利息三文。

(25/4/1-25/4/19)

Blog Version

4月19日

STJERNEBRU
Gjermund Larsen(Fiddle)
Frode Haltli(Accordion)
Anne Karin Sundal-Ask/
Det Norske Jentekor
2L/2L-178-SABD(hybrid SACD, BD-A)


少し前に、アメリカのレコード業界の大々的なイベントである「グラミー賞」の授賞式が行われましたが、この「2L」レーベルはもうほとんどここの常連となっていて、毎年そのいくつかのカテゴリーにノミネートされています。そして、2020年には、「LUX」というアルバムが「ベスト・イマーシヴ・オーディオ・アルバム」というカテゴリーで、晴れて大賞を受賞しています。決して忌まわしい賞ではありません。
今年も、「Borders」「PAX」という2枚のアルバムが同じカテゴリーにノミネートされていましたし、「プロデューサー・オブ・ザ・イヤー/クラシカル」では、プロデューサーでエンジニアのモッテン・リンドベリ自身がノミネートされていましたね。
確かに、彼は録音のクオリティに関しては、常に世界の最先端を走っていて、デジタル録音の最高のスペックである「DXD」を誰よりも早く採用していましたね。そして、今では先ほどのように「イマーシヴ」と呼ばれている「サラウンド録音」に関しても先駆者の一人でした。SACDが出来ると、そのマルチチャンネルのレイヤーを積極的に活用して、「モノラル録音が白黒写真だとすると、ステレオ録音はポラロイド写真のようなもの、そして、サラウンド録音は、生々しい肌の色」という名言とともに、サラウンドを推進していきます。さらに、BD-Aの誕生とともに、平面的なサラウンドから高さ方向の情報までも再生できる「ドルビー・アトモス」までも再生できるスペックを、いち早く構築していたのです。今では、SACDとBD-Aの2枚がセット、というのが、標準的な仕様になっています。
ところが、今回のこのアルバムでは、サブスクで配信が始まった時点では、日本のCDショップサイトでの発売予定はなかったのですよ。通常は2、3か月前ぐらいにはその告知が出ているはずなのですが。なにか、いやな予感がするのですが、それは杞憂に終わってほしいものです。
ということで、今回はサブスクの2チャンネルで聴いているので、少し物足りないところはありますが、いつもの2Lサウンドでの体験をシミュレーションしながら、聴いてみました。
これは、このレーベルから既に3枚のアルバムをリリースしている、アンネ・カーリン・スンダール=アスク指揮のノルウェー・少女合唱団の、ノルウェーの伝承歌などをモティーフにした合唱曲を集めたものです。アルバムタイトルは「STJERNEBRU」、ノルウェー語で「星の橋」という意味なのだそうですが、それはノルウェー国歌の中で使われている言葉なのだそうです。そして、ここでは合唱団の他に、民族フィドルのイェルムン・ラーシェンとアコーディオンのフローデ・ハルトリも参加しています。
そして、合唱曲の作曲家、オーヤン・マトレという人の名前もあります。この合唱団のために曲を作ってもらったという縁で、ここでは、自作や、彼の編曲を取り上げています。
冒頭の曲で、タイトルとは異なる「Lux aeteruna」という言葉がはっきり聴こえてきました。どうやら、この「永遠の光」という言葉は、先ほどのアルバムタイトルの「星の橋」とリンクしていて、それらは「光と希望」の象徴として使われているようですね。なぜか、これを聴いてリゲティの同名の合唱曲を連想してしまいました。なんか、よく似たような瞬間があるのですね。
この女声合唱団の安定した響きは、いつ聴いても癒されます。もともとはかなりの大人数で、年齢の低いお子さんたちもたくさんメンバーになっているのですが、こういうレコーディングではその中から選抜された人たちが歌っているので、それは、声の質は確かに若々しいのですが、その表現力には、とても洗練されたものを感じます。
ただ、この中で1曲だけ、他の曲とはガラリと変わった、もっと幼い声のものがありました。おそらく、それははっきりと、この合唱団の別のキャラクターを紹介したかったからなのでしょうね。
フィドルとアコーディオンも、しっかりその合唱の中で、ある時はバックに徹し、ある時は前面に出てそのキャラを誇示していました。彼らだけのトラックもありますが、それはちょっと要らなかったかも。

SACD & BD-A Artwork © Lindberg Lyd AS


4月17日

GÓRECKI, M.P.
Paradise Lost, Flute Concerto No. 2
Łukasz Długosz(Fl)
Agata Kielar-Długos(Fl)
Yaroslav Shemet/
The Silesian Philharmonic Orchestra
The Silesian Chamber Orchestra
DUX/DUX 2110


