|
ヘルニア国物語。
そのようにして、1980年の創設以来のすべてのアルバムを聴けるようになるのですから、これはちょっとすごいことです。我々がアルバムを聴く唯一の手段だった「レコードを買って聴く」という行為は、今では「インターネットで聴く」という形に変わっています。そのことによって、レーベルは在庫としてのCDを持たなくても、アルバムを聴いてもらえるようになりました。それは、実質的に「廃盤」というものをなくすことになるのですから、レーベルにとっても、そしてリスナーにとってはこれほどありがたいものもありません。 そんな、HYPERIONの新規のストリーミングは毎日のようにアップされていました。それぞれのタイトルを見ていると、このレーベルのレパートリーがとても多岐にわたっていることが如実に分かります。一応、このレーベルの「売り」は、「12世紀から21世紀まで」ということになっています。これは、普通に聴かれる「音楽」の作られた時代をほぼすべて網羅していることになります。そして、それぞれの時代を代表する作曲家、いや、ほとんど誰も知らないような作曲家についてまでも、ジャンル別に1曲残らず収録するという「全集」が作られていたりします。 そんな中に、確か1998年にリリースされていた、こんなアルバムがありました。録音されたのはその前年、タイトルは「クセナキス」です。そこでは、この名前のルーマニア生まれのギリシャ系フランス人(普通は「ギリシャ人」と言われています)が作った合唱のための作品が5曲収められていました。 これは、個人的にはとても懐かしいアルバムでした。それまでに、クセナキスの作品で録音されていたものはほぼすべて聴いていたのですが、1枚すべてが合唱曲というのは、初めてでしたからね。ですから、これはかなり貴重なアルバムでした。というか、HYPERIONにはクセナキスの曲は、このアルバム以外には1曲もありません。 ですから、それから20年以上経って、もちろんオリジナルのCDはすでに廃盤になっていますが、それがこのような形で誰でも聴けるようになったというのは、画期的なことに思えます。 調べてみたら、クセナキスの全作品の中で、合唱が加わっているものは、全部で20曲ほどあるようですね。ただ、それらをすべて網羅したアルバムなどは、まだこの世にはないようです。中にはオーケストラとの共演という、経費の掛かる作品もありますから、おそらくそのようなものはこれからも作られることはないのではないでしょうか。 そして、とりあえず、合唱と、少しの楽器だけで録音できる曲だけでも集めてアルバムを作ろうとした人も、ここで指揮をしているジェイムズ・ウッド以外には誰もいなかったようですね。たとえば、クセナキスの合唱曲としては最もよく知られている1968に作られた「Nuits(夜)」という12人のソリストと混声合唱のための作品などは、他の「現代合唱曲」とのカップリングで、数多くのアルバムに登場しています。しかし、このアルバムの中では最も「新しい」、1990年にここでの演奏者、ウッドとニュー・ロンドン室内合唱団の委嘱によって作られ、同じ年にそのメンバーが初演を行った「Knephas」という作品などは、NMLなどのサブスクでは、このアルバム以外では聴くことは出来ません。1977年に作られた「À Colone」もそうですね。 そんな「秘曲」を、こんな機会にぜひ聴いていただきたいものです。合唱曲というよりは、「舞台作品」に近い「Medea(1967)」などは、まるでカール・オルフか、と思ってしまうほどのあっけらかんとしたオスティナートの応酬で、「難解」とは正反対のクセナキス像を提供してくれています。このアルバム、何回聴いても飽きませんよ。 ところで、クセナキスと言えば、あの大井浩明さんが、こんなコンサートを開催するそうですよ。 CD Artwork © Hyperion Records Limited |
||||||
スイス出身のメゾ・ソプラノ、マリーナ・ヴィオッティがモーツァルトのアリアなどを歌っているアルバムだからなのかな、と思っていたら、その「メゾ」にはもう少し複雑な意味が込められていることが分かりました。 そもそも、現在は女性の歌手の音域としては、高い順にソプラノ、メゾ・ソプラノ、アルト(コントラルト)の3つがあるとされていますが、モーツァルトの時代には、この「メゾ・ソプラノ」という言葉自体がありませんでした。ただ、逆に今ではなくなったもう一つの「声」の言葉はありました。それは「カストラート」です。男性なのに、変声期を迎える前に去勢されて、高い声のままで歌えるようになった「男性ソプラノ」のことですね。 