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お米の祈り。
![]() ![]() 今回、彼らの最新のアルバムがリリースされましたが、それが録音されたのは2024年の5月から6月にかけて、つまり、これはハワードがメンバーだったキングズ・シンガーズの最後のアルバムということになります。 今回のアルバムでは、ロマン派から近代にかけての合唱曲が歌われています。彼らにしてはかなり珍しい選曲なのではないでしょうか。実際、彼らは、1995年にリリースした「Nightsong」という、シューベルトとブラームスがメインで、ラインベルガーとレーガーのものも少し加えたアルバム以来、そのような時代の曲の録音は行っていません。 これに関しては、彼らはブックレットの中で釈明をしています。つまり、この頃の合唱曲は、少し前の時代とは異なって、大編成のオーケストラをバックに歌われたり、多くのメンバーによるアマチュアの合唱団のレパートリーとして作られたりと、大人数のメンバーが集まって歌い上げる、というスタイルがスタンダードだったので、彼らのような少人数のアンサンブルではなかなか難しい、ということなのですね(例えば、カンニング・ブレスなどは出来ません)。さらに、もっと重要なのは、彼らは女声のパートをカウンターテナーが歌うという、イギリスの聖歌隊の伝統を受け継いだスタイルを取っていますが、やはり、この時代の合唱曲では、女声のパートは女性が歌うのが当たり前になっていたことでしょう。 しかし、彼らは果敢に、この時代の合唱曲に挑戦しました。ただ、リハーサルの段階で、例えば、このアルバムのタイトルとなっている、シェイクスピアの戯曲の中の一節「Such Stuff as Dreams Are Made on」が使われたヴォーン・ウィリアムズの「3つのシェイクスピアの歌」という8声部の曲では、どのように編曲を工夫しても6人だけで演奏することが不可能だったので、2人の、合唱の世界で活躍しているソプラノの歌手2人をサポートメンバーとして加えることにしたのだそうです。 その2人のサポートは完璧でした。まるで、ずっと彼らと一緒に演奏し続けていたかのように、その音色とハーモニーは、このグループに完全に溶け込んでいました。 ただ、皮肉なことに、それ以外の曲、彼らが6人だけで演奏したものは、例えばドビュッシーの「シャルル・ドルレアンの3つの歌」とか、ラヴェルの「3つの歌」といった、オリジナルの編成で歌われているものをさんざん聴いてきたものは、その違和感はかなりのものでした。どうしても、ソプラノのパートがとても物足りなく感じてしまいます。 ただ、シューベルトやブラームスといった、古典的な和声の曲では、彼らの持ち味はよく出ていたのではないでしょうか。それと、スウェーデンの作曲家、アルヴェーンの、民謡を素材としたような合唱曲も、楽しめました。 ただ、それはきちんとスウェーデン語で歌われていたのですが、同じ北欧の作曲家シベリウスの、あまりにも有名な「フィンランディア賛歌」は、なぜか英語で歌われていました。 やはり、彼らのレパートリーは、基本的にエンターテインメントなのでは、という気がします。 ここでのハワードの声は、とてもしっかり再低音を響かせていました。ただ、ソロをとったりすると、ちょっと気真面目過ぎるような気がします。新メンバーのケネディは、どうやらひょうきんもののようですから、全体のキャラクターも少し変わるかもしれませんね。そういえば、初代ベースのブライアン・ケイも、かなりのムード・メーカーでしたね。 CD Artwork © Signum Records Ltd |
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このブリッソンという人は、その「第1番」の方を自ら編曲し、フルートで演奏することに挑戦していました。つまり、「2番」とは反対のベクトルに挑んだということになりますね。おそらく、そのようなことをやったのは、彼女が初めてなのではないでしょうか。少なくとも、サブスクのデータを見る限り、これ以外の録音はありません。 ヴァイオリン・ソナタも聴いたことがなかったので、この作品に最初に接するのがフルート版、ということになってしまいました。4つの楽章からできていて、それぞれアンダンテ・アレグロ・アンダンテ・アレグロ(アレグレッシモ)という、まるで教会ソナタのような配置になっているのは、フルート・ソナタと同じです。 しかし、その雰囲気は全く違っていました。