ズボラフォン。.... 佐久間學

(15/2/3-15/2/21)

Blog Version

2月21日

Sacred Songs of Life & Love
Brian A. Schmidt/
South Dakota Chorale
PENTATONE/PTC 5186 530(hybrid SACD)


久しぶりのこのPENTATONEレーベルの新譜を手にしたら、ロゴやジャケットデザインがごろっと変わっていました。たしかに、今までの隅に三角形の切り込みの入った統一デザインは、はっきり言ってかなりダサいものでしたから、ついに変身を図ったということなのでしょうか。前はこんな五角形をあしらったロゴでしたよね。
その代わりに、新しいデザインに共通しているのがジャケットを横切っている何本かのレーザー光線のような白い筋です。そして、ブックレットの裏側にはその「筋」をモティーフにした椅子のような図形と、「Sit back and enjoy」というコピー、これが、これからのこのレーベルのコンセプトとして商品に付けられているのでしょうか。まだ、ほかのアイテムを見ていないのでわかりませんが、何か、このレーベルが変わろうとしている姿勢を感じることはできませんか?
もう一つ、今までと変わっていたのは録音スタッフです。創立当初から深い関係にあって、ほとんどの録音でパートナーとなっていたPOLYHYMNIAではなく、今回はSOUNDMIRRORというところになっていました。もっとも、過去にはTRITONUSとの不倫に走るということもありましたから、これも単なる火遊びなのかもしれませんが・・・と思ってクレジットを見たらプロデューサーがブラントン・アルスポーだったので、そんな「疑惑」も吹っ飛びました。
実はこれは、この合唱団のセカンド・アルバムです。その前のアルバムが先日ご紹介したデュリュフレだったのですが、それを手掛けてオスカーを獲得したアルスポーが、今回もアルバム制作に関わっていたのですね。ということで、おそらくレーベルとしては現場には関与せず、あくまでディストリビューターに徹する、という、最近よくある形なのでしょう。前回もSACDでしたから、そのフォーマットでリリースできるというバックグラウンドもきちんと備えていますし。
今回もやはり、「生と愛の聖歌集」といういかにもなタイトルが前面に押し出されていて、陳腐なヒーリング物のような体裁を取っていますが、実は油断のできない「本物」の選曲とハイレベルの演奏が貫かれているというのは、前作と同じです。
ここでは、エストニアのペルトを始めとするリトアニアのマルティナイティス、ラトビアのエシェンヴァルズといったバルト3国勢、ノルウェーのニューステッド、スウェーデンのサンドストレムといった北欧勢、そしてスイスのアントニーニという、ヨーロッパ全土にわたる作曲家の作品が全てア・カペラで歌われています。
ある意味「ヒーリング」とみなされているペルトでさえ、彼らの手にかかると確かな重みをもつように感じられるほど、彼らの演奏は中身の濃いものです。ここでは、「マニフィカートの7つのアンティフォナ」というドイツ語のテキストによる1991年の作品が、そんな演奏によって「強いペルト」を聴かせてくれています。2曲目の「O Adonai」では、まるでロシアの合唱団のような分厚いベースの声によって、ペルトの音楽のルーツを見る思いですし、3曲目の「O Sproß aus Isais Wurzel」では、まるで微分音程のような危うげなピッチとクラスターによって、かつてはペルトも「現代音楽」をやっていたことを感じます。さらにフルヴォイスで迫る4曲目の「O Schlüssel Davids」からは、なりふり構わず放たれるメッセージの強さを思い切り感じることが出来ます。
それとは正反対のヴェクトルで、「ヒーリング」としての魅力を最大限に引き出しているのが、エシェンヴァルズの「おお救いの生贄」という2009年の作品です。2人のソリスト(もちろん合唱団のメンバー)による涙が出そうになるほどキャッチーなメロディーが、本気で心の深いところをえぐってきます。
録音は、まさにSACDでしか味わえない深みのあるものです。それは、録音会場のセント・ジョセフ・カテドラルの石造りの壁がもたらす豊かな残響を、見事にとらえています。

SACD Artwork © Pentatone Music B.V.