ですから、モーツァルトが楽譜に「ソプラノ」と書いた場合は、それが女性のソプラノなのか、カストラートなのかを判断しなければいけません。 大抵の場合、このカストラートのパートは、ソプラノよりも力強い表現が与えられていたようです。それは、現在のメゾ・ソプラノの持つ、力強さと同質のものだったのでしょう。そんな「メゾ」のレパートリーが、ここでは歌われているのですね。このジャケットの写真の、背中に掘られたタトゥーには、そんな意味が込められているのでしょうか(本物?)。 彼女に言わせれば、それは具体的には、「コジ・ファン・トゥッテ」ではデスピーナやドラベッラ、「フィガロの結婚」ではスザンナやケルビーノ、「ドン・ジョヴァンニ」ではツェルリーナやドンナ・エルヴィラなのだそうです。 ここでは「ドン・ジョヴァンニ」のナンバーは歌われてはいませんが、「コジ」と「フィガロ」の曲は歌われています。 その、スザンナが歌うアリア、「Deh vieni, non tardar(恋人よすぐここに)」を録音している時の映像が見られるようになっていますが、バックを務める、ステファン・マクラウド指揮のリ・アンジェリ・ジュネーヴが、チェロ以外は全員が立って演奏しています。 ![]() そして、このアルバムを聴いてみると、その録音が素晴らしいことに気づきます。エンジニアはTritonusのマルクス・ハイランドだということで納得なのですが、まずはヴィオッティの声がとても瑞々しく、存在感を主張しています。アンサンブルの楽器も、それぞれがとってもキャラクターが立っていて、生き生きとしているのですよ。コンサート・アリアの「Ch'io mi scordi di te(どうしてあなたが忘れられましょう)」では、オブリガートで、セバスティアン・ヴィーナントのフォルテピアノが聴けるのですが、その音の粒立ちの良さには感服です。「ティトの慈悲」のセストのアリア「(Parto, ma tu ben mio)私は行くが、あなたは私の大切な人です」などという渋い曲でのクラリネットのオブリガートも、美しかったですね。 一番堪能したのは、有名なモテット「Exsultate, jubilate(踊れ、喜べ、汝幸いなる魂よ)」です。4つの部分から出来ている、とても難しい曲ですが、あるところではしっとりと聴かせてくれ、またあるところではコロラトゥーラの妙技を軽々と披露してくれていて、心から楽しめました。「アレルヤ」の最後は、もちろん「ハイC」でしたね。ここではオルガンまで聴けます。 最後に、大好きな、「ハ短調ミサ」の2曲目、「Laudamus te」が聴けたのも嬉しかったですね。このミサ曲でも、ソプラノは2人指定されているのですが、やはりこの曲が「メゾ」のために作られたことが、よく分かります。 CD Artwork © Little Tribeca |
||||||
この合唱団が、この2Lレーベルに登場するのは創設直後の2002年でした。その「Ars Nova」というタイトルのアルバムでは、録音スペックはPCMの16bit/44.1kHzという、CDそのものでした。それが、2枚目の「Immortal Nystedt」(2004) になると、録音は24bit/48kHzのPCMをDSDに変換したハイブリッドSACDになり、同時に5.0マルチチャンネルでもサラウンド再生ができるようになります。そして、3枚目の「KIND」(2010)になると、録音がDXD (24bit/352.8kHz)になり、SACDの他に24bit/192kHzでステレオとマルチチャンネルが聴けるBD-Aも同梱されるようになります。さらに、2016年の「So is my love」では、BD-Aでは単なるサラウンドだけではなく、ドルビー・アトモスのような「イマーシヴ」のミックスも加わっていました。 こうして見てくると、彼らはまさに録音技術の進化とともに、アルバムを作ってきた、ということになりますね。もちろん、それは、常に最先端のテクノロジーを製作に取り入れてきたリンドベリの向上心の賜物なのでしょう。そのおかげで、このレーベルはグラミー賞も受賞できました。 この合唱団は、現在の指揮者のニーナ・T・カールスンが就任した2011年から、毎年秋に「平和」というタイトルのコンサートを開催していました。そこでは、そのタイトルに即した、新しい作品などが紹介されていました。今回共演しているカレント・サクソフォーン・カルテットも、このコンサートに2回ほど参加していたそうです。甘くておいしいですね(それは「カリント」)。 ということで、このアルバムでは、このサックス・カルテットが5曲中の3曲にフィーチャーされています。