・・・・・・・・・・・・・・・・・ 掲載記事は、このHP「君在前哨/中国現場情報」を支援する人々の協力により関係者に直接取材し記事を作成しています - - - 燕 りゅうぼう ・・・・・・・・・・・・・・・・

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〔011〕 「鬼子来了」に突き付けた当局の強権的姿勢 (1/2) 
〔010〕 自己保身のために公開禁止処置を連発する官僚体質 
〔009〕 国策映画へ大量動員される観客 
〔008〕 いっこうに減らない「銃殺」
〔007〕 テレビ番組の制作へなびく映画人 
〔006〕 浙江省東陽市横店の巨大な映画撮影所 
〔005〕 公開禁止映画はどのようにして見られているか 
〔004〕 検閲を拒否する「地下映画」の増加 
〔003〕 陳凱歌、張芸謀、田壮壮−声と意志の反比例 
〔002〕 「きれいなおかあさん」で目立つ、的はずれな報道 
〔001〕 日本の取材姿勢に落胆する映画監督たち 

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 新作のプロモーションで中国国外に出た監督たちは、各国のマスメディアから取材される場を重要視している。国内ではメディアが政府の意向にそった記事を作り上げるために真意が伝わらない。しかし、国外であれば自分の主張を自由に発言でき、報道されると期待しているためだ。

 ところが、日本で取材をうけると、あまりの貧弱な質問内容に失望感を隠さない監督が多い。取材にやってくるのは芸能関係の記者やレポーターあるいは映画評論家が中心で、ほめ殺しかと思えるほどの美辞麗句を並べたて、誰もが同じ質問ばかりするためだ。たまに政治的な質問が発せられても、中国事情にうといためこじつけが多く、まともに答えられないという。

 ある監督が笑いながら、一つの事例を教えてくれたことがある。家が燃える場面があった。取材記者は、この場面は近い将来、中国政府が崩壊するという意味を与えられているのではないかと、唐突に質問した。

 なぜ、そのように思うのか、監督が逆に記者へ問いかけた。記者は、あなたの作品は政府から批判を受けることが多く、監督の願望がそこに感じられたからだと答えた。監督は記者のあまりの短絡的な思考にあっけにとられ、一度、医師の診察を受けた方がいいのではないかと言いかけようかと思ったという。

 この類の取材が日本では多く、一人の監督はどの社がまともな取材をするか教えてほしいと、社名がぎっしりと書き込まれた取材スケジュール表を私に見せてきたことがある。そして彼は、今後、取材を受ける時間を減らしはじめる予定だと言った。
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 孫周監督と主演女優・鞏俐の来日記者会見で、映画「きれいなおかあさん」の主要テーマについて、孫周は重要な発言をした。

 「描きたかったのは、現代中国の変化、とりわけ下崗だ」。(註:下崗=国有企業の改革で出現した大量の人員削減。通訳はリストラと訳した)。ほんの一握りの人たちだけが享受する「経済発展」に疑問符をなげかけているのが、「きれいなおかあさん」に貫かれる物語の縦軸だ。

 ところが、記者会見を伝える記事は、鞏俐がノーメークで主演した、すっぴんでもきれいだとかという、まったくのピントはずれの内容だ。鞏俐の素顔での演技であれば、「秋菊の物語」でとっくに演じている。

 日本の映画評論家やレポーターは、物語のあら筋をなぞるだけ、あるいは主演女優に目を向けるだけで、監督の制作意図にはまったく注意を払おうとしない。監督が制作意図を発言しても記事にはしない。たんなる宣伝屋が多すぎると言って嘆いた中国映画人がいる。

 映画の後半に、鞏俐が言葉の不自由な息子に対して、「私の失敗作ではなかった」と真情を吐露する場面がある。

 『ただ一度 この世を生きて 自らの いのちと思う 一人に会いぬ』

 歌人・道浦母都子さんの短歌を思い出させる場面はとりわけ印象的だ。
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 張芸謀監督の「活きる(活着)」が公開された。山東省や吉林省を中心とする撮影現場では、スタッフの意見を積極的に取り上げる張監督の姿勢が浸透し、宿舎では深夜まで活発に意見交換が行われていた。

