショスタコーヴィチの「5番」、ベートーヴェンの「7番」と「ピアノ協奏曲4番」、ブルックナーの「5番」と、すでに4枚ほどあります。今回はちょっとタイプの違うメンデルスゾーンの交響曲です。 ただ、その演奏はかなりガッチリとしているような印象を与えられました。テンポも決して速くはなく、とても丁寧な歩みなのですが、そこでは表情は豊かなのに、決してはめを外さないぞ、というような、インテンポでの表現が目立っていたようです。 少し軽めの第2楽章でも、演奏自体はそれほど浮かれているようなところはありません。管楽器のソロが頻繁に出てきますが、ちょっと抑圧されているような感じがありましたね。 第3楽章も、決して大げさに歌い上げるとことのない、がっちりした作り方、そして、終楽章も、あくまでテンポは重たく、結局なにか発散しきれていないような思いが残りましたね。 でも、その次の序曲「静かな海と楽しい航海」になった途端、そのような重たさはすっぱり消えていました。そもそも、この曲は、作り方もかなりミエミエのところがあって、後半の「楽しい航海」という部分は、恥ずかしくなるほどの解放感を見せていますから、もしかしたら、そのようなある意味「通俗性」を逆手に取っていたのかもしれませんね。 その後には、なんと、ピアノ・ソロのための曲集「無言歌」から3曲、シャニ自身がオーケストラのために編曲したものが演奏されていました。これが、思いがけなく聴きごたえのあるものでしたよ。 まずは、そのオーケストレーションが、確実に現代の大オーケストラのためになされている、という点です。つまり、メンデルスゾーンが編曲をしたとしたら、絶対にこんな風にはならないだろう、という作られ方なのですよ。まずは、テーマを演奏する楽器が、かなり多くのパートで重ねられています。それが、フレーズの途中で楽器が変わって行ったりするので、もう、オーケストラ全体でそのサウンドが出来上がっているという、まるでワーグナーのようなオーケストレーションなんですよ。 その上で、それぞれの曲のキャラクターも、何となくタイトルからは大きく離れていくようなことをやっているのですね。「失われた幸福」では、寂しさよりはすがすがしさが勝っていますし、逆に「ベネチアの舟唄」では、暗い雰囲気が満載、という具合です。シャニさんは、こういう路線で進んでいった方が、面白いのかもしれませんね。まあ、遮二無二やってくださいよ。 CD Artwork © Parlophone Records Limited |
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コロンがこのオーケストラの首席指揮者に就任してから4年、ONDINEレーベルでのデビューアルバムが先ほどの2021年に録音されたシベリウスの「7番」でしたが、それ以降はなかなか渋い曲目が録音されていました。2021年にはアデスとヴェンナコスキ、2022年にはルトスワフスキとバツェヴィッチ、2023年にはタルキアイネン、2024年にはリンドベリという、中には名前も知らないような(バツェヴィッチはバツイチ?)現代作曲家の作品の録音が続きます。その後は、エルガーの大曲「ゲロンティアスの夢」が続き、今回やっとシベリウスに戻った、というのが、これまでの流れです。ある意味、前任者のリントゥの後を引き継いだ、とも言えるのではないでしょうか。 最新のメンバー表を見てみると、日本人の4人のメンバーもまだ在籍しているようですから、これからの録音も楽しみですね。 今回の「5番」では、いつもながらのこのレーベルの素晴らしい録音を堪能できました。第1楽章冒頭の、聴こえるか聴こえないか、というほどの極限のピアニッシモで始まり、クレッシェンドになる部分などは、鳥肌が立つようなシーンでしたね。第2楽章のフルートが主導権をとっているフレーズは、とてもクールな音色が楽しめます。そして、終楽章、ホルンの勇壮なテーマには、いつ聴いても心が躍りますね。 そんな、聴きどころをしっかり聴かせてくれるコロンの指揮ぶりは、とても冴えています その後は、少し前にテツラフを迎えて録音されていたパートです。シベリウスが作ったヴァイオリンとオーケストラのための曲としては、「ヴァイオリン協奏曲」以外はほとんど聴いたことはありません。ここでは、1913年に作られた「2つのセレナード」と、1915年にヴァイオリン、またはチェロとオーケストラのために作られた「2つの真面目なメロディ」が演奏されています。 「セレナード第1番」は、とても起伏のある曲でした。