第1楽章はとても暗い音楽、ピアノの重苦しいオスティナートの上を、フルートは淡々と音を進めていきます。それが、最後近くになると、突然細かい音符による上行と下降のスケールが始まります。いかにもプロコフィエフらしい難所です。しかし、これはいったい何をあらわしているのでしょう。 第2楽章も、テンポは速いものの、音楽はとても重苦しい行進曲のようなものです。そこに、思い出したようにキャッチーなメロディが現われたりします。 第3楽章は、ピアノの流れるような細かい音符に乗って、夢見るようなテーマが繰り広げられます。 終楽章は、とんでもない変拍子のようでした。その中で、かわいらしいテーマが躍ります。と、終わり近くになって、第1楽章のあのスケールが再現されました。 とても気になったので、調べてみると、それは「墓場を抜ける風」を描写したものなのだそうです。さらに楽譜を見てみると、その部分はヴァイオリンは弱音器を付けるという指示がありました。ですから、実際のヴァイオリン・ソナタを聴いてみると、確かにそれは何とも不気味な響きのヴァイオリンによって作られる「風」でしたね。 ブリッソンは、それをフルートでやろうとしたのでしょうが、結果的には、それは単なる「曲芸」の域を出ない、お粗末なものでした。まずは、ヴァイオリンでは低い音から続くスケールですが、フルートでは出ない音の前でオクターブ上げていたりしますから、スケールになっていません。そして、フルートでは、弱音器の効果は全く期待できません。 彼女の前に、だれもこの曲をフルートで吹こうとした人がいなかったことが、納得できました。おそらく、ブリッソンは、その無謀な企てに挑んだ最初で最後の人となることでしょう。さも、知っているようなそぶりで(それは「ブリッコ」)。 「フルート・ソナタ」では、別の意味での驚きがありました。 ![]() でも、原典版では、ここは下がっていることが分かりました。彼女はそれをそのまま演奏していただけだったのですね。 ![]() CD Artwork © Disques Atma Inc. |
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それ以降、いくつかの団体によってこの作品は演奏されていますが、その中の一つ、ヨーゼフ・オレフィロヴィッツ指揮のバイエルン放送合唱団と、ミュンヘン放送交響楽団との2024年2月のライブ録音が、今年になってBRからリリースされています。 この作品は全曲演奏しても30分ちょっとしかないので、REFERENCE盤では同じ作曲家の別の作品がカップリングされていますが、BR盤はこれ1曲で一つのアルバムとして配信されています。「EP」というスタイルなのでしょうね。 「現代音楽」でありながら、これほどの短期間に2種類もの録音がリリースされるというのは極めて異例なことなのではないでしょうか。さいわい、いずれもすぐに聴くことが出来ますから、まとめてご紹介させていただきます。 この「交響曲」は、5つの楽章から成っています。それぞれに、「1.Evolution(進化)」、「2.Ambition(野心)」、「3.Destruction(破壊)」、「4.Lament(嘆き)」、「5.Recovery(回復)」というタイトルのトッド・ボスという人が書いたテキストが使われています。それは、この「Earth(地球」」に人類が誕生して、様々な文化を作り技術が開発されたものの、結局自らのエゴですべてが破壊されてしまった後、人類がいなくなった地球は、やっと元の姿に戻れた、という、超未来の地球が、自分の言葉でその過去のことを語っている、というものです。 それは、彼女(「母なる地球」ですから)が生まれてから40億年を遡るという、壮大な記憶です。アイディアとしては、なかなかのものではないでしょうか。 1曲目では、人類が誕生し、彼らは文化や科学技術を駆使して進化していきます。地球はその未来に大きな期待を抱きます。 2曲目では、手作りの羽を付けて、自由自在に飛べるようになったものの、太陽に近づきすぎて、その熱で羽を固定している蜜蝋が溶けてしまって墜落してしまった、というギリシャ神話のイカロスの逸話が引用され、科学技術を過信した人類の驕りが描かれます。その時に流れる音楽には、世界最古の音楽と言われている、ギリシャの楽器を使ったメロディが使われています。でも、それは音楽としては、なんのメッセージも感じられないものでしょうね。REFERENCE盤のジャケットが、そのイカロスです。黒いものはイカスミでしょうか。 