 「活きる(活着)」は1940年代の解放直前からの中国現代史をテーマとして、中国庶民の喜怒哀楽がにじみ出ている。この映画を見れば、中国現代史5冊分の本を読んだくらいの理解力が得られるはずだ。しかし、中国国内では公開は許可されていない。

 先日、来日した北京映画撮影所の関係者と会ったとき、「活きる」が話題となった。なぜ、政府は依然として公開を禁止し続けるのかと尋ねると、「文化大革命を主要テーマとしているためだ」と、彼は断言した。同席した一人が、しかし陳凱歌監督の「さらば、わが愛(覇王別姫)」はとっくに公開されていると言ったときの、彼の答えがふるっていた。

 「『さらば、わが愛』は文革をテーマとする映画ではない。時代の流れとして文革を取り入れた程度の映画にすぎない」。

 言外に、だからこそ、政府は検閲で数カ所の修正を指示しただけで公開を許可した。政府にとって、「さらば、わが愛」は脅威を感じる内容ではないし、一般への政治的影響力もない映画だと聞こえた。

 田壮壮は「青い凧」で、文革に正面から向き合った。制作途中に密告されるなどし、撮影を何度も妨害された。日本での編集作業は、秘密裏に行われた。「青い凧」は共産党の支配が終わるまで、中国国内での公開は絶望的だと、中国映画人の多くが言う。あれからほぼ10年、田監督は新作を撮るチャンスをことごとく潰されてきた。

 陳凱歌、張芸謀、田壮壮、それぞれに表現こそ違え、文革をテーマとする映画制作にこだわりを持ち続けてきた。なかでも、陳監督の発言はとりわけ勇ましかった。しかし、彼らの作品を振り返ってみると、声の大きさと意志の力は反比例するという皮肉な結果で終わっている。

 おりしも陳監督の「キリング・ミー・ソフトリー」が不評をかった。日本のサスペンスドラマよりもはるかに薄っぺらだと酷評した映画人がいる。北京の映画関係者の間では、数年前から陳監督の作品が話題となることは少なくなった。たまに彼について語られると、話の中でしばしばこんな単語を耳にした。

「名利双収」(名声と富を追い求める)。
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 検閲をパスしなければ、中国映画は中国国内で公開することができない。しかし、数年前から、検閲を拒否、あるいは作品内容の修正を拒む「地下電影(地下映画)」と呼ばれる作品が相次いで登場している。主に第6世代と呼ばれる、現在30代の監督のものが多い。

 日本で公開された作品としては、賈樟柯の「一瞬の夢」(「小武」)などが地下電影にあたる。こうした映画は制作費の回収が見込めないため、監督自身、あるいは友人や身内から資金を集めるなどして作られる。「一瞬の夢」の場合、約40万元(約600万円)ほどで作られたと言われている。

 「中国国家広播電影電視総局」(放送・映画・テレビ総局。以下、広電局)からすれば、地下電影は「映画管理条令」違反となるが、昨年1年間に確認された地下電影の新作は25本を超えるなど、年々、増加傾向にある。

 このため、広電局は地下電影の制作に関わった集団や個人に対して、数年間におよぶ制作禁止処置にするなどして地下電影潰しに乗り出し、「人民日報」でも警告を発している。

 しかし、地下電影は密かにビデオテープとして出回り、大学生や映画関係者、知識人たちの間でかなり見られている。私も、「一瞬の夢」を映画関係者の自宅で5人ほどが集まり、真夏だというのに窓を閉めきり音が漏れないようにして見たことがある。

 以前は地一般の人が地下電影を見られるチャンスはほとんどなく、作品の存在さえ知られていなかった。だが、最近ではVCDやDVDとなり、香港、台湾あたりから中国に逆流し、購入できるようになった。
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 中国の国務院(日本の内閣に相当)直属で、映画などメディアの検閲機関「中国国家広播電影電視総局」(放送・映画・テレビ総局。以下、広電局)による締めつけは現在も厳しい。

