転がるようにして飛び込んだアランは、急いで靴を脱ぎ捨てた。靴からゴムの焦げる匂いと煙が立ち昇る。アランは前を見た。回廊の左手の壁には蝋燭が所々灯っており、その明かりが薄暗く灯ってぼんやりと通路を照らしている。

彼はすぐに石畳の先の草原との境目のあたりに大きな黒い影が有るのに気づいた。そしてその少し手前にうずくまる人影らしきものにも。アランはそちらに向かって走った。 人影は勇だった。アランは剣を置くと注意しながらそっと抱き起こして急いで様子を確かめた。血だらけだったが目立った外傷はなかった。息もあった。だが、ヒューヒューといやな音がした。

血は・・・吐いた所為だ。多分肺だ。それに足。それから・・・・
 「・・・こんな腕で撃ちやがって・・・」

右手にある自分の渡した拳銃を見て搾り出すような声で呟き、壊れやすいものを扱うようにして拳銃を離させると、アランは勇の気道が確保出来るような姿勢を取らせた。そして彼は、床に置いた剣を1本だけ取ると立ち上がり、大きな黒い者に正対した。

 『古の作法に則る決闘。もし汚せば、その身に振り掛かるは死のみぞ?』

黒龍は乱入者に向かって言った。アランは目を伏せるとニヤリと笑った。
 「いいねえ、上等じゃねえか。」
アランは叫ぶと同時に剣で黒龍に切りかかった。黒龍はかわそうとはせず、それを受けた。如何なる攻撃でも傷つけられぬとまで言われた黒龍の鱗がパラパラと砕け落ちた。

 『なかなかの漸撃。』
 「はん!避けずに言われちゃ挑発してるのと同じだぜ。違うか?」
 『まだ気が済まぬのか?』
 「ぬかせ!」

 「おやめなさい!アラン。」

アランがもう一撃浴びせようとした時、扉のあった場所から威圧感のある大きな声がした。
アランは振り返り、傷だらけのクレマンの姿を見つけると驚いて見つめた。クレマンは彼らのいる場所までゆっくり近づいた。彼は壁にいる勇を見つけると悲しげに微笑んだ。アランはクレマンに声をかけようとした。だがクレマンは首を振ると、すぐに黒龍へ向き直り礼を取った。

 「わたくしの手の者の無礼、平にお許しを。」
 「ボス!こいつは勇を・・・」
 「アラン、相手が違いますよ。」
 「直接手は下さない。だが、やっている事は銀龍と一緒だ!」
 「止めなさい!」

クレマンはもう一度アランを叱責した。それから再び黒龍に向き直ると 「申し訳ありません。なりは大きいながらまだまだ未熟者、子供と一緒です。」 と言ってもう一度礼を取ると頭を下げた。
 『そのようだな。』
黒龍の言葉にクレマンはにっこりと笑った。
 「ありがとうございます。さて、それでは・・・少々遅い時間でありますがジャルジェ家の守護の御二方に改めて申し上げたい儀がございます。銀のお方もお呼びいただきたいのですがよろしいでしょうか?」
 『それより楽にしてやれ。』
 「ですからこの決闘、本日ただ今をもって無効にさせていただきます。」
クレマンは言った。それを聞いて黒龍は首を振るような仕草をした。

 『足はもはや使い物にならぬ。右腕もだ。肺は破れ、目は・・・いずれ一切の光を失う。』
前に出ようとするアランをクレマンは制した。
 『もう楽にしてやれ。』
 「ですから決闘を無効にさせていただきます。」
クレマンはにっこりと笑って答えた。

 『そなたの命を以って救うというのか? だが、クレマン。死すべき者が死に当るのが道理。』
 「ならば逝くのは年の順。そちらが優先されるのも道理ではありませんか?」
クレマンの言葉に黒龍は首を振るような仕草をした。

 「まだ子供です。」
クレマンは言った。黒龍は勇を見た。
 「まだほんの子供です。17になった所です。」
クレマンは繰り返した。

 『・・・あと4日はなんとしても耐えたであろう。否、生き抜くのは無理だとしても最後の日を迎えられたやも知れぬ。だがまもなく娘が来る。彼奴は何としてもこの者の亡骸を娘に渡し、共に死を与えてやりたかったのだ。』

アランはそれを聞くやいなや、剣で切りかかろうとした。しかしクレマンが前に立ちはだかって、彼を抑えた。アランはクレマンを睨んだが、クレマンは何も言わず弱々しく微笑むと目を伏せた。それから彼は誰に言うでもなくぽつりと呟いた。
 「・・・総て銀のお方の掌でしたか。」
 『否、そもそも初めが誤りだった。』
黒龍は答えた。

 『我等が甘かったのだ。耐えさせて我慢させ、それで何になる。娘にもうこれ以上辛い思いをさせてはならぬ。』
 「それでも彼女は耐えました。理由はあなた方が一番分かっておられるはずです!」
黒龍はすぐに答えなかった。クレマンは重ねて続けた。
 「フランはオスカル・フランソワです!彼女は強い、一人で立てる娘です。あなた方もそうおっしゃった!」