3曲目は、その驕りがさらに高まった結果起こった自然破壊による大惨事が描かれます。後半では、まるでゴジラが暴れまわっているような光景が描かれているのでは、というほどのサウンドが響き渡ります。 4曲目では、突然よく知っているメロディが登場します。それは、ヘンリー・パーセルのオペラ「ディドとエネアス」の最後近くでディドが歌う「When I am laid in earth」というシャコンヌがベースになっているアリアです。確かに、この曲は「ディドのラメント」と呼ばれている、悲しみに満ちたメロディを持った曲ですが、なぜそれをここで使う必要があったのか、という疑問が激しく湧いてきました。作曲家は、なぜ、自身の音楽で勝負をしなかったのでしょう。 最後の5曲目では、人類がいなくなってまた美しい地球が蘇る、という歌詞が歌われます。「ツタはあらゆる通りを回復し、海藻はあらゆる排水溝を飲み込み、森林はあらゆる人間の汚点に魔法をかけるだろう」という、トッド・ボスの書いた歌詞には、確かに静かに訴えかける力があることは否定できません。 そして作曲家は、この作品について「最も差し迫った環境問題をまったく新しい方法で問いかけている」とまで言っています。でも、そのコンセプトには共鳴できるものの、先ほどのパーセルの安直な引用などからは、音楽的な真摯さはほとんど感じることは出来ません。はっきり言って音楽としてはこれは「駄作」でしかありません。 Album Artwork © Reference Recordings, BRmedia Service GmbH |
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このマーラーの2番も、やはり同じレーベルと同じオーケストラで、2010年に録音していましたね。「6番」も同じオーケストラと2007年に録音していました。 そんな、主にドイツで活躍していた指揮者だったので、彼女がオーストラリア出身だったことを初めて知って、ちょっと驚いていました。彼女は、2022年から、故郷オーストラリアのオーケストラ、シドニー交響楽団の首席指揮者を務めていたのですね。 そして、その年の7月に行われたのが、シドニーの観光名所で、世界文化遺産にも登録されているというシドニー・オペラハウスの改修工事の終了を祝う記念コンサートでした。この建物は1973年に完成されていますから、それから50年を迎えるにあたっての、リニューアル工事が行われていたのですね。 「オペラハウス」と言っていますが、この建物はオペラ専用の劇場の他に、コンサートホールや演劇のためのホールなどが集まった複合施設なのですね。それらがそれぞれ、あの貝殻のような屋根を持っているので、あのようなインパクトのある外観になっているのです。 ですから、この記念コンサートは当然収容人員が2679人という巨大なコンサートホールで行われました。改修前のホールの中の写真はこれ。 ![]() ![]() オペラハウスの方は座席数は1507。オペラには最適な広さですね。ここは、オーストラリア出身の大歌手の名前を冠して「ジョーン・サザーランド・シアター」と呼ばれているのだそうです。 このアルバムでは、マーラーに先立ってウィリアム・バートンの「Of the Earth」という曲の世界初演が行われていました。作曲者のバートンは、アボリジニーで、民族楽器であるディジュリドゥの演奏家です。 ![]() マーラーの方は、ライブということもあって、とても表情豊かな演奏になっていました。第1楽章などは、弦楽器では、これ見よがしにポルタメントを強調していましたね。ソロ・フルートなども、羽目を外す一歩手間でかろうじて踏みとどまっている、という感じでしたね。 ですから、そんなベタベタの楽章のあとでは、次の第2楽章では、もっとあっさりした演奏を聴きたかったのですが、やはりそうはなりませんでしたね。 終楽章も、合唱が出てくるまでの様々なエピソードがちょっと重たかったせいか、その合唱のピアニシモには引き付けられました。何よりも、言葉がはっきり聴こえてくるのがいいですね。メンバーはおそらく200人を超えているはずですが、しっかりコントロールされているようです。ただ、それがフォルテになると、ちょっと雑かな、と思えるような瞬間も多々ありましたね。 そして、合唱と一緒に歌っているソプラノが、なんかピッチが微妙なんですよね。いつも思うのですが、あの部分はソロを入れずに合唱だけで歌う方がいいのではないでしょうか。 こちらの拍手は、ブラヴォーの嵐で大盛り上がりのようでした。 CD Artwork © Universal Music Australia Pty. Ltd. |