しかも、そのうちの1曲は、このカルテットだけのトラックです。正直、この楽器については、なんとも雑で無神経だという印象しかありません。何しろ、音がバカでかいですし、常にいやらしいビブラートを伴って演奏されているようなので、とても下品に感じられるのですね。ですから、このアルバムも、そんなメンバーが一緒なので、入手するのはちょっと躊躇っていたのですよ。 ところが、ここで合唱と一緒に演奏している最初と最後のトラックのいずれもマッティン・ウーデゴル(Martin Ødegaard)という人が作った「PAX」と「LUX」という曲でのこの楽器の使い方が、例えばキーノイズで打楽器のような音を出すとか、実際の音を出さずに息だけを聴かせるといったような「前衛的」なものでしたから、完全に、それまで抱いていた嫌悪感など吹っ飛んでしまうようなインパクトがありました。 そんな中で、合唱も、もちろんリスナーの周りを取り囲むような定位になっていて、その空気感と、全く歪が感じられない、生々しい存在感を実現させていた録音で、そのクオリティの高さに改めて感服です。 さらに、そのサックス・カルテットだけのトラックが秀逸でした。それはアイオルフ・ドーラ(Eyolf Dale)という人が、まさに彼らのために作った「A Current Peace」という小曲なのですが、まずは、その演奏で、彼らはほとんどビブラートをかけていないことに驚きました。そうなると、これらの楽器が奏でるハーモニーが、ほとんど合唱と変わらないようなピュアなものに聴こえてきます。作品自体も、ほぼコラールのような曲調ですから、とても癒されます。サックスというのはこんなことも出来るのだな、と、認識を新たにしましたよ。 あとの2曲は、ア・カペラの曲です。セシリ・ウラ(Cecilie Ore)という人の「Speak LOUDER!」というのは、テキストが英語なのでストレートにそのメッセージ(自然破壊への警告?)が伝わってきます。音楽的には、ほぼレシタティーヴォ、と言った感じでしょうか。 そしてスティーヌ・ソーレ(Stine Sørlie)という人の「Pollination(受粉)」では、声だけで電子音のようなものを出すという試みが面白かったですね。 ※ここでの人名表記は、Google翻訳での発音を採用しています SACD & BD Artwork © Lindberg Lyd AS |
||||||
以前のアルバムは、とても本気で作ったのではないだろうと思えるほどのいい加減なものだったので、これの案内を見た時にも、完全にスルーしようとは思っていました。それでも、一応プロコフィエフとフランクという、とても有名なフルート・ソナタ(フランクの場合はヴァイオリン・ソナタのトランスクリプション)のカップリングでしたから、冷やかし半分に聴いてみました。なんたって、このカップリングは、あのジェイムズ・ゴールウェイが、マルタ・アルゲリッチをピアニストに迎えて録音した、彼のソロ・デビューアルバムと全く同じなのですからね。 ![]() まずは、プロコフィエフから聴き始めます。録音自体はかなり雑、特にピアノの音はとてもキンキンしているうえに、まるでホンキートンク・ピアノのように、調律もいい加減みたいに聴こえてきます。フルートは、とても押し出しの強い音に録れていますから、このフルーティストはかなりのテクニックの持ち主であることだけは、存分に伝わってきます。 それが、しばらく聴いていると、聴きなれたはずのこの曲のピアノのパートから、まるで初めて聴いたもののように新鮮なフレーズがあちこちで聴こえてきたので、ちょっと驚いてしまいました。それは、もう、そのフルーティストとの真剣なバトルのようにさえ聴こえてきます。隙があればフルートの間にピアノの一撃を与えて、聴くものに印象付けようとしているのではないかと思われるほどの、とてつもない存在感がそこにはありました。 そんな強烈な個性を持ったピアノだったことに気づいてしまってからは、正直フルートの方はどうでもよくなって、それからはずっとこのピアノのパートだけを聴いていたようなものでした。もう、彼女によって繰り出される一撃の数々に、心底圧倒されてしまいましたよ。今まで聴いてきたプロコフィエフのフルート・ソナタはいったい何だったのだ、という思いですね。 それに続いて、フランクが始まった時には、このピアニストは全く別のキャラクターになり切っていました。それまでの攻撃的な態度を完全に封印して、ここではひたすらフランクにふさわしい音楽を繰り広げることに腐心するというスタンスに、ガラリと変わっていたのです。