これはプロポーズだ。
相思相愛の相手だからこそ言える言葉であって、恋焦がれた片恋の相手に伝えたい言葉ではないのだ。
一番伝えたい言葉・・・
それはプロポーズしようとする相手には、今更口になぞする必要のない分かりきった言葉だから。
だからそれは、いつものように心の奥の奥にだ。
アンドレは自分に言い聞かせた。
それではどんな言葉を?
アンドレは考えて・・・思わず自嘲した。
簡素で確実に伝わる言葉を探さなければ。
そうしないと恐ろしい言葉を口走ってしまう。
たとえそれが、偽りのプロポーズだと分かっていても・・・

随分時間が過ぎて、ようやくアンドレはオスカルを見た。
「決まったのか?」
オスカルは尋ねた。
「ああ。」
アンドレの返事にオスカルはきちんと居住いを正して、それから神妙な顔をしてアンドレを見つめた。
アンドレはその様子に一瞬苦笑したが、すぐに真顔になると大きく深呼吸して・・・それからオスカルの顔を見つめた。
ひどく緊張した面持ちで。
オスカルもつられて緊張した面持ちでアンドレを見つめた。
「オスカル・・・あの・・・・」
次の言葉が続けられず、アンドレは照れくさそうに笑った。
「ダメだな。照れるな。こんなに・・・何と言うか・・・いや、すまない。」
「ああいい。わたしも・・・緊張している。」
オスカルも少し恥ずかしげに微笑んで答えた。
その様子があまりにも愛らしくて、それは胸が痛くなるくらいで・・・・
ああ、もしこれが本当のプロポーズだったら!
アンドレはそっと目を伏せた。
それから少ししてから再びオスカルを見た。

「オスカル、結婚して欲しい。どうかおれの・・・妻になってくれ。」
アンドレは考え抜いた簡素な言葉をオスカルに伝えた。
だが言葉を絞った分、瞳がどれほど愛しげにオスカルを見つめているかなど少しも気づいていなかった。

オスカルにはその理由が分からなかった。
何故アンドレの瞳に自分の姿しか映っていないのか。
他の何も見ていない・・・わたしの事だけを考えている瞳?
愛しげなまなざし?
オスカルはその理由をいくつか探して・・・その中で一番納得できるものを選んだ。
わたしは今、アンドレの恋人だからだ。
だからアンドレはそんな目でわたしを見るのだ。
それにも関わらず、オスカルはアンドレから思わず目を逸らした。
このように見つめられるのにオスカルは慣れていなかったから。
それがアンドレにどう受け取られるかなど考える余裕などなく・・・・
そしてアンドレは、その通りに受け取った。

たとえ偽りでもだめなのか?
伝わらない?言葉が足りないから受け入れてもらえない?
気持ちが・・・伝えたい半分も言ってないから?
プロポーズの言葉は間違いなくそれだけのはずだった。
言葉を続けるつもりなどなかったのに・・・・
「色々考えたのに・・・・世界一幸せにするとか、絶対苦労させないとか・・・・他にも色々考えた。でも、これしか言えない。いや、本当はこれすらおれには言えない。ああ、よく分かっているよ。」
そうだ、よく分かっている。
「おれにはそんな資格がない、許されない。だけど・・・だけど!」
もうこれ以上言ってはいけない。分かっているのだ!
「愛している。愛しているよ。愛する女はおまえ一人だ。おまえだけを愛している!」

オスカルは驚いてアンドレを見つめた。
わたしに向けられた言葉。
違う!これは・・・・・偽りだ。
いつかアンドレが・・・本当に愛する女性に伝える言葉だ。
わたしではない。
わたしではないのだ。

「おまえがおれのすべてで・・・・おれには何もないけれど、おれにはおまえを愛する気持ちしかないけれど。今よりもっと幸せに出来る自信もないけれど!きっと苦労かけるだろうけれど・・・・後悔だけはさせないから、それだけは絶対にさせないから・・・・愛しているよ。だからオスカル、おれの妻になってくれ。」

オスカルはアンドレを見つめた。
わたしには偽り言葉、だがいつかアンドレの愛する女性にとっては真実の言葉だ。
その女性は幸せだ。
アンドレならば・・・言葉通り一生その女性を愛し続けるだろう。
・・・胸が痛い。
何故こんなにも胸が痛むのだ?