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すでに、フィルハーモニアとはチャイコフスキー、ストラヴィンスキー、プロコフィエフ、リヒャルト・シュトラウス、ショスタコーヴィチ、そしてマーラーと、数多くのアルバムをSIGNUMレーベルからリリースしています。 そして、エーテボリとは、置き土産のようにALPHAレーベルから、シベリウスの交響曲ツィクルスを完成させていました。今回の6番と7番というカップリングのアルバムが、その最後のものになります。 この2つの交響曲は、あまり有名ではありませんが、おそらくなんの先入観も持たずに聴いた人でも、これらの曲の魅力に取りつかれてしまうのではないか、と思ってしまうほどの、なにか引き込まれるような魅力を持った演奏でした。 まずは、これまでのアルバムもそうでしたが、ここでは一段と録音のクオリティが上がっているようです。特に、弦楽器の瑞々しさは、往年のDECCAサウンドが思い起こされるほどの、豊饒な響きで、そこからはとてもゴージャスなサウンドが産まれていました。 そして、ロウヴァリの、慣習に毒されていないとても新鮮な表現は、どんなところからもしっかりと「歌」が感じられ、そこからはおのずと写真ではよく見ていたフィンランドの風景が眼前に浮かび上がってくるのですよ。湖の上を飛び交う鳥の群れ、とかね。 正直、例えばフルートなどは決して最高のプレーヤーという感じはしないし、アンサンブルも微妙なのですが、そんなことは全く気にならないほどの、全体としての一貫性が見事に聴こえてくるのです。 どのアルバムにも交響曲以外に1曲「おまけ」が入っているのですが、今回はシベリウスの最後のオーケストラ作品「テンペスト」です。シェイクスピアの戯曲のための音楽で、交響曲とは違うキャッチーさがありますね。 ロウヴァリは1985年11月生まれですから、現在は39歳なのでしょう。もはや「若手」とは言えない年齢になってはいますが、いまだにそのルックスは若々しいですね。 実は、その姿を、この街で実際に目にする機会があったはずでした。それは2020年3月10日に、彼が指揮をするエーテボリ交響楽団のコンサートが予定されていたからです。 ![]() そして、この幻のロウヴァリの後も、コロナが終息したにもかかわらず、これまでにこの田舎街にやってきた外国のオーケストラは皆無でした。実際問題として、この街には、そんな外国のオーケストラの経費に見合う客席数のある音楽ホールがありませんから、もはや興行主からはそっぽを向かれてしまっているのでしょうね。 そして、そんな現状を打開するためでしょうか、もう数年もするとそのような大ホールが2つも出来ることになっているのですが、いずれも大オーケストラを聴くには、音響的にはあまり期待が出来ない「欠陥ホール」になってしまいそうなのですね。いずれのホールにもパイプオルガンは設置されていませんし。パイプ椅子ぐらいはあるでしょうが。もはや、この田舎街では、外国のオーケストラを生で聴くことはできないのかもしれません。 CD Artwork © Alpha Classics / Outhere Music |
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ここで演奏しているのは、これもやはり初めてお目にかかった、ウィリアム・ダウドールという方です。ブックレットの写真を見ると、かなりのお年のように感じられますが、そんな外観を完全に裏切った、とても若々しい演奏を聴かせてくれています。 彼はアイルランドのダブリンで生まれ、12歳の時から、アメリカに渡り、クリーヴランド音楽院で当時のクリーヴランド管弦楽団の首席奏者、モーリス・シャープからフルートを学んでいました。21歳の時にアイルランドに戻り、最初はRTE(アイルランドの国営放送局)のオーケストラ、続いてアイルランド国立交響楽団の首席フルート奏者となり、そこで25年間活躍します。そして、2004年から今日まで王立アイルランド音楽アカデミーのフルートの教授としての職を続けています。単純に計算すると、このアルバムは2023年に録音されているようですから、その時は65歳ということなのでしょうか。フルーティストとしては、まだまだ若いですね。 彼がここで使っている楽器は、フランスの「ルイ・ロット」です。