2月19日

世界で一番美しい劇場
エクスナレッジ刊
ISBN978-4-7678-1921-1


建築関係の書籍に関しては日本最大といわれている「エクスナレッジ」からは、「世界で一番」という言葉で始まるタイトルの本が多く出版されています。「世界で一番美しい空港」とか「世界で一番美しい宮殿」など、さすがは建設関係には強い会社ならではの企画だな、と思わせられる半面、「世界で一番美しいイカとタコの図鑑」なんてのもありますから、どういう会社なんだ、と思ってしまいますが。ただ、このフレーズは別にこの会社だけのものではなく、かなり興味をそそられる「世界で一番美しい元素図鑑」などは原則として他社のものですので、お間違えなく。
いずれにしても、こんな扇情的なタイトルで読者を引き付けようとする魂胆はミエミエで、その罪滅ぼしなのでしょうか、この本の英語のタイトルは「Beautiful Theater in the World」というサラッとしたものです。大体、「世界で一番」と言っておいて、それを52も挙げるということ自体が反則ですし。
しかし、この表紙を飾っている「パラウ・デ・ラ・ムシカ・カタラナ(カタルーニャ音楽堂)」というバルセロナにあるコンサートホールに関しては、文句なしに「世界で一番美しい」と言うことが出来るのではないでしょうか。このホールの存在を知ったのは、こちらの映像でモーツァルトの「レクイエム」と「ハ短調ミサ」を見た時でした。コンサートホールというにはあまりにも装飾過剰で、まるで異次元にでも誘われるようなその内部の様子には、心底圧倒されてしまいました。ですから、この表紙を見たとたんに、ぜひ手元に置いて何度でも見つめていたいという衝動に駆られたのですね。
やはり、印刷物で見たその姿は、映像で見たものとはさらに深みのあるものに感じられました。さらに、ここではホール内の全景だけではなく、ステージのバックに飾られたレリーフや、モザイクタイルによる合唱団と踊り子の図柄なども紹介されていますから、たまりません。ですから、その気になって探せば、もうこのホールのすべてのものがありとあらゆる手段で何らかの装飾を施されていることを発見することが出来ましたよ。
ただ、そのモザイクタイルが一体どこにあるのかが、これだけの写真ではわからなかったので、Googleのストリートビューを使って「現地」に行ってみることにしました。便利な世の中になったものです。結局、それは建物の上の方にあるファサードを飾っていたものだったことが分かりましたが、同時に、この「空間移動ツール」は、「ストリート」だけではなく、ものによっては建物の内部の「ビュー」まで体験できることが分かりました。あの通行人のアイコンを地図にかざすと、道路の上に青い線が出るだけではなく、建物の中にもいくつかの「点」が表示されるのですよ。そこをクリックすると、見事に客席の中に入ることができました。
さらに、そこから上のバルコニーを見上げると、ふつうの写真ではまず気が付かないことですが、天井裏に「Mozart」とか「Gluck」などという作曲家の名前が書いてあることまでわかってしまいます。すごいですね。
「劇場」という範疇で取り上げられているのは、オペラハウス、演劇用の劇場、そしてコンサートホールです。「演劇用」の中にはちょっとなじみがないものもありましたが、それ以外はどこかで一度は聞いたことがあるおなじみのところばかりです。最も古い建物は18世紀に建てられたバイロイト辺境伯歌劇場(どうせなら、同じ市内の祝祭劇場も取り上げてほしかったものです)、そして、2011年にできたばかりのヘルシンキ・ミュージックセンターまで、4世紀に及ぶ「美しい」劇場の写真には圧倒されます。そして、最近作られたホールの音響設計が、ほとんど豊田泰久さんの手になるものだという事実にも驚かされます。こういうことは胸を張って自慢しましょうね。同じ「日本製」ですが、原発の輸出みたいに恥ずかしいことでは全然ありませんから(いや、原発は持っているだけで「恥」)。

Book Artwork © X-Knowledge Co., Ltd.


2月17日

In Paradisum :
The Healing Power of Heaven
Elizabeth Johnson Knight(MS)
Brandon Hendrickson(Bar)
Josse Eschbach(Org)
Brian A. Schmidt/
South Dakota Chorale
GOTHIC/G-49279(hybrid SACD)