 撮影所と広電局で脚本の検閲を受けた後、再び撮影所と広電局の両機関で完成フィルムも検閲を受けなければならない二重チェックが強要されている。現状では、撮影所による脚本の検閲段階で潰される作品が圧倒的だ。

 脚本の検閲をなんとかすり抜けるために、本来の制作映画とはかなり内容を変えた脚本を提出するなどして撮影にとりかかったりしているが、公開できるかどうかは広電局の判断を待つしかない。公開禁止と決定されれば、争う手段はない。しかし、上に政策あれば下に対策ありで、公開禁止作品であっても国内で密かに見られている。

 映画関係者は人脈を駆使して、編集段階のフィルムを見たりしている。田壮壮の「青い凧」の場合、完成直後に音声なしのフィルムを入手し見ることができた。一般的なのは、VCDで見る方法だ。

 今は、台湾や香港で作られたVCD版「青い凧」が中国国内に出回っている。近々、日本で公開される姜文の「鬼が来た(鬼子来了)」も、VCDが密かに売られている。噂では、フィルム・コピーがシンガポールに持ち出され、VCDとして国内に入ってきたと言われている。
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 浙江省の省都・杭州市から車で2時間ほど行くと、東陽市横店に着く。人口7万人足らずの小さな町だが、ここに大規模な映画やテレビの撮影所がある。

 中国はもとよりアジア最大規模を誇り、「阿片戦争」(謝晋監督)、「始皇帝暗殺」(陳凱歌監督)、「英雄」(張芸謀監督)を始めとする多くの作品が、ここのセットを利用して撮影されている。

 撮影所には美術スタッフやエキストラとなど常時5000人を超える人々が生活し、国内外の映画・テレビ・演劇関係者の見学とともに、新たな観光名所として多くの観光客が訪れている。
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 経済発展にともなって娯楽の多様化が進み、中国では中国映画の観客数が加速度的に減少している。さらに、WTOの加盟を果たしたことから、ハリウッド映画などの外国映画の公開本数が増え、今後、いっそう国産映画の観客数が減少すると推測する映画人が多い。

 しかし、映画人の仕事量は増加傾向にあり、高収入を得る人たちが増えている。映画制作よりはるかに好条件となるテレビ番組の制作に関わるようになったためだ。

「都市部のテレビ局の多チャンネル化で番組制作本数が増えている一方で、地方局からは人気俳優が出演し大都市を舞台とするトレンディ・ドラマの制作依頼が多くなっている。北京や上海など沿海地域の映画撮影所に所属する監督、カメラマン、録音技師の多くが、テレビへとなびいている」

 映画技術者は、自分たちを取り巻く最近の情況の変化をこう説明する。
 「半年を超す長期の拘束期間に加え農村や山間部などへんぴな地域での撮影が映画では多い。その点、テレビはスタジオや都市での撮影が多く、労働条件も恵まれている」

 この技術者の場合、昨年1年間、所属する撮影所の映画制作には一度もたずさわらず、テレビ番組制作会社からの仕事だけをこなした。

 あるテレビ番組の制作では、機材レンタル料や助手への賃金も含まれているが、約4カ月間で10万元(約150万円)の収入を得た。一般的な映画のギャラが6カ月間で3万元(約45万円)程度ということを考えると、テレビ番組の方がはるかに高収入だ。現在、日本でもこれだけの金額が支払われるケースはほとんどない。

 この仕事をするにあたって、制作会社は技術者の4ヶ月間の借り受け代となる「労務費」として、5000元(約8万円)を技術者が所属する撮影所に支払うという条件で承諾されている。

 日本では考えられないことだが、こういったケースは以前から慣例化し、陳凱歌、張芸謀、田壮壮といった著名な監督たちのスタッフも同じ方式で集められる。スタッフは各地の撮影所から選りすぐられ、プロデューサーは個々のスタッフの給料の5倍から10倍に相当する金額を撮影所に支払っている。