ほんと、第1楽章の前奏などでは、とてもソフトなタッチのハーモニーで、もう夢見るようなうっとりするシーンが広がっていましたね。 ですから、フルーティストも、そんなピアノと同じような雰囲気を出そうとしているのだな、という気持ちだけはとてもよく伝わってきました。たとえば、第2楽章の中間部や第3楽章のようなしっとりとした部分では、確かにそれなりの音と表現に徹しているようでした。しかし、それ以外の、テクニックが前面に出てしまうようなところでは、そのテクニック自体は素晴らしいのですが、そんな力業だけでは、フランクの音楽を伝えることは出来ないのでは、という感じが常に付いて回りましたね。 確かに、歌わせようという意思は、しっかり感じ取ることが出来るのですが、どうもそれがいかにもお約束通り、みたいに聴こえてしまうのですね。そして、本当に歌ってほしいところでは、なんとも無神経にその部分を通過するだけ、という感じですね。 おそらく、それはこのフルーティストの性格の問題なのではないでしょうか。もしかしたら正確さには欠けるかもしれませんが、かれはひたすら力で押し切るというエネルギッシュなものはある半面、繊細な表現はちょっと苦手という、大雑把な人なのかもしれませんね。 Album Artwork © Cri Du Chat Disques |
||||||
ここでは、以前こちらで2013年、彼が84歳の時のライブ録音を聴いていました。その時には、とてもそんな高齢とは思えないような、完成度の高い演奏だったことに驚いたものです。 しかし、彼は、その後もそのフルートのスキルは衰えることは決してなく、それを証明するかのように、演奏活動を続けているようでした。そして、少し前、2022年にリリースされたアルバムには、2019年、つまりちょうど90歳の時の日本でのリサイタルの模様が収録されていたのです。それが、この度ネット配信で聴けるようになりました。 録音が行われたのはその年の8月、会場は昭和音楽大学のユリ・ホールという、客席数が359という小さなホールです。そこはシューボックスタイプのホールで、とてもナチュラルな響きを持っているようで、録音でもグラーフの暖かい音色のフルートが良く伝わってきます。 ピアノ伴奏は、以前から彼の伴奏を務めている田原さえさんです。 曲目は、ヘンデルのフルートソナタハ長調(HWV365)、イベールの「小品」、ヒンデミットのソナタ、フランツ・クサヴァー・モーツァルトの「ロンド」、ジョリヴェの「5つの呪文」から4曲目、そしてマルティヌーのソナタと、モーツァルト以外はフルートにかかわっている人なら必ず知っている曲ばかりです。これが、8月2日のリサイタルで演奏されたすべての曲目のようですが、これだけの曲を吹き切るというのは、若い人にとってもかなりヘビーなのではないでしょうか。まずは、それを90歳の人がやり切ったというだけで、まず驚いてしまいます。 そして、演奏がとても素晴らしいのですよ。もちろん、重箱の隅をつつくような意地悪な聴き方をすれば、ピッチは不安定ですし、ビブラートもかなり幅広いものになっていますが、そんなことは、彼の全く衰えの感じられないテクニックと、美しいフルートの音色を聴いていると全く気にならなくなってきます。 そのテクニックの冴えは、イベールやジョリヴェの無伴奏の曲の場合にはっきりわかります。特にジョリヴェの曲はフラッター・タンギングや重音奏法なども登場する難曲ですが、グラーフはいともあっさりとその難関を何回も通り抜けていましたからね。 この中で、マルティヌーのソナタは本当に久しぶりに聴いた気がして、うれしかったですね。この曲は、ゴールウェイの録音で初めて聴いていました。チェコの民族的なテイストを含みつつ、あちこちに変拍子などのトリッキーな個所が現われるのですが、ゴールウェイはそれをとても楽しく聴かせてくれていました。その同じ曲を、グラーフはもっと重みをもった音楽として演奏していたようです。 録音のデータを見ると、このリサイタルの前の日にも録音が行われているようでした。やはり、商品として販売するためには、ある程度の修正が必要なので、リハーサルの時のものと差し替えた部分もあったのでしょうね。ですから、この演奏には、「ライブ」でありながらほとんどミスらしいミスは見当たりません。これも驚異的なことですね。 ただ、1ケ所だけ、マルティヌーの第2楽章のエンディングで、伸ばす音を途中で切ってしまっていたところがありましたね(赤枠内)。 ![]() マルセル・モイーズは95歳まで生きていましたが、晩年はさすがにここでのグラーフほどのクオリティは維持できてはいなかったのではないでしょうか。現在は95歳となったグラーフ、おそらく、人間は何歳まで現役のフルーティストとして活躍できるかという「実験」に、彼は挑んでいるはずです。それは、間違いなく、多くのフルーティストへの希望となることでしょう。 CD Artwork© MEISTER MUSIC Co,.Ltd. |