先日のグラミーがらみのアイテムを扱った時に、もう少しこの賞のクラシック部門を調べてみたら、2013年に「Best Classical Producer」を獲得したアルバムとして、デュリュフレの「レクイエム」が見つかりました。この曲については、リリースされたものはほとんど入手していたはずなのに、これは全く引っかからなかったのはなぜだったのか、と思ったら、そもそも国内では販売されていなかったようですね。
それと、もし見つけていたとしても、このアルバムのタイトルがこんな感じですから、ふつうは「ヒーリング」として聴き流すような小品を集めたものを思い浮かべてスルーしていたことでしょう。万が一「In Paradisum」で、もしかしたらフォーレかデュリュフレの「レクイエム」の中のこの曲も入っているのだな、とは思っても、まさか全曲が入っているとは絶対に考えないはずですからね。それに、確かにここではデュリュフレの「レクイエム」が全曲演奏されてはいますが、そのカップリングが黒人霊歌というのですから、やはりその手のコンセプトなのか、と思ってしまいかねません。
と、ここまではレーベルのカタログを見て分かったことです。そこから注文もできるのですが、もしやと思ってNMLを調べたら、なんとこれが入っていましたよ。こんなところで使えるなんて、うれしい誤算です。まあ、現物はSACDですから、それをAACで聴くのはちょっと辛いものがありますが、とりあえずチェックするのだったらまあ何とかなるでしょう。
これは、2009年にアメリカの若い指揮者ブライアン・シュミットによって創設されたばかりの「サウスダコタ・コラール」という合唱団のファースト・アルバムなのだそうです。プロデューサーがブラントン・アルスポーという人で、2012年の5月にリリースされています。これがいきなり2013年のグラミーで「最優秀プロデューサー賞」を獲得してしまいます。アルスポー自身はそれまでに何度もノミネートはされていましたが、受賞したのはこれが初めてです。
まあ、たかが巨乳ですし(それは「グラマー」)、そんな「ヒーリング」のコンセプト、しかも出来たばかりのアメリカの合唱団の演奏ですから、どんだけ大味かと思いながら恐る恐るを聴き始めましたが、いやあ、そんな先入観なんかは見事に吹っ飛ばしてくれるようなすごいものだったのには驚いてしまいました。なんせ、「レクイエム」の中のソロまで合唱団のメンバーが担当しているという(「Pie Jesu」のメゾ・ソプラノのソロはとても素晴らしいものでした)のですから、そもそものポテンシャルがかなりの高さにあるところに、きっちりとコーラスとしての訓練も行き届いていますから、その表現力の幅広さは驚異的です。ビブラートの付け方まで曲によって変えられるのですから、北欧あたりのノン・ビブラートのピュアなサウンドの合唱団と、それこそアメリカのびしゃびしゃなビブラートのゴスペル・クワイヤといった正反対のキャラが両方とも備わっていて、瞬時にどんなタイプの合唱団にもなりきれてしまうぐらいのスキルが備わっているのではないか、と思えるほどです。カップリングの黒人霊歌の中では、「ジェリコの戦い」でハイFのロングトーンを披露しているメンバーがいましたからね。
ですから、この「レクイエム」は、まさにかゆいところに手の届くような、今まで聴いてきた演奏ではどんな合唱団でも必ず見せていた弱点を、ことごとくクリアしているというものすごいものに仕上がっています。と同時に、この作品の持つ可能性を最大限に発揮して新たな魅力を教えてくれていた場面も数々、例えば終曲のそれこそ「In Paradisum」の最後「Chorus Angelorum」という歌詞で始まる部分のテンション・コードが、ありがちなフランス風のなよなよしたものではなく、もっと芯の通った強靭なメッセージのように聴こえてきたのです。こんなものを「ヒーリング」という形で売り出すなんて、間違っています。

SACD Artwork © Loft Recordings, LLC.


2月15日

MOZART
Divertimenti
Scottish Chamber Orchestra Wind Soloists
LINN/CKD 479(hybrid SACD)


このレーベルではおなじみの、スコットランド室内管弦楽団の管楽器奏者たちが録音したモーツァルトの「ディヴェルティメント」集です。さらにここにはディヴェルティメントだけではなく「セレナーデ」も一緒に入っています。
いずれにしても、このような作品群は、「機会音楽」という性質を持っていて、パーティーとかディナーといった特定の「機会」のためのBGMとして作られたという点では共通しています。今でこそ「クラシック音楽」などと崇めたてられていますが、そもそもはそのような「他人を楽しませる」という、ただそれだけの用途で作られたものなのです。作曲家や演奏家は言ってみれば召使、今のような「芸術家」気取りのミュージシャンの務まる仕事ではありませんでした。
一応、これらの作品を新旧のモーツァルト全集ではジャンルごとに分類しています。新全集では楽器編成によってカテゴライズされていますが、ジャンルごとの番号はありません。その点、旧全集ではちゃんと「セレナーデ第○番」と、曲種による通し番号が付けられているので、何かと便利、何より昔からの解説書や最新のCDでもこの番号は堂々と使われていますから、「こんな番号には何の根拠もない」と言ってこれを使わないような意地っ張りは、カノジョに疎まれ婚期を逃してしまいます。
それに従うと、ここで演奏されているのは「セレナーデ第11番」と「ディヴェルティメント第9番、12番、13番、14番」ということになります。「セレナーデ」では、この前の10番が「グラン・パルティータ」と呼ばれる有名な13の楽器のための作品ですし、この後の12番もやはり管楽器の合奏による「ナハトムジーク」というタイトルが付いた割と有名な短調の曲です。
「ディヴェルティメント」の方は、このSACDのライナーノーツを執筆しているロバート・レヴィンのように、この4曲に「ディヴェルティメント第8番」を加えた5曲をまとめて「ターフェルムジーク集」と呼ぶのが最近のトレンドのようです。確かにこれらはすべてザルツブルクの大司教の食卓でのBGMとして作られたものですから、これからは「ディヴェルティメント」と併用する形で「ターフェルムジーク」という、モーツァルトでは必ずしも馴染みがあるとは言えない作品名が浸透していくのでしょうか。
ところで、ここで演奏しているメンバーは、クラリネット、ファゴット、ホルン奏者が2人ずつの総勢6人です。ところが、「セレナーデ第11番」は、モーツァルトには珍しい、この時代の「ハルモニームジーク」の標準編成である、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルンが2人ずつの「8声」で書かれています。でもご安心ください。今ではこの編成で演奏される機会が圧倒的に多いこの作品ですが、実はこれは改訂後の形態、1781に作られた初稿は、オーボエの入っていない「6声」の楽譜だったのです。その翌年に別の機会で演奏するためにオーボエを加えた「第2稿」が作られたのですね。このオリジナルの形での演奏は、今では非常に珍しいものになっています。
さらに、さっきの「ターフェルムジーク」は、実はオリジナルがオーボエ、ファゴット、ホルンがそれぞれ2本という編成でした。ですから、ここではオーボエのパートをクラリネットが演奏しているということになります。これも、なかなか珍しいものでしょう。
したがって、ここでの彼らの演奏は、ほとんどの人にとって「初めて耳にする」もののはずです。今までオーボエの響きで慣れ親しんでいたこれらの曲が、クラリネットがメインになったことで、何とも落ち着きのある幾分暗めの音色になっていることは、誰しも気づくこと、そこからは、あえて言わせてもらえば「こんな曲」の中にもしっかりと込められたモーツァルトの作曲家としての「意地」のようなものさえも、感じることができるのではないでしょうか。

