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ピンク・フロイデ。
ヒルは、このアルバムでは、1954年にイギリスで生まれた作曲家、ジュディス・ウィアーと、1867年に生まれて1944年に亡くなったアメリカの作曲家、エイミー・ビーチという、いずれも女性の作曲家の宗教的な合唱曲を演奏しています。それぞれにソリストが加わりますが、さらに楽器も加わります。 まずは、ウィアーの「ウツの地にて」という、2017年に作られて、ヒルによって世界初演が行われた作品です。このアルバムが、その世界初録音となるはずです。「ウツ」というのは、深刻な心の病(それは「鬱」)ではなく、旧約聖書の「ヨブ記」の主人公、「ヨブ」が住んでいる土地の名前なのだそうです。ざっくり言えば、大金持ちのヨブの信仰心を、サタンによってたぶらかされた神が試そうとして、ヨブに数々の苦難を与えますが、彼の信仰心は揺るぐことはなく、最後にはもっとお金持ちになった、というようなお話でしょうか。 おそらく、こんなことを書いたら怒り狂う方もいらっしゃるかもしれませんが、それは須らく私の無知によるものですから、ご寛容に。 そのような、かなりヘヴィーな話を元にした作品ですから、使われる楽器も「宗教曲」としてはかなりぶっ飛んだものになっています。それらは、登場順にオルガン、ヴィオラ、サックス、コントラバス、トランペット、そしてチューバです。さらに、ナレーターと、テノールのソロが加わります。 まずは、そのナレーションから曲は始まりますが、そこに合唱団のメンバーも、やはりナレーションの断片を語りながら加わっていく、という、かなり挑戦的な音楽です。バックにはオルガンが聴こえてきますが、あまりオルガンらしいことはやっていません。そして、合唱だけになっても、それはかなりアヴァン・ギャルドな雰囲気を振りまいています。 そのうちに、テノールのソロが、きっちりとメロディアスなフレーズを歌い始めると、そこにヴィオラが絡みついてきます。このヴィオラは、最後までずっと登場していて、それぞれのシーンに彩りを添えているようです。 すると、いきなりコントラバスとサックスが現われて、ほとんど「ジャズ」のような音楽を始めます。かなり楽天的な音楽、それはいったい何を表現していたのでしょうかね。 そのうち、トランペットも登場、オルガンとともに盛り上がります。そして、最後近くに「神」として現れるのがチューバなのでしょう。 という、なかなかヴァラエティに富んだ曲なのですが、やはり信仰心のないものにとってはいまいち近づきがたいところがあるようで、なかなか入っていくのは難しい気がします。 一方のビーチの曲は「太陽の賛歌」というタイトルです。ここでは、2管編成の室内オーケストラが加わっていますし、ソリストも4人に増えました。テキストは、アッシジの聖フランチェスコが作ったものを、マシュー・アーノルドという人が英訳したものが使われています。 こちらは、時代的にもロマンティックな味わいで、聴きやすい音楽になっています。まずは、1曲目がとても小さな音からいきなりクレッシェンドをしていって盛り上がるという、とてもスペクタクルなものですからね。ティンパニのロールが、圧倒的に迫ってきます。 次のメゾ・ソプラノとテノールのデュエットなどは、まるでミュージカルのワンシーンみたいでしたね。さらに、合唱も、ときおりフーガなども交えて、あくまで分かりやすく歌い上げます。 いずれも、録音が飛び切り素晴らしいのが、うれしかったですね。コーラスの一人一人の声までが、くっきり聴こえてきましたよ。 CD Artwork © Hyperion Records Ltd |
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リリースされたのは1990年、そして、ソリストたちの顔ぶれがエディット・マティスとかとトーマス・クヴァストホフといった、この頃の大スターたちが揃っているのですから、楽しみです。 まずは、カンタータの第30番、「Freue Dich, Erl?ste Schar(喜べ、救われた多くの人たちよ)」です。全く初めて聴く曲で、第1部と、コラールをはさんで第2部という大規模な曲で、30分以上かかります。合唱の出番は最初と最後、そして真ん中のコラールです。ソリストは4人いて、それぞれレチタティーヴォとアリアを歌いますが、テノールだけはレチタティーヴォしかありません。 楽器編成はとりあえずBWVで見ておいたのですが、なんと、そこにはなかったトランペットとティンパニが、冒頭の合唱で派手に聴こえてきたのには、驚きました。そこで、サブスクで他の録音を聴いてみたのですが、そんなことをやっているものは全くありませんでした。