現在のフルートを完成させたテオバルト・ベームからライセンスを取得して、最初にフランスでフルート製作を始めた一族による楽器ですね。ブックレットの写真から、シリアル・ナンバーは「5316」と読めます。1891年に作られた楽器ですから、4代目のバラットが作った楽器ですね。 ![]() この中の曲は、1曲だけ2本のフルートで演奏されますが、それ以外は全てフルート1本だけのための作品です。この時代のフランスでは、まさにこの「新しい」フルートのための曲がたくさん作られ、それは現在でもフルーティストたちには欠かせないレパートリーになっています。その代表作は、なんと言ってもドビュッシーの「シランクス」でしょう。ドビュッシーは、この曲ではもっぱらフルートの低音と中音だけを使って、独特のニュアンスを表現させようとしています。ですから、このルイ・ロットの柔らかな音色はまさにうってつけ、ダウドールは、ここから、まさに匂いたつような馥郁たるサウンドを醸し出しています。 ボザの「イマージュ」や、フェルーの「3つの小品」などでは、さらに高音のキレの良さも味わえます。メカニカルなスキルも求められる曲ですが、それは軽々とクリア、心地よい風が吹き抜けるような爽やかさが漂っています。 レオナルド・デ・ロレンツォという人が作った「神話組曲」というのは初めて聴きましたが、まさに「シランクス」の進化形のような趣がありますね。 そして、この中で最も多くの作品が演奏されているのが、シャルル・ケックランです。ここでは「ソナタ」と表記されているOp.184の中の3つの曲がすべて演奏されています。楽譜のタイトルは「ソナチネ」なんですけどね。 ![]() ![]() この中には、1曲だけ、フランス人ではない作曲家の作品があります。それは、ダウドールと同郷で、おそらく同世代のアイルランドの作曲家、ジョン・バックリーの「Les oiseaux rêvent dans les arbres」という、その英訳がタイトルになっている作品です。まさに、ドビュッシーの「シランクス」と、オネゲルの「牝山羊の踊り」(ここでは演奏されていませんが)を一緒にしたようなものに、鳥の鳴き声を加えたという曲で、和みます。 CD Artwork © Atoll Records |
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キングズ・シンガーズのレーベルは、1971年のデビューアルバムこそCHANDOSでしたが、1973年のセカンドアルバムからはEMIに変わります。そして、1992年から2000年まではRCA、さらに2003年からは現在のSIGNUMという変遷をたどります。 その間にはメンバーも入れ替わっています。もちろんオリジナルメンバーは今では誰もいません。それぞれのパートで、今のメンバーは5代目とか6代目になっていますからね。ごく最近では、ベースのパートが、14年間在籍していたジョナサン・ハワードからピアーズ・コナー・ケネディに変わっています。彼は、初代のブライアン・ケイから数えて5代目のベーシストとなったのですね。ギタリストではありません(それは「ブライアン・メイ」)。公式サイトに、こんな写真がありました。 ![]() (左:5代目、右:初代) オープニングは、アルバムタイトルのエルトン・ジョンの「The Circle of Life」です。あの「ライオン・キング」のテーマ曲ですね。バックのリズムがきっちり決まっていて、その上に乗った彼らのきれいなハーモニーが響き渡ります。オリジナルの持つキャッチーさをそのままにした、素敵なアレンジです。 ア・カペラの最初の曲は、ザ・ビーチ・ボーイズの「Kokomo」です。トム・クルーズの「カクテル」のテーマ曲ですね。これも、オリジナルを大切にした、その頃はメンバーだったボブ・チルコットのアレンジが気持ちいいですね。ほとんど完コピのような感じですが、オリジナルにはない高音のパートが、彼ららしさを演出しています。 6曲目には、ポール・マッカートニーの「Live And Let Die」、「007/死ぬのは奴らだ」のテーマ曲ですね。これも、オリジナルに沿ったアレンジですから、テンポが目まぐるしく変わります。その最初のパートでは、おそらくテナーのチルコットのソロが入るのですが、それが最悪なんですよ。そう、彼はビル・アイヴスの後任者として、1985年から1997年までこのパートを務めていたのですが、作曲家としての実力とは裏腹に、個人的には、シンガーとしてはちょっと問題があったのではないか、と思っています。