胸が痛かった・・・
オスカルの瞳に長い睫が被さっていつもの明るい瞳の色が暗く沈んで見えたから。
アンドレはオスカルから目を逸らした。
馬鹿なことを!言ってどうするつもりだったのだ!
これは所詮偽りなのに!
・・・・そうだ。
これは偽りだ、幸いな事に。

「以外と難しいものだな。おれにはちょっと・・・無理かな。」

その言葉にオスカルは我に返った。
アンドレを見る。
先程の視線はすっかり消えて・・・・アンドレはオスカルにいつもの穏やかな様子で笑っていた。
だが、瞳はそうではなかった。
隠そうとしても分かる・・・・なんて顔しているのだ。
テーブルの上に置かれたアンドレの硬く握りしめられた拳が痛々しかった。
理由を聞こうとして口を開きかけて・・・・オスカルはようやくそれが、自分に原因があるのだと気づいて慌てて叫んだ。
「アンドレ違う!そうではない!わたしは・・・」
そうだ、これは他の女性ではない私へのプロポーズなのだ。
アンドレが愛しているのはこのわたしなのだから。
その途端、胸の痛みが消え失せた。
オスカルは苦笑した。
そんなに他の女に渡すのが嫌なのか?
酷いものだ、自分勝手で我侭な独占欲・・・アンドレの幸せなど少しも考えていない。
だが、今はいい!
今だけは・・・・
アンドレはわたしを愛してくれている、わたしもアンドレを愛しているのだから。

オスカルはアンドレの拳にそっと自分の手を重ねた。
アンドレは驚いたようにオスカルを見つめた。
「本当にわたしでいいのか?わたしは・・・わたしはこんな風だ。わたしの方こそ・・・」
オスカルはそこで言葉を切って、不安そうなまなざしをアンドレに向けて尋ねた。
「わたしは・・・おまえを幸せにしてやれる自信がない。」
「・・・いるだけでいい。それだけでいいんだ。おれに必要なのは・・・おまえだけだよ。」
掠れる声でアンドレは答えた。
「ずっとわたしだけか?わたしだけを愛してくれる?一生だぞ。」
聞かなくとも分かっていたのにオスカルは尋ねた。
オスカルの問いかけにアンドレは一言だけ返事をした。
胸が詰まって・・・それ以上答える事が出来なかったから。

「ウィ」

「おまえの女の趣味は最低だな。」
オスカルはそういうと蕩けるように笑ってプロポーズの返事をした。
「アンドレ、わたしはウィだ。喜んで!心から!」

「ヒュー!」「ヒュー!」

突然口笛を吹く音が二人の耳に入った。

「おめでとう!」「ひやひやしたよ!」「ムシューよかったな!」「マドモアゼルも!」「お幸せに!」「おめでとう!」

祝福?の言葉も
二人は周囲を見まわした。
そして知った。それらが自分達に向けられているのを。
何故ならカフェ中の視線が・・・こちらを向いていたから。
しかし、それらが何を意味するのか理解するには・・・それから更に時間がかかった。
たとえすぐに気づいた所でどうしようもなかったろう。
もはや、言い訳出来る状態ではなかったから。
二人は呆然と顔を見合わせた。
その時、隣の席に居た年配の・・・・多分夫婦だろう、男の方がアンドレに話しかけた。
「ムシュー、喜びのあまり呆然となるその気持ちはよく分かるが、未来の花嫁に感謝のキスぐらいはした方がいいと思うがね。」
そう言われて、アンドレはオスカルを見た。
オスカルは戸惑いを隠せぬままアンドレを見つめていた。
アンドレは考えた。
感謝を?その通りだ。
だがこれは・・・偽りだ。
その時アンドレの脳裏に先程のオスカルの様子が浮かんだ。
蕩けるように微笑んで・・・ああ、そうだ。
オスカルは・・・・・オスカルは、おれにウィと言ってくれたのだ。
アンドレは立ち上がり、オスカルの所まで行くと彼女の手を取って立ち上がらせた。