SACD Artwork © Linn Records


2月13日

ENNA
Orchestral Works
Katharin Rabus(Vn)
Hermann Bäumer/
NDR Radiophilharmonie
CPO/777 674-2


アウグスト・エナというデンマークの作曲家(マッサンの娘ではありません・・・それは「エマ」。しかも男だし)を知ってますか?1859年に生まれ、1939年に亡くなっていますから、同じデンマークの作曲家、カール・ニルセン(1865-1931)の生涯と丸ごとオーバーラップしています。
エナの家庭は決して裕福ではなかったため、彼は音楽的な教育を受けることはできませんでした。初めてピアノに触れたのが16歳の時、家業の靴屋のセールスマンとして働くかたわら、ヴァイオリンのレッスンに通い始めたのは17歳になってからでした。そして、夜になると彼にとっては唯一ピアノに触れられる場所だった場末の酒場でピアニストとしての仕事をしていたのです。
22歳になるまでに、彼はヴァイオリニストや指揮者として各地で働き、24歳の時には最初のオペレッタを作曲、26歳の時にはピアノの作品が初めて出版されます。そして、27歳の時に、当時のデンマークの音楽界の重鎮だったニルス・ゲーゼの目に留まり、作品が賞賛されます。
その後、彼はワーグナーの「指環」のスコアと出会い、その音楽に衝撃を受けて今まで作っていたオペラを一旦お蔵入りさせて、半年間徹底的にワーグナーの勉強をした後に、その成果をもとに大幅に書き直します。それが、彼の出世作となったオペラ「魔女」です。彼のオペラは世界中で上演され、ヴァイオリン協奏曲はカーネギー・ホールでも演奏されるようになります。
しかし、彼の晩年は精神的な病から、次第に自らを窮地に追い込むような言動が目立つようになり、そのためもあってか、彼の作品も忘れ去られていくようになりました。
このアルバムでは、彼の序曲、協奏曲、交響的幻想曲という、一晩の演奏会のプログラムにでもなれるようなレパートリーを聴くことが出来ます。まず、1894年に初演されたオペラ「クレオパトラ」の序曲です。これは、明らかにワーグナーを意識したような、同じモチーフを繰り返して盛り上げる「タンホイザー」序曲で見られる手法があちこちで使われています。そんな、かなりくどいバックに乗って、この曲の冒頭にユニゾンで登場する印象的な甘いテーマが奏でられます。このキャッチーなテーマが、最後には高らかに響き渡るという、とても分かりやすい構成です。
1897年に作られた「ヴァイオリン協奏曲」は、ワーグナーの呪縛からは少し離れて、彼のルーツである北欧的なのどかさに支配された曲に仕上がっています。第1楽章のテーマが、まさにそんな北欧風のもの、それが、まるでメンデルスゾーンのような初期のロマン派のテイストでまとめられています。独奏ヴァイオリンはこれ見よがしの名人芸を誇示することはなく、カデンツァもあっさりとしたものです。第2楽章は短調に変わり、とても深刻な味わいですが、どこかグリーグの「ソルヴェーグの歌」につながるような甘さもあります。ソロの間に顔を出すフルートの合いの手がとても素敵。第3楽章は、軽やかなダンス、その中にちょっとメランコリックな第2テーマが挟まります。
彼の最後の管弦楽作品となった「交響的幻想曲」は、3楽章形式。第1楽章は、減五度の跳躍を含むちょっと不気味なテーマで始まります。しかし、それがそのうちに次第に甘くゴージャスなテーマに変わっていくというあたりが、この作曲家の魅力なのでしょう。そんな「不安定」さと「甘さ」との葛藤のようなものが、作品全体を覆っています。第2楽章はやはり不気味なスケルツォに、トリオとして雄大なテーマが挟まるという構造です。そして、第3楽章では、6/8の軽やかなダンスの間に、管楽器による敬虔なコラールや弦楽器のメランコリックなテーマが混然一体となった不思議なポリフォニーが展開されています。
どの作品にも感じられるのが、豊かにあふれ出てくるメロディの素晴らしさです。これはおそらく、彼の天賦の才能だったのではないでしょうか。