ですから、彼が参加しているアルバムは、どれを聴いても彼の存在が著しく足を引っ張っているように感じられるのですね。 最後から2番目のトラックは、ドリー・パートンが作って自ら歌っていた曲を、その頃はホイットニー・ヒューストンがカバーして世界中でヒットしていた「ボディガード」のテーマ曲「I Will Always Love You」なのですが、そのソロもチルコット、これもとても情けない歌い方でしたね。 例えば、その前のトラック、ベット・ミドラーが歌った映画「Rose」の主題歌などは、ここではア・カペラで歌われていて、そのコラール風のシンプルなハーモニーはとても素晴らしく、チルコットもパートの中できっちりその仕事は果たしているのですが、ソロとしては使い物にならないのですね。 チルコットが在籍していた間は、まさにキングズ・シンガーズの「暗黒期」だったのではないでしょうか。それは、ポール・フェニックスの参加によって終わり、現在は日系人のパトリック・ダナキーによって、過去の栄光を取り戻しています。 Album Artwork © BMG Classics |
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先ほどのデビュー・アルバムを聴いた時には、その録音の素晴らしさに感心してしまったので、彼らの演奏そのものに関してはそれほどの感慨はありませんでした。しかし、今回のアルバムでは、その完成度の高さには完全に圧倒されてしまいました。まずはそのピッチの正確さに驚かされます。それによってもたらされるハーモニーは、まさに完璧です。しかも、音色が、パート内でもパート間でもとてもきれいに混ざり合うものですから、人間の声ではなく、まるで楽器の合奏を聴いているのではないか、というほどの澄み切った響きが産まれています。これはほとんど奇跡。 そのスキルは、彼らが今回選んだレパートリーには、これ以上はない、というほどの力を発揮しています。このアルバムのテーマは「光」、それは、まさに世界が創造される時に最初にあったものなのでしょうが、その輝きがどの曲からもしっかりと放たれているのですから。 前回同様、ここでは、合唱以外に、オルガンも参加しています。アルバムの冒頭、ジョナサン・ダブの「Seek Him that Maketh the Seven Stars」では、まずそのオルガンの高音のストップがキラキラした輝かしいモティーフを奏でるだけで、周りは光が満ちてきます。そして聴こえてくる合唱は、まさに「癒し」の極致、かとおもうと、その後はオルガンと一緒に壮大なクライマックスを繰り広げるという、スペクタクルなものに変わります。 その次に歌われているのが、ジョン・ラッターの「Hymn to the Creator of Light」、これはア・カペラです。やはり、創生の時の混沌を表現したような不思議なモードによるテーマが、後半は明るく喜びいっぱいになる、美しいハーモニーに変わるという、この作曲家ならではのキャッチーな作品です。とにかく、合唱がよくハモっていますから。 そんな風に、現代の作曲家の作品が殆どという中で、いきなりトマス・タリスなどが登場します。まずはプレイン・チャントがユニゾンで歌われた後、そこにハーモニーが付けられるのですが、ここではそれが男声だけのアンサンブルで歌われます。響きのピュアさは、ここでさらに高まります。 そして、それに続いて、マイケル・ギャレピーとマシュー・マーティンという2人の現代の作曲家が、同じテキストで、やはりプレイン・チャントを素材にした作品を披露しています。 そレからしばらくして聴こえてくるのが、チャールズ・ウッドという、ちょっと昔の作曲家の「Hail, gladdening light」という曲なのですが、その雰囲気が、ブルックナーのモテットにとてもよく似ていることに気づきました。もうちょっとエンタメ性がありますが、ハーモニーといい、転調の手法といい、そっくりです。彼らがブルックナーのアルバムを作ってくれたら、とても素晴らしいものが出来上がることでしょうね。ぜひ聴いてみたいものです。 そして、1曲だけ、日本人の作曲家松下耕の作品も取り上げられています。「O lux beata Trinitas」という、他の曲とはがらりと変わったテイストの、シンコペーションを多用したとてもリズミカルな曲です。ですから、メンバー、特にソプラノが、全く別のキャラクターになっています。この曲は、作曲家自身が指揮をした録音もサブスクで聴けますが、音楽の出来としては雲泥の差でした。 