たぶん、このアルバムのカップリングのカンタータではトランペットとティンパニが入っているので、せっかくだからと、こちらにも加えたのではないでしょうか。 そして、そのトランペットは大正解でした。とても華やかなサウンドで、救われた喜びがストレートに伝わってきますからね。ついでに、そこで歌っていた他の合唱団と比べてみたら、もう、ウィンズバッハはとびぬけて素晴らしかったですね。そんな賑やかなサウンドの中で、しっかりと存在感を発揮していましたよ。 それに続いて、まずは、バスのクヴァストホフのレチタティーヴォとアリアです。聴き慣れたソフトな声が、懐かしいですね。そして、アリアになると、いとも軽々しくメリスマをこなしているのですから、安心して聴いていられます。バスで、こんなにきれいにメリスマを歌える人なんて、あまりいませんね。 その次の、アルトのコルネリア・カリッシュも、いいですねえ。アルトなのに華やかさもあって、とても伸びやかな声です。アリアでは、フルートが、ちょっと珍しい低音でのオブリガートを演奏していますが、そのサウンドに見事に馴染んでいますね。 そのあと、合唱によるコラールを挟んで、後半にもクヴァストホフのアリアがあります。これは、オーボエ・ダモーレ2本による贅沢なオブリガート、3つの声部の絡み合いが心地いいですね。 その後に、エディット・マティスのアリアになるのですが、これが誤算でしたね。なんか、張り切りすぎていて、ちょっとバッハとは馴染まない歌い方でしたからね。 そして、第1曲目の歌詞をちょっと変えて、あの華やかな曲が最後を締めています。カッコいいですね。 もう1曲は、カンタータ第19番「Es Erhub Sich Ein Streit(諍いが起こった)」です。こちらは、最初から3本のトランペットとティンパニが入っていますね。さらに、Taille(タイユ)という、ちょっと耳慣れない楽器も加わっています。打楽器じゃないですよ(それは「タイコ」)。これは、バロック時代の楽器で、オーボエの仲間で、それより低い音が出ます。似たようなものに「オーボエ・ダ・カッチャ」というのもありますが、それは管が曲がっているのに対して、タイユはまっすぐになっています。 ただ、ここではそれがソロで吹かれるのではなく、第1曲目のフーガのテナーのパートをユニゾンで演奏するという、目立たない役目のようです。ド頭からフーガで始めるなんて、さすがバッハ。 そして、ここでは前のカンタータではアリアがなかったテノールのハンス・ペーター・ブロホヴィッツの歌を聴くことができます。これは期待を超える素晴らしさでしたね。このアリア、途中からトランペットがコラールを吹き始めます。それが、派手さを封印した渋い音、ハンネス・ロイビンという名人が吹いていたのですね。 その後にソプラノのアリアですが、これもがっかり、でも、最後の壮大なコラールで、それは解消できましたよ。録音も良いし、名盤です。 CD Artwork © Bayer Records |
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ご存じのように、この交響曲は、1833年に作られていますが、メンデルスゾーンはその出来に満足しないで、翌年に改訂作業に取り掛かります。その手順として、第1楽章は後回しにして、まずは第2楽章から始めて、最後の楽章まで新しい楽譜を書き終えたのですが、そこで作業を一旦中断していたのですね。しかし、その後は諸事情で、もう第1楽章を改訂することはありませんでした。ですから、それが1851年に出版された時には、完全な楽譜は1833年のものしかなかったので、その形で出版され、それが長年この曲のスタンダードとして演奏されてきたのです。 第2稿(1834年稿)の方は、とりあえず自筆稿のファクシミリは存在していて、誰でも演奏できるようになっていますから、おそらくそれを使って、ジョン・エリオット・ガーディナーが1998年に初めてウィーン・フィルとともに録音を行いました。 もちろん、現在では、この1834年稿は、21世紀初頭にブライトコプフとベーレンライターから出版されています。クリストファー・ホグウッドが校訂を行ったベーレンライター版では、その2種類の楽譜が1冊に収まっています。 ですから、それ以降は、この1834年版も、誰でも演奏できるようになったのです。ただ、それを実際に録音した指揮者は、それほど多くはないようです。知る限りでは、それは2010年4月に録音され、MDGからSACDがリリースされたハインツ・ホリガーとムジークコレギウム・ヴィンタートゥールというスイスの団体による演奏が、その最初のものだったのではないでしょうか。これは、同じ作曲家の「交響曲第3番」とカップリングされていました。 その後は、2022年5月に、アレクシス・コセンコというフルーティストでもある指揮者が、レ・ザンバサドゥールという、彼が作ったアンサンブルを指揮して録音を行います。