ヴァイオリンが休んでいる間のオーケストラだけの部分が、なんともドラマティック。そして、ヴァイオリンの甘いメロディにオーケストラが逆らっているようなところもあって、なかなか面白い曲ですね。 「セレナード第2番」の方は、2つの全く異なるキャラクターが登場して、ダイナミックな構成で迫ります。最初は、まるで民謡のようなシンプルなメロディで和まされるのですが、いきなり、とても活発で技巧的なフレーズが登場し、その場を支配します。ところが、それが段々尻つぼみになっていって、消えてしまうんですね。そこに冒頭の部分が再開されて、その後は、さらに激しく活発なパートが続くのですが、それも撃沈、最初のパートがまた現れて終わるという、まるでドラマのような音楽です。 「真面目なメロディ」の1曲目は「わが心の喜び」というタイトルの通り、ベタに喜びを表現して、押し付けがましく迫ります。2曲目はヴァイオリンの真摯な「祈り」を、オーケストラが心配そうに支えます。 シベリウスは、若いころから、スウェーデンの劇作家ヨハン・アウグスト・ストリンドベリの作品に親しんでいました。そして、後には、彼との共同作業をすることになります。女優だったストリンドベリの当時の妻が、自分が主演を務める戯曲、「白鳥姫」のための付随音楽を作るように、シベリウスに依頼したのです。それにこたえて彼は13の曲を作りました。後に、その中の7曲を集めて、少し楽器を増やし、この組曲が出来上がりました。その曲は、作られた当時は人気があったようですが、現在ではあまり聴く機会はないようです。2曲目の「ハープ」が、「交響曲第5番」の第2楽章のテーマによく似ていますね。 コロンの任期は2028年まで、それまでにシベリウスの全交響曲は録音できるのでしょうか。 CD Artwork © Ondine Oy |
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ヘルヴィヒという人は、いくつかの楽器は習得しているようですが、作曲に関しては全くの独学で勉強したのだそうです。さらに、彼はプロデューサーとして、音楽を含んだ総合的な芸術の創作にその手腕を発揮しているようです。今では、楽譜が書けなくても、充分に作曲はできるような環境が出来上がっていますから、彼も堂々と「作曲家」と名乗っています。 このアルバムは、今年の2月9日にドレスデンの聖十字架教会で行われた世界初演のライブ録音です。その後、このプロジェクトはヨーロッパの各都市でライブが行われているようですね。例えば、ウィーンでは、5月4日にシェーンブルン宮殿で開催されていました。 ![]() ![]() 曲は全部で9つの部分に分かれています。一応、本来の「レクイエム」の典礼文も使われていますが、ここではさらにそのラテン語のドイツ語訳や、全く別のテキストも用いられています。 まずは、型通り「Introitus」で始まります。聴いた限りでは生のオーケストラの音だけのような、とても重々しいサウンドが鳴り響く中で、聖十字架合唱団のトレブルの声が聴こえてきます。それは、とてもこの雰囲気にマッチしているようなはかなさを持ったものでした。そこには、時折音源のパルスなどが入って、いくらか軽やかなテイストが生まれているような瞬間もあります。 ただ、ライブ録音ということで、生音と音源とのミックスの際に、かなりの歪が入ってしまっているので、音響的にはかなり濁ったものが聴こえてきます。オーケストラの楽器に対しても、なにか変調のような操作が加わっているようで、そのあたりがちょっとイライラさせられますね。それだったら、最初からオーケストラなんか使わなければよかったのに、という思いは、曲が終わるまで続くことになりました。 3曲目の「Meer von Tränen(涙の海)」というありがちなタイトルの曲では、ルネ・パーペのバリトン・ソロが聴こえます。これも、なにかPAを通したような歪んだ音になっているのが、かなり気になりますね。曲そのものは、まさにお涙頂戴といった感じの、深刻さしか伝わってこないものでした。 そのあたりになってくると、電子音源のパートがかなり幅を利かせるようになってきます。オーケストラの疎外感は、さらに続きます。 5曲目の「Sanctus」になったら、いきなりデュリュフレの同じ曲のテーマが聴こえてきました。もともとはグレゴリオ聖歌だったのでしょうが、これまでの流れからはかなりの違和感が伴います。さらに、それが盛り上がっていくさまは、ラヴェルの「ボレロ」を彷彿とさせられます。