 一般的に、カメラマンや録音などの映画技術者で、大学を卒業した30代の平均年収は、現在、日本円で500万円前後に達していると推測されている。北京や上海など都市部の労働者の平均年収が約20万円程度とされていることを考えると、格段の違いだ。
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 中国の映画やマスメディアで働く人たちから、「銃殺された」という言葉をたびたび聞く。中国語で、「銃殺」は「槍斃」という。彼らが「槍斃」と言うときは、政府の関係機関により映画や記事、出版物などが検閲で許可されなかったこと意味する。

 例えば、「那部電影被主審機関槍斃了」(あの映画は検閲機関から銃殺された)というように表現される。自分たちが創作あるいは取材した作品を世に出すことができなかっただけに、彼らの口ぶりには無念さがにじみ出ている。

 昨年(2001年)12月、国務院令第342号として「映画管理条令」が公布され、今年(2002年)2月1日から施行された。全68条からなる今回の「映画管理条令」は、1996年7月に施行された同名の条令を改正したもの。

 1990年代初め、ヨーロッパを訪問した田壮壮監督は現地の中国人留学生や研究者の会合で、検閲を廃止しないのであれば人治ではなく法律に基づいた審査を行うべきだという旨の発言を行っている。

 それから数年後、新中国建国以来初の映画検閲法として、96年に「映画管理条令」を公布した。だが、映画の国家管理体制の明記ととともに、国家や民族の統一を妨げてはならないとする総論に終始し、中国映画人は失望を隠せなかった。映画制作部門以外の映画への新規参入などを今回の新条令で許可するなどしているが、新条令の施行から3ヶ月、映画関係者の反応はいたって冷ややかだ。

「映画制作への門戸がより開かれたかに見える。検閲を経験していない者は、投資の対象として映画制作に進出しようとするだけに、今後、動きは活発化するかもしれない。しかし、政府にしてみれば、提出された作品を従来通り『銃殺』していけば、何ら問題はないと考えている」

 表現の自由が保障されないかぎり、中国の映画やメディアを取り巻く環境が劇的に変化することはあり得ないというのが大多数の考えだという。
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 映画「ケ小平」について中国側関係者に尋ねたとき、「あんな映画に関心があるのか」とあきれかえられた。同作品は、共産党中央文献研究室、国家広播電影電視総局(放送・映画・テレビ総局)、珠江電影制片公司による共同制作。

 日本でも、1978年にケ小平が訪れた千葉県の新日本製鉄や大阪府の松下電器などを、40人を超す撮影スタッフが来日し10日間ほどかけてロケを行った。

 国策映画は毎年のように制作されているが、一般市民はまったく興味を示さない。しかし、テレビ・ニュースは映画館前の行列を映し出す。もちろん、演出があってのこと。職場ごとに、大量動員されているのが実情だ。この時、取材される側はテレビ・カメラの前でけっこうな演技力を発揮し、身振り手振りをまじえて映画のすばらしさを強調する。

 ところが、館内ではイビキや寝息が止まない。権力者、あるいは党や政府を絶賛する作品が大多数だが、国策映画だけに国内の映画祭でなんらかの賞を受賞する場合が多い。

 「昨年(2001年)は共産党創設80周年、今年はケ小平が亡くなって5年。党にとって節目の年にふさわしい映画ということで、昨年から制作が始まり、今年、大々的に公開される」

 裏事情を、関係者はこう説明した。内容はといえば、ケ小平そっくりの俳優を中心に、会議の場面が頻繁に登場する。作る側でさえ眠気をさそわれる作品だという。

 日本での撮影終了時には、中国大使館が撮影スタッフのために慰労パーティを開催。国策映画ならではの締めくくりがなされ、「人民日報」も日本ロケを報道した。映画は党や政府の宣伝道具とする建国以来の原則は、いまもって崩れていない。
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 「報送劇本」は、シナリオの検閲を受けるために国家広播電影電視総局(放送・映画・テレビ総局。以下、広電局)にシナリオを提出することを意味する。すべての中国映画はこの検閲をパスしなければ撮影にとりかかれない。