作曲家の名前が「グレツキ」ですが、あの「交響曲第3番/悲歌の交響曲」で一躍有名になったヘンリク・ミコワイ・グレツキ(1933-2010)ではなく、1971年に生まれたその息子、ミコワイ・ピオトル・グレツキでした。「二代目グレツキ」ですね。ヤクザみたい(それは「ゴロツキ」)。
彼は、その父親の元で、ポーランドのカトヴィツェ音楽アカデミーで学び、1995年に卒業、さらに、アメリカのインディアナ大学ブルーミントン校で作曲博士号を取得して、現在はアメリカで活躍しています。
彼は、1990年に「オーケストラのための4つの小品」を作って以来、多くのオーケストラ作品をはじめ、協奏曲や室内楽、ソナタなどのオーソドックスなタイトルの曲を数多く作っています。ここで演奏されているのは、ごく最近の作品で、2021年に作られた「二本のフルートとオーケストラのための『失楽園』」と、2024年に作られた「フルートと弦楽オーケストラのための協奏曲第2番」です。
まずは、おなじみのポーランドのフルーティスト、ウーカシュ・ドゥゴシュと、彼の奥さんのアガラ・キェラル=ドゥゴシュのフルートで、フル・オーケストラとの作品「失楽園」です。3つの楽章で出来ていますが、最初の楽章はちょっと聴いただけでは何ともとんがった「前衛的」なサウンドで始まります。ゆったりとしたテンポで打楽器が中心になっていますが、その中に「ポワ〜ン」というような音で、グリッサンドのかかった音が出る打楽器(なんというのでしょう)が大活躍をして、独特の現代的な響きを醸し出しています。
そんな中から、かなりベタなメロディが聴こえてくるのですが、それがとても地味な音色なので、最初は何の楽器なのか分かりませんでした。しばらくして、それがバス・フルートだったことに気づきます。そして、そのほかにアルト・フルートの音も聴こえてきます。どうやら、ここでそのタイトルの「失楽園」の意味が分かったような気がしました。この2種類のフルートが「アダムとイブ」なのでしょうね。この楽章全体が、なにか恥じらう2人の会話のように感じられてきます。
次の楽章も、やはりゆったりとしたテンポで始まり、金管楽器のコラールをバックに、今度は2本の普通のフルートが、何やら不穏な動きを見せています。それが、弦セクションとの対話を始めると、次第に音楽がヒートアップしてきて、目まぐるしい様相となり、やがてクライマックスに達します。その後、またゆっくりしたテンポが戻ってきて、金管楽器の奏でる壮大な響きをバックに、フルートたちは、まるで逃げ惑うかのような速いパッセージを吹き続けます。
終楽章では、穏やかなフルートが弦楽器をバックに聴こえてきますが、やがてバス・フルートも登場し、寂しげなメロディを奏でます。やがて、第1楽章の冒頭の雰囲気が戻ってきて、音楽は静かに終わります。
もう1曲の「フルート協奏曲第2番」では、ウーカシュだけが登場、バックも弦楽器だけの編成に変わります。この曲では4つの楽章が用意されています。
第1楽章では、いきなり弦楽器とのユニゾンで、フルートがゼクエンツ風のキャッチーなメロディを歌い始めます。それは、かなり陳腐なメロディなのですが、弦楽器の高音がキラキラと輝くようなオーケストレーションは独特のものですね。
第2楽章は、テーマ自体はさっきのものとよく似ていますが、それを発展させてテンポが上がっています。後半のフルートは、まるで「熊蜂の飛行」みたいな無窮動を強いられます。
第3楽章は、父親譲りのしっとりとしたテーマが、フルートと弦楽器(ヴィオラでしょうか)とのユニゾンで進んでいきます。それは、消え入るように終わります。
終楽章はとてもリズミカル、シンコペーションを多用したノリの良い音楽ですが、テーマ自体は第1楽章の変形なのでしょう。終わり近くにはカデンツァもあり、その後は第1楽章が再現されて、そのまま穏やかに終わります。
いろんな意味で、まさに「同時代」の音楽、という感じですね。

CD Artwork © Dux Recording Producers


4月15日

C.P.E.BACH
Flute Concertos
Ariel Zuckermann(Fl, Cond)/
Georgian Chamber Orchestra Ingolstadt
FUGA LIBERA/FUG 836