CD Artwork © Classic Produktion Osnabrück


2月11日

ADAMS
Become Ocean
Ludovic Morlot/
Seattle Symphony
CANTALOUPE/CA21101


今年のグラミー賞で、クラシックの「現代音楽」の部門での受賞作となったのが、このアルバムです。このレーベルを扱っている国内の代理店ではここぞとばかりにそれをセールスに結び付けようと血眼になっていることでしょう。
この「Become Ocean(大いなる海に成れ)」という曲を作った人はジョン・アダムズという作曲家。実は、もう一つのクラシックのカテゴリー「最優秀管弦楽演奏賞」で受賞した曲の作曲家も同じ名前ですが、この二人は全くの赤の他人です。「Become Ocean」は「ジョン・ルーサー・アダムズ」ですが、もう一人は「ドクター・アトミック」などで有名な「ジョン・クーリッジ・アダムズ」と、ミドルネームが違っています。なんという紛らわしさ。
1953年生まれの「ルーサー」は(ちなみに「クーリッジ」は1947年生まれ)カリフォルニア芸術大学で作曲を学んだ、「クーリッジ」と同じく「ミニマリスト」という範疇で呼ばれる作曲家です。この、ジョン・ケージのメゾスティックス(何行かの単語を少しずらしながら重ね上げ、そこを縦に読んで新たな単語を生み出すというかなりマゾヒスティックな一種の言葉遊び)からタイトルを引用したという「Become Ocean」という作品は、2013年にここで演奏しているシアトル交響楽団とその音楽監督のルドヴィック・モルローからの委嘱によって作られました。その年の6月にシアトルで初演され、翌年5月にはカーネギー・ホールでも演奏されています。そして、2014年のピューリッツァー賞の音楽部門を受賞しました。
タイトルを聞いただけで、ドビュッシーの「海」あたりが頭をよぎります。しかし、なんたってピューリッツァー賞ですから、そんな分かりやすいことなんかやるわけはないな、と、ふつうは思うはずでが、そのオープニングときたら、雰囲気がそのドビュッシーそっくりでした。
さらに、それからの展開は、常に何か規則的な音型が続いているのだけれども、いつの間にかそれが少しずつ変わっていってそのうちまったく別の音型になってしまうという、まさにスティーヴ・ライヒそのもののような音楽になるというところで、ある意味「型にはまった」ものに安住している感は否めません
ただ、ライヒとは違った、広々としたフレーズと和声で描かれる世界は、かなり魅力的ではあります。もちろん、それは、例えばハリウッドの映画音楽(たとえば「ゼロ・グラビティ」)のようなテイストを持っていることで、真のオリジナリティからはかなり遠いところにあることは否定できないでしょう。
したがって、この作品でそれまでにない特別なものを見出すとすれば、それは、とてもユニークな時間軸の設定、というものではないでしょうか。この曲の実際の演奏時間は42分2秒。まあ、限りなく42分ちょうどに近い長さです。そして、その時間軸の中では、きっちり14分ごとに音が無くなる部分があって、さらにその途中のちょうど真ん中、7分のところにピークが来ています。つまり、無音の状態から7分かけてクライマックスを作り、そこからさらに7分かけて無音状態に戻る、というパターンが正確に3回繰り返されているのですね。おそらく、このことによって作曲家は「波」を描写しているつもりなのでしょう。しかし、そのあまりに正確な時間の歩みには、何か人間業を超えた「力」を感じないわけにはいきません。
そう、この曲を作るにあたっては、間違いなくコンピューターが使用されているのでしょう。それも、クセナキスの時代のものではなく、今では「非クラシック」の分野で日常的に使われているDTMの世界です。ですからそれは完成した時にはその音源によって「音」はきっちり聴くことができるようになっているはずです。それを、80人以上の生身の人間に演奏させているということが、もしかしたらピューリッツァーなりグラミーの審査員のお眼鏡にかなったのかもしれません。アメリカというのは、そういうところです。