その時のカップリングは、やはり、21世紀になって楽譜が出版された「交響曲第5番」の第1稿でした。 そして、同じ年、2022年の5月に録音されたのが、このサヴァール盤です。リリースされたのは2023年でしたが、それが今回サブスク化されたのですね。そして、これも、初録音のガーディナー同様、「交響曲第4番」の第1稿と第2稿がカップリングされていました。 ただ、ガーディナー盤では、そもそも「第2稿の第1楽章」というものは存在してはいないので、「第2稿」では第1楽章はカットされていましたね。もちろん、ホグウッドのベーレンライター版でも、1834年稿は、第2楽章以降しかありません。しかし、今回のサヴァール盤では、どちらのバージョンもきっちり4楽章全てが演奏されています。そうなってくると、それぞれの第1楽章は、全く別のテイクが使われるはずです。ところが、両者を聴き比べてみると、そのオープニングの部分は、ちょっとしたリズム的な齟齬があるのですが、それが全く同じなんですよ。こんなことを2回繰り返すことなどは、考えられません。ただ、楽章全体の演奏時間は、微妙に異なっています。ということは、頭は同じテイクだとしても、その後はそれぞれ別のテイクを使って編集が行われたのでしょうね。なんか、ヘンですね。 サヴァールの演奏は、これまでのものとは一味異なったこだわりが感じられるものでした。それと録音会場のせいでしょうが、低音がかなりブーストされていて、ティンパニがとても目立つようなバランスになっています。それが、終楽章の冒頭の部分で、これまでの第2稿の演奏では全く聴こえなかったティンパニのパートが聴こえてきました。楽譜には、確かにそこにはティンパニが入っていましたよ。 ![]() 第2稿↓ ![]() SACD Artwork © Alia Vox |
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それはともかく、アルバムタイトルの「THE MUSIC NEVER ENDS」という文字が、その川の中に書かれていますから、「音楽は、川の流れのように決して停まることはない」というコンセプトが、ここには込められているのでしょう。 その「流れ」というのは、ここでは様々な要素があるようですが、その中の一つは、この合唱団と「スウィングル・シンガーズ」との関わり合いなのではないでしょうか。1980年に、ジェレミー・バックハウスによって創設されたこのヴァサリ・シンガーズは、それ以来今日までほぼ半世紀近く、ずっとバックハウスの元で演奏を続けているという、稀有な合唱団です。指揮者をバッサリとクビにするなんて、ありえません。 そして、1962年に、ウォード・スウィングルが結成したダブル・カルテットのコーラスグループが、スウィングル・シンガーズです。スウィングルは、リーダー、そして、編曲者としてこのグループを育てます。のちに彼は1984年にこのグループを去り、その後をテナーのメンバーだったジョナサン・ラスボーンが継ぐことになります。ラスボーンも、やはりグループに編曲を提供していました。その間に、グループの名前も微妙に変わっていますが、どうやら、最近ではそれらを一括して「ザ・スウィングルズ」と呼んでいるようですね。それが、このアルバムのサブ・タイトルにも反映されているのでしょう。 そして、この2つの合唱団は、かなり緊密な関係にあったようですね。実際、ウォード・スウィングル自身は、亡くなるまでヴァサリ・シンガーズの「パトロン」を務めていましたし、コンサートで共演もしていたそうです。 ということで、このアルバムの大部分は、主にジョナサン・ラスボーンがスウィングルズのために作った編曲を、ヴァサリ・シンガーズが演奏しているというものになっています。 ただ、そのアレンジは、8人編成の「スウィングル」のために作られたものですから、それを40人以上のメンバーの「大合唱」で歌うというのは、かなり危険な試みなのでは、という心配もありました。実際に聴いてみると、やはり、なにかそれぞれのパートが肥大化しているという感じはありましたね。とは言っても、おそらく、努めて軽いフットワークで歌うというような意識は共有していたようで、これはこれで楽しむことは出来ました。 その中には、お約束で、ビートルズ・ナンバーも3曲ありましたね。1曲目の「The Fool on the Hill」は、なかなか厚ぼったいハーモニーに仕上がっています。その編曲プランが、多重録音でその名を博したアメリカのジャズコーラスグループの「Singers Unlimited」のものと、とても雰囲気が似ているんですね。押し寄せるようなフレーズが、そっくりです。 