エンディングもあんな風ですし。 8曲目になって、もう1回パーペの出番があります。これも深刻な曲ですが、おそらくこれを聴いた人は間違いなく「感動」するのでしょう。 最後の曲が、先ほどの「Atem」です。予想通り、最初は合唱が「息」だけで歌い始めます。ただ、それだけでは終わらず、オーケストラが美しいハーモニーのコラールを奏でる、というパートが出てきて、それが「息」によるパルスと何回か交代で出現します。最後は、合唱がそのコラールにも参加、音源の鐘の音が鳴り響く中でフェイド・アウトという終わり方です。 まあ、気持ちは分かります。おそらく、本当に感動を味わえる人だっているかもしれません。でも、何かが足りません。それは、「レクイエム」に対する畏敬の念? CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH |
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この「全集」では、モーツァルトのミサ曲は全部で17曲録音されています。ただ、その中の2曲は、それぞれ未完(有名なハ短調K.427)と他の作曲家のものの編曲(K.140)ということですから、実質的には15曲ということになるのでしょう。 ところで、このジャケットを見ると、曲目に「Mass」と「Missa brevis」という2種類の表記があります。 そのうちの「ミサ・ブレヴィス」というのは、「小さなミサ」、あるいは「少ないミサ」という意味のラテン語で、文字通り普通のミサよりも「小さい」ものを指すことばです。例えばバッハの場合、普通は「キリエ」、「グローリア」、「クレド」、「サンクトゥス」、「ベネディクトゥス」、「アニュス・デイ」という6つの部分から成る「ミサ」の中から、最初の2つの部分だけを演奏するものを指し示します。つまり、パーツが少なくなっていますから、「少ないミサ」という意味で使われているのですね。 モーツァルトの場合は、「ミサ・ブレヴィス」という表記があっても、それはきちんと6つのパーツが揃っています。ただ、こちらは、楽器編成が弦楽器だけという「小さな」編成ですし、演奏時間も短く、つまり「少なく」なっています。 それに対して、ただの「ミサ」というタイトルの曲は、まず楽器編成に管楽器と打楽器が加わります。ですから、トランペットとティンパニが一緒に演奏する華々しい場面が現われることになります。 このような「大きな」ミサに対して、モーツァルトの研究者は「ミサ・ソレムニス」というジャンルを用意しました。このタイトルはベートーヴェンの作品でとても有名で、それは日本語では「荘厳ミサ」と訳されていますね。ただ、この「ソレムニス」というラテン語は、「荘厳」という意味の他に「正式の」とか「通常の」といった意味もあります。つまり、大きな楽器編成と、長い演奏時間を持つミサのことを「ミサ・ソレムニス」と分類したのです。弦楽オーケストラには、それ・無理っす。 ただ、多くのモーツァルトのミサの場合、楽器編成は大きいけれど、演奏時間は短いものもあります。ですから、それらは「ミサ・ブレヴィス-ソレムニス」というジャンルに分類されています。 その内訳は、確実にモーツァルトの作品だと確定されている15曲のうち、3曲(K.66, 139, 167)が「ミサ・ソレムニス」、5曲(K.49, 65, 192, 194, 275)が「ミサ・ブレヴィス」、7曲(220, 257, 258, 259, 262, 317, 337)が「ミサ・ブレヴィス-ソレムニス」なのだそうです。 これらはすべて、ザルツブルクの宮廷音楽家としての職務として作られています。そして、それぞれの礼拝の規模や格式に応じて、様々なサイズのミサ曲を作っていたのでしょうね。 このアルバムで演奏されているK.49のミサ・ブレヴィスなどは、12歳の時の作品ですから、すごいものです。 ここでは、全部で4曲のミサ曲が収録されていますが、1曲目から3曲目まで(K.257, 49, 65)は2023年の録音ですが、最後(K.220 雀のミサ)だけが2020年の録音です。ソリストは、ソプラノ以外はこの間で全員代わっています。そして、合唱団は、1曲目だけが大人の合唱団、それ以外は少年合唱のトレブルに大人の合唱が加わった合唱団です。 まず、その1曲目から聴き始めました。この合唱は上手なんですがちょっと響きが暗いので、あまり楽しめません。「ベネディクトゥス」が、何となく「レクイエム」の同じタイトルと似ているような気がします。 でも、2曲目から少年合唱に変わった途端、そのあまりのひどさに、驚いてしまいました。今時こんな児童合唱があるなんて。 しかし、最後の曲になったら、この合唱が見違えるように安心して聴いていられるものに変わりました。この3年の間に、何があったというのでしょう。 CD Artwork © Deutschlandradio / Naxos Rights (Europe) Ltd |
