「これ、答え間違ってるって!絶対に!」

おれは思わず声を出した。すると 『地図を信じねば迷うのみ。』 と、頭の中で声がした。おれは部屋の片隅を見た。 黒龍は相変わらず猫みたいに丸くなったままで目を閉じている。

 「だけどどう考えても公式がおかしいよ!」
 『見方が悪ければ同じく迷う。』
黒龍は目を閉じたまま答えた。
 「それってつまりおれが間違ってるってこと?」
だけど黒龍は答えなかった。仕方なく、おれはもう一度ノートを見た。

えーと、まず最初に剛体の重心出す。だけど剛体って面倒だよな。質点なら色々無視出来るから楽なのに・・・とにかく!重心はこれは合ってるはずだ。で、次に求めるのは、速度の変化量だろ。だから・・・ニュートンの運動方程式使って・・・これはOK。だからもし問題があるならここからだ。回転モーメントと角運動量出して角速度の変化量を求める。だからこの式使う。えーと、トルクって回転モーメントのことだよな?だからこれで合ってるはずなんだけど・・・・・ちょっと待てよ?そういや黒龍は、座標変換するとか言ってなかったか?・・・・そうするとあれだろ?確か行列使って計算するんだったよな?でもって・・・これで求めた数値を式に代入するのか?そうか!それなら・・・だけどどこに代入するんだ?θ?でもそうすると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 「やっぱおれ、物理向いてない。」
おれは机に突っ伏して呟いた。
 「絶対向いてない!絶対に・・・」
 『止めるか?』
おれは顔を上げると黒龍を見た。黒龍は目を開けておれを見てた。
 『これで手こずるようなら・・・』
 「いや、大丈夫!全然大丈夫!問題ない!」

おれは即答すると、開いてある参考書を見てもう一度最初から考え直した。問題を見て、参考書を見直す。すると少しだけ光明が見えた気がした。おれはもう一度問題と答え見直した。必死で考えてノートに式を書いて計算してそれから答えを見て、もう一度問題を見て、いました計算を見て、それから黒龍を見た。

 「あの・・・ちょっと聞いてもいい?」
 『何だ?』
 「あのさ、頭が良くなる魔法って・・・」
黒龍のビー玉の目がきらりと光った。
 「いや、知ってるって!そんなのないって!だけど、ただちょっと・・・聞いてみただけ、うん。」
おれはそう言うとノートを見て大きく息をついた。

 退院して今日で11日。ここはパリ6区の閑静な住宅地の一角で、アラン達の会社――クレマンが倒壊させてしまったので現在建設中――が書類整理の為の仮事務所として使っている家だ。おれは今、ここに住んでいる。何故こんな事になったのかと言うと、これは総て母さんとクレマンの所為だ。

退院の日、母さんはおれを迎えに来てはくれなかった。
 「冴子はとても忙しいのですよ。デュボーのオークションが近いのです。本当に・・・」
クレマンはうっとりと・・・そういう目をするとおれを見て笑った。
 「楽しみですねえ、勇。」

おれは知った。おれは・・・母さんに売られたんだ。
危ないものコレクターのデュボーのオークションで一体何をさせられるのだろう。あんな事か?それともこんな事だろうか?もしかしたら・・・ああ、本当に!いくらでも想像出来るのが悲しすぎる。

そんなこんなで、おれはクレマンの別宅とやらに連れて行かれた。そしておれは・・・
おれは、思い出して身震いした。
おれは絶対に、あの5日間を忘れない。

 クレマンは危ないものコレクターだった、知ってたけど。知ってたけどまさかこれほどだとは!想像はしてたけど・・・おれの想像力はなってなかった。

 クレマンのコレクションは普通の限界ってやつを軽々と超えた正真正銘の危ないもの、母さんだってたまにしか連れてこないような、普通なら集めるなんて絶対に!考えない、本当に本当に危ないものだった。

いや、それよりどうやったらこれだけ集めれるんだ? そして “これはコレクターズアイテムでしょう?” と何気に言い切ってしまえるあの神経は・・・あいつ何考えてるんだよ!おれには理解できないよ!!!!

 とにかく!クレマンのコレクションは、全てが部屋の1室に集められていた。そしてそれらは、それぞれがとてもきれいなガラスの小ビンに入れられて、部屋をぐるりと取り囲むようにある、大理石か何かまっ白い石で作られていいる長い台の上に一列に並べられていた。小ビンは全部香水入れだとクレマンは言った。話から推測するにアンティークの香水入れらしくとても貴重で価値のあるもののようだ。

小ビンにはそれぞれピンのような細い光で照らされていて、その影が白い台に模様までもがきれいに映っている。多分そうなるように光を当てているんだろう。

おれは何故香水ビンなんかに入れるのか聞いた。すると “中身と外見の対比が際立って切磋琢磨し、美しさが増すでしょう?” と尋ね返されて・・・もういい、よそう。ムシューだってクレマンの考えが理解できるようになったら人として生きていく資格がないって言ってたし。おれは人だから理解出来なくていいんだ。

クレマンはコレクションが全部で113体あると教えてくれた。
 「これらは、決闘の時君に渡したものとは格が違うのですよ。分かりますか?」
クレマンは言ったけど、そんなの言われなくとも分かる。こっちを渡されてたら・・・おれは間違いなく使いこなせなくて死んでたね、絶対に!