大バッハの次男、カール・フィリップ・エマニュエル・バッハはフルート協奏曲も作っています。それは
・ニ長調(Wq.13/H416)
・ニ短調(Wq.22/H484.1)
・イ短調(Wq.166/H431)
・変ロ長調(Wq.167/H435)
・イ長調(Wq.168/H438)
・ト長調(Wq.169/H445)
という6曲です。ここでのそれらの作品番号で「Wq」となっているのは、最初にジャンル別に作られた「ウォトケンヌ番号」の略号なのですが、そこでは1番目と2番目がクラヴィーア協奏曲の中に入っています。しかし、後にどちらの曲も最初はフルートのために作られていたということが分かったため、今ではフルート協奏曲として演奏される機会が増えています。特にニ短調の協奏曲は、この6曲の中では最も親しまれているのではないでしょうか。中でも、3つある楽章の最後では、ソロ・フルートはとても技巧的で華やかなパッセージを演奏しますので、人気があります。
今回のアルバムで演奏しているのは、ジョージア室内管弦楽団・インゴルシュタットという名前の団体です。インゴルシュタットというのは、ドイツのバイエルン州にある都市の名前で、あのアウディの本社があることでも有名ですね。現在はそこを本拠地にしているこの団体は、もともとは1964年にジョージア(かつての「グルジア」)の首都トビリシに「ジョージア国立室内管弦楽団」として創設されています。コンサートは連休に行われました(それは「飛び石」)。
この団体は、1990年にドイツに亡命して、インゴルシュタットを本拠地として、新たな活動を始めることになりました。その時に、名前も現在のものに変えたのですね。彼らは、インゴルシュタット市、そしてアウディからも援助を受けていて、メンバーはジョージア、旧ソ連、そして東欧出身の演奏家が中心となっているそうです。
ここで指揮をしているイスラエルのテルアビブで生まれたアリエル・ズッカーマンは、2006年にこの団体の指揮者に就任しましたが、2011年にはいったんそのポストを退き、その後3人ほど別の指揮者が続いたのち、2021年に復帰しています。
彼は、そもそもはパウル・マイゼン、アンドラーシュ・アドリアン、アラン・マリオン、オーレル・ニコレなどの指導を受けてフルーティストとして音楽家のキャリアをスタートさせていました。世界的なコンクールにも入賞していたそうです。
そして、ヨルマ・パヌラやブルーノ・ヴァイルなどの指導を受けて、指揮者としても活躍するようになります。彼が最初に指揮者として就任したのが、このジョージア室内管弦楽団だったのですね。
もちろんフルーティストとしても活動も並行して行っていて、ここでは、実際にこのオーケストラを指揮しながら、コンチェルトのソロを吹いています。
まず、このアルバムを聴き始めると、彼のフルートがとても鄙びた音色で聴こえてきました。おそらく木管の楽器であることは間違いありませんが、ピリオド楽器のフラウト・トラヴェルソにしては、あまりにピッチが正しすぎます。どうやら、彼は木管のモダン楽器を、完全にノン・ビブラートで吹いているようですね。バックのオーケストラも、かなり細かい表情を付けて、たっぷり歌っていることが分かります。
そして、最後の最後に、先ほどのニ短調の協奏曲の最後の楽章が始まったら、まずは序奏の弦楽器のビートがものすごいことになっているのに驚かされました。それはとても粒立ちの良いビートなのですが、あまりにも想像を超えた速さだったのです。そこに、そのままのテンポでソロ・フルートが入ってくると、それはもう、信じがたいほどのテクニックによる演奏が繰り広げられていました。演奏時間から計算すると、それは四分音符=176というとんでもない速さでした。この速さで、十六分音符が延々と並ぶのですから、それはもう人間業とは思えません。
なにしろ、最初にこの曲を聴いて驚いたエッカルト・ハウプトの演奏では、四分音符=165でしたし、ズッカーマンの師であるアンドラーシュ・アドリアンなどは四分音符=152なんですからね。
この楽章は、こちらで「見る」ことが出来ます。でも、フルートの「吹き振り」というのは、あんまり格好良いものではありませんね。

CD Artwork © Outhere Music


4月13日

PROKOFIEW, FRANCK
Sonaten für Flöte und Klavier
Dagmar Becker(Fl)
Werner Genuit(Pf)
AMATI/SRR 9204


サブスクの案内では2025年にリリースとなっているアルバムですが、このレーベルはおそらくもう新しい録音は行っていないはずなので、間違いなくかなり昔の録音なのでしょう。実際にいつなのかは、いくら調べても分かりませんでしたが、ここで演奏しているピアニストのヴェルナー・ゲヌイは1997年に59歳の若さでお亡くなりになっていますから、それ以前であることは確かでしょう。となると、このドイツのフルーティストで、南西ドイツ放送交響楽団などで活躍されていたダグマル・ベッカーさんは、1952年のお生まれなので、45歳以下だったということになりますね。まさに、フルーティストとしては絶頂期と言えるのではないでしょうか。ここでのフルートの演奏は、とても確かなテクニックでいとも鮮やかに吹きとばしている様子から、かなり若い人が自信をもって演奏しているように聴こえますからね。
彼女はマスカラを使っているのでしょうか。
彼女が取り上げたのは、プロコフィエフのフルート・ソナタと、フランクのヴァイオリン・ソナタをフルートのために編曲したバージョンという、あのゴールウェイがRCAのアーティストとして最初に録音したアルバムと同じカップリングでした。その時のピアニストがなんとマルタ・アルゲリッチだというのですから、これはヒットしたようですね。「このアルバムによって、プロコフィエフのフルート協奏曲が一躍有名になった」などという記事を、どこかで読んだような気がしますから。確かに、これが出る前にはプロコフィエフの場合だと普通はランパルの演奏ぐらいしか聴けませんでしたが、そこでのランパルは、例えば終楽章などはかなりアバウトな演奏をしていたな、という記憶があります。装飾音符の扱いがいい加減なんですよね。それが、ゴールウェイの演奏で、それをきちんと吹いているのを聴いて、初めてこの曲の真の姿が見えたような気がしましたからね。
ここでのベッカーさんは、まさにそのゴールウェイと同程度の完成度をもって、プロコフィエフを演奏していました。とてもよく響く低音を武器に、完璧なテクニックを駆使して、難しいパッセージを楽々と吹いていましたね。テンポも早め、第2楽章などは、もしかしたらゴールウェイよりも颯爽としたテンポで吹いていたかもしれません。まあ、第3楽章あたりは、ちょっとさっぱり過ぎるな、とは思いましたけどね。そして、頻出する最高音のDの音も完璧に決まっていましたし。ただ、第2楽章などで、時折ブレスのためにピアニストと一緒にポーズを入れているのが、ちょっと気にはなりました。ゴールウェイはさすがにそんなことはしませんからね。
ご参考までに、先日こちらでご紹介したように、ゴールウェイを始め多くのフルーティストが敢えてヴァイオリン・バージョンに倣って1オクターブ上げて演奏している部分は、しっかり楽譜通りに演奏していましたね。これを聴けば、ここをオクターブ上げる必要は全くないこともよく分かります。
そして、曲がフランクに変わった時に、ピアニストがプロコフィエフとはガラッと変わったタッチで演奏を始めたのには驚きました。それによって、この2曲のテイストが実際はかなり異なっていることに気づかされるのですね。続くフルートも、それに従って、フランクにふさわしい吹き方になっていましたね。
ただ、第2楽章になった時に、なんだかフルートがピアノに煽られてちょっともたついているように感じられてしまいました。というか、なにかそれぞれが全く別のリズム感で演奏しているように聴こえたのですね。
でも、他の楽章ではそのようなこともなく、とても楽しめました。オリジナルはヴァイオリンのための曲なので、低くてフルートでは出せない音域のフレーズを高くした結果、かなりの高音をピアニシモで演奏しなければならなくなったところもありますが、そこもとても繊細に扱っていましたね。
欲を言えば、こんな靄のかかったような音でなく、もっとクリアにフルートを録音してほしかったものです。