ジョン・キャメロンという人が作った「Lux aeterna」という曲は、同じタイトルのリゲティの作品とは何の関係もありません。というか、これはエルガーの有名なオーケストラ曲の「エニグマ変奏曲」の中の第9変奏「ニムロッド」を、そのままア・カペラのために編曲しただけのものでした。それは、原曲の静謐さをそのまま合唱で味わうことができるという優れものですが、おそらくこの合唱団だからこそ、そのような完成度に迫ることが出来たのでしょうね。 さらに、エリック・ウィテカーの作品「Sleep」まで聴くことができます。これも、ゾクゾクするピアニシモが味わえる、とびっきりの名演です。 CD Artwork © Alpha Classics / Outhere Music |
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さらに、1966年にはイギリス室内管弦楽団を指揮して、指揮者としてもデビューします。その後は1975年から1989年まではパリ管弦楽団、1991年から2006年まではシカゴ交響楽団の音楽監督を務めます。その一方で、客演指揮者としても世界中の有名なオーケストラの指揮を行っています。 さらに、オペラのジャンルでも、1981年から1999年にかけては、ほぼ毎年のようにバイロイト音楽祭の指揮者を務めていましたし、1992年から2023年まではベルリン国立歌劇場、その期間中の2012年から2017年までは同時にミラノのスカラ座の音楽監督も務めるという、まさに八面六臂の活躍ぶりでした。 ですから、コンサート以外にも、レコーディングも非常にたくさん行っています。ある資料によると、彼がこれまでにリリースしたアルバムは533枚あるというのです。これは、あのヘルベルト・フォン・カラヤンの公式のアルバム数の481枚を超えているのですよ。もっとも、バレンボイムのものは指揮者としてだけではなく、ピアニストとしてのアルバムも一緒になっていますし、カラヤンの場合は、実際に録音を行ったのは51年間ですが、バレンボイムは62年間と、ちょっと長くなっていますけどね。つまり、1年あたりのアルバムのリリース数は、カラヤンは9.4枚、バレンボイムは8.9枚になります。 レーベルは、カラヤンの場合はほとんどEMIとDGでしたが、バレンボイムはもっといろいろあったようで、適宜使い分けていたようですね。彼もEMIとDGとの縁はかなり深いものがありますが、それに加えてWARNERに吸収されたERATOやTELDECからも、かなりのものがリリースされています。 いずれにしても、あのカラヤンにこれほど拮抗しているのですから、存命中の指揮者としては、最も録音数が多いことになるのではないでしょうか。例えば、ちょっと前までグラミー賞を最も多く受賞したアーティスト(現在はビヨンセ)だったゲオルク・ショルティの生前のアルバムは250枚ぐらいですからね。 そのショルティの後継者として、シカゴ交響楽団の音楽監督となったのがバレンボイムだったのですが、就任の翌年、1992年に録音されたヨハン・シュトラウス2世のワルツなどを集めたアルバムが、最近デジタル・リリースされました。オリジナルと同じERATOレーベルとなっています。 ![]() おそらく、この時点までは彼がこのような作品を演奏することはまずなかったのではないか、という気がします。曲目を見てみても、すべてとてもよく知られている「名曲」ばかりですから、彼にそのようなサービス精神があったとは思えないのですが、どうでしょうね。レーベルの意向で、こんな曲で行こう! みたいな。 ですから、ここでは彼は、こんな俗っぽい、言ってみればただの「ダンス音楽」を、ベートーヴェンやブラームスと同格のシリアスな音楽として作り上げていたのでは、という気がします。弦楽器などは、ショルティによって磨き上げられたアンサンブルを駆使して、どんなに細かい音符でもまさに一糸乱れぬ正確さでものにしているのですからね。ほんと、その精密なアンサンブルを聴いてしまうと、他の演奏がいかにいい加減だったかをまざまざと見せつけられてしまいますよ。 そして、バレンボイムは、そのような絶妙のアンサンブルを保持しながら、とても生命感にあふれた表情を付けようとしています。あるときはダイナミクスを、そしてある時はテンポを自由自在に操って、ちょっとこんな曲にはもったいないほどの貫禄を与えているのです。 もちろん、ワルツのビートを、ウィーン風にちょっと「訛らせる」といったような小細工は全く行ってはいませんでした。後に、2009年、2014年、2022年の3回、実際にウィーン・フィルと行なうことになるニューイヤーコンサートでは、その点はあっさり妥協していましたけどね。その代わり、今までやってなかった曲目がてんこ盛り、というのが、彼なりの矜持だったのでしょう。 Album Artwork © Parlophone Records Limited |