 そしておれは、113体のそれと同居する事になった。
彼らの気配はそれはもう極悪。だけどコレクションルームに近寄らなければいいだけだし、クレマンによって強力で重い封印が施されていたのは分かったから気にしないでおこうとその時のおれは思ったんだ。そう、クレマンがいなくなるまでは。

クレマンが家を出てから少しして、それは忍び寄るようにやって来た。最初はゆっくりと、そしてすぐに大きく。あっという間にすすり泣きの声やクレマンへの恨みつらみに呪いの言葉が念仏のように家中を包みこんだ。強力な封印がされていたにもかかわらず、いやだからこそか。それは続いた。一日中、ずっと。

1日目は一睡も出来ず、2日目も同じ。3日目は流石に2日も寝てないのでうとうとしたが、眠れるわけ無い、ああいう声は夢の中だって入り込んで・・・いや、もういい。今更言っても始まらないんだ。
そして4日目の夜、おれに付いて来た黒龍が切れた。

黒龍はまずおれに向かって何かした。そして 『もはや傷は癒えた。』 というと部屋を出た。
行き先は考えるまでもなく分った。おれは、剣―――銀龍と闘った剣 “何かあった時の為に絶対に手放すな” といわれていた――を持ってすぐに黒龍の後を追いコレクションルームに向かった。

黒龍はコレクションルームに入るとその中央に立ち周囲の香水ビンを見回した。そして、いきなりパシャンと音がすると、一瞬ですべての入れ物が粉々になった。113個全部。

封印の力で騙されてたのは、その瞬間で理解した。母さんがたまに連れてくる奴じゃない。数年に1度連れてくるか来ないかのスペシャル級の悪霊、113体全部!それらが一斉に・・・
おれは思い出してまた身震いした。

助けなど呼ぶ余裕などなかった。おれは闘った。生きる為に。死に物狂いで闘ったとも!

黒龍は火焔と重力系の魔法が得意だとその時初めて知った。おれが切って黒龍が火焔系の魔法で消滅させる。おれはもう永遠に続くんじゃないかと思った。黒龍は最後に家ごと灰にすると吼えた。勝利の雄たけびかと思ったら残念な事があったらしい。聞くと 『彼奴が地団駄踏みよる 誘うべきであったわ!』 とシッポを地面に何度も叩きつけて答えた。
ご機嫌黒龍、すごく楽しかったらしい。

 そうして、総てが片付いた頃になって―――最初に連絡したにも関わらず―――ようやくクレマンがやってきた。クレマンは少し残念そうな顔をしたが、すぐにおれを見てニッコリと笑った。
 「まあいいでしょう。もうすぐ “あれ” が手に入りますからね。」

 “あれ” って言った。ずっと前にも “あれ” って聞いたけど、あの時には知らなかったからなんとも思わなかったけど・・・まさか昔の話に書かれていた  “アレ” じゃないよな。他にも2体あるって書いてあった・・・いや、そもそも指示代名詞で呼ばれる悪霊は普通じゃないとも書いてあったじゃないか。つまり、113体と引き換えにしてもいいっていう“あれ”って一体何だよ!やっぱ 本に書かれていた残りの2つか?それとも別物か?それってやっぱ、デュボーコレクションの “あれ” の事なのか?おれは・・・ホントにホントに!本当にオークションから無事帰還出来るのか?

そしておれはクレマンのもう一つの家へ連れて行かれた。
 「今度は大丈夫ですからね。あんな狭い場所では大変ですから・・・」
声が震えている。マズイってすぐに分った。だけど何も出来なかった。そしてクレマンは消えた、黒龍も。
 「周辺1キロ四方は封鎖します。もう!心おきなく!楽しんでくださいね〜〜〜〜」

あとには声だけが残像のように響き渡り、それが消えると銀龍が現れた。そして・・・今度は119体だった。

銀龍はMAXパワー全壊、もとい全開だ。
ああ!おれ、よく助かったよな〜〜。そしておれと銀龍は朝方までかかってようやく全部に片をつけた。そして銀龍は 『この借りは必ず返す。そして次回、楽しみにしておるぞ。』 と言うと空へ飛び上がり雷鳴を轟かせながら去って行った。
その晩、おれはニュースでパリの街が大停電したのを知った。季節外れの雷が何箇所も落ちたそうだ。

 クレマンはまたも何もかも片付いて、ついでに天気が回復してからやって来た。
おれはホテルに泊まると言った。そうだ。最初からそうすればよかったんだ!なのにあいつは・・・
 「ジャルジェ家の親族の方々が君の命を狙っています。危険ですからね。」

クレマンは平然と言った。
危険て?命を狙われるのが?たかがそんな事が!!そいつ等に命を狙われるのとクレマンの家へ泊まるのとどっちが危険だというんだよ!!危険のレベルが違うんだよ!!レベルが!!!!!