Album Artwork © RBM Musikproduktion GmbH


4月31日

SHOSTAKOVICH
Symphony No. 10
Santtu-Matias Rouvali/
Philharmonia Orchestra
SIGNUM/SIGCD889


フィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者に就任してから、もう5年目に入ったロウヴァリは、このオーケストラと積極的にショスタコーヴィチの交響曲を録音しているようですね。2023年には「6番」と「9番」の録音を行って、このカップリングでアルバムを出していますし、今年になって2024年に録音されたこの「10番」がリリースされていますからね。この勢いで、全曲録音(ツィクルス)を成し遂げるのでしょうか。エーテボリ時代にはシベリウスのツィクルスを完成させていましたからね。
ご存知でしょうが、ショスタコーヴィチに関しては、1980年に「ショスタコーヴィチの証言」という書籍が出版されて、当時は大きなセンセーションを巻き起こしていましたね。ソロモン・ヴォルコフという人が、実際にショスタコーヴィチにインタビューをしたものをまとめた、とされるものですが、その内容のあまりの過激さに、当初はそもそもの真偽性からして疑われていたようです。しかし、現在ではそのハードカバーも文庫化されて、広く読まれるようになり、おおむね本当のことが書かれているのではないか、というのが一般的な認識になっているようですね。
この中で取り上げられている、個々の作品についての「秘話」も、今ではほとんど常識となっているはずです。たとえば、交響曲第5番が、「強制された歓喜」だというフレーズは、もはや誰でも知っているものになっているのではないでしょうか。
そして、スターリンがとても期待していたという「交響曲第9番」が、あのようなおちゃらけたものだったことで、しばらく交響曲を作ることをやめていたショスタコーヴィチが、8年間の空白の後に発表したのが、この「交響曲第10番」だったのですが、それに関してもこの書籍ではこのように述べられています(水野忠夫訳の原著の208ページ)。

スターリンを神格化する曲を、わたしは書けなかった、まったくできなかったのだ。第九交響曲を書いていたとき、自分が何に向かって歩いているかを知っていた。しかし、それでもわたしは音楽で、つぎの第十交響曲のなかでスターリンを描いた。わたしがそれを書いたのはスターリンの死後だったので、この交響曲の主題が何であるかは、今日にいたるまで誰にも推測されていない。だがあれは、スターリンとスターリン時代について書いたものであった。第二部のスケルツォは、おおざっぱに言って、音楽によるスターリンの肖像である。もちろん、そこにはまだほかのものもたくさんあるが、それが基本的なものだった。

この部分は、1991年に全音から出版されたポケットスコアの解説でも引用されていますから、その時点ではすでに紹介に値するという評価が出来ていたのでしょう。読んだ人は、いいように解釈すればいいんです。
ですから、ロウヴァリのような若い世代の指揮者も、おそらくはその内容は頭に入れた上で、演奏に臨んでいたのではないか、という気がしますが、どうでしょう。
今回のロウヴァリの演奏は、まずは録音がとても素晴らしいので、それぞれの楽器がしっかり聴こえてきましたね。特に、フルート・セクションでは、ピッコロが大活躍するところが多いのですが、それを演奏している人がとても上手なので、安心して聴いていられます。なにしろ、ショスタコーヴィチのこの楽器の扱いはほとんど拷問のようなものなのですが、そんなものは苦にもせず見事に吹いていましたね。先ほどの第2楽章でも、そんな余裕のある演奏で、この曲で表現したかった常軌を逸した精神状態のようなものを的確に聴かせてくれていたような気がします。
同じように、終楽章でも、そのようなアクロバッティックな部分が頻出します。このフレーズがどこかで聴いたことがあるような気がしていたのですが、今回聴きなおしてみて、それはブリテンの「青少年のための音楽入門」のテーマにそっくりだと気付きました。オリジナルのパーセルのテーマは短調ですが、それを長調にして、もっと装飾的にしたもののように思えてきます。もしかしたら、これも何かの意味を持っていたのかもしれませんね。「青少年」は1945年に作られていますが、「10番」が出来たのは1953年ですからね。