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おそらく、ヘンデルの作品の中では最も有名な曲が、このうちの「水上の音楽」なのではないでしょうか。なんたって、小学校の教科書に載っているのですから、どんな人でも生涯に必ず1度は聴いたことがあるはずです。とは言っても、もちろん教科書ですから、聴かせるのはその中の1曲だけで、全曲を聴く機会はほとんどないかもしれませんね。 ただ、音楽を聴くときに、一緒に説明されたであろう、それが演奏された時の状況は、よく知られているのではないでしょうか。それは、ヘンデルは当時はイギリスで活躍していたのですが、その前はドイツのハノーファーの宮廷に楽長として仕えていたものが、ロンドンが気に入って、そこの選帝侯のゲオルク・ルートヴィヒの命に背いてロンドンに定住したところ、しばらくしてその選帝侯が「ジョージ1世」となって新しいイギリス国王に就任したので、そのばつの悪さを解消するために、この音楽を作って王の機嫌を取った、というものですね。 しかし、現在では、これは本当の話ではなかったということが分かって来たそうですね。つまり、ベートーヴェンが「交響曲第5番」の冒頭のテーマを「このように運命は扉をたたく」と言ったのだ、という、弟子のシンドラーの言葉が、今となっては全くのフェイクだったことが分かっている、というのと同じようなことなのでしょう。こういうことは、研究が進むにつれて、ファンタジー感が薄れてくるものなのでしょうね。 ということで、現在では、ハノーファーから宮廷のスタッフ(と、愛人)を丸ごと連れてロンドンに赴いた新しい国王は、もちろんドイツ人ですからまともに英語もしゃべれず、国民からの好感度は著しく低かったので、それを挽回するために華々しいイベントを開催し、そのための音楽を、当時の人気作曲家ヘンデルに依頼した、というのが定説になっているようですね。それは、1717年7月17日に行われました。 さらに、その音楽自体も、かつては3つの調性の異なる組曲が集まったもの、という概念で、1986年にベルント・バーゼルトによって作られた「ヘンデル作品主題目録番号」、いわゆる「HWV」でも、「第1組曲 ヘ長調 HWV 348」、「第2組曲 ニ長調 HWV 349」、「第3組曲 ト長調 HWV 350」と、3つの番号が付けられていました。そもそも、ヘンデルの自筆稿というものは見つかっていなかったのですね。 しかし、2004年になって、イギリスの音楽学者テレンス・ベストによってヘンデルの専属写譜師による1718年の手筆稿が発見されましたが、そこには、「水上の音楽」の全楽章が1つの組曲として記録されていたのです。そこでは、第2組曲と第3組曲だったものの曲順も変わっていました。彼はそれを元に2008年に、新たな校訂版をベーレンライターから出版します。今回のルクスの録音では、この楽譜が使われています。 このバージョンは初めて聴きましたが、後半、かつての「第2組曲」と「第3組曲」の部分では、ソロ楽器の配分が絶妙で、聴いている人たちを楽しめようという思いが感じられました。 カップリングの「王宮の花火の音楽」は、やはり野外でのイベントのために1749年に作られました。しっかり準備がされてましたよ(「応急」ではありません)。ただ、それは国王(このころは息子のジョージ2世)によって管楽器のみで演奏されるように強いられたバージョンでしたから、その直後ヘンデルは弦楽器も加えたものに改訂します。ここではもちろんこちらが演奏されています。 いずれの曲も、このチームの、とてもフットワークが軽く、風通しの良い演奏が心地よいですね。これを聴いてしまうと、もうハーティ版のようなまがい物の出る幕はないな、と思ってしまいます。 CD Artwork © note 1 music gmbh |
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おとといのおやぢに会える、か。
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