 「仕方ありませんねえ。ブローニュの森の側にも沢山ありますから、今度はそちらにしましょう。」
クレマンは言った。
沢山て・・・家?それとも悪霊か?どっちなんだ!結局怖くて聞けなかったんだけれど・・・とにかく!おれは断った。きっぱりと断った!!断固断った!!!もうヤだ!絶対やだ!死んでも嫌だ!!!!もう二度とクレマンの家だけはごめんだ!勘弁してくれ!!

 必死の抵抗の甲斐があって、おれはここへ連れてこられた。
ここでは、アランとあと5〜10名の人達が毎日毎日書類と闘っている。
書類というのは、普通の会社のにあるのとはかなり違う。勿論普通のものある。だけど問題は、羊皮紙に書かれたのだ。

それは、妖や魔、それから悪霊などに関わる書類で普通にしまっておくだけでは駄目らしい。きちんと封印し、互いの書類が干渉し合わないようにして、そうしないと―――実際何度かあった―――紙からあんなものやこんなものが・・・・

もしかしたら、おれはアラン達の手伝いをさせられる為にここへ連れてこられたのかもしれない。でも!クレマンの家より絶対いい!きっといい!多分・・・

おれがここへ来てからクレマンには会っていない。どうやらここに来たくないんじゃないかとおれは思う。だって、ここにはクレマンがいなければならないそうだ。書類整理はともかく、クレマンが決済しなければならない書類が山積らしい。なのにクレマンは来ない。

当然、事務所代わりに使っている部屋の空気はピリピリしていて近寄り難い。そしてクレマンの代わりにここを仕切らされているアランは・・・泊り込みというより住んでる状態。機嫌が悪いとかそういう次元じゃない。おれが言うのもなんだけど気の毒過ぎるよな。

 ここへ来て10日が過ぎた。
怪我の回復は順調というか、113体と戦う前に黒龍が直してくれたので、複雑骨折の足も、折れてたアバラも右手も直った。生活するのになんの支障もない。おかげで助かった。色々準備しなければならないことばかりだから。毎日本当に忙しい。 きっとそれはオスカルもだ。

 退院した日、おれはクレマンと一緒に屋敷へ行った。
ジャンヌはいなかった。後で聞いたが、ムシューからオスカルが家を飛び出した責任を取らされて今は別の人間ガードをしているそうだ。そのかわり、オスカルの側には沢山のガードがいた。ボディガードってこういうのをいうのだとおれは初めて知った。


日本にいる時、例の組織に対応する人たちが来てたけど、あれをもっと強力にした感じ。押さえ込んでる力が半端じゃない。それだけじゃない、ジャンヌと同じ警備のガードでもある。ほんの些細な異変にでも対応できるように神経を尖らせている。脇には銃。すぐに抜けるように背広のボタンは留められていない。そしてオスカルのすぐ側にはいつも5名。一人は屋敷の警備の長のステファン。すごい力があるのは屋敷の警備の人達から聞いてたけど・・・クレマンの本当の片腕で、クレマンが渋々従うほどの実力者だとアランが教えてくれた。その彼が、オスカルの側から片時も離れない。

 「抑止力だそうだ。寝る時以外というのが面倒だがな。」
オスカルはおれに笑ってみせた。

沢山のガードは銀龍の代わりだ。
銀龍はオスカルを護らない、オスカルが当主にならない限り。

オスカルは30分だけおれと話す時間を作ってくれた。
オスカルは話してくれた。ちゃんとおれに分かるように。日本へ帰れば前以上の厳重な警備になること。親族達が今までと違い、次代の当主の座を狙う為に本気を出してくることも。

 「わたしはジャルジェの家を継ぐぞ。そして、わたしは父から当主になる為の全てを学ぶつもりだ。」

オスカルは、当主になる為にここへ残る。勿論すぐじゃない。それはずっと先。だけどそれが一番いいと、オスカルは決めたのだ。
まだ先だからって、今から考えなくていいって、そう言いたかったのに。結局何も言えなかった。