 『・・・娘は強かった。』

長い沈黙の後、黒龍は懐かしむように言った。
 『どのような惨い目に遭おうとも魂は傷まず美しいまま。優しくてまっすぐで呆れるほど強かった。だが理由は何だ?それはどれだけ危ういものだった? それはそなたも知っておろう、最後のクレマンよ!!』
黒い龍は勇に目を向けた。

 『胸の病などなんとでもしてやれた。だがそれが何になる?我等に出来るのは・・・』
 「だから殺したのか!167年前の約束と同様に!」
 「止めなさい、アラン!」
 「こいつ等は救う為といって殺す!」

 「止めなさい!すでに彼女は死んでいたのです!」

アランはクレマンを見た。
 「アンドレ・グランディエの死と共に彼女の魂は死んだも同然でした。それでも生きていたのは、責務を果たす為だけです。」
クレマンはそれだけ告げるとすぐに龍を見て尋ねた。

 「もう一度繰り返させるのが本意ですか?」
龍は答えなかった。
 「それが本意なのですか!」
 『・・・約束は絶対。そして先の約束は破棄された。』
 「約束は絶対。そして先の約束はまだ破棄されておりませぬ。」
 『娘自身によって破棄されたのだ。』
 「決闘を無効にすれば振り出しに戻ります。」
 『無効にする為の代償は? 娘はそれに耐えられるのか?』
 「勿論。」
 『愚かな。他の誰が知らずともそなただけは知っておろう!!』
 「いいえ、フランは彼女とは違います。フランは強い!彼女は耐えた。地獄の苦しみを!気の遠くなる年月を。あなたこそ知っておられるはずです! フランは、オスカル・フランソワは、それでも耐えたのです!」
クレマンは叫んだ。しかし黒龍は静かに返した。

 『もはや167年前の約束の範疇よ。彼奴は決めた。』
 「決闘を無効にします」
 『助かった所でその者の身体で何が出来る?』
 「フランは勇と共にどんな苦難も障害も叩き伏せます。」
 『彼奴は決めた。もはや167年前の約束の範疇!』
 「決闘を無効にします、黒のお方。どうか銀のお方をお呼び下さいませ。」
クレマンは黒龍をまっすぐに見つめて言った。

 『この者を救う術はもはや在らず。』
 「私では決闘に水を差すには値せずですか?」

次の瞬間、クレマンの口から血がにじんだ。アランはクレマンの足元の石畳だけが恐ろしい程の荷重をかけたようにのめり込んでいるのに気づいてクレマンの顔を見つめた。クレマンはアランに首を振って見せ、ハンカチを出し血を拭き取ると何事もなかったように龍ににっこりと微笑んだ。

 『よう堪えた。だがそなたも年よ、以前のような力はない。』
 「それが何か?」
 『7人目の娘がそなたの為に払った代償の重さ、忘れてはならぬ!』
黒龍は強い口調で言った。しかしクレマンは龍に微笑んで見せた。

 「だからこそ決闘に水を差すのです。」
 『分らぬか!そなたの命を以ってすら水は差せぬ!』
 「いいえ。私だけではございません、アドリーヌの分もです。」
クレマンは黒龍をまっすぐ見据えた。
 「私の命は即ち彼女のそれと同じ。あなたもご存知の通り。」
龍はビー玉の目でクレマンをじっと見つめた。しかし暫くすると首を振るような仕草をした。

 『・・・諦めよ。そなたと7人目の娘、2人の命を以ってしても彼奴の心はもう動かせぬのだ。 』
黒龍は言った。その声には微かに落胆の色が見えた。クレマンは微笑んだ。
 「お心遣い感謝いたします。ですが黒のお方、どうか銀のお方をお呼び下さいませ。」
黒龍は返事をしなかった。クレマンはもう一度黒龍に願った。
 「どうかお願いいたします黒のお方。銀のお方をお呼び下さいませ。」

長い沈黙が続いた。
黒龍はアランを見た。アランは龍を睨み返した。それから黒龍は勇を見た。
黒龍は首を振るような仕草をすると今度はクレマンを見た。

 『馬がいる。』

クレマンは驚いて黒龍を見つめた。
しかしその瞳孔のない真っ青な瞳からはなんの表情も読み取れなかった。

 『昔の闘いには必ず馬がいた。馬は主と共に闘うもの。』
 「決闘を助けてもよいと?そう解釈してもよろしいのですか?」
 『一度だけ許されたことがある。馬が決闘者と同じ目的を持ち、尚且つ彼奴の眼鏡に適えば遺志を継げる。』
 「遺志・・・ですか。」
クレマンは目を伏せた。

 『その者の命が尽きようとも馬が闘える。馬が持つかどうかは分からぬが。』
 「・・・耐え切れば167年前の約束は反故になるのですね。」
 『だが覚悟せよ。もし持つのが馬だけなら、今一度繰り返させるのが本意となるぞ。』 
 「・・・はい。」
 『明日の正午までに決断し、我を呼べ。あと一つ。』
龍は言った。
 『彼奴の力、これが上限などと努努思うな。』
そういうと黒龍は姿を消した。