||||||
今回聴いたのは、弦楽四重奏のために編曲されたものです。これは、確かにありそうなパターンですが、今まで聴いたことはありません。ちょっとした盲点でしたね。「もう、展覧会の絵の編曲なんかいいよ」という人にもお勧めです。 ただし、ここでの「編曲」は、普通のクラシカルなものを想像して聴くと、ちょっと戸惑ってしまうかもしれません。端的に言えば、これは「ジャズ」のための編曲、というか、そんな生やさしいものではなく、「変貌」されていたのですからね。 そもそも、ここで演奏している「モダン・ストリング・カルテット」という、1983年にミュンヘンでヴァイオリニストのイェルク・ヴィドモーザーやヴィオラ奏者のアンドレアス・ヘリヒトといった人たちが結成したものなのですが、そのコンセプトは「作曲や編曲は全てメンバーが行う」というものでした。そして、彼らのベースもクラシックではなくジャズだったのです。 それから40年、オリジナルメンバーで今でも活躍しているのは先ほどの2人だけになってしまいましたが、これまでに世界中でコンサートを行い、ジャズフェスティバルにも参加、アルバムも20枚以上リリースしています。さらに、彼らが演奏するために作られたスコアも、しっかり出版されています。 「展覧会の絵」の編曲については、まず、この組曲を全部演奏しているわけではなく、いくつかを抜粋し、さらに演奏順も変えています。一応、「プロムナード」は、それぞれの曲の前に演奏されていますが。 それぞれの曲は、まずは、オリジナルをほぼそのまま弦楽四重奏に置き換えた形で演奏されます。と、それが、いつの間にか少しずつ形が変わって行って、リズムもビートがはっきりしてきたかと思うと、もはやムソルグスキーとは全く別物のフレーズになります。それは、ブルーノートを多用した紛れもないジャズのフレーズ、それが別の楽器同士のユニゾンでも演奏されますから、単なるインプロヴィゼーションではなく、きっちりと譜面に書かれているのでしょう。もちろん、一人だけでも完全なアド・リブ・ソロの部分もあるようですね。 そのうちに、また冒頭のオリジナルが戻ってくるというあたりが、単なる「ジャズ化」ではなく、しっかりとオリジナルへのリスペクトの元に作られていたのだな、と感じられます。 そんな、ムソルグスキーの曲は、ここでは全部で10曲ある中から、「小人」(1曲目)、「古い城」(2曲目)、「バーバ・ヤガー」(9曲目)、「サミュエル・ゴールデンベルグ」(6曲目)、「ヴィドウォ」(4曲目)、「キーウの大門」(10曲目)の6曲だけが、この順に演奏されています。 それだけでは、アルバムとしては尺が短いので、ここではまず、メンバーが作った曲が3曲加えられています。セカンド・ヴァイオリンのヴィンフリート・ツレナーが作った「Modest Moves」という曲が、巧みにムソルグスキーのテーマを取り込んで、小気味の良いスウィングに仕上げていて、おもしろかったですね。 さらに、もう1曲、クレジットでは「グレッグ・レイク」という人が作った「Lucky Man」という曲が加わっています。何のことはない、この人はイギリスのプログレ・バンド「エマーソン・レイク&パーマー(ELP)」のヴォーカル、ギター、ベース担当のメンバーです。この曲は、彼らの1970年のデビューアルバムの中に入っている、バラード・ナンバーなんですね。このバンドは、その翌年に「展覧会の絵」のプログレ・バージョンを発表しています。 ![]() CD Artwork © Solo Music GmbH |
||||||
そのファースト・アルバムでは、この作曲家の代名詞ともいえるアニメの主題歌が演奏されていましたが、今回は彼の本職である「ミニマル・ミュージック」をたっぷりと味わえることになります。褒められますね(それは「身に余るミュージック」)。 ここで取り上げられているのは、彼の最新作で、いずれも世界初録音となります。その2曲のうちの「交響曲第2番」は本来ならば2020年の9月にパリとストラスブールで初演されるはずだったのですが、コロナ禍の影響でそれはかなわず、2021年4月21日に新日本フィル・ワールド・ドリーム・オーケストラによって日本で初演されました。 そして、もう1曲の「ヴィオラ・サーガ」は、2023年7月5日に久石のオーケストラ、フューチャー・オーケストラ・クラシックスによって初演されています。