帰り際、おれはオスカルに尋ねた。
 「帰るまでにまた会える?」
オスカルの瞳が少しだけ揺れた。
 「5月の頭に親族会が開かれて、次代の当主を決めるのだ。それまでは難しいかもしれない。」
 「じゃあ、メールは?電話も。」
オスカルは笑って答えた。
 「ああ。それの方が助かる。いつでも話せるから。」
おれは笑って頷いた。おれには、それしかできなかった。

 ムシューにも会った。彼はおれが日本へ帰ってからも暫くの間ガードがつけてくれると言った。そしてオスカルの花婿候補の件も。ジャルジェ家を継ぐオスカルを支えて、一緒に家を守っていける才能と家柄とそれから・・・他にも沢山の厳しい条件。あんまり沢山あってもう覚えてない。そして、日本から来たオスカルの家族も、昂さんをのぞいて全員日本へ帰った。

 また落ち込みそうになって、おれは慌てて頭を振った。
こんなことぐらいで落ち込んでちゃ駄目だ。オスカルがそう決めたんだから、おれだってやらなくちゃいけない。やることは山ほどある。

まず、一つは順調だ。
ゴーストバスターの登録審査はすぐに通った。そして次は、レベル確認の為の仕事を近日中に引き受けなければならないらしい。これで登録完了。そうすれば仕事は選べる。だけど・・・本音を言えばしたくはない。けど生活費はいるし、色々情報も入る。

それにしても、クレマンと龍達のおかげで恐ろしいことになっていた。能力を示す項目に特記事項として書かれたおれの評価。死を司る法を操る3番目の称号を持つ大魔導士よりスキル大の可能性ありって・・・・どんな奴か知らないが、3番目の称号ってあれだろう?信じられねー。いるんだ、そんなヤツが。絶対会いたくないよな。つーか、そいつはもしかしたら・・・・

いや、よそう!考えたくもない!!だって、もしそれがおれの想像している通りの奴だったら、おれに継がせたい大魔導士の名前って・・・絶対にやだからな、死んだってお断りだからな!おれはブルブルと頭を振った。

それより、忘れちゃいけないのは帰国する前に龍達への確認。納得できない点が幾つかある。クレマンなら教えてくれるかもしれないが、龍達はどうしても知りたいなら直で教えてくれるっていうし、ちゃんと聞いておくにはとてもいい機会だ。

それからビザ。
一旦日本へ帰ってビザを取る。3ヶ月以上の滞在にはビザがいるんだ。だけど、長期滞在の為のビザは審査とかの手続きが大変だ。そしてその為はまず母さんを説得しなければならない。だけど、母さんが許してくれる可能性はきわめて低い。母さんは・・・・

昨日、ようやく話を―――あれからおれはずっと無視されていた。携帯にかけても出て貰えないし、ホテルに行っても会ってもらえない。母さんは底なしに怒っていたのだ。―――聞いてくれるという。だけど許してくれるだろうか?

正直言って自信がない。だけど何としても許してもらわないと。これだけは絶対に。でないと書類とかが準備出来ない。とにかく話して説得しないと。それにしても未成年てホント不便だよな。

そうだ、日本へ帰ったら高橋さんに相談しないといけないよな。資料とか必要と思われるものはメールで送った。ホント、おれが考えてる通りならいいんだけどな。もしそれで駄目なら・・・こちらは諦めるしかないだろう。

そして、これが一番重要で一番の難問だ。母さんを説得するよりもっと。
オスカルとは、今はメールと電話だけだ。電話はめったにかかっては来ない。大抵はおれがかけるだけだ。ほとんどメールだけ。そのメールだって・・・・

おれは小さく息を付いた。
分ってるんだ。オスカルはおれと会う気がないんだ。クレマンが言ったとおり、もう二度と会わないつもりなんだ。おれが帰国する時にはなんとか時間を取ってくれるという。それで多分もう二度と会わないつもりだ。それどころか、それだってどうなるか分からない。当日になって急用が出来たとか言われそうな気がして怖い。だから・・・

手紙はようやく書き上げた。定着させて何とか読み取れるレベルまでになった。問題はどうやって渡すかだ。何か方法を考えないと。時間はない、帰国まであと4日。クレマンや黒龍、それからアランから聞くオスカルの様子は・・・よくない。絶対によくない。急がないと駄目だ。他にも気になる事もあるし、それから・・・

おれはテーブルの上の参考書を睨んだ。でも、公式も法則も頭の表面を滑って消えていくるのが分かる。こんなんじゃ駄目だ。物理は絶対に必要なんだから。それなのに・・・

おれは頭を振った。昨夜から集中力がまるでない。これじゃいくらやっても時間の無駄だ。
おれは参考書を閉じて勉強するのを諦めて時計を見た。11:15。昼食には少しだけ早いけど・・・腹は減った。それとも・・・・
ぼんやりと考える。どうしようか?