CD Artwork © Signum Records Ltd


4月9日

METZGER
Flötenkonzerte
Johannes Hustedt(Fl)
Sebastian Tewinkel/
Südwestdeutsches Kammerorchester Pforzheim
EBS/EBS6136


ゲオルク・メッツガーという名前の作曲家が作ったフルート協奏曲のアルバムです。CDでは2枚組で、8曲の協奏曲が入ってトータル2時間以上というヴォリュームたっぷりになっています。それぞれが3つの楽章で出来ていて、15分ちょっとという長さですね。すべてこれが世界初録音なのだそうです。
こんな名前の作曲家は全く知りませんから、調べてみたら、生まれたのが1746年で、亡くなったのが1793年というのですから、あのモーツァルトの10年前に生まれて、2年後に亡くなったという、まさにこのスーパースターの生涯を丸ごとカバーしていることになります。
そのモーツァルトとの関係も少しあって、メッツガーは彼のフルート協奏曲のことを語るときに必ず名前が出る、マンハイムのフルーティストで作曲家のヨハン・バプテスト・ヴェンドリンクの弟子なのだそうです。この方は、モーツァルトの友人なのですが、マンハイムに行った時にドゥジャンというアマチュアのフルーティストでお金持ちを紹介してくれて、フルートの曲を作れば、大金で買ってくれるという約束を取り付けたのですね。そこで、モーツァルトはフルート協奏曲2曲と、フルート四重奏曲3曲を作ったのですが、ドゥジャンはなにかと因縁をつけて支払いを大幅に値切った、という逸話ですね。ダメじゃん。まあ、今では、それらの作品はフルーティストにとってなくてはならない財産になっていますけどね。
そんなヴェンドリンクの教えを受けて、メッツガーはマンハイムの宮廷楽団のフルート奏者になり、作曲も行うようになります。同じころ、ヴェンドリンクに学んだ人に、フランス人の、やはり多くのフルート曲を残しているフランソワ・ドゥヴィエンヌもいるのだそうです。
ここで演奏されている8つの協奏曲は、かつて出版されてはいたようですね。でも、例えばムラマツのカタログを検索しても、協奏曲は2本のフルートのためのものしか見つかりませんでした。今では絶版になっているのでしょうか。
それらの楽譜には、カデンツァが入っていたかどうかは分かりませんが、ここでは8曲のうちの6曲は、1939年に生まれたドイツの作曲家、ジークムント・シュミットという人が作ったものが演奏されています。残りの2曲はメッツガーの(たぶん)同僚だったカール・シュターミッツが作っていて、そのうちの1曲はここでフルートを吹いているヨハネス・フーシュテットという人が手を入れています。
それぞれの協奏曲は、まさにこの時代の典型的な形をとっていて、アレグロの第1楽章、アダージョの第2楽章、そしてロンドの第3楽章という形になっています。オーケストラの編成は、弦楽器にホルンとファゴットが加わっているようですね。1曲だけ、4番にはオーボエも入っています。いずれも、ハーモニーの補助、といった役割なのですが、低音とユニゾンのファゴットが、とても生き生きした感じに聴こえてきます。低音パートに、ちょっとしたひねりがきいているのですね。
そして、そのような形の中で、それぞれにとても個性的な音楽が聴こえてくるのですから、もう一気に全曲を聴き通してしまいましたよ。
第1楽章は、型通りのスケールやアルペジオが出てきますが、そのメロディがとても個性的なんですよね。そして、技巧的なフレーズもてんこ盛り、それぞれに異なった味わいがあります。
そして、第2楽章のテーマが、やはり個性的でキャッチーなものばかりなのには、うれしくなりますね。もうどれを聴いてもうっとりさせられてしまいます。
終楽章は、一応「ロンド」とは言ってますが、ほとんどがかなり高度な変奏になっています。それこそ、アクロバティックな、ダブルタンギングなども多用した見事な変奏には、爽快感があります。
ソリストのフーシュテットは、ニコレ、マリオン、マイゼンなどに師事した人で、マンハイムの音楽家に興味を持っているのだそうです。ここでは、卓越したテクニックで、この知られざる作曲家の魅力を存分に伝えてくれています。
モダン楽器のオーケストラも、かなり濃い表情を付けて、サポートしています。ただ、録音がいまいちでしたね。

CD Artwork © Ebs Records GmbH


4月7日

SCHUBERT/RANDALU
Winterreise/Voyage
Martin Kuuskmann(Fg)
Kristjan Randalu(Pf)
BERLIN/0303720BC