頬にキスだな。
オスカルは考えた。
カフェ中の注目を浴びているのだ・・・せざるをえまい。
オスカルが目を伏せたところで、アンドレは顔を近づけオスカルの左の頬にそっとキスをした。
しかし次の行動は・・・オスカルは考えもしないものだった。
アンドレはオスカルの肩を抱えて自分の胸へ引き寄せると、オスカルを抱きしめた。
身動きなど出来ない程、強く・・・
「ありがとう。」
オスカルはアンドレの胸でその言葉を聞いた。
再び、祝福の言葉や口笛がカフェ中に飛び交った。
暫くしてから腕の力を緩め自分の胸から離すとアンドレはオスカルに微笑んだ。
それからアンドレは隣の席の男性に感謝の意を表した。
オスカルはただ黙ってアンドレを見つめていた。

「そろそろ・・・・行こうか?」
アンドレはオスカルを促した。
「あ、ああ。」
「オスカル、腕。」
オスカルは言われて腕を差し出した。
アンドレは笑いながら言った。
「逆だよ。」
オスカルは黙ってアンドレの腕に自分の腕を絡めた。

カフェを出て少しするとアンドレは大きな溜息をついて、それからオスカルに顔を向けた。
「殴られるかと思ってひやひやした!」
「まさか!あの状態ではああするしかなかった。だが・・・・・・・抱きしめられるとは思わなかった。」
オスカルは遠慮がちに付け加えた。
その様子を見てアンドレは笑いながら答えた。
「感謝の気持ちを表しておこうと思って。頬ではなく唇にという周囲の期待をひしひしと感じたが、それはちょっと出来ないから・・・」
「バ、バカヤロウ!もししたら・・・本当に殴ってたぞ!」
オスカルは思わず立ち止まって、真っ赤になって叫んだ。
「だからしなかったろう?それにしても・・・・何故だろう?声が大きかったのか?」
アンドレはオスカルに歩くよう促しながら考え込んだ。
「知るか!こちらが聞きたいぐらいだ。だが、一つだけはっきりした事がある。」
「なんだ?」
「人のいる場所でプロポーズなぞ絶対するものではない!」
オスカルは言い切った。
アンドレもその言葉に深く頷いた。
「ああ、その通りだ。これでノン!と言われたら二度と立ち直れなかったからな。」
「ウィ!と言ったぞ。」
「暫く間があった。あの間は・・・・生きた心地がしなかったぞ。」
「わたしは・・・・」
オスカルは俯いた。
「わたしは、少し・・・驚いた。わたしも真剣に答えたが、おまえはもっと・・・・本当に真剣に考えたのだな。」
そう言って、オスカルはアンドレを見た。
「そりゃもう!これ以上ないほど真剣に考えたましたから。本当にするつもりで!と念押しされたからな。我ながら・・・」
アンドレはオスカルに笑いながらその先を続けようとして押し黙った。
「どうかしたのか?」
「・・・聞かれるだろうか?」
「何をだ?」
「プロポーズの言葉。」
アンドレは不安げにオスカルを見つめた。
「当たり前だ。だから考えたのではないか!」
オスカルはアンドレにそう言ってから・・・・黙り込んだ。
あれをもう一度他人に言うのは・・・間違いなく、勇気が必要だ。
オスカルはアンドレを見た。
アンドレはオスカルの横で困り果てた顔をしていた。
「まあ・・・なんだ。適当に省いて・・・・だな。」
オスカルはアンドレに言った。
「ああ・・・そうだな。」
アンドレはそう言って溜息を付いた。