おれは机の上の携帯を手に取った。オスカルの番号を呼び出そうとして・・思い出してやめた。
昨日のメール、今日はムシューとパーティに出席しなくちゃならなくて夜まですごく忙しいって書いてあった。おれは思い直し、かわりにメールを打った。

 勉強がんばってるよ。
物理は何とかなりそうだよ。問題は古典。でもお前がここだけはやった方がいいって言ってた所は完璧。
そういや、クレマンは屋敷には来る?ここへは全然来なくって、アラン達は今日も書類整理で休日出勤。
それと、一昨日のことだけど

そこまで打って、暫く携帯を見つめた。 それから打ち直す。

 勉強がんばってるよ。
物理は何とかなりそうだよ。問題は古典。でもお前がここだけはやった方がいいって言ってた所は完璧。
そういや、クレマンは屋敷には来る?ここへは全然来なくって、アラン達は今日も書類整理で休日出勤。
ジュールが仕事が忙しすぎて、恋人に逃げられたって。昨夜は泣き通しだよ。

送信ボタンを押してメールを送る。一番聞きたいことは打てなかった。
昂さんはオスカルにプロポーズした。

 「妹だなんて思ってなかったと言われた。ずっと・・・昔から。」
昨日の夜遅くかかって来た久しぶりの電話の声は淡々としてて、オスカルがそれについてどう思っているかなんて分からなかった。

暫くすると 「アンドレ」 と名前を呼ばれた。
おれはようやく気づいて、慌てて 「ごめん。びっくりして・・・」 と答えると、オスカルは 「そうだな。」 と言って黙り込んだ。

あのあと、どんな話をしたかよく覚えていない。
ただその件だけには触れないように話してる自分がいた。オスカルもそうだったのかもしれない。いや違う。話したかったから電話かけてきたんだ。それとも・・・ただ嬉しくて、誰かに聞いて欲しかっただけかもしれない。

おれは携帯をテーブルの上に置くとソファに寝そべった。
ジャンヌから板倉さんの言った事は嘘だって聞いた。それなのにおれは、心のどこかでそれが信じられずにいる。
おれは、マリという人の書いた手記を思い出す。

昔のおれは、アンドレはオスカルに愛されていた。それは分ってる。何というか少しだけ普通と違う気もするけどオスカルに普通を求めるのって難しいと思うし、そういうところは特に!すごく!鈍いから仕方ないんだ。だけどもしアンドレが先に死ななかったら、オスカルは気づいたかもしれないけど、年取っておばあさんになって気づいたりして・・・・冗談じゃなく有り得るよな。だけどそれがリアルに想像出来るのが・・・ちょっと悲しい。

いや、もうよそう。昔の事考えたって何にもならない。問題は今なんだ。そう、今。だけど、今は・・・
おれは情けない気持ちになって体を小さくした。

オスカルはいつだっておれの事を考えてくれてる。おれ、とても大切にされてる。一番の友達だと思ってくれてる。それだけは間違いない。絶対に! だけど、それ以上の感情は?って考えると違うんじゃないかなって気になる。もっと悲観的に考えると、昔の記憶が微かに残っているから大切にされてるんだとも言えないわけじゃない。

それに出会ってからまだ半年。おれ、今のオスカルの事ホントは何も知らない。今までどうやって過ごしてきたか、アランやクレマンから話を聞くことしか出来ない。本当に大変だったんだ、ずっと、ずっと・・・

そしてそれを支えてきたのは、家族、昂さん・・・・
子供の時からずっと一緒に共に過ごしてきたのはおれじゃない。勿論おれにだってチャンスが無い訳じゃない・・・と思う、多分。だけど・・・考えれば考えるほど難しい気がしてくる。

いや、オスカルが誰を好きなろうとおれがこれからしようとすることは関係ない。おれは何をしなければならないか分かってる。もう決めたんだ。だけど・・・

 『ローズマリーの入ったあれはあるか?』

突然黒龍が話しかけたので、おれは慌てて身体を起こした。
 「もうないよ。スノーボールはあるけど。」
 『それでいい。』

おれは携帯をズボンの後のポケットに突っ込むと立ち上がって扉に向かって歩いた。
ドアを開けて部屋を出て進むと、突き当りのドアから出て来たジュールと会った。ジュール、まだ目が腫れて真っ赤だ。泣きどおしたもんな、気の毒に。
それでもジュールはおれに笑って 「勉強進んでるか?がんばれよ。」 と言ってくれた。おれはも笑い返して 「メルシ」 と答えた。

おれはジュールが出て来たドアを見た。A4程の大きさの紙がセロハンテープで貼り付けられていて、マジックで  「Je vous souhaite bonne chance!」(幸運を祈る!) と殴り書きされている。確かにここに入る人間にはこの言葉が一番相応しいかも。何といっても、ここが例の一番危険な書類が保管されてる部屋だからな。