シューベルトの歌曲ツィクルス「冬の旅」を、なんとピアノとファゴットで演奏しているという珍しいアルバムです。
ここでファゴットを演奏しているマーティン・クースマンと、ピアニストで編曲を行っているクリスティアン・ランダルは、共にエストニアのタリンの出身で、一緒にタリン音楽高校に通うスクールバスに乗っていたという間柄でした。ただ、その時の二人は全く知り合いにはなっておらず、たまたま二人ともアメリカに移住して、そこで初めてお互いのことを知ったのだそうです。まさに「運命的な出会い」だったのですね。何しろ、アメリカと言っても、ランダルはニューヨークでジャズ・ピアニスト、クースマンはデンバー大学ラモント音楽学校のファゴット教授として全く別の場所で活躍していたのですからね。
そんな二人が偶然ニューヨークで出会います。クースマンはニューヨークの大学でも教えていたのですね。お互いに子供の頃のことを知った時には驚いたでしょうね。そこで、それぞれのこれまでの仕事や、これからのプロジェクトなどを語り合う中で、意気投合して出来たのが、このアルバムです。
そんな事情も知らず、このアルバムを聴いてみる前は、ファゴットが歌手の代わりにメロディを演奏して、そこにピアノ伴奏がつくなんて、なんとものどかなアルバムなのだな、と思っていました。でも、そんな先入観は、最初の音を聴いただけで完全に覆されてしまいました。
1曲目の「おやすみ」は、旅人の歩みを規則的なピアノのコードの連続で描写しているはずでした。ところが、聴こえて来たのは、なんだか転びそうになりながらよたよたと歩いているようなピアノでした。そのリズムがなんか複雑で、とてもヘンなのですよ。さらに、コードも微妙に変わっています。
そんな中で、ファゴットは淡々と歌のパートを演奏しています。何か不思議な対比、と思っていると、そのうちにピアノがアドリブ・ソロを始めましたよ。そこで初めて、このピアニストがジャズを専門にしていることに気づきました。なるほど、そういうことか、と納得です。
2曲目の「風見の旗」になると、今度はファゴットまでが「ジャズ」を始めましたよ。1曲目はフェイクだったのですね。それはシンコペーションと変拍子に飾られた、紛れもないジャズのスタイルに変貌していたシューベルトでした。
3曲目になると、シューベルトからは完全に離れて、ファゴットだけで今度はジャズとも違う、なにか無調感の漂うソロが披露されます。もはや、何でもあれ、という感じですね。
そんな感じで、全部で24曲ある「冬の旅」の中から、ランダルは14曲を選び、そんな、様々なスタイルで演奏していきます。曲順はそのまま、ランダムではありません。
有名な「菩提樹」では、ビートは5拍子、テーマはオリジナルの落ち着きのあるものから、とてもあわただしいものに変わります。そこからは、焦燥感のようなものが漂ってきます。それが、中間部では、なんとバッハ風のポリフォニーとなって、ピアノとファゴットが掛け合う、ということになっていましたね。
「春の夢」なども、ぶっ飛んだアレンジでした。最初はファゴットだけでテーマが奏されるのですが、そこにピアノが入ってくると、それはもう悪夢そのものです。その次の「孤独」では、ファゴットのほぼ最低音が大活躍、その単音を聴いただけで、見事な孤独感が漂います。
「からす」などは、テーマを完全に1拍だけずらして、そのまま最後まで行っていましたね。そして最後はオリジナルの20曲目の「道しるべ」で終わっています。ですから、本来の最後の「辻音楽士」は演奏されていません。これは、ぜひ取り上げて欲しかったですね。あの曲の雰囲気などは、今回のコンセプトにとてもよく合致しているのでは、と思うのですが。
シューベルトのリズムやコードを、完膚なきまでに変貌させた潔さの中での、ピアノのアドリブ・ソロは、ですから、完全に曲の中に溶け込んでいて、とても自然に聴こえてきました。それはなんとも新鮮な体験でした。

CD Artwork © Berlin Classics


4月5日

MOLÉCULE/Sinian Asiyan(Orchestration)
Symphonie N°1 " Quantique "
Alexandre Bloch
Orchestre National de Lille
ALPHA/ALPHA1082