その時のソリストのアントワン・タメスティが、ここでもヴィオラ・ソロを担当しています。 「交響曲第2番」は、3つの楽章からできています。それぞれの楽章に「What the world is now?」、「Variation 14」、「Nursery rhyme」というタイトルが付けられています。 その第1楽章は、最近の「現代音楽」を代表するようなヒーリング風、まるで・アルヴォ・ペルトの作品のようなテイストの音楽で始まりました。それが、途中からアップテンポに変わり、そこではかなりハードで戦闘的な音楽が聴こえてきます。そんなセットがもう1度繰り返されて、この楽章は終わります。 第2楽章は「変奏曲」ですね。そのテーマはほとんど無調と言っていいような、難解なものでした。しかし、それは変奏されていくうちに様々な姿に変わります。時にはラテン・パーカッションも加わって、ダンサブルな曲にもなります。そして、終わりのあたりでは、なにかわらべ歌のようなテイストも漂ってきます。つまり、それは終楽章の伏線となっているのでしょう。 第3楽章は、タイトル通りにその「わらべ歌」がテーマになっています。それは、「コガネムシは金持ちだ」とか「赤い鳥小鳥なぜなぜ赤い」とか「かごめかごめかごの中の鳥は」といった、だれでも知っている童謡をごちゃまぜにしたようなものでした。それが、まずはコントラバスによって奏でられ、次第にカラフルになっていきます。楽章の後半では、ミニマルの常道、「テーマの拡大」が行われています。それがゲネラルパウゼで断ち切られた後に来るコーダでは、まずはマーラーの「アダージョ」風のストリングスで盛り上がり、最後はラヴェルの「ボレロ」風になった後、冒頭のコントラバスで締めくくられます。 「ヴィオラ・サーガ」は2つの楽章からできています。第1楽章は、ヴィオラの、とても「ミニマル」とは思えない抒情的なソロで始まります。その後は、変拍子満載の音楽に変わりますから、一安心、バックのオーケストラも華やかに盛り上がります。時折、室内楽的に、ハープやピアノとヴィオラが絡むシーンもありますね。コーダと思われる部分になると、そこではラテン・パーカッションが大活躍ですが、それがラテン音楽に聴こえないのは、オーケストラの打楽器奏者のノリがいまいちのせいなのでしょう。 第2楽章は、最初は6つの音符による小さな3拍子が4つ集まったものが1つのユニットとして現れます。それぞれのユニットでコードが変わるのですが、そのコード進行が何ともミニマルらしくないありきたりのものなのは、もしかしたらウケ狙いなのでしょうか。ところが、そのユニットが11回というハンパな数で終わった後には、今度は小さな3拍子と小さな4拍子がランダムにミックスされた不思議な変拍子が現われます。このあたりが、「ミニマリスト」の矜持だったのかもしれませんね。それが、後半はテンポがぐっと遅くなって、その後にカデンツァが入ります。そして、冒頭のビートがゆっくりになったものが再現されるのですが、そのエンディングが「これぞミニマル」と言わんばかりの、いかにもな唐突さなのには笑えます。 Album Artwork © Deutsche Grammophon GmbH |
||||||
そんなクロイサーは、若いころはオランダやイタリア、フランスで修行して、1773年からはマインツの楽団のコンサートマスターに就任して、毎日ヴァイオリンを演奏することになります。作曲家としては、多くの声楽曲や器楽曲を作っているのだそうですが、それらは現在ではほぼ知られてはいません。今回の「イエスの死」という宗教的カンタータも、これが世界初録音となるのだそうです。 とは言っても、生前には彼の音楽は有名だったようで、1783年ごろに作られたというこの曲も、1787年にはその7年前にベルンハルト・ショットによってマインツに創設された楽譜出版社から出版されています。その出版社は、現在も「ショット社」として、多くの作曲家の楽譜を出版していますね。しかも、その楽譜はIMSLPでも公開されていますから、だれでも見ることができますよ。その楽譜を見てみると、低音楽器のパートには数字付き低音が記入されています。これは、バロック時代の名残なのでしょうが、実はモーツァルトでも、「レクイエム」などには、しっかりまだこの数字付き低音が使われているのですね。 この曲は、タイトルの通り、イエス・キリストの死をテーマにした作品です。それこそバロック時代には「受難曲」という形で作られていたものなのですが、この時代になると、それとはかなり異なった音楽に変わっています。