2曲目の「Penny Lane」は、打って変わって軽快なアレンジ、オリジナルのテイストを大事にした編曲ですね。そして3曲目の「Blackbird」も、ほとんどオリジナルの完コピといった感じですね。 アルバムの後半は、ガラリと雰囲気が変わって、ジャズのピアニストとベースが入って、ジャジーに迫ります。そこで取り上げられているのがミシェル・ルグラン。ただ、なにかルグランらしさに欠けるような気がしましたね。ジョージ・シアリングの「Songs and Sonnets from Shakespeare」というのも、なんかパッとしない曲でしたし。 その後に、スティーヴン・ソンドハイムの「Send In the Clowns」が聴けたのはうれしかったですね。ここでのソロはメンバーが歌っていますが、とても素晴らしい、つまり、この曲にぴったりマッチした歌い方が魅力的でした。 そういえば、それぞれのパートからひとりずつソロを歌っていますが、しっかりクレジットされているだけあって、みんな素敵でしたね。 CD Artwork © Naxos Rights (Europe) Ltd |
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確かに、これまでベートーヴェンやヘンデルの作品もしっかり演奏してきたこの団体ですから、不思議なことではありませんが、時代的には、ブラームスとバッハとはかなりの隔たりがあります。とは言っても、ブラームスはそもそもバッハの音楽にはかなりのシンパシーを持っていた人ですから、精神的な接点では、何ら違和感はないので、心配しなくてもいいのでしょう。 今回のカンタータは、ブラームスの「ドイツ・レクイエム」に合わせたのでしょうか、「私の終焉がどれだけ近づいているのかを、だれが知っているでしょうか」というタイトルを持つ「死」をテーマにした1726年の作品、第27番が取り上げられています。 このカンタータは初めて聴きましたが、そのタイトル通りに、1曲目の合唱は、後に作られることになる「マタイ受難曲」の1曲目と、なにかとてもよく似ているような気がします。歌っている合唱団も、とても悲しげな感じを醸し出しています。 次にテノールのレチタティーヴォになるのですが、そこで聴こえて来た通奏低音が、なんとハープによって奏でられていましたよ。おそらく、今回は、バッハをブラームスの曲と同じ空間で演奏するということで、ルッツによってかなり大胆な「読み替え」が行われているのではないでしょうか。ですから、ここではバッハの作品には絶対に登場しないはずのハープを使ったのでしょう。 その「読み替え」は、次のアルトのアリアでも行われています。この曲の伴奏は、オーボエ・ダ・カッチャのソロとオルガンのオブリガートというものですが、オーボエ・ダ・カッチャのパートが、これもバッハの時代にはなかったクラリネットによって演奏されているではありませんか。さらに、オルガンのパートも、ソロ・ヴァイオリンで演奏されています。クラリネットが聴こえて来た時には、一瞬何が起こったのか分かりませんでしたね。 その後のバリトンのソロは、やはり「マタイ」の終曲ととても雰囲気が似ていましたね。ただ、後半には弦楽器が激しいパッセージを加えています。 そして、最後のコラールも、ものすごいことになっていました。もちろん、オリジナルは他の人が作ったものですが、前半は4拍子、後半は3拍子という形になっています。その前半は、まず、ア・カペラで歌われた後、同じ部分が楽器を加えて演奏される、というパターンが2回あったあとに、もう1節トゥッティが続きます。もちろん、楽譜にそんな指定はありません。さらに、3拍子の部分に移行するときに、ソロ・ヴァイオリンが、低音のリズミカルなピチカートをバックにとても技巧的なパッセージをアド・リブで挿入しています。それで、何ともポップなものに仕上がっているのですね。 そんなバッハの後では、「ドイツ・レクイエム」もありきたりの演奏になるはずがありません。まずは、カンタータでも素晴らしい演奏を聴かせてくれた合唱が、ここでも、とても起伏に富んだ表現で、音楽を進めていってくれています。イントロの部分はとても暗く、まるで身の毛もよだつような雰囲気です。かと思うと、フーガの部分など、とてもメリハリが聴いていて、惚れ惚れします。 そして、オーケストラは、管楽器などはピリオド楽器でも、おそらくブラームスの時代に近いものを使っているのでしょう、まさにいぶし銀のような音色で、全体のハーモニーを彩っています。もちろん、弦楽器はノン・ビブラートで、とても渋い音色を提供しています。 ルッツの指揮が、何しろエネルギッシュ。全体を常にハイテンションに保って、コントロールしていましたね。 ただ、ソリスト、特にソプラノが、かなり異質なキャラを放っていたのが、ちょっと残念でしたけどね。 CD Artwork © J. S. Bach-Stiftung, St. Gallen |