というか他の部屋も危険な書類だらけだ。倒壊から救い出された書類はとりあえずここに持ち込まれたので、すごい事になってる。この家で書類のないのは台所と3つある寝室だけだ。そのうち一つは仮眠用の部屋。もう一つはアラン、そして最後の一つはおれの部屋になっている。

でも経理とか総務などに比べればまだいいらしい。それぞれの部署ごとに別の場所でそれぞれの書類の整理らしいが、何処もここと状況は似たようなものらしい。だけど不思議なんだよな。危ない書類は仕方ないにしても、普通の書類ならバックアップとかパソコンでデータ管理してるだろう?変だよな?
おれは一番危険な部屋を通り過ぎて台所へ向かった。

台所は休憩室だ。休憩時間になるとみんなここへ集まる。おれは台所の扉を開けた。するとテーブルにアランが座っていて、10センチぐらいのバケットの残りにナイフで切り込みを入れてる最中。テーブルには色々な種類のチーズと生ハム。1時間前にも何か食べてたような気がするけど?

 「俺は机で仕事すると腹が減るんだよ。」
アランはナイフを動かしながら答えた。

おれは戸棚を開けると蓋の付いた陶製の入れ物を出して蓋を開けた。中にはアーモンドプードルで作ったクッキーが半分くらい残っていた。おれはそれをテーブルの上に置くとイスを引いた。黒龍は体を少し小さくしてそれに飛び乗った。それにしても、大きくなったり小さくなったり消えてみたり・・・便利な体だよな。

おれはそれをつまんで黒龍に差し出した。彼は口を開けて、おれはそれを黒龍の口の中へ入れた。飲み込むようにして食べると黒龍はおれを見た。

 「もう一つ食べる?」
おれは尋ねた。
 『持って帰る。』
おれは頷いて、それを差し出すと、黒龍は陶器の入れ物ごと一緒に消えた。

 「また本体が来てたのか?」
アランは生ハムとチーズを挟みながら尋ねた。
 「ああ。」
おれは作っておいたスープを火にかけた。

 「今日は何しに来たんだ?」
 「物理の勉強が進んでいるかどうか見に来たんだと思う。」
 「何故そんなものを見に来るんだ?」
 「瞬間移動の魔法の為だよ。」
アランはそれを聞くとバケットかじろうとするのを止めておれを見た。

 「黒龍に教えてくれって頼んだんだよ。」
おれが答えるとアランは呆れ顔をした。
 「・・・お前、あれを覚えるのに何が必要か知っているのか?」
 「物質に働く運動量に対して時間のずれと空間の歪みを瞬時に補正出来る空間把握力と計算力。」
 「それと集中力だ。おれは物理は得意だし好きだが、あれを取得しようなどとは一度も!考えたことすらないな。」

アランはそう言ってバケットをかじった。
おれはアランを睨んだ。

 「おれは苦手だし!大嫌いだけど!したいんだよ。幻影も、遠方心話も!空間系の魔法は全部!」
 「おーおー、好きにしろ。だが、さし当っては期末試験で物理と古典の赤点返上だろうが?」
おれの一番痛いところを・・・

 「俺を睨んだって勉強は進まないぜ?それより何かすぐに食えるもんはないか?」
アランはパンを飲み込むと尋ねた。おれは冷蔵庫からタッパを出してテーブルに力任せに置いた。 アランはタッパを開けると匂いをかいで 「何だこれは?」 と不満そうに呟いた。

 「肉じゃが!嫌なら食べなくていい!」
しかし、アランはおれの言葉など気にせずフォークでじゃがいもを突き刺すと口に放り込んだ。

 「しっかし俺は、黒龍が菓子食べるとは想像すらしなかったぜ。」
アランは肉じゃが全部たいらげてから言った。
 「菓子というよりハーブだよ。ディルとマリーゴールドにカモミールに・・・あと他にも色々。入れてくれって言われたからね。」
 「だが、今食べたあの丸い白いのにはハーブなど入っちゃいないだろう?」
 「スノーボールが好きなのはリールにいるちっちゃい馬。持って帰るのに味見しただけだと思う。」
 「ちっちゃい馬?ああ!優李の言ってたあれか。」
アランは少し考え込むとすぐに納得した様子で頷いた。
 「そう、プランタ・ゲニシダの野生馬。ジャルジェ家の覚書出て来るやつ。」
おれは暖め直したスープをカップに入れてアランの前に置きながら答えた。