まず、受難曲では聖書のテキストがそのまま使われていたのですが、こちらは、その時代の人が改めて書き下ろしたテキストが使われています。この曲の場合は、カール・ヴィルヘルム・ラムラーという詩人が1754年に作った台本に作曲されています。つまり、クロイサーは30年近く前に作られたものを使っているのですが、それは、フリードリヒ大王の宮廷楽長だったカール・ハインリヒ・グラウンが、同じタイトルの「受難オラトリオ」を作る際に発注されたものなのですね。そして、なぜか、そのテキストは、ゲオルク・フィリップ・テレマンの手に渡っていて、グラウンの曲の初演の1週間前にテレマンによって曲が付けられたものが演奏されていたのですね。それに関しては、こちらをご覧ください。 クロイサーの作品の編成は、グラウンと全く同じ、3人のソリストに合唱とオーケストラというものです。そして、タイトルに「宗教的カンタータ」とありますが、この曲はバッハの受難曲のように、教会の礼拝のために作られたものではなく、あくまでコンサートとしてホールで聴かれていたのですね。ですから、この中には「コラール」は含まれてはいません。 今回、マインツのアーティストたちによって演奏されたこの曲は、オーケストラだけによって「Introduzzione」というタイトルの、いわば「序曲」から始まります。それは、この時代の交響曲の最初の楽章のように、まずゆったりとした序奏(オーボエ・ソロがフィーチャーされています)で始まり、テンポの速いソナタ形式の音楽が続きます。面白いことに、その序奏だけが、最後に繰り返されています。 そして、その後にまずは合唱が深刻な音楽を披露したのに続いて、ソリストによるレシタティーヴォ、アリアと進んでいくのですが、それはまるでオペラのような展開でした。アリアの中ではきらびやかなコロラトゥーラも歌われ、とても「死」を扱ったものとは思えないように感じられてしまいます。 それらは、確かに美しい音楽ではあるのですが、モーツァルトなどに比べると、なにか決定的に魅力が欠けるという気がしてなりません。一つには、それらのアリアが、もうこの時代にはもはや古くなっていた「ダ・カーポ・アリア」だったからかもしれません。 200年以上も顧みられなかったのは、それなりの理由があったのでしょう。 CD Artwork © Rondeau Production GmbH |
||||||
1907年にアメリカで生まれたイノック・ヘンリー・ライトは、ヴァイオリニストとして教育を受け、大学時代には自らのオーケストラを作って活躍していたそうです。そして、そのオーケストラはヨーロッパへのツアーも行ったのですが、その時にライトはザルツブルクのモーツァルテウムや、パリのオペラ・コミークなどで、指揮のレッスンを受けたのだそうです。 その後は、アメリカでダンス音楽のバンドを結成して、その指揮者、アレンジャーとして活躍するのですが、彼は一方ではレコーディング・エンジニアとしての活動も行っていました。初めて知ったのですが、ステレオLPの黎明期に、卓越した録音でその名を馳せていた「COMMAND」というレーベルの前身の「GRAND AWARD」を1954年に創設したのが、イノック・ライトその人だったのです。そこでは、従来の磁気テープではなく、映画用の35ミリフィルムに磁性体を塗布したものに録音するという技術を開発し、他のレーベルとは一線を画したクオリティのレコードを作っていたのでした。 やがて、彼はCOMMANDを去り、新たに1966年に「PROJECT 3」というレーベルを立ち上げます。彼は、1978年に亡くなるまで、このレーベルでのプロデュースを続けていました。そして、そこでは当時新たに開発された「4チャンネル」についても、技術的なアプローチを行い、それを実践させたアルバムを作っていたのです。なんでも、その頃は様々な規格が乱立していたために、同じソースをレコードのA面とB面とでそれぞれ別の規格によってカッティングを行い、どちらのユーザーでも聴くことができるような配慮も行っていたのだそうですね。 そんなアルバムの中から、1972年の「4Channel Dynamite」と1974年の「Big Band Hits of the 30s Vol.2」という2つのアイテムが、このSACDで聴けます。 「4Channel Dynamite」のオリジナルLPのジャケットはこんな扇情的なものでした。 ![]() ![]() 取り上げられているのは、その頃は誰でも知っているような曲だったのでしょう。ビートルズやサンタナのナンバーなども登場しています。