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でも、これは、実際に本人が「オシュトリーガ」と発音していた、というのも事実です。この方が一躍有名になったのは、ベーレンライター社がモーツァルトの「レクイエム」の新しい修復版を発売した時に、実際にその修復作業を行っていた人として大々的にプロモーションを行った時でした。彼は、日本にもやってきて、楽譜販売店なども訪問していて、その時に日本のスタッフが直接ご本人からそのような発音として聴いたというのですから、信頼できる情報です。 そのプロモーションの甲斐もあってか、ベーレンライターのその楽譜は、結構な売り上げがあったのではないでしょうか。国内では、いくつかの団体がこの楽譜を使っての演奏を行っていましたからね。 とは言っても、その楽譜が出てからもう5、6年は経っているのですが、録音は日本のメンバーによるかなり低レベルのアルバムと、外国のレーベルによる2種類のアルバムぐらいしか出ていないようですね。ベーレンライターが、ジュスマイヤー版に取って代わる新しい楽譜、として力を入れていた割には、それは広まらなかったようですね。まあ、当然のことでしょう。 今回のアルバムは、そのオシュトリーガの、「作曲家」としての一面を見せてくれているものです。ここで取り上げられているのは、全てピアノ・ソロのための作品です。彼自身、合唱指揮者の他にピアニストとしてのキャリアもあるようですから、その作品もおそらくメインのジャンルなのでしょう。 録音されたのは2023年の9月と10月ですが、それぞれの曲がいつ作られたのかはデータがありません。ですから、まあ、作曲家というものは常に変遷をたどるようですが、そのような流れは知る由もありません。ですから、とにかく虚心坦懐に曲を聴いてみるだけです。 その中でちょっと目を引いたのが、「プリペアド・ピアノのための組曲」という、3曲から成る一群です。「プリペアド・ピアノ」というのは、ご存知の通り、ジョン・ケージが「発明」した、グランドピアノの弦に異物を挟んで、音色やピッチをわざと「ヘンな音」になるようにしたピアノのことですね。ですから、ケージの曲などでは、まるでオモチャのピアノで演奏したようなプリミティブ、というか、チープな音がしていたものです。 でも、ここでは、そのような「プリペア感」はほとんど感じられなくて、ほんの少し、おそらく柔らかい布を弦の上に置いただけのような、「薄い」プリペアを施しているような音が聴こえてきましたね。ただ、中には、特に低音で、かなりパーカッシヴな音がしていたこともありましたね。 そのような音色的なことではない、音楽としての手法としては、同じモティーフを少しずつ変えて繰り返すような「ミニマル」としての性格は、かなりの曲の中で感じることは出来ます。 ただ、最後の方、全部で21曲あるうちの19番目の「Erste Sterne (Erinnerung an Südtirol)」、つまり「一番星(南チロルの思い出)」という作品は、なにか、武満徹の作品によく似たテイストを持っていましたね。おそらく、何も知らないで聴いたら、武満だと思う人もいるのではないでしょうか。 さらに、その次の「Impulsar」などは、一瞬クセナキスか、と思ってしまいましたね。 そして、最後に演奏されているのが、タイトルになっている「ペルセウス」です。ジャケットも、おそらくそんな「宇宙的」なものを表現しているのでしょう。それは、暗く、広大な宇宙が眼前に広がるような曲でした。ここでもプリペアが少し使われている上に、弦を直接指で弾く「内部奏法」も行っているようですね。 いずれの曲にも「醒めた視線」が感じられるものの、共感できるものは少ないようでした。 CD Artwork © Spektral Records |
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ところが、そのような、ある意味スタンダードな編成が主流になったのは、シューマンがその編成でのピアノ五重奏曲を作ってからのことになるのだそうです。そして、フランク、ドヴォルジャーク、そしてショスタコーヴィチなどが、揃ってその「ピアノ+弦楽四重奏」の「ピアノ五重奏を」作ったものですから、こちらの方が主流のようになっていました。 しかし、そのシューマンの曲よりも前は、シューベルトの、このような5つの異なる楽器による編成の方がもっぱら「主流」だったようなのですね。実際、このアルバムのカップリングのフンメルも、全く同じ編成で、同じころにピアノ五重奏を作っていました。 この編成の最大の魅力は、コントラバスによる最低音の存在でしょうね。