CD Artwork © Cantaloupe Music


2月9日

『サウンド・オブ・ミュージック』の秘密
瀬川裕司著
平凡社刊(平凡社新書759)
ISBN978-4-582-85759-7


「サウンド・オブ・ミュージック」というのは、言うまでもなく1959年にブロードウェイで初演された、ロジャース/ハマースタインのミュージカルですが、今ではそのオリジナルの舞台版よりは、1965年にロバート・ワイズによって映画化されたハリウッド・バージョンの方が、圧倒的な人気を誇っています。特に、多くの部分が「現地」であるザルツブルクでのロケによって撮影されていますから、そのスケールの大きさと言ったら舞台版の比ではありません。ですから、特に注釈がない場合はこういうタイトルだと「映画版」を指し示すようになっていますし、例えば「劇団四季」が上演したような時には、映画を元にして「ミュージカル化」されたのではないか、と思ってしまう人がいてもおかしくはありません。なんせ、その「劇団四季」で今公演中の「リトル・マーメイド」や、これからの公演が決まっている「アラジン」などは、オリジナルは映画(というか「アニメ」)だったのですからね(あら、そう?)。
この本の著者は、映画に関してはプロですから、もちろんここで語られるのは「映画版」についてです。もちろん、きちんとした論を展開するための基礎データとして、この舞台版ミュージカル、さらには同じ題材で1956年に制作されたドイツ映画「菩提樹」、そして実話そのものまでにさかのぼっての言及は、抜かりはありません。
そのうえで、著者は恐ろしくマニアックな手法で、この「映画」の魅力に迫っています。それは、監督の演出の手法を、それこそカットごとの人物のすべての動きに注目して、そこでの登場人物の心の動きの詳細まで検証する、というやり方です。音楽で言えばアナリーゼということになるのでしょう。普通に映画を見ている人は、そんなことは考えなくてもそこで行われていることの意味を感覚的に知ることが出来るはずなのですが、ここでは、なぜそのようなことが可能になるのかを、様々なシーンを例に挙げて、徹底的に分析してくれています。おそらく、これを読んだ後でこの映画をもう一度見たら、そのシーンで漠然と感じていたことが、より具体的に理解できることでしょう。
そんな細かい分析の過程では、カットごとに撮られた時期、場合によっては撮られた場所までが違っていることまで指摘されています。こういう、言ってみれば重箱の隅をほじくるようなことは、どちらかといえば作った側にしてみたらあまり明らかにして欲しくはないものなのかもしれません。ですから、見る人の役に立つかどうかは微妙なところですね。できれば、こんなことは知らないでその画面を楽しんでいた方が、その人にとっては幸せだったかもしれませんから。でも、世の中にはこの手のことが大好きな人はたくさんいますので、そういう人たちの好奇心を満たすには、これは欠かせない情報となることでしょう。
ロケ地についても、実際にロケに使ったところではないのに堂々とロケ地であることをうたっているようなところがあるというのは、なかなか面白い指摘です。こういういい加減なことをやっている人が、○国だけではなくザルツブルクにもいるのですね。こちらはれっきとした「偽装表示」ですから、明らかにするのは必要なことです。
そんな、とても多くの情報にあふれている本なのですが、我々音楽ファンにとっては物足りないところが結構あったりします。ここでは、出演者ではなく別の人が歌を歌っている時の代役などについてもかなり詳しく述べられていますが、その世界では有名なマーニ・ニクソンに関しては一言も触れられていないのがとても残念です。あまりに有名なことなので、あえて触れなかったのかもしれませんが。
しかし、音楽祭の会場であるフェルゼンライトシューレについて、他のロケ地のような詳細な説明がなかったのには、怒りさえ覚えます。

Book Artwork © Heibonsha


2月7日

Sacrifices
David Bates/
La Nuova Musica
HARMONIA MUNDI/HMU 807588(hybrid SACD)


聖書に題材を求めた「生贄」をテーマにした作品が3曲収められたSACDです。その中でメインとも言えるものが、中期バロックのイタリアの作曲家ジャコモ・カリッシミ(1605-1674)のオラトリオ「エフタの物語」でしょう。これは、旧約聖書の士師記に登場する、エフタが戦に勝つ代償として、彼の娘を「生贄」として差し出すという悲しい結末のお話です。
あとの2曲はフランスの作曲家で、その「エフタの物語」を写譜して自国に持ち帰ったというマルク=アントワーヌ・シャルパンティエ(1643-1704)が作った、「聖ペテロの否認」と、「アブラハムの生贄」です。「ペテロ」は、バッハの受難曲では有名な新約聖書の見せ場ですし、「アブラハム」は旧約聖書の創世記による、これも有名なアブラハムが息子イサク(木こりではありません・・・それは「与作」)を生贄に捧げるというお話です。こちらは直前に生贄の羊が現れてイサクは助かります。
ここで演奏しているイギリスの「ラ・ヌオヴァ・ムジカ」という、2007年に設立されたばかりのイギリスの団体は、器楽と声楽の両方のメンバーを擁するバロック・アンサンブルで、創設者である指揮者のデヴィッド・ベイツはかつては歌手としてグラインドボーン・オペラで活躍していた人です。このベイツの、ほとんどカリスマ的なリーダーシップによって、この団体は瞬く間に世界中に知られることになり、このレーベルからもすでに3枚のCD(SACD)がリリースされています。
そのベイツの指揮ぶりは、とても表情豊かに楽器と、そしてもちろん歌手たちとを歌わせ、リアリティあふれる音楽を作り出すものでした。これは、同じような経歴を持つあのルネ・ヤーコブスととてもよく似ている資質ではないでしょうか。ここで演奏されている曲はすべて初めて耳にするものでしたが、そんなとても雄弁な演奏によって、たちどころに引き込まれてしまう魅力を持っていました。
そんな魅力が最高に詰まっているのが、「エフタ」です。なんでも、これは音楽史上最初の「オラトリオ」だということですが、これが作られた時点で後のオラトリオに必要とされているものをすべて備えていたというのが、すごいところではないでしょうか。というか、物語を進めていく役目を持つ「ナレーター」によるレシタティーヴォでは、多くのパートの声が交代で担当したり、時にはアンサンブルになるといったようなヴァラエティに富んだ作り方は、後の定型化されたものよりももっと自由な表現を可能にしているような気さえします。
楽器とともに作られる情景の描写も素晴らしいものがあります。父親の帰りを待つエフタの娘(かわいそうに、名前も与えられていません)が太鼓をたたいてお祝いをしているシーンの音楽などは、シンプルなベースのパターンで始まったものが次第に盛り上がるという、まさにダンス・ミュージックそのものです。そして、クライマックスはその「娘」による長大な「アリア」です。この団体はメンバーがソロも合唱も同時に担当していますが、ここでその「娘」のソロを歌っているのはソフィー・ジュンカーという人、とてもダイナミックな歌い方で、深い悲しみを歌い上げています。このソロのバックにエコーとして加わる合唱も、とても効果的です。
シャルパンティエの2つの作品も、同じような作られ方ですが、こちらはそれにいかにもフランス風の装飾が加わって、また別な魅力を振りまいています。そして、それらの曲の間には、セバスティアン・ド・ブロッサール(1655-1730)のサンフォニーやトリオ・ソナタといったインスト曲が挟まります。これらも、とても趣味のよい粋な演奏、さらにSACDならではのクリアさで、楽器のテクスチャーがくっきりと浮かび上がってくるのは、とても贅沢な思いにさせられるものです。
もちろん、このクリアさは合唱やソロでもふんだんに味わえ、至福の時間が過ぎていきます。