世の中の「アーティスト」と呼ばれる人たちは、その存在感を世間に認めてもらうために、本名ではなく「芸名」というものを使う人がたくさんいます。それぞれに、ユニークでインパクトのある芸名ですが、ただひたすら目立ちたいというだけで、とんでもない芸名を使う人も多いようですね。
今回のアルバムの主人公も、そんな、ぶっ飛んだ芸名を使ったDJでした。本名は「ロマン・ド・ラ・エ=セラフィニ」という、なんだかロマンチックな名前なのですが、ここで彼が使っている芸名は「モレキュール」、つまり、化学で使われる用語の「分子」でした。大雑把に言えば、すべての物質の最小単位のことですね。
そして、その人が作った交響曲のタイトルが、「量子」というのですから、これはもう普通の人の知識では全く理解できない領域の言葉になってしまいます。魚を取ったりはしませんから(それは「漁師」)。
1979年にフランスのグルノーブルで生まれたロマン・ド・ラ・エ=セラフィニは、自らの音楽を作るために世界中を旅して、それぞれの土地で音源のサンプリングを行い、それらを素材にしたエレクトロニクス・ミュージックを作ってきました。そんな彼が今回挑んだのが、クラシックのオーケストラをサンプリングの対象にすることでした。彼は、ここで演奏しているリール国立管弦楽団のリハーサルに2年間同行して、その中でオーケストラの中の楽器の音だけでなく、時には不協和音や演奏家の息遣い、そして沈黙までも取り込んだのです。
彼はまず、それらの素材を、「録音から2小節以上連続して使用しない、録音された音源のテンポをすべて変更する、選択した各サウンドのキーを変更するなど、厳格なルールに従った迷路のようなマトリックス」に従って変換し、それを再構築することによって、この「交響曲」を完成させたのだそうです。実際にそれがどのような作業だったのかは、全く分かりません。
ただ、おそらくそれはDTMのような機材によって行われたのでしょうから、それを今度は生身の演奏家が演奏するために、楽譜を作らなければいけません。それを行ったのが、シナン・アシアンというピアニスト、編曲家です。
その交響曲「量子」は、演奏時間46分で、4つの楽章から出来ています。それぞれの楽章はさらに細分化されていて、サブタイトルが付けられていますが、それが音楽とどのように結びついているのかは分かりません。なんせ、曲の頭が「JADES-GS-z14-0」というものですからね。全く意味不明の暗号です。
ですから、あえてその意味は詮索しないで、謙虚にその音楽に耳を傾けることにしました。第1楽章は、何やらクラスターのようなもので始まります。それは、なにか懐かしさを誘うものです。こんな音楽を久しぶりに聴いたな、というような感慨でしょうか。それは、例えばリゲティの「アトモスフェール」とか、クセナキスの「ノモス・ガンマ」と非常に似通った音楽のようでした。確かに、クセナキスはそれこそ「統計学」などを元に曲を作っていましたから、不可解という点では「量子」とは共通しています。
ところが、それは長続きはしないで、突然キャッチーなメロディが出てきたりするので、なんだか裏切られたような気がしてしまいます。しばらくすると、マーラー風のコラールが金管で演奏されたりしますし。さらに、この楽章の最後の部分では、まさにライヒのパルスが登場したではありませんか。さらに、そこでは、ホルストの「金星」のヴァイオリン・ソロそのものが聴こえてきましたよ。
気を取り直して、次の楽章に進むと、しばらく聴いた後にいきなりホルストの、今度は「木星」のド頭ですよ。そして、とどめはムソルグスキーの「バーバ・ヤーガの小屋」ですからね。先ほどの「マトリックス」は、いったいどこに行ってしまったのでしょう。
第3楽章でマーラーの「9番」の終楽章に現れる「ホワイトクリスマス」によく似たテーマが現れたのを機に、これ以上聴いてもなんの価値もないと、それ以降を聴くのを止めてしまいましたよ。ゴミみたいな音楽ですね。サブスクだったから良かったものの、CDだったらぶち割っていたでしょうね。

CD Artwork © Alpha Classics / Outhere Music


4月3日

REICH
Jacob's Ladder, Traveler's Prayer
Synergy Vocals
Colin Currie Group
Jaap van Zweden/
New York Philharmonic
NONESUCH/075597896619


1936年生まれのスティーヴ・ライヒは、来年には90歳を迎えることになるのですね。一昨年、新作の「Traveler's Prayer」の日本初演が東京オペラシティ・コンサートホールで開催された時には、確か「この公演には、作曲家のスティーヴ・ライヒは来日しません」というような案内がありましたが、やはりそのようなお年にはなっていたのですね。というか、このメッセージからは、ぜひご本人のお姿を拝したい、というコアなライヒファンの存在がうかがえます。「推し」ですね。余談ですが、個人的には当時の「推し」だったジョン・ケージが来日した時にお会いしたことがありました。でも、その時は60歳ちょっとの年齢だったはずなのに、もうよぼよぼのお爺さんにしか見えませんでしたね。
そんなライヒの、最新アルバムです。これは、もはやCDでのリリースはなく、ネット配信でしか聴けないのだ、というレーベルからの案内がありましたね。どうしてもフィジカルで聴きたいという人は、同じころにリリースされた27枚組のボックス(定価28,050円)を買いなさい、ですって。
このボックスには、このNONESUCHレーベルが1985年にライヒと専属契約を結んでからのアルバムの他に、それ以前の録音を他のレーベルからのライセンスで加えていて、まさにこの作曲家の60年に渡る作曲活動の全貌が網羅されているのですね。まあ、ほぼ全部サブスクですぐ聴けますけどね。
ここに収録されているのは、まず先ほどの、2020年に作られて、2021年10月にアムステルダムで初演された「Traveler's Prayer」の、その日本初演の時、2023年4月21日と22日に行われたライブでの録音です。演奏家は、世界初演と同じコリン・カリー・グループとシナジー・ヴォーカルズでしたね。細かいことですが、アルバムの録音データに「5月21日と22日」とあるのは、間違いです。
編成はソプラノ2人、テナー2人のヴォーカルに、ビブラフォン2、ピアノ、ヴァイオリン4、ヴィオラ2、チェロ2という11の楽器が加わります。ヴォーカルで歌われるテキストは、旧約聖書の「出エジプト記」、「創世記」、「詩編」から取られ、ヘブライ語で歌われています。そこでは、この世からあの世への「旅」が語られています。
このコンサートでは「Music for 18 Musicians」と一緒に演奏されていたのですが、とても同じ作曲家が作ったとは思えないほど、それぞれのテイストは異なっていましたね。つまり、この曲では、ライヒの代名詞ともいえるミニマルのパルスが使われていないのですよ。その代わりに用いられているのが、ライヒ自身によると「カノン」なのだそうです。ここでは、とても緩やかな流れの暖かいフレーズが、幾重にも連なってえも言えぬ心地よい、それでいて禁欲的なサウンドが広がっています。それはまるでペルトのよう。弦楽器は、全員ノン・ビブラートですし。
もう1曲は、2023年に作られ、その年の10月5日にニューヨークで世界初演が行われた「Jacob's Ladder(ヤコブの梯子)」です。アルバムではその初演の日と、7日に再演されたものが編集されているのでしょう。編成は、「Traveler's Prayer」の楽器のパートに、フルート2、オーボエ2、クラリネット2という6人の管楽器が加わります。それだけです。ですから、クレジットには「New York Philharmonic」とありますが、正確には「Members of New York Philharmonic」でしょうね。でも、指揮はそのオーケストラの当時の音楽監督、ヤープ・ファン・ズヴェーデンでしたけどね。テキストは、やはりヘブライ語による「創世記」から取られています。「天国に伸びる梯子」という意味から、「梯子=音階」というダブルミーニングによって、ここでは様々なスケールが登場します。
そして、ここでは、先ほどの「Traveler's Prayer」とは正反対の、まさに王道のライヒ・サウンド、あくなきパルスの世界が広がっていました。それでいて、その音階による「メロディ」はとてもキャッチー、「推し」が増えるのも納得です。
いずれの曲でも、ヴォーカルの4人の不思議な存在感がとても強く印象に残ります。きっちりと音楽教育を受けた人たちなのでしょうが、その、まさにライヒの音楽にはうってつけの、感情を全く表に出さない演奏には、とてもインパクトがありました。