そんな中で、2曲目に入っている「Prelude to Peace」という曲は、バッハのカンタータ140番の有名なコラールをカバーしたものでした。おそらく、スィングル・シンガーズの影響で作られたものなのでしょう。ですから、そこには「コーラス」も加わっています。それが、AとBの位置から交代で歌われていて、その時に向かい側からはエコー成分が聴こえてきますから、ちゃんとアンビエンスを設計していたことが分かります。 ただ、ここでは楽器のクオリティは高いのに、そのコーラスの音がかなり歪んでいるのが、残念ですね。おそらく、テープの劣化なのでしょう。 ![]() SACD Artwork © Vocalion Ltd |
||||||
その時には、彼女はモダン・ヴァイオリンでラヴェルの作品を演奏していたので、特段の印象はなかったのですが、今回は、おそらく彼女の本来のフィールドであるピリオド楽器による録音なので、ちょっと楽しみでした。それと、このアルバムで取り上げたレパートリーが、ヴィヴァルディとピアソラの「四季」というのも、興味がありましたし。 まずは、ヴィヴァルディから。編成は、弦楽器は全て1パート1人ですが、通奏低音だけがヴィオローネとリュートとチェンバロという3つの楽器が使われています。 この曲は、もうさまざまのアーティストによるさまざまな演奏を聴いてきましたから、もはや驚くようなことはないだろうと思っていたのですが、いやいや、彼女たちの演奏はそれらのどれにも増して、豊かなアイディアにあふれた「怪演」でした。当然のことながら、通奏低音はそれぞれ激しく自己主張をしていて、それを聴いているだけでクラクラしてしまうほどですが、その他のパートも、もはや「雑音」にしか聴こえないような奏法まで駆使して、目立とうとしています。たとえば、「春」では、元のソネットには「犬が吠える」みたいな部分があるのですが、ヴィオラ奏者はその音符をまさに「犬の声」で弾いていたりするのですからね。 ソリストも、負けてはいません。もう、ありったけの装飾で、音楽を生き生きとしたものに変えていましたね。そう、ここでは、彼女たちの演奏によって、まさに眼前でリアリティあふれるドラマが展開されていたのです。 たとえば、「夏」の協奏曲では、今の時点での日本での、ありえないようなくそ暑い状況が、まさに彼らの演奏によって描写されていたのですよ。それは、まず、重めのテンポで始まって、もう暑さでぐったりしているけだるさが聴こえます。と、それがいきなり、「線状降水帯」の影響による大雨に変わります。それは、まさに嵐ともいえるような激しさで、迫ってきます。 かと思うと、「冬」の協奏曲では、キンキンに冷え切ったサウンドで冬の様子が伝わってきます。ところが、その第2楽章になると、彼女たちは暖をとるためにアップテンポでランニングみたいなことを始めたようですね。でも、次の楽章になると、そんなことでは冬の厳しさを乗り越えることなどできないことを思い知るのです。 ピアソラの「ブエノスアイレスの四季」の方は、時代もジャンルも異なる音楽ですから、まず、演奏者が、リーダーのボネト以外は全て変わって、ヴァイオリン、バンドネオン、ピアノ、コントラバスという「カルテット」の編成になります。オリジナルは、これにエレキギターが加わった「クインテット」なのですが、それがさまざまな編曲によって演奏されています。ごく最近、オーボエ、クラリネット、ファゴットという編成で「春」を聴いたことがありましたから、それが、この編成ではどのように聴こえるのか、とても興味がありました。 ところが、最初の曲が聴こえてくると、それはその時のものとは全く別の曲に聴こえました。編曲によってこれほど変わるものか、とうろたえたのですが、どうやらここでは「春、夏、秋、冬」ではなく、「夏、秋、春、冬」の順に演奏していたようですね。それを、サブスク(NML)では「春、夏、秋、冬」と表記していたのでした。狂気の沙汰ですね。確かに、3曲目には聴きなれた「春」がありました。その後の「冬」は、パッヘルベルのカノンが引用されているのですね。いずれの曲も、ボネトのヴァイオリンとバンドネオンとのバトルは、壮絶なものがありました。 そもそも、ピアソラの場合はこの4つの曲は別々の時期に作られていて、彼が望んだ曲順は「秋、冬、春、夏」だったようですね。 CD Artwork © note 1 music GmbH |
||||||
おとといのおやぢに会える、か。
|
accesses to "oyaji" since 03/4/25 | |
accesses to "jurassic page" since 98/7/17 |