SACD Artwork © harmonia munde usa


2月5日

ANDERSON
Flute Music
Andrew Bolotowsky(Flutes)
Gregory Bynum(Rec), David Bakamjian(Vc)
Rebecca Pechefsky(Cem)
Beth Anderson(Pf)
MSR/MS 1434


1950年生まれのアメリカの作曲家、べス・アンダーソンのフルートのための作品を集めたアルバムです。サブタイトルが「カマキリと青い鳥」、それをそのまんまジャケットにあしらったとてもかわいいデザインに惹かれて、その作曲家のことも、演奏しているフルーティストのことも全然知らないのに聴いてみる気になりました。
そのタイトル・チューンは最初に演奏されていました。これは最も若いころ、1979年に友人であり、仲間でもあった、ここで演奏しているフルーティスト、アンドルー・ボロトウスキーのために作った曲で、フルートが「青い鳥」、ピアノ伴奏が「カマキリ」なのだそうです。と言われても、別にフルートが「ピーターと狼」や「動物の謝肉祭」に出てくる「鳥」のように羽ばたいたりさえずったりする様子を描写しているわけでは全然ありませんし、ピアノがオトコを食い殺そうとするようなおどろおどろしい音型を奏でているわけでもありません。ここでは、淡々としたピアノのアルペジオに乗って、フルートは至極素朴なフレーズをだらだらと吹き続けているにすぎません。時折讃美歌の「主よ御許に近づかん」の断片が聴こえてくるのは、なんの冗談なのでしょう。
という感じで、大体この作曲家の作風が分かってきます。彼女の作曲家へのスタート地点はジョン・ケージとテリー・ライリーだったそうですが、まさにそんな経歴を裏切らない瞑想的なミニマルの世界が、このアルバムには漂っています。ただ、「ミニマル」とは言ってもスティーヴ・ライヒのような精密さ、緻密さとは全く別の、もっとずっとユルいテイストに支配されているのは、やはりケージへの傾倒がかなり強いことの表れなのでしょうか。
その「ユルさ」が、ここでは作品よりも演奏家のキャラクターによって表に出てきているのではないか、という気がとてもします。「青い鳥」での、まるでプロであることを忘れたようなフルートを聴くにつけ、はたしてこれは意図したものなのかどうなのか、分からなくなってしまうのですよ。
彼はここでは、多くの楽器を持ち替えて演奏しています。その中に「バロック・フルート」という楽器もあるのですが、これはおそらくトラヴェルソのことなのでしょう。そして、ほかにやはりピリオド楽器のリコーダー、チェロ、チェンバロを従えての室内楽も披露されています。その「スケート組曲」というのは、ダンスのために作られたもので、いかにもバロック時代の組曲を模倣したようなスタイルをとってはいますが、全体的な雰囲気は師のケージが盟友マース・カニングハムのために作った一連の作品のようなまったりとしたものです。1979年に作られた時にはヴァイオリン、チェロ、エレキ・ベース、声、テープという編成だったものを、何度か楽器を変えたり曲を削ったりという改訂が加えられて、録音時の2012年には、こういう編成で演奏されています。
ボロトウスキーは、ここではオカリナも演奏しています。その「属和音への準備」というおかしなタイトルの作品は、これもケージっぽい、あらかじめ約束事だけを決めておいて演奏者自身が音楽を作るという、これが作られた20世紀後半にはまだよく見られた技法によったものです。ここで注目したいのは、そんなプロセスで生まれた音列ではなく、まるでアナログ・シンセのように聴こえてしまうオカリナの音の方です。何の変哲もないこのプリミティブな楽器からは、まるでアープ・オデュッセイのようなポルタメントが聴こえてはこないでしょうか。
そして、もう一つの彼の挑戦が「尺八」です。その名も「Shakuhachi Run」というソロ・ピースでは、この楽器に固有の音階だけをたどたどしく吹くだけで、それらしい音楽が出来ることを見せつけてくれています。その成果はチープ極まりないものですが。