Album Artwork © Nonesuch Records Inc.


4月1日

揺らぐ日本のクラシック
歴史から問う音楽ビジネスの未来
渋谷ゆう子著
NHK出版新書739


タイトルの「クラシック」というのは、サブタイトルからも分かる通り「クラシック音楽」のことです。それはどういう種類の音楽か、といえば、たとえば、たまたま街中でテレビ局の人が一般人にインタビューをしている、という場面に遭遇した人が、マイクを向けられて「普段よく聴く音楽は何ですか?」と聞かれた時に、おそらくほぼ全員が、答えることのないジャンルの音楽のことです。そこで、「わたし、バッハが好きなんです」なんて言おうものなら、「ばっかみたい」と思われて、そのインタビューは間違いなくボツになってしまうことでしょう。
そのぐらい、一般社会からは乖離している音楽が、「クラシック」なのです。とは言っても、実際にはその音楽に憑りつかれている人はたくさんいるのですが、決して表立ってそれを表明することは身の破滅につながると自覚していて、極力話題にはしない、というのが、その愛好家たちの処世術なのです。
ですから、こんなタイトルの書籍だって、決して人前で広げることはせず、一人、暗い部屋の中で読むことになるのでしょうね。なにしろ「未来」という言葉が最後にあるのですから、もしかしたらそんな日陰者ではなくなる日が来るようなヒントが書かれているのかもしれませんからね。
著者は、まずはその「未来」は後回しにして、「過去」、つまり、クラシック音楽が日本に入って来た時の話から書き始めています。まあ、それは、これまでにいやになるほど聞いてきたことばかりなので、ちょっと引いてしまうでしょうが、その頃のくそ真面目なクラシック音楽との関わりを再確認することはできることでしょう。
そして、「現在」の姿が紹介されます。著者は豊富なデータを駆使して、正確な数字でその有様を的確に表現しようとしているようですが、何かそれはちょっと違うのではないか、という気持ちがわいてくるのはなぜでしょう。というか、話の中に出てくる金額が、なんかすんなりと頭に入ってこないんですよね。でも、有名指揮者のギャラがとんでもなく高額なことはよく分かりますけど。
その中で紹介されている、アメリカやヨーロッパでのクラシック音楽の在り方には、考えさせられることが多くありましたね。そして、やはり「本場」には到底かなわない、と、わが身を振り返ることになるのですね。なにしろ、かつてはわが国よりクラシック音楽に関しては後進国だと思われていた韓国や中国、そして東南アジアの国々などの方が、よっぽど恵まれていることが、ここでははっきり示されていたのですからね。
いずれにしても、「現在」では、そもそも義務教育の中での音楽の授業が激減している、という事実には衝撃を受けましたね。とは言っても、たまたま音楽の指導要領を見る機会があって、そのつまらなさには強いインパクトを与えられましたから、こんなことを教えられたのでは、クラシック音楽を好きになる人などいなくなってしまうのでは、と、強烈に思いましたね。
そして、音楽大学も減少している、という事実にも、驚きました。ただ、これは、音楽大学を卒業したからと言って、プロの音楽家になれる人などほとんどいないという現実があればやむを得ない話ですね。上野学園大学って、なくなってしまったんですね。
ですから、著者が描く「未来」とはどういうものなのか、とても気になりますが、結局それがどういうものなのかは全く分かりませんでした。地方での音楽祭や、アウトリーチ(出張演奏)が効果的だ、とおっしゃっていますが、ちょっと地味ですしね。最後に出てくるのが、音楽家ではない著者が、アマチュアの合唱団と一緒にベートーヴェンの「第9」を歌って、なにか確かな手ごたえを感じたというエピソードですが、それはあまりにもチープな体験のような気がします。
いずれにしても、冒頭のインタビューで「バッハが好きです」と当たり前のように答えることができるような社会は、未来永劫訪れることはないでしょうね。

Book Artwork © NHK Publishing, Inc.


おとといのおやぢに会える、か。



accesses to "oyaji" since 03/4/25
accesses to "jurassic page" since 98/7/17