 しかし、実際には、広電局のシナリオ検閲の前に、撮影所のシナリオ検閲を受けることが義務づけられている。つまり中国映画人にとって、映画制作とは検閲を受けることを意味するといっても過言ではない。

 さらに、撮影が始まると、「分鏡頭劇本」の提出が求められる。「分鏡頭劇本」とは撮影場面ごとのシナリオで、ここで綿密な検閲が行われる。ところが、検閲はこれで終わりではない。撮影と編集が終了した後の完成作品の検閲を撮影所と広電局から受けなければならない。

 なぜこれほどまでに検閲が頻繁に実施されるのか。たび重なる検閲に対する映画人の認識は一致している。

 撮影所の検閲は自己規制的な意味合いがあると彼らは考えている。だが、広電局は映画やテレビなどを管轄する官庁とはいえ、シナリオだけで作品の全体像を理解できる専門的な職員がいない、いわば素人集団。映像化された作品を検閲するまでは、実際の検閲作業にとりかかれないのが実情だという。このため、シナリオ検閲で附された修正要求と完成作品の検閲での修正要求に、矛盾が生ずることが日常茶飯事となっている。

 またこんな事例が、まことしやかに関係者の間で語り継がれている。ある完成作品の検閲で直接の担当者が公開の可否を判断できず、上層部の判断を仰ぐことになった。上映終了後、誰も判断を下せなかった。この場には、江沢民国家主席も出席していたが、終了後、彼はすぐにトイレにたった。結局、江沢民が戻ってくるまで待つことになり、彼に最終判断を求めた。江沢民は一言、「好!(よし)」と言ってうなずき、公開が決まった。

 こうしたケースはは何を意味するのか。公開を許可したものの、その後、党や政府の幹部からその作品に対して批判が出た場合、検閲担当者の責任問題へと発展する。このため、検閲担当者は自己保身から、微妙な内容の作品は公開禁止にするケースが多いという。

 次回から、中国国内では公開禁止となったものの、最近、日本で公開されたある映画に対する広電局の内部資料を公開する。この種の資料が外部に漏れることは過去、ほとんどなく、中国政府の映画検閲に対する姿勢が具体的にわかる非常に意味深い資料だ。
■「君在前哨/中国現場情報」

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 抗日戦争時における中国人農民と日本兵との触れ合いを描いた「鬼子来了」(「鬼が来た」)に対して、国家広播電影電視総局(放送・映画・テレビ総局。以下、広電局)が検閲で突き付けた修正命令は、表現の自由という基本的権利に対する中国政府の強権的な姿勢を如実に表している。

 以下は、当局が命じた修正命令の要約である。

 ・脚本検閲後、広電局は脚本の修正を命じたが、修正していない。
 ・脚本の検閲許可を得ていないにもかかわらず、規則を無視し撮影を強行した。
 ・新たなセリフを許可なく加え、物語の内容さえ一方的に変更した。
 ・侵略者である日本兵に対し、農民の憎悪や愛国的態度を描写していない。
 ・日本兵に対する、農民の奴隷的な姿勢を強調している。
 ・中国人を侮辱するセリフが数多く使われている。
 ・女性の裸体や露骨なセックス描写が含まれ、映画審査規定に違反している。
 ・広電局のたび重なるタイトル変更指示を無視した。

 この映画の監督であり主演男優である姜文は、国内外のメディアで「この映画で描きたかったのは、戦時下における人の生命や人生の何たるかだ」と発言している。

 姜文は軍人の家に生まれ、外部の人間の出入りを厳しく制限し軍の関係者だけが生活する中国特有の居住区域「大院」で育った。それだけに、今回の作品は日中現代史対する姜文の思いを示す注目作であった。

 だが、広電局は政府や党の歴史観から逸脱する作品は許可しないという硬直した原則論に基づいて、「槍斃(銃殺)」(中国語で、検閲による不許可の意)し、中国国内での上映を厳禁するとともに、国外でさえ公開しないよう圧力をかけている。

 次回では、具体的な場面に対する当局の修正命令を紹介する。
■「君在前哨/中国現場情報」

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