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そんな、全部で8曲の、様々な年代に作られた曲が集められているのですが、その中で特に気になったのは7番目の「Monkey Fingers, Velvet Hand」というタイトルの曲です。これは1991年に作られているのですが、その頃、日本のピアニストで、主に現代音楽を専門に演奏していた高橋アキ(高橋悠治の妹さん)は、全世界の現代作曲家に対してビートルズの曲を素材とした曲を委嘱し、それを集めてアルバムを作る、というプロジェクトを展開していました。その成果は、1990年から1992年にかけて東芝EMIからリリースされた「Hyper Beatles」あるいは「Hyper Music From Lennon & McCartney」という4枚のアルバムとして結実しています。その中には、ケージやジェフスキなどの編曲もあります。 そして、それに応えて1991年にサーリアホが作った曲が、この曲なのですよ。それは、4枚目のアルバムに、高橋アキの演奏で収録されています。 ![]() その後、ライナーノーツを読んでみたら、ここでは、「Come Together」だけではなく、「ホワイト・アルバム」の1枚目のB面の最後の「Happiness Is a Warm Gun」という、なんとも渋い曲も使われていることが分かりました。でも、もう1度聴いてみても、その曲のメロディは全く聴きとれませんでした。彼女のサイトではここはコード進行だけを取っているのだ、と、ありました。そして、この作品は、「エチュード」として使われているのだそうです。 同じサイトではこのタイトルの由来もありました。前半は「Come Together」、後半は「Happiness Is a Warm Gun」の歌詞の中に出てくるのだそうです。調べたら、確かにありました。 その他の曲も、例えばこの中ではもっとも初期の1980年に作られた5曲目の「Im Traume(夢の中)」という曲は、そもそもピアノ自体が「プリペアド・ピアノ」ですから、まさに「現代音楽」ならではのラインナップです。それは、ほとんどの弦がプリペアされているようで、打楽器のような音まで聴こえてきます。そんな中で、わずかに残った弦で弾いているのは、もろ12音のフレーズですからね。相方のチェロも、やはり特殊奏法の方がノーマルな奏法より格段に多くなっています。そんな時代だったのですね。 同じころに作られた「Jardin secret II(秘密の庭2)」では、チェンバロが多重録音でとても分厚い響きを奏でる中に、作曲家自身が録音した音源が加わります。それは、とてもセクシーな彼女の「ため息」のサンプリングですが、チェンバロのゴージャスな響きと相まって、なかなか楽しめましたね。 3曲目の「Fall(秋)」も、その頃の作品で、やはりチェンバロが多重録音されています。こちらでは、それらのチェンバロの音場が絶え間なく移動して、まるで風鈴市で夥しい風鈴がひしめいているような錯覚に陥ります。「チェンバロとエレクトロニクス」というクレジットがあるのですが、出てくる音はチェンバロだけのようなので、このようなディレイとパン・ポットのことを「エレクトロニクス」と言っているのかもしれません。エンディングでは、チェンバロの余韻がものすごいことになっていますが、それも、そのような操作によるものなのでしょう。 今世紀に入ってから作られた曲では、おおむねメロディラインもはっきりしていて、聴きやすいものになっているようです。6曲目の「Ballade for Piano」などは、本当に美しいメロディが聴こえてきます。 CD Artwork © Ondine Oy |
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おとといのおやぢに会える、か。
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