 「あれはお前、巨大な化け物馬だぞ?」
 「外身はね。中身はちっちゃい馬。」
 「中身は?何だそれは?」
 「ちっちゃい馬はさ、体が金と銀で出来てるんだってさ。その所為で乱獲されて全滅寸前。だから黒龍は自分の鱗を抜き取って魔法をかけて、大きな馬の形の鎧を作ってあげた。馬の鎧はめちゃくちゃ頑丈らしいけれど、要するに張りぼて。」

アランはようやく納得して頷いた。
 「それで黒龍の住処に平然と住んでいたのか。」
 「そ、黒龍にかくまってもらってたんだ。」
アランは口にパンを運びかけたが、食べるのを止めておれを見た。
 「するとネラという馬は・・・そのちっちゃいのが入ってたのか?」
 「まさか!入ってたのはリオンの従者だよ。黒龍はネラにも同じように鱗で鎧を作ってあげたんだって。」
おれが話すとアランは眉を顰めた。

 「何だよ?おれは聞いたんだぞ。黒龍から。」
 「違う、鱗だ。それには魔法がかけられていて鎧になっているのだろう?」
 「ああ、そうだけど。」
 「そのちっちゃい馬はどうもないだろうが、人は無理だ。強大な力を得る為の魔法の代償は生易しいものではないからな。そんなものを纏ったら二度と脱げなくなるぞ。」
おれは驚いてアランを見た。

 「脱げなくなるって・・・」
 「鎧に合わせて体は捻じ曲げられ、皮膚は貼り付き、一体化するだろう。そして鎧が朽ち果てるまで開放されない。実際龍の鱗が朽ち果てるなぞありえないからな。死んで体が腐り果てて魂だけになるまでか、若しくはそのままか。」
 「ネラは知ってたの?」
 「それでも馬が欲しかったんだろう。」
 「じゃあ、ネラはまだ生きているかもしれないってこと?」
 「いや、覚書によるとリオンの消滅するのを看取ってからあとを追うようにしてネラは死んだことになっているからな。」
 「消滅ってなんだよ!死んだんじゃないのか?」
 「黒龍の煉獄の焔で焼いたのさ。あれは魂すら消失させる。」
 「何故・・・そんな事を?」
アランは食べるのを止めておれを見た。

 「お前、リオンの最後を知らないのか?」
 「ギィネルとかいう魔法使いの策略にかかって殺されたって聞いた。というか、それ以上は話したくないみたいだった。」
アランは少しだけ考え込むような仕草をすると口を開いた。

 「魔導師ギィネルは龍達ですらてこずる恐ろしい力を持った魔法使いだ。こいつはとんでもない悪党でな、リオンは何年もかかってノールとピカルディそれからイル・ド・フランスの連中と共にギィネルを倒した。だがそいつの配下がギィネルの残したレビデルの呪いの矢を3本、リオンに向け射ったんだ。3本のうち1本がリオンの背中を射抜き心臓を貫いた。レビデルの呪いの矢は・・・伝説の禁呪だ。今ではどんな呪いかは分らん。そしてその呪いは龍達も解けなかった。」
おれは黙ってアランを見つめた。アランは続けた。

 「リオンは、紅蓮の焔で自分の体を焼くように黒龍に命じた。黒龍は生きたままリオンを焼いた。」
 「生きたまま!どうして!」
 「死ぬと呪法が働く。その前に体も魂も何もかも焼いて消滅させた。」
 「それじゃあ、リオンは・・・」
 「ああ。永遠に失われた。」
 「・・・ネラも一緒の方法で?」
 「さあな、そこまでは分からん。だが、ネラが死んだのはリオンの死を看取ったあとの話だ。ネラは馬としての責務を果したのさ。」

アランはそれだけ言うとスープを一口飲んだ。おれはアランを見つめた。
ああそうだ。ネラは先でもなく、同じでもなく、リオンの死を見届けて死んだのだ。

 「同じ馬として共感できる部分があるか?」
アランが唐突におれに向かって言った。おれは嫌そうな顔をしてアランに返した。
 「アラン、馬はないだろう、馬は。」
 「いいや、お前は馬だ。」
そうだろう?とアランに尋ねられておれは気づいた。

 「だね、おれは馬だった。」
 「ようやく悟ったか。」
 「だけど残されるのは嫌だな。あっ!でも、ネラみたいに最後を看取るってのはいいなと思う。」
 「はっきりしない奴だな。」
 「そうだね。」
おれは笑うと目を伏せた。

一緒に死ねるならそれが一番いい。だけどそんな事はありえない。先か後かどちらかだ。だけど、オスカルの為ならネラのようにならなくちゃいけないんだ。それが理想。だけどもし、おれが先に死んだら?そしたらおれは・・・

 「ちっちゃい馬で思い出したが、優李の所へよく遊びに来るって?」
アランが尋ねたので、おれは慌てて頷いた。
 「そうなんだよ。いつオスカルが自分達を見えなくなってもおかしくないから今のうちにって・・・そういや怒ってたよ、オスカル。ちっちゃい馬はオスカルしか見えないんだって?なんか理由があるらしいけど誰も教えてくれないって・・・アラン、何がおかしいんだよ?」

突然忍び笑いをしているアランに驚いておれは尋ねた。するとアランは笑いながら答えた。

 「その馬はペガサスとか一角獣と同じだ。」
 「それってどういう意味?」
 「女好き。なのに女の許容範囲が非常に狭い。」
何だそれは?