さらに、この「ます」の場合は、仲間内のサロンでの演奏会で演奏するためにそんな仲間のアマチュアのチェリスト、ジルヴェスター・パウムガルトナーの委嘱で作られていますから、最低音はコントラバスに任せてしまって、チェロには存分に素敵なメロディを歌ってもらえるように作ったのでしょうね。 今回のえんそうしゃ「レミ・バロー・アンサンブル」は、ブルックナーの交響曲全集を録音した指揮者ということで名前を憶えていたレミ・バローが、ヴァイオリンを弾いていますが、ヴィオラを弾いているのは、やはりヴァイオリニストで、レミ・バローの妻であるイリス・バローです。さらに、ピアノは日本人のフォーグ・浦田陽子さんなのですが、チェロのヨアゲン・フォーグは、彼女の夫なのですね。つまり、メンバー5人の中の4人までが夫婦なのですよ。これはもう、まさに「気心が知れた」間柄間違いなし、というメンバーですね。 ですから、コントラバスのマンフレッド・ヘッキングだけが、いわば「のけ者」となってしまうのですね。そんなことが理由では絶対にないのでしょうが、この「ます」が始まった時のコントラバスの存在感は、かなりのものがありました。ただ、きっちりとベースとなる低音を出す、というのではなく、それの一粒一粒が、とても雄弁に音楽を進めていっているのですね。もしかしたら、録音エンジニアのバランスのせいかもしれませんが、こんなにはっきりこの楽器が聴こえてきたのは初めての体験のような気がします。 そんな、しっかりとしたベースの上で、他の4人はとても楽しげにアンサンブルをしているようでした。有名な変奏曲では、それぞれの楽器がテーマを取ったりしていますが、ヴァイオリンのバローなどは、決して目立つようなことはしないで、しっかり他の楽器のサポートに専念しているように聴こえます。チェロの人も、やはりそのように出来ている曲だと自覚しているのでしょう、もう、軽々と自分のパートを楽しみながら弾いていましたね。 初めて聴いたフンメルの曲になると、なんせ「変ホ短調」という、フラットが6つも付く調の、しかも短調ですから、シューベルトとは全く違った世界が広がっていました。第1楽章のテーマが、とても重々しくて、それを聴くだけで何か身が引き締まるような雰囲気が漂っています。そのテーマが中心になって、とことんシリアスな世界を見せてくれるようでした。 次の楽章は、ガラリと雰囲気が変わったメヌエット、その後にラルゴの楽章が来るのですが、これはピアノが大活躍する、ほとんどカデンツァのような楽章です。そして、最後は、短調ですが、軽やかな楽章が、続きます。 CD Artwork © Gramola |
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今野敏さんは、様々なジャンルの夥しい小説を世に送り出しています。この「任侠」シリーズは、阿岐本雄蔵というヤクザが組長となっている任侠団体「阿岐本組」が、なぜか、潰れそうになっている会社や団体を建て直す、というコンセプトで、これまでに7冊の単行本が出版されています。その、最後から2番目の「任侠楽団」が、この度文庫化されました。 ここに登場するのが、年末の定期演奏会を控えたプロオケ、「イースト・トウキョウ管弦楽団」です。いい人ばかりが集まっているようなオケですが、そこが内紛を抱えていて、その演奏会の開催も危なくなっているという話を聞き、ヤクザたちがその問題の解決のために奔走する。というお話です。まあ、確かに、過去には日本のオーケストラでも、様々な理由で分裂してしまったところがありましたね。 でも、ここに登場するオーケストラは、ヤクザたちと、それに協力した警視庁の警官のおかげで、その原因が解消されて、めでたく元の鞘に納まって、無事演奏会が開けるようになった、という、お約束のストーリーです。 そんな中で、筆者は、オーケストラの世界の専門用語などをヤクザたちに使わせようとしていますから、この方はある程度の音楽的な素養はあるのではないか、と思いました。調べてみると、小説家になる前はレコード会社に勤務していたというのですから、その点は納得です。 とは言っても、その知識は、音楽とは言っても、カチカチのクラシック音楽ではないような気にもなってきます。この話の重要なキャストとして、2人の指揮者が登場するのですが、彼らの「肩書」が、ちょっと変なのですよ。シチュエーションとしては、このオーケストラでは日本人の指揮者がもっぱら客演で指揮を行っていたのですが、彼の肩書は「音楽監督」でもあったのだそうです。それが、この度、この日本人指揮者の師匠であるドイツの大指揮者が「常任指揮者」に就任することになって、その最初のコンサートが、今度の定期演奏会なのだそうです。そのために、その日本人指揮者は、ドイツ人指揮者のアシスタントを務めることになったのですよ。