CD Artwork © MSR Music LLC


2月3日

SKJELBRED
Waves & Interruptions
Erik Raude(Perc)
Ida Bryhn(Va)
Tom Ottar Andreassen(Fl)
Thomas Kjekstad(Guit)
2L/2L-103-PABD(BD-A)


この2Lというレーベルの品番は、数字のあとにSACDなら「SACD」、LPなら「LP」と、それをあらわす文字を入れるというわかりやすいものです。さらに同じ音源をSACDとBD-Aの2種類のディスクとして同じパッケージに入れて発売した時の品番は「SABD」でした。確かに、両方とも入っているぞ、という気持ちがとてもよく伝わってくる品番ですね。そして、BD-Aを一本立ちさせた、今回のようなパッケージでは、「PABD」という文字が付いていました。これは、「Pure Audio Blu-ray Disc」の略なのでしょうね。
もちろん、2Lのことですから、ここでのスペックは24bit/192kHzという、BD-Aの規格としては最高位のものでした。元のDXDが24bit/352.8kHzですから、これでオリジナルの録音にかなり近いものを再生できるようにはなっているのではないでしょうか。やはりこれからはBD-Aだ、というのが2Lの当座の結論なのだ、と思いたいものです。
今回は、ビョルン・ボルスタ・シェルブレードという、1970年生まれのノルウェーの作曲家の作品を集めたアルバムです。雨傘とは関係ありません(それは「シェルブール」)が、こんな顔をした人、去年の今頃世間を騒がせていた「あの作曲家」になんとなく雰囲気が似ていませんか?
その「作曲家」も含めて、現代の作曲家というものは「自分の作品」に関しては饒舌な人が多いのではないでしょうか。作曲の意図を的確に伝えたいという思いからなのでしょうが、それを述べている文章自体がかなり難解だったりしますから、その効果はいまいちのことが多いものです。というか、彼らはなにか無理をして語りたがる傾向があるのだと思うのは、単なる偏見でしょうか。
その点、このシェルブレードさんは、このアルバム中のそれぞれの作品については何一つコメントを寄せてはいない、という潔さです。いや、それは単に作曲家が音楽を言葉にすることが出来ない、というだけのことなのかもしれませんが。
ここでは、「2001年から2013年までの間に作られた」とされる6つの曲が録音されていますが、それぞれがいったい何年に作られたか、という基本的なデータまで省かれているというのも、ちょっと不思議な感じです。そのぐらいは書いておいたっていいのでは、とは思いませんか?
そのうちの5曲には、マリンバやビブラフォン、あるいはクロタルといった「鍵盤打楽器」がフィーチャーされていて、それを演奏しているアイリク・ラウデという人がメインのアーティストとしての扱いです。
この人の奏でるマリンバは、普通は「木琴」と呼ばれるはずのこの楽器から、想像もできないほどの幅広い可能性を引き出していました。たくさんの音符を、人間業とは思えないほどの速さで弾きまくることなどはすでに当たり前(低音部と高音部を同時に弾いている時に、腕が5メートルぐらいに伸びていると感じるのは、左右いっぱいに音場が広がっているせいでしょう)、なにより心にしみるのは、弓を使ってとても滑らかなエンヴェロープを聴かせてくれている部分でしょう。なんという繊細さ。彼はこの楽器から、まるで「雅楽」のような味まで出しているのですからね。
そこに、曲に応じて様々なスタイルで絡んでいるのが、ヴィオラ、フルート、ギターの3つの楽器です。ヴィオラは1人だけで演奏する曲も与えられていますが、それがまさにヴァイオリンでもチェロでもないヴィオラという楽器である必然性が存分に感じられるものでした。同じことを表現するのに、フルーティストは、C管、アルト・フルート、バス・フルートの3種を使い分けなければいけなかったというのに。そしてギターは、自分自身では強い主張を持たない分、フルートの「影」としての存在感を見せつけていました。
作品?これらの「演奏」を成立させるのに、この作曲家がどれだけの貢献をしていたのか、さっきの顔写真から「邪推」するほど不謹慎ではないつもりですが・・・。もちろん、録音に関しては、その貢献度は作曲家の比ではありません。

BD-A Artwork © Lindberg Lyd AS


おとといのおやぢに会える、か。



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