 「ちっちゃい馬って全部オスなの?」
 「性別なんぞあるか。」
 「じゃあ、何で?」
 「気が弱くて臆病なのさ。だから野郎なんぞの前には恐ろしくて姿すら見せられない。子供なら稀に見えることもあるらしいが無理だと思って間違いない。」
 「へえ、だから男は見えないんだ。」
 「だが、女だって誰でもいいって訳じゃない。ちっちゃい馬は邪気に当てられると死んじまうんだ。だから、何も知らない無垢で清らかな乙女だけ姿を見せる。要するに!お子ちゃまでガキの女だけが見えるのさ。」
なるほど、そういう意味ね。

 「だから、優李には絶対話すな。でないと・・・」
 「言う訳ないだろ!おれはそのおかげで!何度も酷い目にあってるんだぞ!」
おれが言うとアランいきなり吹き出した。

 「な、なんだよアラン?」
 「・・・お前・・・手も出さずに・・・・」
アランはそれだけ言うと吹き出した。
 「アラン?何の事?」
アランは答えなかった。
 「アラン!」
 「・・・・一緒に寝てはいけないのか説明しろと・・・優李に・・・だ、抱き枕事件だ・・・」

アランはやっとの思いで答えたがその途端、爆笑した。
抱き枕事件?・・・・あれか!だけどなんでアランが知ってるんだよ!
 「アラン!オスカルは誠と同じなんだ!どうやっておれに説明しろと・・・アラン!アラン!」
駄目だ、聞いてない。

 「優李の場合は、廻りがそういう風にしちまった所があるからな。」
ひとしきり笑った後アランは言った。
 「話したろう?見た目があんな風だからガキの頃からトラブルはしょっちゅうだ。龍のガードとは毎回だし、それでなくともまわりは男しかいないから、これ以上男性不信に陥られると不味い。で、過剰なくらいの対応だ。」
 「そうだったね・・・・」
おれが呟くと、アランはおれの顔を見て苦笑した。
 「説明求められたら逃げ切れよ!間違っても、俺に助けを求めるな。」
おれはうんざりして言った。
 「分ってるよ!!」
 「もう暫くの辛抱だ。そのうち嫌でも気づくからな。」

おれはアランを見た。アランはちょっと呆れたような顔をしておれを見たがすぐに顔を背けるようにしてスープを飲んだ。おれはようやく気付いた。

そうだ、いつかオスカルだって見えなくなる。急に昂さんの事が思い浮かぶ。すると胸が痛んで、情けない気持ちが溢れそうになる。おれは苦しくなって息を深く吐いた。

 おれは部屋に戻ると引き出しを開けた。中にある封筒を取り出す。
やっぱり消えていた。慎重に読み取ろうとしたが何もかもきれいに消えている。おれは時計を見て計算した。・・・4時間40分だ! ああもう!これだけしか持たないなんて話にならないじゃないか!

おれは立ち上がるとバスルームへ行き、タオルを出した。それを持ってくると机の上において椅子に座る。おれは、時計を見て時間を確認してから深呼吸した。

定着のイメージ。手紙との距離、線と平面。そして時間。次元がずれると滑って乗せられない。
落ち着いて、落ち着いて正確に・・・・

おれは思わず 「はあー」と息をついた。
額を触るといつものようにびっしょりと汗をかいていた。おれはタオルを取ると顔をそれで押えた。
疲れた。本当に疲れた。脳みそをぎゅっと絞った気分だ。もう何もないって感じ。
おれはタオルから顔を離すと時計を見た。

「55分!!!」

おれは机に突っ伏した。
朝より時間がかかってるじゃないか。ホントにさあ、マスターするには程遠いよなあ・・・・

おれは手紙に触れた。何とか読み取れる。なんとか、微かに。なんとなく・・・・
おれは封筒にそれを入れて封をした。

とにかくまずこれをオスカルに渡さないといけない。
おれは手紙を睨んだ。

消えるまでに・・・約5時間だ。
最悪これは無くてもいいんだけど順調に進んでいるという成果を見せたいんだよな。とにかく、屋敷まで持って行って、誰かに渡してもらうしかないだろう。内容は知られちゃうけどオリヴィエに頼んで・・・ステファンからオスカルに渡してもらうしかないかなあ。