ここでは「アシスタント」としか書かれてはいませんが、これは、普通は「副指揮者」と呼ばれているものですよね。つまり、「音楽監督」が、「常任指揮者」の「副指揮者」を務める、という、我々からみたら全くあり得ない上下関係が、ここでは成立しているのですね。 実際、現在のオーケストラの指揮者の肩書に関しては、日本ではかなりの混乱があるようで、もしかしたらそんなこともあるのかもしれませんが、「音楽監督」は、「常任指揮者」よりワンランク上のポスト、そして、「副指揮者」というのは、文字通りそんなえらい指揮者のアシスタントという、いわば「勉強中」の指揮者のことであることだけは、間違いありません。 もう1点、納得できないのが、その「定期演奏会」の曲目です。この本の冒頭から、「年末には『第九』が演奏される」という話がありますし、この演奏会は12月18日に開催されるそうなのですから、まさにそのシーズンです。さらに、この文庫の出版社は、現在こんなキャンペーンを展開しているようなのですが、そのプレゼントが、「読売日本交響楽団『第九』特別演奏会」のチケットなんですよ。だったら、やっぱりこの本での演奏会も「第九」だな、と普通は思ってしまいますよね。 ところが、後半になって、今度はジャズのビッグバンドが登場してくると、いろいろなことがあった末に、そのバンドのマスターであるピアニストが、このオーケストラと「ラプソディ・イン・ブルー」を共演する、ということになって、事務局は慌てて曲目変更の告知に迫られる、という事態になるのですよ。こんなことは、現実には絶対にありえません。 それと、「クラシックが最高の音楽であることに議論の余地はありません」などと豪語する指揮者なんてのも、ありえません。いや、これは高度な逆説かも。 Book Artwork © Chuokoron-Shinsha. Inc. |
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まずジャケットのタイトルが、一ひねり入ってますね。シューマンとブラームスの合唱曲を集めたアルバムなのですが、その二人の共に「Zigeuner」つまり「ジプシー」という言葉が入っている曲のタイトルが、アルバムタイトルになっているのですね。それがシューマンでは「Zigeunerleben」、そしてブラームスでは「Zigeunerlieder」という曲です。 ブラームスの方は「ジプシーの歌」という、そのまんまの訳が邦題になっていますが、シューマンの方は直訳の「ジプシーの生活」ではなく、なんと「流浪の民」という、格調高い言葉に変わっています。これは、石倉小三郎という人が訳したもので、ほとんど意訳ですね。歌詞も、もちろんこの人が文語体で日本語に直していますが、なかなか難解、歌っていると「慣れし故郷を放たれて」という歌詞の後半が「鼻垂れて」と聴こえてしまって、考え込んだことを思い出します。 これが1曲目。まず、ピアノの前奏が聴こえてきますが、なんかキンキンした音で、グランドピアノのような音ではなかったのには、ちょっと驚きました。楽器が悪かったのでしょうか。 でも、その後に出てきた合唱は、期待通りの素晴らしさでした。そのトレブルの声は、ほのかに儚さの漂う、なんとも言えない音色で、それだけで聴くものに幸せを与えてくれるようです。それを、他のパートがソフトに包み込んで、完璧なハーモニーが出現しています。 でも、そんなサウンドは、しっかり練習をすれば、おのずとできるものです。彼らは、そんなサウンドの上に、なんとも的確な表情を乗せて、歌詞と音楽がもつ意味を表現していたのです。それによって、聴き慣れたこの曲が、全く別の次元のものに変わっていたことを知った瞬間に、何度も出会ううことが出来ました。 この曲は、本来は4人のソリストとピアノのために作られた「四重唱」でしたが、もちろん、それを「四部合唱」の大人数で歌うこともあります。ただ、その際には、途中でソリストたちだけが交代で歌う、という個所が設けられています。しかし、今回の演奏では、その部分も合唱で歌っていました。そこが、すごくいいんですよね。パート全員の音色とピッチがぴっちり合っていますから、しっかりソリストとしての質感が出ています。そして、それは4つのパートが順番に歌うことになっていますから、おのずとそれぞれのパートの違いが分かるはずなのですが、ここではそれがほとんど感じられないのですね。低音から高音まで、全く均質な声が聴こえて来るのですよ。 それが、本来の男声パートのテナーとバスになると、確かに音域は低いのに、そのテイストは高い音のパートと全く変わっていないことが分かります。その低い声のパートのメンバーも、かなり若い人たちでしょうから、そのような完璧な均質性が保たれているのですね。 曲の終わりには段々静かになる、という指示がありますが、それはあまり気にしないような演奏もよく聴いていました。でも、ここではしっかり楽譜に忠実に歌っていて、その意味を改めて確認することが出来ました。 シューマンはそれ1曲だけ、その後はブラームスの作品が続きます。最初のパートは無伴奏の「7つのリート」です。これはもう絶品でしたね。ピアノが入らない分、音の均一性はさらに高まり、その表現の幅も広がって、極上の一時が過ごせます。特に、3曲目の「Waldesnacht」や4曲目の「Dein Herzlein mild」といったスロー・バラードでは、極限までのピアニシモで迫りますから、もう背筋が寒くなるほどの緊張感を味わえます。 その後に、またピアノが加わって、タイトルの「Zigeunerlieder」になるのですが、これは曲自体が少し軽めのテイストですし、やはりピアノが入ると少し「ピュア」な感じが失われてしまうような気がします。 Album Artwork © Bayer Records |
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ガロワは、1956年にフランスで生まれたフルーティスト、パリのコンセルヴァトワールであのランパルに学びますが、17歳という若さでリール国立管弦楽団の首席奏者に就任します。さらに、21歳の時(1977年)にはフランス国立管弦楽団の首席奏者になっています。それこそ、エマニュエル・パユがベルリン・フィルの首席奏者になった時と同じような年代で、世界的なオーケストラの首席になったという華やかなキャリアですね。 その翌年には、このオーケストラはロリン・マゼールに率いられて来日し、NHKホールでオリヴィエ・メシアンの大作「我らの主イエス・キリストの変容」の日本初演を行っていました。どれほどの大作かというと、演奏時間は1時間40分、オーケストラは5管編成の木管と多くの打楽器、弦楽器は16.16.14.12.10という編成に加えて、ピアノ、チェロ、フルート、クラリネット、シロリンバ、ヴィブラフォン、マリンバというソリスト群が指揮者の脇で演奏、さらに、100人の混声合唱団も参加するという巨大さです。 このコンサートは、実際に会場で聴いていました。確か2階席だったような記憶があるのですが、1階席に座っていたメシアンその人に挨拶しようと、日本の高名な「現代作曲家」たちが列を作っていたのが、非常に印象的でしたね。 そこで、フルートのソリストとしてガロワが客席に一番近いところに座って演奏していたのですよ。金髪もまぶしいそのルックスは、おそらくはクラシック・ファン以外の人をも魅了する存在感を誇っていたのではなかったでしょうか。これは、もはやアイドルだな、と思いましたね。 そうしたら、その6年後、1984年に、彼はオケを辞めて本当に「アイドル」になってしまいました。おそらく、来日時のインパクトのすごさで手ごたえを感じたのでしょう、日本のレーベルの「ビクター」が、その年にガロワのソロ・アルバムをリリースしたのです。 ![]() DGでも10枚近くのアルバムを出しますが、その後、2002年からは、現在のNAXOSレーベルからのアルバムを、大量に(現時点で40枚ほど)作ることになるのです。おそらく、そこでやっと自分の本来の音楽を作ることができるようになったのではないでしょうか。それらのNAXOS盤には、間違いなく、彼にしかできない、とても熱量の高い音楽が収められています。 ということで、この1995年のアルバムでは、アイドルからは脱皮してはいるものの、まだ確固たるスタイルの確立までには至っていない、ある意味中間地点ちゅうか、どっちつかずなものが感じられるような気がします。 まず、聴き始めてすぐにインパクトを与えられるのが、音の美しさです。とてもまろやかでソフトな音色は、それだけで癒されるような気分になります。まあ、年齢的なこともありますが、これは今のNAXOS盤ではもはや聴けなくなっている音です。 そして、ここでのメインはオペラの旋律を使ってフルートの超絶技巧を披露するという「ポプリ」なのですが、その技巧の素晴らしさには目を見張ります。細かい音符の滑らかな動きにほころびは全く感じられませんし、特にダブルタンギングの粒立ちの鋭さは息をのむほどにスリリング。 ただ、その間に演奏されている、「タイスの瞑想曲」や「ジョスランの子守歌」といった、「やさしい」曲で見られる何となくやる気がないような雰囲気が、微妙です。 CD Artwork © Deutsche Grammophon GmbH |
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おとといのおやぢに会える、か。
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